C 蠕動
「臭い唾液を垂らしながら
猛毒を蜜のように見繕う
人を知るために人を無へと還して
貪りつくして鬼となる
人の血の流れる人の体で
人の血と肉を取りいれて人を目指すが
人の心から遠ざかる」
迷い込んだこの地で、彼の狂える魂はひたすら情動に流されていた。女の指示すら忘れ、女から提示された快楽を生む手段によって、彼は人間の肉体を切断する快感に囚われた。快楽は新たな衝動を生み、連鎖が起こった。しかし満たされるのは一時のことで、腹が減ればまたものを食いたくなるように、青年は人を殺した。
彼は子のように無垢だった。子は無垢であるからか罪を知らず、無垢であるから残酷なこともやってのける。青年も幼子のように無垢になることがあるが、彼は罪を知らぬわけではなく、平気でやっているわけでもなく、壊れ、狂い、飢えている。何をもって狂うというのか彼にはわからない。彼の内面には社会性が芽生えておらず、そのため倫理は破綻するより以前に形成されておらず、日頃は人の皮を被って生きているので彼の思想のなかでは社会のなかに優先するものなど皆無に等しく、虫だろうと動物だろうと人だろうと同じであった。
返り血を浴びすぎたおかげで血糊がこびりつき何層にも重なって、罅割れ、そこから新しく血を吸い、それでも飽き足らず、何を失くしてか求めてか、血で血を洗う青年の瞳だけは炯々と輝く。青年は極悪人が囚われている牢屋をひとつひとつ廻りながら囚人たちを始末していた。
「君はカルトの教祖として信者を使い多くの人間を殺した。その功績を称えて褒めてやろう。さあ、出ておいで」
牢屋から出てきた男の鼻に鉛筆をつきいれた。鉛筆の先は脳まで達し、男は絶命した。このまま焼けば串焼きの完成になると思ったが、臭いがきつそうなのでやめた。
次の牢屋では、
「お前は皇帝ともなりながら真面目に政治をせず、暴君として淫蕩の限りを尽くした挙げ句に気に入らぬからという理由で多くの人間を殺し、その結果として自らが殺された愚か者だ。しかしお前はその生を楽しんだだろう。処刑だ」
ハサミで剛直を切り刻み、串刺しにして焼き、本人に食わせ、その後はその体も焼き払って殺害した。
「ハイ、次……」
隣の独房に訪れ、鉄格子に手をかけて青年は笑んだ。
「君のことはなかなか気に入っているんだ。でもねやっぱり処理しなくちゃならない。人間を炒めて食べてしまうような君は人間ではなくて怪物だ」
殴打を浴びせ続けるという原始的な方法で撲殺し、それだけでは飽き足らず、左右の目玉をくり抜いて入れ替えるという、意味の感じられぬ儀式めいたことをして、次の場所に赴いた。
「君がとても優秀な頭脳の持ち主だということは知っている。けれど、勿体無い。母を殺してその首に延々と話しかけたり、頭のない母の体を犯したり、意味がわからない。君も気持ちが悪いので処刑してしまおう」
青年は鋸を挽いて男の四肢を切断した。まず男は右足を切られ、左足を切り終えたところで絶命していた。
「次の君は、死体で家具を作ったりしていたね。君は優れた感性と情熱を持っていたけれど、君の嗜好は社会には受け入れられないんだよ」
巨大な万力で男の頭蓋を挟んで締め上げれば、男は血の泡を吹いて死んだ。男が死んでからも青年は万力を絞め続け、男の頭蓋は割れて握りこぶし程の大きさに潰れていた。
「めでたしめでたし」
次の牢屋には筋骨隆々の大男がいた。
「君は殺人の後に死体を鰐に食べさせたりしていたし、君の考えには僕も考えさせられるところがある、だから僕は君を殺さない」
青年は欣喜雀躍し笑んだ。
「冗談だってば」
男の後頭部をバットで殴りつけ、簡潔に殺害した。
「全治……云十億年てところか」
「さて、次の君は……人殺しの旅をし続けて三百人以上を殺したね。君は優秀だった。でも僕の希望としては、あと二けたは頑張ってほしかったんだ。おしいね」
導火線に火のついた爆薬を飲ませて、体内を爆発させて殺した。
