R 結合
「泥のように滑らかな優しい温床
万物は懐古し死んでいく
しかしお前は重たく沈黙し目を閉じる
ああ、永遠の牢獄よ
その寝床に狂乱を訪れさせることなかれ」
蠱惑的な媚態を伴って青年を出迎える真闇について、麻薬のようだと思うことが青年にはあった。ここに来るたびに心身を蝕まれ傷つけられて行くが、彼はここにいるときにこそ最も安らぐことができた。おそれを抱きながらなおも魅了されてしまうことを自覚していたのだ。この場所こそが原点であり、真の大地であるとさえ思っていたがゆえに、現実の生活はもはや重要なものでもなんでもなく、日々消化するだけの絵のようなものであった。
しかしいまは違う。大地との接続の希望を得た青年は変わりつつあった。変わるために、ここへ赴いたのだ。青年は黒き館の最下層にまで降りていた。
大きな扉を開けて中に入ると壮大な原野があった。草木に満ち溢れた、空気の澄んだ聖域である。小鳥が歌を歌い犬や猫が楽しそうに駆け巡る。そのなかに酷くやつれてしまった椅子があり、そこ細い四肢をだらりと投げだして座した者がいる。腰かけているというよりも襤褸がかけられているような感じを抱かせ、陰鬱で、不穏な空気を纏っている。嘗ては楚々としていたのであろう白の羽織も所々破れてみすぼらしい。赤い虹彩は鈍色になるまで輝きを失い、どんよりとして、どこかを見ているのであろうが、その焦点は窺い知ることができないほどに、茫漠とした虚無を見つめているようだ。
気泡が浮遊するような遅い速度で視線を高く上げて、女は青年の眼を見上げた。青年の心に高い旋律が奏でられた。愛憎の入り乱れた重奏は、青年の口から言霊を毟り取り、息を詰まらせるほどの力を持っていた。しばしの沈黙が流れたが、青年にはもう進まなければならないことがわかっていたし、これより他に停滞を招いても何も起こらないことが分かっていた。
「出ていくのか……もう戻ってこないのか……」
女が青年に問うた。
「はい、出ていきます。しかしひとりで出ていくというわけにはいきません。私はあなたも連れて行くつもりです」
「莫迦が、笑わせるな。私が外に出て何になる。この世界には私を受け入れる場所はどこにもない」
「私たちの悲劇は、生きる術を教えられないままかつていた揺りかごから振り落とされ生きなければならないことでした。でも生きてしまっている限りは、外に目を向けなければならない。例え世界があなたを傷つけようとも、幸福への道の存在の可能性を否定する必要はありません」
「安い慰めを聞きたいわけじゃない。お前は世界を終わらせてここに浸ることもできたのに……もうここが厭になったか……」
「この館の中は私にとって居心地が良い。良すぎるほどに。だからずっとここにはいられない。いてはならない。もしかしたらいてもいいのかもしれない。しかしそうするためには、私が私自身に対して、いつでもここを出ていけるということを証明しなければならないんです」
「そこまで意気込まずともすでにお前は堕落している。お前は外に出て何を得た。何も得られなかったはずだ。人を拒絶し、愛に裏切られ、心を殺し、己さえも嫌悪し、何を得た。何が欲しかった」
「何も、欲しくなんてありません」
「本当は?」
「……私は、あなたが欲しかった。欲しかったのは、あなただけだった。私は貴女を崇拝しているんです。貴方がしたことを私は忘れることは出来ないし、忘れるべきではない。あなたを憎らしいと思ったこともあった。でも、もう憎むことをやめます。友達にもなれないし赦すことも出来ないかもしれません。しかし私はあなたを殺せません。
私はあなたを理解しなかったし理解できなかった。しかし理解しようとして、いま変わりはじめました。そして私はとあることに気がつきました。あなたも理解を望んでいたのだと。あなたも誰かに理解され、肯定されたかった。
私はあなたを崇拝していた。あなたの眼はいつも沈んだように暗いが、初めてあなたに出会ったときは、あなたの眼は夜の暗闇でも燃えるように輝いていた。あなたの火のような眼を見た記憶が私の美の原体験でした。私はあなたの目を見ることで、私は世界に光を見ることができた。私はあなたの物となった。
しかしあなたが本当に望んだのは奴隷ではなく、対等に接する理解者だった。あなたの価値を正当に認めてくれる誰か。あなたが私に恭順を求めて放ち続けたあの罵倒の数々は、あなたの悲鳴だった。
私はあなたを認めましょう。あなたは名のある者として世界から認められるでしょう。あなたは火夜――――これがあなたの名前です」
女は打たれたように驚き、震えながら言葉を漏らした。
「……思い出した。私の名前――――」
青年は手を伸ばす。
「さぁ、出るんだ! こんな闇の迷宮にいつまでもいる必要はないんだ」
彼女はいやいやと首を横に振った。
「私が消えればここも無くなる。だってここは、子の産めない私の死んだ子宮のなかなのだから……」
青年は笑んだ。殺し殺され、生死を繰り返し、月まで歩いて行くような途方もない道のりでさえ、それでも弛まず心を育て続けてきた者の笑みであった。
「私があなたを縛り、解放しよう」
彼女は青年の手を取り、ふたりは駆けだした。
大きな扉を抜けると館はぐらぐらと揺れだし、歪な形に変形し始めた。それでも出口を目指して走る。ふたり手を繋いで光の下へと駆けて行った。走って、走って、走って、最後の扉を抜けて外へ出ると、火夜と青年を囲っていた黒き館は音を立てて崩れ去って行った。
天からは太陽の光が降り注いでいた。空は蒼く澄み、雲は澱みなく流れ、木々の呼吸が聞こえるように静かだった。
「ああ、綺麗な空――――」
火夜は言った。
「私、こんなに空が綺麗だなんて忘れてた。景色に色があるなんて、空には風が吹くなんて――ああ――ありがとう。正樹……私、とっても嬉しいわ」
止まった時の中に閉じ込められ退廃の日々を過ごし続けていた火夜の時は動き出した。
「火夜……」
火夜の顔は、みるみるうちに生気を取り戻していった。枯草のようだった灰色の長い髪は潤いに満ちて、絹のような清浄の白髪を取り戻し、鈍色だった虹彩は清冽な血潮の紅の色へと変貌し、枯葉のようだった肌は、深い壺に滔々と垂らした乳のような白の、若々しい肌に生き返った。
「火夜――――とても綺麗だ」
綺麗だった。しかしふたりは、共に別れが近づいていることを悟っていた。火夜の体は淡く輝き、雪のような小さな光の玉を放ち始めた。
「時間みたいね……たぶんもう、私はあなたにこの姿を見せられない……」
「消えてしまうのかい……?」
「いいえ、私は消えない。私は行く――この館の中でもない、外の世界でもない、あなたの世界へ」
青年は恭しく首肯した。
「ああ、君はいつも僕のなかにいる」
火夜は両目に涙を浮かべた。
「火夜……涙が……」
「私はいるわ、いつもあなたともに」
「うん」
「正樹――――!」
強く抱きしめ合った。
「さようなら――――」
最期の言葉を終えると、火夜の体は強い光の粒を発散しながら、空や大地や青年の体に溶けていった。ふたりは肉体を超えて霊的な結合を果たした。月と太陽が落ちてきたようなものなのに、静かだった。肋骨の痛みはなくなっていた。




