25 告白
青年の状態を夢見心地としてしまうのは、浅薄な評価というものであろう。幾ら呼びかけようと触れようと、青年が反応する気配はなかった。睡眠状態にいるわけではないと医者からは告げられていた。意識は昼間の活動時のように活発に動いているらしいのだ。
では青年は一体、どのような状態にいるのか。彼はいまどのようなことを思っているのか。誰にもわからなかった。
しかしそれは常のことではなかったか。誰か青年の内面を理解していた人間がいただろうか。青年は浮遊する屍に等しかった。存在的にも、精神的にも。
四人は青年を病室に閉じ込めることを否とした。彼の状況、特性を鑑みて、青年を白い箱のなかに入れることは皮肉に過ぎた。
加えて、医師でも匙を投げた植物状態のこの青年を付きっ切りで診ていられるのは病院では難しく、寧ろ彼女たちの手で行った方が良かった。又、彼女たちは、この青年が現代医学の力では到底対応しようのない状態に陥っていることをなんとなく理解していた。姉妹の誰もが夢のなかで青年に命を助けられたような気がしていたのだった。
排便すらもままならなくなった彼の生活は全て女たちに委ねられた。その過程であけびは初めて兄のからだが傷だらけであることを知った。彫刻刀で抉られたような深い傷が無数に散在しているのと白肌と紫紺の痣の彩なしが、少女の脳裏に傷ついた硝子玉の像を結ばせた。
この美しい満身創痍の身はなんだろう。羽で愛撫すれば血が滲み出てしまいそうなくらい滑らかな肌にもかかわらず、掴んでみると硬いゴムのように反発した。頬に触れると冷たく、唇は柔らかい。兄は死んでいるようにも生きているようにも見えた。魂を入れられた人形のようだという思いがのぼりそうになっていたが、慌てて言語化するのを控えた。青年には(あけび自らに?)希望を与えなければならなかった。それが呪術的な思考であろうと拒絶してしまうべき理由はなかった。
とある日、榧は不思議な提案を持ちかけた。
「皆を連れて行きたいところがあるのです。ついてきてくれませんか?」
理由を言われはしなかったが、彼女たちは素直にその場所へ向かった。青年は夢か真か覚束ぬまま姉の背に負われていた。
(この肌の質感と温度と匂いと脈は桜か?)
どうしたことだろう、暗闇にたゆたうばかりであった青年に、僅かばかりではあるが知覚が芽生え始めていた。どこかでつながるような感覚はあるものの未だ神経がばらばらに切断されているようで軸がなく、やはり認識は曖昧模糊としたまま。負われているがさていまこれがどのような状態なのか全く見当もつかぬ。青年は必死に求めた。これは千載一遇の機会のような気がしていたのだ。
(知覚が殆ど消えてしまった今、僕が頼れるのは……)
想いは砂のように零れてはまた降り注ぎ、青年を惑わすばかり。青年の認識が現象に関与しきれていないあいだ、もうすでに母と姉妹たちは目的の場所に着いていた。
だんだんと目が開き、耳が聞こえはじめ、肌の感触が得られるようになると、そこは野原だとわかった。蔵からさらに奥へと進んで鬱蒼とした森を抜けた、開けた場所にあった。暖かい日の注ぐ長閑な空気に満ちた静かな野原の中心には別々の種類の四本の木が生えている。
彼女たちが掘り起こしたのか、木々の周辺には抉られたような穴があり、付近に棺桶のような四つの箱がある。
姉妹たちの叫び声が聞こえたような気がした。
穏やかな声が語っている。
エバを目指し、致命的に成れぬ女が、とつと話す。
「私には千年前からの記憶が有ります。私は今まで何度も生まれ変わり、その度に何度もあなたたちと再会し、人生を共に過ごしてきました。
原初の記憶は、平安中期。
当時の私は許嫁の決められている貴族の娘で、十五の年に嫁ぎました。夫は前世での柳さんです。
私は嫁いだのにもかわらず、子を産めぬ、役に立たない人間でした。一族の女として役目を果たせず、劣等感の塊でした。しかし、そんな私を柳さんは優しく愛して下さいました。それだけで私は救われていました。
