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大地への帰還  作者: 桐生真之
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O 悪意

「鼻梁ゆかしき面ざしの

 いとかぐわしき黒髪の

 紅玉の君

 見つめているのは幻か

 お前は張りぼてに花を見

 暗闇に美を紡ぎだす

 美も醜も嗅ぎ分けて尚

 お前は分け隔てなく取り入れた

 憎しみと醜さから目を逸らさないお前だけれど

 自分の美しさは分かってはいなかった

 だからお前はあの闇を愛したのだ」

 

 

 高咲正樹は祈っていた。

 暗闇のなかで深く瞼を閉じ、静寂に身を浸して膝を折って祈る。重ねた掌のなかに希望が見えるわけではないが、祈りという行為は精神をいくらか鎮静させた。

 古来この国には神代と呼ばれる時代があったほどで、日本神話では八百万の神がこの国にはいるとされており、信仰心が存在せぬわけではなく、いかなる宗教に属しておらずとも古来の行事からその魂を受け継いでいる。そのなかの誰に祈っているのか、あるいは神など頼りにしてはいないのか判断しかねるが、青年の表情からは夢見るようなようすは塵の一粒ほども窺い知れぬ。

「桜、絶対に君を死なせはしない」

 家族でもあり姉でもあり友でもある恋しい人の名を称えたのは、彼女がここに囚われの身となっているが故である。衣擦れさえ鳴ったか知れぬ速さですっくと立ち上がった青年の瞳には炎が炯々と燃えあがり、眼力の威力は悪鬼かくあれかしというほどで、この館にふら付く輩どもを寄せ付けぬばかりか、ただちに退散させるほど。

 前のめりの姿勢で右にゆらり、左にゆらりと柳の枝葉の如くの歩度ながら、青年が向かった先は大きな扉。巨大な扉に片手翳して念を込める、と、触れてもいぬのにひとりでに、べこりと窪んで拉げて中が見え、両手をかざしてやると拉げた扉が吹き飛んだ。鉄球でも打ち込んだのかといったところで、吹き飛んだ後の土や煙は生半可なものではなく、三千世界、視界を丸々覆い尽くしていた。全貌の見通せぬ土埃のなかから一瞬光がひらめいたかと思えば、次に青年は頬に切り傷の痛みを覚えた。

 白肌に赤い血たらり、矢のような飛び道具が青年の頬を掠り、切り傷を負わせたのだと痛みに一瞬遅れて認識するに至った。手の甲で血を拭き取って、手元を眺めて、血と肌の色とを見比べると少しばかり心が癒えたのか、それとも現状をやっと意識して成すべきことに対して意志が凝ったか、改めて青年は落ち着き払うまでに。

 笑みを浮かべて血を舐めると、その頃にはどうしたことかすでに頬の傷は塞がるばかりか元通りに完治していた。悪魔と血を交わしたが故の特質であるが、青年をここまでに磨き上げたのは血のせいばかりではない。

「命中したか?」

 と砂煙に包まれて目視できぬにせよ前方から声がしたのに違いはなかった。傷のつき方がそれを雄弁に語っていたではないか。目を凝らす必要はなかった。青年は風を操り砂煙を遠方に飛ばして視界を確保した。

 視界が開けて見えてきたのは、広大な湖とそれを囲むように群生した植物からなる森であった。水気を多分に含んだ空気に満ちて、湖面を白く染めるほどの靄が浮揚している。肌にひたと張り付くような冷気に身震いして、空間を取り込む如く深呼吸し、敵の眼を睨み付けた。青年は、爬虫類のような眼をしていた。

 敵は強靭な体を黒で包んで遠方に直立していた。かつて妖魔の女に命じられ手足を運ばされ、組み立てさせられ、生命までをも吹き込ませられたあの黒きヒトガタ、繋ぎ合せた途端に部屋から抜け出したあの黒き肌の男であった。

 男の顔が中天に浮かんでいるように感じられるのは、靄にまぎれて脚のようすが判然とせぬからではない、人外ゆえの神の力で文字通り、湖面に足先のみ浸して、浮遊しているからである。その足元の、湖面に浮かんでいるものを見て青年は強い眩暈と焦燥を覚えたという、水の精霊か人魚の類が寛ぎに顔を出しているのかと見まがうほどの美の造形で、水のうえで寝る一羽の美しい白鷺のごとく、一見、優雅にも見えはするが、それはなんら安易で幸福的な模様を切りとって貼りつけたようなものではなく、彫刻の如くにかたまって、青褪めた面ざしで瞼を閉じ、虚ろに天を向いている姉であった。面ざしは静かであるがきわめて生気に乏しく、頭上に掲げた右の手が、意識があった頃の彼女の最後のありさまをようよう物語っていた。