「次のあなたは……確か娼婦をしていた頃に強姦されそうになって相手を殺したのだね。かわいそうに……気持ちはわかるよ……僕もたくさん強姦されたからね。でも気にしないで。僕と一緒に遊ぼう。僕の右ポケットか左ポケットにはオハジキが入っています。さて、オハジキはどちらに入っているでしょうか。んん、左? 正解です。でも右にも入っていたのでした。二丁拳銃ってカッコイイヨネ。ガンマンって感じで。え、オハジキってそっちのオハジキかよって? 上手いこと言うね」
高く乾いた破裂音が聞こえたと思えば、
「あれ、可愛い顔に穴がひとつ増えたね、大きなのが。後頭部から何か出ていますよ。豪華ですねえ」
「次の君は、お兄ちゃんを食べられたせいでおかしくなっちゃった人だったね。君は何人もの少年少女を狩って、性器を食べたそうじゃないか。小心者の君がよくああまで大胆なことができたものだ。関心、関心」
青年は男を逆さ吊りにして頭を桶の中に入れ、水を満たして窒息死させた。
「次の君は、いい歳して道化に扮し善人を装って多くの少年を家に呼んで拷問の末に殺害したんだったね。そして遺体は家の床下に隠した。ばれた後に床下からたくさんの死体が出てきたのに君はしらをこき通そうとしたね。見上げた度胸だ。君はすごいよ。だからその度胸をもう一度僕に見せてよ。ロシアンルーレットだ。弾は全て装填されている。さあ、こめかみに当てて、そう、引き金を引くんだ。うん、そう」
破裂した頭部から脳髄が飛び散った。
「まぁ、そりゃ死ぬよね」
「次……眉目秀麗な君はたくさんの若い女性を巧みに誘い強姦殺人をしたね。頭も容姿も良い君なら普通にしていてもモテただろうに」
薙刀を横に払うと男の首はことりと落ちた。
「次の君は、宇宙人が人を殺せと脳に信号を送ってきていたと供述していたね。それはたぶん、自分の心の声が他人の声のように聞こえるだけで、ただ君の頭がおかしかっただけなんだ。君は折り紙つきの精神異常者。人間をミキサーにかけて食べるなんてね。実はね、人を食べなかったら君の血が渇いてしまうなんてことはないんだ。知らなかったかな、じゃ、教えてよかったよ。いや、いいんだ。君はただ、少し混乱していただけなんだ」
黒い羊の群れが来て、男の体を貪り食った。
「次は……何々、今にも母親が死にそうで、君に会いたがっているだって? 君はたくさんの少女を殺した罪人だが、それでも母親には会いたいって? そうだな、それじゃ、僕の質問にまず答えてもらおう。ここに同じ大きさの箱がふたつある。さて、君はどちらを選ぶ? うん、同じ大きさだ。ああ、そうだよ。同じ大きさだ。え、わからない? しかし君は選ばないといけないよ? うん、左? 左でいいのかい? おめでとう。それは間違いだ」
青年は男の首を噛み千切った。胸に爪を突き立て、心臓を引き摺り出した。男は絶命した。
「答えは、どちらも選ばなければならない、だよ」
次も同じような相手だったが、彼は選択したことを悔やまねばならなかった。
「次はどちらを選ぶ?」
「ど、どちらも選ぶ」
「君に選択権はない」
汝は自由である、さぁ、選べ、と命令された人間のようにこの男は青年の理不尽さに憤慨するはずであったが、逃げることも戦うこともなく、男の腸は青年に食い破られた。青年はぽつりと呟きを漏らす。
「心が、見当たらない。どこにもない」
物と化した男の腹を掘り、腸をびちゃびちゃと散らせども、探し物は見つからず、青年は途方もない悲しみに暮れた。心を手探る青年にしてみればこの死んだ男も心の無い悪そのものであった。青年を絶望の淵に追いやりながらもその下から青年の泣き顔を覗き込んでいるその顔を見てさもありなんと、男の腸を調べても粘性の膜を纏った肉の塊しか出てこなかったことを納得した。そしてまた、心の有り場を突きとめられぬ苦難の前に新しい屍が転がった。
「いやぁ……よかった……これも心の無い悪魔だったんだ。だから僕は……黒い悪魔を白紙に変えて……更生させたんだ」
