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大地への帰還  作者: 桐生真之
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少女

 幼き頃、小学四年生になったばかりの夏だった。

 春が過ぎ、春の空気に重なる夏の潤いが薄らと感じられる季節の、とある休日、少年、高咲正樹は友人らと共に隣町の林に来ていた。この周辺に良い昆虫採集の穴場があるとの噂を聞きつけて、綺麗な胡蝶を捕まえに来たのだった。

 実家の周辺も昆虫を捕まえるのには適していたが、それは大人の、それも専門家がやっての話で、深山の魔処と言われる通り、道という道も無く険しいばかりで獣も多いから、子供が行って活発に遊ぶのはどうしても危ないとの理由で、友人同士話しあって、自転車を走らせて、隣町まで来たのだった。屋敷周辺の影の濃い森とは対称的に、広く高いのではあるがこの林には天からの光が爛々と射していた。

 飛びぬけて目の良い正樹はいち早く目的の蝶を見つけた。ひらひらと不安定に空中に留まる胡蝶の動きは扇情的で、夢中になり過ぎるところのある正樹は友の視界から外れ、胡蝶とともに林の奥に紛れた。そして、声を聞いた。

 あまりに蝶に夢中になっていたため、彼としては非常に稀なことに、周囲への注意力が散漫になっていたのだろう、他者が付近に存在していたことに気付かなかったのである。声のする方には同い年くらいの少年が三人、犬を連れて誰かを囲んでいた。少年が囲まれていた。

(虐めか? 三対一で、それに犬も連れてこんな林の奥で、ひどいもんだ)

 すでに胡蝶を取り逃がしてしまった正樹は、友人たちの元へ引き返すのも億劫になったしすることがないので暇潰しがてら少年たちの集団を見ていることにした。

 遠くから眺めていると彼は自分が勘違いをしていたことに気が付いた。囲まれていたのは、ざっくばらんな短髪であるが、その肢体に一抹のなよやかさを秘める、少女であった。ギリシアの義憤の女神ネメシスの如くあらん限りの嫌悪と憤怒をその眉根に忍ばせる凛々しい瞳で敵を射抜く態度は英雄らしいものではあったが、膝の下で揺れている白い布は決して少年らしいものでないし、張り出た鎖骨や引き締まった足首や、細い肩や手や足にも雄の無骨さが無く、全体的に華奢である。元々、絶望的な虐めだと思っていたものがさらにどうしようもないものであることを少年正樹は知った。不可解な状況に出くわした。当然の如く、思う。

(こうなるまで、彼女はいったい、何をしでかしたのか)

 と思っていると、それこそ胡蝶の雌雄が戯れ合うような希薄な念波であったが、通じたのか少女と目が合う。そして痛烈な確信が彼を射竦めた。

(ああ……)

 この子は美しくなる。彼女には他者を寄せ付けぬ冷徹さがあった。それは天与の眼差しではなく日常の過酷さによって付与されたものである。少年たちとの日々によって彼女の美しさの萌芽は研ぎ澄まされてきたのだろう、と正樹は思う。この少女を見て、少年の正樹は生まれて初めて美というものに遭遇した気がしたのである。これが彼にとっての美意識の芽生えともいえる。鉛筆の芯をナイフで研ぐように、制裁を加えられる日々の中で彼女の美しさの破片は磨かれてきたのだが、これから始まる重度の虐めは既に彼女の美しさの種を削ぐものでしかなく、折角、美しく研ぎ澄まされかけているのにも関わらず、

(それにしても、なんて眼をしているんだ)

 それを穢れのなかへ蹴散らしてしまうのは納得できない。

(少女のする目つきじゃあない)

 壊してしまうのなら自分の手で、と思う。紅玉の原石のような彼女はいつか途方もなく美しく磨かれるだろう。その過程を目にすることが出来ぬのは口惜しく、琥珀に納められた花の種子のようなその才能を自らの手で花開かせたいと思う。自らの手で人工的に彼女の可能性を引き出すことはこの上なく楽しいことのように思われた。堕落させるのもこの手でするのなら、それもまた一興か、と。

 自然と足が伸びる。少女は信じられない物を見るような目で驚いた。しかしすぐさま自身の感情の機微を悟られぬよう冷徹な表情に戻った。彼女の何物にも期待していないような態度は、彼には奇異に感じられた。その実、彼女は誰にも頼ることができなかったのだ。他人に頼るという手段を知らなかったわけではないが、そうしないと決めていたのだ。

(しかし、本当は、あの子、とても期待していた……何なんだあの子)

 気になった。気になってしまえば、偏執狂まがいと言われてもしょうがないほどの凝り性の正樹である、手を出さぬわけにはいかなくなる。少年たちの不穏な空気は、熱した糖蜜のように周囲に張り付いていた。少年三人と犬一匹との狭間には悪性の高揚が渦を巻いている。

 卑賤な口論が小鳥の囀りをかき消しているばかりか、接近する正樹の足音さえも聞こえないようであった。や、彼らの声が雑音となって正樹の気配を消していたのもあったが、彼はいなくなるように気配を消すことを得意としていて、先刻胡蝶を追いかけながら友人たちの眼から逃れたのも彼の特異体質のせいでもあった。