私と柳さんは惹かれ合い、愛し合う日々を続けていましたが、しかし他にも柳さんへの焦がれる想いを抱いて忘れられない女がいました。女は私への憎しみを深め、私を呪うために鬼と体を分かち、力を得ました。
柳さんのもとへ嫁いで数年後、その女は私を殺しに来ましたが、女は私を殺すことに失敗しました。柳さんがその女を殺したのです。
ですが、女は死に際、私に呪いをかけました。
それから私の人生は壊れてゆきました。その呪いは、愛する者から愛されないという苦痛を何度も受けるというものでした。何度も生き返り同じ苦しみを味わうという、死よりも苦しい呪いです。そしてこの呪いは、愛する者たちの亡骸が成仏できないというものでもありました。
亡骸は埋葬や火葬をしても形を変えず、一時すると心臓が動き出し、永遠にそのままでした。
残酷です。魂も命もないのに、この子たちの体は土に帰ることができないのです。
この子たちに残ったものは念と呪い。呪によって存在を現世に引きとめられているのです。
人間のような脳と体を持った物を作れたとしても、それは動くようにはなりません。この子たちもそれと同じことが言えました。
この子たちは再び魂が戻ってくることを待っているのですが、その願いが叶う事はありません。なぜならその魂はすでにあなたたちの中に入っているのですから。むしろ、その魂はあなたたちなのですから。
私は土の中で眠っている子供たちのために子守唄を歌ってやることくらいしかできず、いつの世も私は無力でした。
幾度も生まれ変わり、輪廻の中を彷徨いました。
死んで霊界を訪れても、私は再び胎児として下界に戻り、同じような場所で、同じような姿で、同じような人生を送るのです。前世と同じ魂と姿を持つ人達と、何度も呪われた人生を過ごしてきたのです。
それは地獄も同然の境遇でした。
生命を司る大我の魂は、私に前世と天界での記憶を残しても、私の運命の意味と理由は教えてくれなかった。己の手で解決しろと。この問題は私の力で解かなくては意味がないと。それしか方法はないと。そうやって私とあなたたちは同じ姿のまま生まれ変わり続けました。
私は始めから子が産めませんでした。輪廻を繰り返し、医学が発達した時代になっても、いつも原因不明の病だと言われました。
血の繋がりを欲していた私は苦しみました。しかし私は間違っていました。
血など繋がっていなくとも、私たちには血を超えた魂の絆がある。そんな簡単なこともわからないまま、愛する子供たちに会えるのにもかかわらず、愛されない日々を苦痛の連続だと思って過ごしてきました。
子ができない、拾った子供はなつかない、呪いをとく方法がわからない、という人生を記憶があるまま何度も繰り返していましたが、何もできなかったのです。
私は何もわからなくなっていました。
女が民に呪いをかけ、私たちの住む屋敷を襲ったあと、私たちは仲間たちと旅に出ることにしました。その旅路の途中で四人の赤子を拾いました。私はどうしても子供が欲しかった。
私たちは長い旅の終焉に村を作り、仲間たちや子供たちと幸せに暮らしていました。
しかし春に拾った桃という子の産みの親の村は、私の一族の者たちに滅ぼされたのでした。
女の呪いによってか、それを夢で知ってしまった子供たちは私から離れてゆきました。
子供たちの姿が消えて数日後の嵐の後、四人の亡骸が見つかりました。
柳さんは離れてしまった子供たちの魂の拠り所として、木を植え、木の下に、それぞれ子供たちの亡骸を埋めました。私たちの絆の下に魂が帰ってくれば、木が膨大な生命を宿すだろうと考えたのです。しかし、幾度生まれ変わっても木は花をつけず、弱々しいままでした。当然です。
私はあなたたちの亡骸を見て、来世では血の繋がりを持った家族にしてほしいと天に言ったのですから。言うべきことが違っていたのです。血が繋がっていなければ親子ではないと思っていたのです。
私がどんなに頑張っても子供たちはなつきません。心の隅では、自分が産んだ子ではないからと思っていたからです。