如何なる時代の如何なる世にも名と僅かな観念の相違こそあれど、死と災いを呼ぶ神というものはいるもので、もしも青年が神であったならば多くの地域で死神と称されていたに違いない。産むも生かすも狩るも青年の自由であり、青年の治める世界では彼の力こそが絶対であったから、青年は支配に明け暮れた。方や、大きな力に支配されながら。
彼の理不尽は理解の域をゆうに超え、問いは意味を成しておらず、殺害の意味も青年にとっては虚無と化しかけていた。
「昔、映画のモデルになった殺人犯がいてね、彼は人を殺したり墓の死体を掘り出したりして人間の体で家具を作っていたんだ。人の体をランプシェードやお皿にしてね。
当然のように彼は世の中でとても恐れられた。
でも、彼がどれだけ人を殺したか知っているかい?」
少女に問うが、
「知りません……」
「実はふたりしか殺していないんだ。ふたりなら恐怖の殺人鬼って言われるほどでもないよね。僕たちのなかでは下っ端のほうなのに。まぁ、死体で家具を作ったというのは面白いね。彼には大手家具屋もびっくりだろう」
「あ……あはははは……はは」
「ねえ、君はこんな男を知っているかな。彼も非常に奇異な殺人犯でね。なんと殺害した人間の体をミキサーにかけて飲んでいたらしい。しかしなぜ、いかなる理由を持って彼がそのような狂気的な行動を取ったのか、君には分かるかい」
少女の無言は少女が答えを持っていないことを示唆していたわけではなく、ただただ怯えて言葉にならぬことを意味していた。
「正解はね……自分の血が乾いてしまうと思っていたから、だよ」
「……」
青年は声を張り上げて笑った。
「なんで彼はそんなことを思ったんだろうね。他人を見ればわかる。血なんて乾くわけがない。皮膚がないわけでもないのに」
誤差はあるだろうがだいたいの牛の解体の工程というものはまず電気ショットガンを頭に打ち牛を気絶させて首を切り、血を抜き、それから逆さ釣りにし、皮をはぎながら内臓を引っ張り出し、完全に皮を剥ぎ、四肢を切断する。
内臓は肝臓、心臓、肺などの赤物と胃、大腸、小腸などの白物に分けられ、各臓器や各種リンパ節に異常がないかを調べ、また枝肉、腎臓や各種リンパ節に異常がないかを調べ、異常の認められない枝肉は合格の印(検印)を押され、食用としてさらに処理が行われる。
少女はその日の少年の食事の具となった。しかし人間が家畜にするように部分廃棄はせず、彼は少女の全てを食した。
続いて出会ったのは母と娘の親子であった。ふたりとも白い布をまとってはいるが、やつれて襤褸のようになっていた。そのふたりに問う。
「君たちはこんな人を知っているかい。十六世紀のハンガリーの伯爵夫人なのだけれど、とても猟奇的な性質を持っていてね、若い女の血を浴びれば自分の若さを保っていられると考えて、およそ七百人もの少女を殺したんだ。
ある日、彼女はマイナス何十度にもなる気温のなか、女の子に湖の水をかけて殺したらしい。
そして彼女はこう言ったんだ。
これを持ち帰って部屋に飾れないなんて残念だわ、って」
青年は笑った。
「彼女は血が飲みたいんじゃなかったのかな。もったいないよね。なんだったんだろう、血を飲まずに殺すなんて、ただの殺人鬼じゃないか。ちょっと面白いよね。
さて、君たちも殺そう」
母親は助けを乞う。
「無理さ。枯れた雑草を摘んで窓辺に飾りたい人間がどれほどいるだろうね」
「この子を差し上げますから!」
母親は己の娘を人身御供として青年に献上したが、これが青年の神経に触った。母も娘も凌辱されたあげく、子宮を摘出され食され、宙づりにされて干物にされ、朽ちて千切れて床に落ちてもそのままにされた。
青年は主の命令を忠実に守っていたが、命令を遂行しているうちに言いつけを守っているだけなのか、それとも主体的に能動的にこなしているのかわからなくなってきていた。青年は脳裏に沁みついた切断や破壊のイメージにとらわれ、衝動に突き動かされていた。
嵐のような情動が彼を翻弄した。
この衝動は、火傷するほどに熱した鉄に触れたときに手を引っ込めるような自然ななりゆきで行われているものであり、誰にも止められるものではなかった。