 正樹の友人らは、自分たちのリーダーがカリスマ性を発揮して友を先導するのに反し、気付かぬうちにいつのまにか姿を消していることがあるのを訝ることはあったが、正樹の奇妙な存在感は彼らのそんな疑問さえもいつのまにか払拭させていたのである。

 この時にはすでに牢獄に通わされていたけれど、しかしそんな彼でも、自ら声をかければ相手が振り向くのは当然の帰結である。

「おいおまえら、虐めか」

 年下の子供に、少年たちは一斉に眼を向けた。

「あ、なんだてめえは」

「イジメ、カッコワルイ」

「糞ガキ、舐めてんのか? あ? 殺すぞ」

「その子、恐がってるじゃないか」

「は? こいつが恐がるかよ。こいつにはいままで散々やられたんだ」

「だから男三人と犬一匹? ひどいね」

「うるせえ、このクソアマがわりいんだ」

 少年のひとりが少女の肩を突く。

「いたっ」

 それ自体の衝撃は強いものではなかったが、背後の木の幹で後頭部を強打した少女は、気を失い、膝を折ってその場に崩れた。

「なんでそんなことするんだい、お兄ちゃんたちは」

「うるせえ、消えろ」

 少年のひとりが殴りかかるが、正樹は相手の手を取って捩り上げ、背後に回る。

「いて、くそ、はなしやがれ!」

「ま、いいけどこうまでして彼女を虐める理由を話してからだ」

「この野郎」

 少年のひとりが飛びかかろうとするが正樹は言葉で牽制する。

「おっと、動いたらこいつの首にガブリといくから、動かない方がいいよ?」

「は? んなことできっかよ」

「あらら」

 正樹が嘆息して後、正樹に手を取られていた少年が絶叫した。それもそのはず、少年の右肩が親指の大きさだけ爆ぜたようにえぐり取られていたとあっては。少年が痛みに耐えかねて暴れるほどに、少年の肩から血が滲む。少年の叫びが木魂した。

 正樹は口腔に納めた肩の肉をもぐもぐと咀嚼し、飲み込んだ。

「だからいったじゃないか。動くな、って。な?」

「うわあああッ! うわあーーーッ!」

「チッ、騒ぐな」

 正樹は少年を地面に投げて踏み付けた。

「おまえ……」

 と少年のひとりが顔面蒼白のまま言う。

「虐めていた理由を話せ」

 少年たちはいじめの理由を話した。母親がいないからということと、態度が気に食わないからだそうだ。態度が気に食わないというのも、彼女が帰国子女であるため日本の子供たちからすれば奇異に映るからというものであった。蓋を開ければ、そんなくだらない理由である。

 正樹は美しいものが好きだった。未成熟であるとはいえ、明らかにその才能を薄い殻の中に潜ませた彼女が暴力によって傷つけられるのは耐えがたきことである。

 正樹は少年たちに制裁を加えた。全員ともに骨折・打撲・擦過傷の何れかを受け、何本かの歯を失い、気絶した。犬は蹴りを食らい首の骨を折って死んだ。制裁を加えられながら、少年たちは二度と虐めなどせぬこと、人を傷つけぬことを、ひとつ年下の、隣町から来たひとりの少年から誓わされた。その様子を少女は朦朧とした意識の中でぼんやりと眺めていた。

 夢のような意識の中で見た地獄のような映像は後に、どんなに焼き切っても無くならぬ灰のように、強烈な記憶となって彼女の深層に残った。無自覚故に、強く、深い。

 彼女の荷物から住所を知った正樹は、彼女を背に負って林を抜け、住居の近隣まで歩いた、もちろん失神している少年たちを置き去りにして。

 近くのバス停のベンチに意識の朦朧としている彼女を寝かせて、囁きかけた。

「強く立ち向かう君は気高く綺麗だった。でも、中途半端な強さでは、虐めはひどくなるばかりだ。君はもっと強くならないといけない。それと、折角綺麗な黒髪をしているのだから、もう少し伸ばした方がいい」

 正樹は男の子のように短い少女の髪を撫で続けた。少女はすでに気が付いていた。そして正樹も、少女の意識がすでに回復していたことを知っていた。この無言のひとときはふたりにとって、至福以外のなにものでもなかった。

「それじゃあ、仲間が待っているから帰るとするよ」

 正樹は少女をその場に、林に紛れていった。

 この日から、少女に対しての虐めは消え、少女には平穏な日々が訪れた。

 この日、彼女はふたつのことを心に誓う。

 それは後年も変わらぬものであった。

 ひとつめは、髪を伸ばすこと。

 そしてふたつめは、名も知らぬあの少年を崇拝して生きていくことであった。

 これは通俗的な恋というものとは異なっているかもしれないが、この体験は後年、明確なる彼女の心の芽生えとなる。後に高咲桜となる少女の、十一歳の春の誓いであった。


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