家族との絆が裂ければ裂けるほど子供たちは死に近づいてゆきました。本当の母ではない、と子供たちから言われた時、私はどうしてもあなたたちを愛で包むことができませんでした。私は血のつながりというものに対して執着していたのです。子供を産むということが執念になっていました。これは呪いのような物でした。執念が私を縛っていました。
あなたたちへの愛の欠如に気がついて、私はどんなことがあろうとあなたたちを愛し続けようと決めました。なつきにくかった子供たちでしたが、徐々にふたりの愛と積もった想いが呪いを壊し始め、現世ではとても平和な日常を送れていました。
しかしまだ十分に心を開いてくれていない子がいました。
それは、正樹でした。
その心は木にも表れるほど。
しかし正樹はいつしか変わり始めました。
私たちは呪いを破り始め、今世にして初めて四つの木に魂を吹き込むことができました。
あなたたちはやっと戻ってきてくれたのです。
皆が心を開いて絆が深くなれば深くなるほど、前世での記憶を夢として見なくなり、それぞれの木は大きく育つのです。
あなたたちが度々夢を見ていたのも知っていました。いつの時代もそうでしたから。
心が離れると木は衰弱し、あなたたちは前世の私の記憶を悪夢として見るようになるのです。
心が遠く離れることがなくなっているから、現世では嫌な夢を見るのも少なくなっているようでしたし、木も大きくなっていました。
それが桜を植えて二十年目にして満開になった理由です。そして私がこのことを全て打ち明けようと思った理由でもあります。
私たちは何度も出会い、時を共にしてきたのです。そしてやっと今世にして、四つの魂は私たちの許へ帰ってきてくれたのです。
柊を引き取る前、私は児童養護施設で働いていました。私に霊感はありませんが、柳さんやあなたたちに会うであろう日はわかりました。魂の呼び声が伝えてくれるのです。でも私はあなたたちを受け入れる準備ができていなかった。
子供にはゆりかごのような場所が必要です。それは町や、学校や、友や、家族や、私たちの腕の中です。
私はあなたたちのゆりかごにはなれなかった。血が繋がっていなくては本当の絆を築くことはできないと思い、諦めかけたこともありました。自分の意志で命を断とうと思ったこともありました。でも自ら死を選んだ者への天からの罰は、それは酷いもの。でも今の私たちの間には血の繋がりを越えた魂の繋がりがあります。
どれほどの月日が掛かったことでしょう。私たちの愛はあの日から始まり、何度も終わりを告げ、そしてまた何度も始まった。私の魂と共に千年の時を掛けて、あなたたちを愛し抜けたこと、あなたたちの為に生きてこられたこと、これが私の誇りなのです。皆、本当にありがとう」
母の言葉が頭のなかで反響する。常軌を逸した言葉の数々も、これまで見てきた夢や妖しの女との出来事から推測すると、不可解な事象の彼是と共に納得できる。収束へ向けて、散在していたピースが繋がる。青年は全てを思い出していた。
(僕は何をしている……このままで良いわけがない……屑星の怠慢に見て見ぬふりをしない……あなたを罪から解放します。犯した罪は永遠に消えることはない。ならばせめて、罰します。それで何かが変わるなら……)
(たったひとつの冴えたやりかたを見つけ出すなんてできそうもないけれど……)
もはや良策など思い浮かびそうもなかった。だからせめて。
(最大級の侮蔑と憧れと憎悪と愛情と憐憫と親しみを込めて……あなたを試します)
あやふやな身体感覚を引きずりながら、手探りするように求めるも、先に先にと心だけが逸ってしまう。が、暗中模索の青年に一筋の光が見えたのは、少女の声が耳に届いたが故。
「紀河! どうしたの。こんなところに……それにその着物……」
曇りガラス越しに眺めているがごとくに霞む世界の中、あの紅色のものを羽織った、長い首の女が見える――――夢や森のなかで見てきたことがあったから、見えるのはまだ良いとしても、しかし数に異変がある、ひとりでないばかりかまるで分身でもしているかのように其処らじゅうにゆらゆらと立っているではないか。視界がぶれているわけではないのは木や箱の数を見て一目瞭然であったが、それがわかったとしてなんだろう、女の姿が増えたことに変わりはない。そればかりかあろうことに母と姉妹の姿が見当たらず、赤い着物の女ばかりになっているのはどういうことか。