「昔ね、聖書に人を殺せと書いてあったから殺人を犯した、と言っていた人がいたんだ。諸人は彼を狂人だとして責め立てた。しかし事実、聖書には殺人を正当化している面がある。多くの人間はそれで殺しを覚えることはないがね。ただ、神の赦しを盾に自己の欲望を満たすなどは言語道断だ」
と無神論者の青年が言うのも滑稽だが、その滑稽さも彼は分かっている。
「その聖書の男のように、人は情報を歪めて解釈することが多々ある。そう考えれば彼が殺人を犯したことは不思議なことではない。我々の認識も記憶も正確なものではなく、真実とほど遠いものなんだ。だから人を殺す動機も、いたるところから生まれえるものなのさ。ちなみに僕がいま君たちを殺す動機は空腹だ」
彼は殺した娘をミキサーにかけて食した。
「ささ、あなたもお腹が空いていることでしょう。どうぞお食べください」
娘の肉を父親に食べさせた。
「突然だけど、例えば物語作品のなかには痛みを軽視して例え鈍器で殴られたとしても、ギャー、の一言で済ませるものがあるけれど、あのような描写ならばここでも苦しまずに死ねると思うんだよね」
白刃のような指先をピンと立てて、言う。
「じゃあ……行くね」
軽重な合図で短剣を振りかざし、男の胸に突き立てる。
「ぐさり」水鳥に捕えられた魚の尾の如く男の体が激しく痙攣した。顔に返り血を浴びた青年は唇についた血を舐めとり艶然と笑う。
「……かはっ……あ……」
肺を貫かれ息も絶え絶えの男が言葉を紡ごうとするが、口腔に砂を詰め込まれたように舌が縺れて言うことを聞かず、見かねた青年は、
「もっと頑張って」
腹に突き刺した。
「……ヴヴゥッ……」
口の端からさらりとした血液が漏れ出で、髭の荒く生えた青白い頬を伝い、床に落ちる。最期にひとつ小さく身を震わせて命の灯火は、
「思った通り漫画のように軽快に死んではくれないんだ。そう思うとあの登場人物たちって実はすごい人たちなのかもしれない……ちょっと感心した」
尽き果てた。
「ギャグっぽく叫べば死ななかったのかもしれないのに」
男の死体を捨てた後、青年は可憐な少女を見つけた。周囲に絶えず視線を迷わせ、怯え、肩をすくめ震えている。保護欲をそそるつぶらな瞳が青年の姿を捉えた、その瞬間に青年は少女を組み伏せていたため、少女は逃げようとすることさえかなわず。少女は泣き叫んで必死に抵抗するが、
「疲れたかい。だんだんと抵抗が弱くなってきたね。どうしたの。頑張らなくちゃ。殺されちゃうんだよ」
ほらほら、と急かすがすでに少女は泣きじゃくっている。
「さあ、しなやかに逝こうか」
甘い接吻と思いきや、付けた唇で少女の舌を噛み切って、じっくり味わってからごくりとやった、その恍惚の顔、甘い蜜でも擦った猫のようにだらりと締りなくなった。
「眼球をおしゃぶり代わりに口の中でコロコロやっていた昔話は何だったかな。僕はあの話が好きだった。ちょっと眼球を貸してくれないか。舌の上でコロコロしていると思い出すかも知れないんだ」
と言って、殺した少女の目玉を引きずり出して、眼球の周りの筋肉を取って、口の中でコロコロと。
「だめ……ぜんぜん……思い出せない」
眼球を舌に乗せて弄ぶのは彼の小児的な癖だった。
しばらく徘徊していると白装束の少年を発見した。赤みを帯びてはいるが、未だ冷たい頬はヒアキントスそのものだった。
「君、絵のモデルになってくれるかい。聖セバスチャンの殉教という絵画を知っているかな。ずっと描いてみたかったんだ」
尋ねた青年は、少年が返答するより前に、少年の体に矢を突き刺していた。
「聖セバスチャンの殉教はゲイカルチャーなどでは偶像化されている節があってね、とても人気の高い絵なんだ。
僕は同性愛者ではない。僕は男も女もどちらも好きなんだ。
初めて聖セバスチャンの殉教を見たときに僕は興奮を抑えられなかった。性の原体験はその絵ではなかったけれど。
……なぜなのだろう、ギャグ漫画のなかでは爆発があったくらいでは人は死なないのに、ここでは軽々と死んでしまう。みんな楽しめばいいのに」