「お前は禁忌に触れた……」

 男の悪意が禁忌に触れ、青年の逆鱗に触れた。殺意を抱くと氷のように冷静になる資質がそうさせたのか、声が唸るように低まっていた。

「遅かったな。ここに来るまで随分と時間がかかったようだ」

「心配するな、すぐに終わらせてやる。容赦はしない」

「それは無理だ」

 男の顔が悪意に歪んだと思えば、霧にまぎれたかのごとく、いつの間にか男の姿が、神隠しにあったように消えていた。蜘蛛の糸をまき散らすように神経を張り巡らせれば、すぐに男の気配を側に感じるまでになる。正確な位置がどこであるのかは判然とせぬままであったが、しかし側にいるはずなのにその姿が見当たらぬというのはおかしい、と訝っていると声がする。

「どこを見ている」

 悪意によって育てられた黒き肌の男の声が、青年の腸に突き刺さるように響くと、この青年、自身の足元の影から現れた男の腕によって宙に浮かされ、首を絞められていた。

 首の根を掴まれ宙に浮かされているという状況だけでも即死を免れぬ事態だというに、骨が軋むほど首を絞めつけられているのだから肉体が受ける苦痛は計り知れぬもののはず、なのに心身を切りはなしてしまったかのごとく青年の表情には苦悶が浮かぶどころか爬虫類のごとき能面で、瞳には凍てつく殺意のみが炯々と輝いていた。このようすに青年の企みを察した男は、この青年の冷笑を目にするよりも早く顔を横に背けたが、少しばかりの遅れのために顏の半分を失うこととなった。顔の半分を青年によって切断された男であったが死に至るような傷ではないのか、多量の血液を垂れ流しながらも青年の首を潰そうとする力は収まることがなかった、が、攻撃によって怯んだ刹那を青年は見逃さず、男の顔を切り落とすと流れのままに男の片腕までをも切り落とし、宙吊りから脱出せしめた。

 青年は切りとった男の腕の切断面に歯を当てて食い千切り、咀嚼して、侮辱を込めて男の顔に吹きかけた。

 ぐらり、空間が曲がるような錯覚があったと思えば、男の顔が憎しみと悪意の色を濃くしていた。男は体を光らせて失った顔半分と片腕を元の通りに再生させた。

 青年は不敵に笑んで、血を啜りきって枯れた男の片腕を打ち捨てた。

「さすがに美味かったぞ。なぁ、どうだ。自分の肉を食われるという気分は」

「腕くらいくれてやる。腕を切り落とそうと私は倒せない。お前の足掻きは無意味に終わる」

 男が片手をすっと伸ばし何かつぶやくと青年は呪術に嵌ったように身動きが取れなくなった。

「お前と私はとてもよく似ている。考えていることなど良くわかる」

 青年は男の力によって這い蹲らされ執拗な殴打を受けた。四肢を踏まれ頭を踏まれてその度に苦悶の表情を浮かべながら血を流していた。

「お前にひとつ良いことを教えてやろう。湖に浮いているあの人間は、お前の大切な女だったな。お前の血を体内に入れたことによってかろうじて生きてはいるが、もうじき私の毒によってその命も途絶えるだろう。そしてこのまま湖面に浮かび続け、最も美しく最も無意味な、永遠の芸術となるだろう。そうなるのも時間の問題だ」

 男は笑ったが、青年は悔恨を浮かべるばかりか、その顔に悪意に満ちた冷笑を浮かべていた。その青年を見て男は恐怖を覚えたという。踏みつぶされる者と踏みつぶす者、立ち位置には決定的な優劣があるものの、その心情には真逆の構図が成り立っていた。

 青年は、男の足元で、地に響くような声で言った。

「ならば、俺も良いことを教えてやろう」

「ほう、自ら最期の言葉を語り始めるか」

「アポトーシスを知っているかい」

「……何だと?」

「個体をより優れた状態に保つために細胞に自殺させるプログラムのことだ。枯れ葉が木から落ちるように、時を巡り、より高次の存在となるように」

「それが何だというんだ」

「お前の傷口に吹きかけたお前の血のなかに、これを覚え込ませておいた。そろそろお前の体に馴染むはず。悪意によって生まれたお前の体はこの細胞機構によって取り除かれる」

「……そんな出鱈目をこの私が信じると――――」

「確認してみるがいい。崩壊は既に始まっている」 

 男は青年の指摘する通りに顔に手を当ててみようとするが時すでに遅く、男の掌は溶けはじめ無残にも爛れて、顔は火傷を負ったように崩れ始めていた。

「な……なんだ……どういうことだ」

「容赦はしないと言ったはずだ」

 男はふらふらと後退しながら顔を両手で覆った。青年は立ち上がり、男の顔を眺めやった。

「なぜ私が……」

「悪意が己の身を滅ぼすということを、身を持って知るが良い。しかし俺にも慈悲がある。お前にも、せめて恍惚な死を与えてやる。お前の細胞は、より高次な存在に生まれ変わる悦びに打ち震えながら死んで行くんだ」

 この言葉は、男にかける青年の最後の言葉になった。男は爆発的な光を放ちながら溶け、最後には、ひとつの黄金の石となっていた。

 青年はその石を持って姉のもとへと泳ぎ、まだわずかに脈を残すその胸元に石を当てた。石が光を放ち毒が取り除かれると、桜の瞼が蠢き、息吹が明確に感じられるほど。青年は力尽き、ふたりは抱き合いながら湖に深く沈み行く。


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