(大勢いる。女……? 輪郭がはっきりとしない。模様のような……でも……匂いが……)
背を預けていた樹木からゆらゆらと立ち上がり、殺したはずの宿敵に向かって歩み出す。死を覚悟していた。
(例え世界的な洪水が起こったとしても、僕はノアの箱舟に乗るのを辞退しよう。僕のような悪意の塊の出来そこないよりも、やさしい者たちが乗れば良い。桜、あけび、柊、君たちのことだよ……そして母さん、あなたもだ……)
狙いを定めて歩み出す。
青年を呼ぶ声がする。驚愕に震える声や叫び声。
いつの間にか父の声まで聞こえていた。
(見える……見えるぞ)
煙が立ち上るように、赤い着物を羽織ったのがぽつぽつと視界のなかを揺らいでいるが、狙いを定めて青年は駆けた。彼女たちを敵の毒牙から守るためか、女の息の根を止めるためか、あるいは分断された世界認識を取り戻すためか、あるいは一滴ほどであっても誰かとの繋がりを得たいがためか、身を捨てて飛び出した。
近づく。高速で世界が流れる。確かな感覚。
血の匂いが伝わる。相手がどこにいるのか分かる。
青年は女の首筋に狙いを定めて、
「――――――――――――――――」
(なん……だって……)
ひとえに噛み千切ってしまうほどの力で歯を立てた青年は口腔で相手の肉を捕えていた。歯は肉に食い込みたらたらと血を流して、白い肌に映える。
「……はっ……かはっ……」
しかし、青年が噛みついたのは、凛の首筋ではない。母は凛を青年から庇い、自ら青年の前に立ったのだった。
「世界は……寂しい……人はどこまでいっても孤独です。世間は冷たく、誰も自分を分かってくれない。完全な共感など得られない。誰とも存在をわかちあえない。世界には何十億もの人間が生きているといるのに、その中に自分を理解してくれる人が何人いるでしょうか」
強い抱擁。恐ろしくなり逃げようとした青年を優しく受け入れる。
「でも今となってはほら、あなたの幸せを願う子たちがこんなにもいるじゃありませんか……あなたの痛みは私の痛み……恐れる必要も、心配することももう、ありません。私たちが包んであげますから」
静かに、赤子をなだめるように囁いて。
(なんてことだ)
桜は言った。ぶつかり合いのなかに調和が生まれるのだと。
「正樹……ごめんね、いままで」
点と点が線になって、線が円になって集束し、またひとつの点へ。
(これは……気持ちが良い……光に取り込まれ……心の殻が剥離していく。百の不幸が、ひとつの幸福ですべて消し飛んでしまうようだ)
感情の爆発は意識と感覚の奔流を促している。強烈な理解が走る。青年は感じている、世界を、自分を、身体感覚を、心の動きを。
両の手で抱きかかえられぬほどの感動を。
胸が打ち震えるほどの喜びを。
心を安寧の境地へと誘う鉄壁の揺籃を。
人生最大の共感を。
(悪を愛することは悪ではないのか……こんなに邪悪な人間でさえも愛してくれるなんて)
世界は優しくはない。だが少なくとも、確かにここにはあったのだ。人間は捨てたものではなかった。
榧は青年を恐れていた。和やかに生きながら、子である青年を愛しているように見せかけ、恐ろしさに震えていた。しかし彼女は今、青年の痛みを全て引き受けた。
(嗚呼……気持ちが良い)
箱のなかで横たわる魂のない兄妹たちに異変が起こった。人形のような兄弟たちの体から、植物が芽吹き始めていたのだ。植物は瑞々しい肌を割って、その茎を伸ばし、体を取り込みながら高く葉をつけ、大きな樹木へと成長した。まるで長年の眠りから覚めた子供が大きな背伸びをするような生命の息吹であった。
それに伴い青年の認識も強く起き上がる。
変性意識状態――Altered state of consciousness――
青年は母の過去を全て走馬灯のような幻覚として、刹那のうちに見、追体験していた。
母との身体的な共感を得、痛みを感じていた。
青年は多幸感に満ち溢れたまま、世界との接続を果たしたのだった――――。