支離滅裂な独り言をぶつぶつとやりながら次にとりかかったのは玩具の扱いである。
散々好き勝手にやり通した彼の目の前に、いつの間にか巨大な回し車が設置されていた。刑を執行するには過剰とも思われるこの装置の内側には針が蝟集していて、そこに人を入れて回すのである。男が問う。
「なんだこれは……」
「大人の玩具だよ。拷問器具とも言うが」
如何なるものも青年の手にかかれば殺傷能力を秘める武器に変わる。
意気揚々、大車輪のなかに男を投げ入れ、車輪の取手を力強く回す、と化け物のような悲鳴が木魂して、温かな血が車輪の隙間からたらたらと滴った。
車輪の下に生きて轍となる人間の末路も悲壮なものではあるにしろ、五寸釘の如き鉄槌や刃を内側に設えた車輪のなかにいる者は、体中を穴だらけにされて目も当てられぬ始末である。
車輪に飽きて徘徊し始めた青年は白髪の老人を見つけた。青年は老人の目を抉り取り、視界を奪った。老人は闇の中で光を欲し、青年の情味の豊かなあしらいもあって格別の明るさを得た。とはいっても火をつけられているのが己の体であったし、そもそも目玉を抉り取られているので火がついても見えはせず、肉の焦げる痛みと臭気ばかりで無念が募る。
青年は剥ぎ取っておいた老人の孫の爪を唐揚げにして、塩とバジルで味わった。長いこと手間かけて乾かしていた人皮に、骨や歯や髪の毛で細工して、洒脱なバッグを仕立て上げた。凝ってしまうと止まらなくなる好き物の青年は、人体を材料に多様な作品を作り上げた。それらは主に家具や楽器が多かったが、あるとき己の手を加えてしまうことの愚かさだとか、不完全な人間が作るものであるから所詮は不完全なものしか作れまいといった気持から、又、人体そのものが美の土台を築いているものであるという観念から、彼は死体そのものを保存するようになった。正絹のような黒髪の美しい女たちの腐乱を防ぐ加工をした。瞬間の美しさを永久に切りとる行為は宿痾のように彼を虜にした。
鋳物のように硬くなってはいるものの、どこともつかぬ果てを見つめているような彼女たちは確固として愛らしく、自然界随一の美形であり角度によって様々な表情に変わるため、これも多様性を極めた彼女たちが内に持つ多様性によるものだろうかの想いと敬慕の念は絶えることがない。防腐剤を使用し、形を整え、ピンで止め、出会った場所と年月日と彼女らの名を記入し、鑑賞するというこの行為は最上の喜びを伴うものであった。彼女たちを半永久的に独占できる喜びに恍惚となる。所有の喜びに心安らぐ。
この発見は以前から彼の内面の革命を起こしていた。美しく完成された女たちを愛玩物として慈しむことは、無情の喜びを彼に与えた。しかしふと虚しさを覚えることがあった。美に対する、とある矛盾。青年の胸中に生まれた不確かな想いは彼を惑わし、彼自身もこれが己の命題の一つであると実感していた。
眠り姫たちを保存している部屋を出ると青年は黒い霊気を発しながら夢遊病者のように徘徊し始めた。彼が歩く度に人が殺され血が飛び散った。彼はにわか雨のような存在だった。
どれほどの数の人間を殺してきたか覚えてはいぬ青年であったが、どのような人間を殺してきたのかは覚えている。それぞれ細かく違ってはいたが、皆が皆、似たような人間達だった。
しかしこのような人間には出会ったことがないと思った。というのも青年は、腰巻ひとつ着けぬ裸の、青年によく似た背格好の、血のように赤い肌の男に出会ったからである。
よう、と片手を上げて馴れ馴れしく声をかけた赤い男の、顔も声もよく見て聞きなれたもののようであったが、その面ざしの造作も声の質も幻のようにぼんやりとして認識をすり抜けて脳に張り付かず、どうしようもなく途方に暮れたりもしていたが、どこか懐かしさを覚え意気投合した。
しばらく連れ立って歩いていたら、とある牢獄でなにやら騒ぎがあったようで、ふたりは一部始終が窺える位置まで移動した。見れば、数人の男から、ひとりの少女が惨たらしい辱めを受けている。
少女は叫び、必死に助けを求めるも、悲痛な叫びはふたりには届かず、進もうとするも、不思議なことに青年と赤い男の行く先には、突如として透明の壁が出現し、叩けば音が鳴るばかりで打ち破れもせず、助けることかなわず、凌辱される少女を淡々と眺めているに留まる。
「死んだか」
「おそらく」
赤色の男の、質問ともつかぬ独り言のような発言に、青年はぼんやりと答えた。
「聞かずとも、死んだとわかっているくせに」
男たちの背に隠れていた少女の腹が青年の目に留まった。青年は少女が身籠っていることを知った。子を孕んだ女の腹部というのはどう考えようと急所であり、効果的に屈辱を与えるには弱点を突くのが定石というのはどんな下衆な世界でも通じるもので、男たちはその道理に従って少女の腹を足蹴にする。少女は何度目かの蹴りで既に絶命し、顔や腹部の元型がわからぬまでに手を加えたのにも飽き足らぬ男らは、とうとう腹をさばいて赤子を引きずり出し、衆目にさらそうと考えた。が、裂かれた少女の腹から出てきたのは胎児ではなく、卵であった。
あまりの状況の奇怪さ故に男たちは悲鳴のような声を上げて混乱した。それもそのはず、人間の少女の子宮から出てきたのは生身の胎児ではなく、大人の頭蓋ほどの大きさの卵だったのだからその驚きは納得できよう。
混乱する男たちを尻目に、絶命した少女の腹の上で温められた卵はごろごろと動きだし、男たちが手を伸ばそうとしたその折に、ばりばりと音を立てて罅割れた。
見る見るうちに卵は孵り、その中から生まれたのは人間の子であった。しかし、青い、海のように青い、悲しみの青の、胎児であった。異常な肌の色の胎児は怯み上がった強姦魔たちの首を次々とへし折り、自らの母の亡骸を、肉食獣が狩った獲物にするようにせっせと食した。
青年たちの目の前の壁は知らぬ間に消えていた。
己が母を栄養として体を大きくした青色の胎児はすでに胎児とは言い難く、幼年期の子供並の体格に成長していた。食事を終え暇になったのか、先刻の砌から青色の子供を静観していた青年と赤色の男のもとへ、青色の子供はつかつかと歩み寄ってきた。
そして赤色の男と同じく、馴れ馴れしく「よう、兄弟」と挨拶をした。
「兄弟?」青年は能面のような顔で答えた。
「ひどいもんだぜ。あんな奴ら生きている価値があるか。死んだ方が良いと思わないか」
青年には懸念も混乱もなかったが、ただこの青色の子供の顔が何処かで見たことがあるような気がするもそれが誰のものか思い出せぬことを少し歯がゆく思っていた。と言っても、それは微々たるもので、殆ど興味はなく、よって返答も億劫であった。
「だが、こんなところに現れた女も悪い。強姦されるに決まっているだろう」と青色の子供が答えるも、答える義理はない、と青年は思う。
「自分を守るのは自分だけだ。こいつが強姦されて殺されたのはこいつが弱いからだ。違いないよな」
「アア、その通りさ」
と、それだけ青年は答えた。それを聞くと青色の子供はなにやら満足したらしく、皮肉めいた笑みに口の端を軋ませ、ふたりに別れを告げてどこかへ歩み去った。
それから、ふたりで歩いているつもりがいつのまにか赤色の男は消え、彼はひとりになっていた。すると激情が不安定に揺らぎ、薄まるのを感じた。炎が消えたような感じを彼は覚えた。炎をもらいに行かなければならない。彼は牢獄の最下層に捉えられたあの枯れた小さな女に会いに行った。
彼はぼろぼろと涙を流していた。ふたりの関係はいつも違っていた。人格が入れ替わるように彼等はお互いの役割を変えながら様々なふたりのあり方を模索していた。それも無意識に。
「お願いだから怒らないで聞いて」
「なんです、かしこまって?」
「あ、あの……ぼく、人を殺しちゃったんだ」
「なっ……そ、それは本当なの?」
「大丈夫。大丈夫だから」
「大丈夫って。あなた、本当に……人を」
「うん、でも、でも、大丈夫なんだ」
「大丈夫って、なにが……」
「わからない。わからないんだ」