N 憤怒
「刃を向けて睨む者
お前の願いが叶う頃
私は死んでいるだろう
私の屍を見て
お前は笑う、笑う、笑う
今尚深く誰かを憎んで
冷たく敵を射竦める
意思なき黒き魔物
その眼は自らを見ることはしないだろう」
悪夢のなかに降り立ち青年はいつものように長く続く廊下の只中に佇立していた。もうどれほどそうしていたものか、気がつけば暗闇のなかにぽつんと存在する己を見出す始末であったが、しかしいまは哀愁に身を浸している暇はなかった。
(なぜだろう……情動が収まりつつあるのにやけに不安を感じる……)
焦燥に押しつぶされまいと走る、走る、走る。熱量を帯びた少女の息吹が遠方に感じられて、彼女がこちらの世界にいることが感じられる。迷路の如き廊下を、少女を探してさらにひたすら駆け巡ると、遠くに鉄の扉が出現した。青年は急いでその扉まで駆けつけて手をかけ、扉を引いた。
黒い建物のなかにしては胸を締め付けるような重い暗さはなく、精神が落ち着くような淡い暗さの空間であった。鬱蒼とした木々が茂り、あらゆる植物が繁茂し、自然が自然そのままとしての栄華を誇っているような静かで厳かな所である。
森の奥へ進むと、青年はあけびを見つけた。少女は触手のような蔦によって巨樹に縛り付けられ、身動きが取れないばかりか気を失い項垂れていた。
側に寄って妹の安否を確認すると、少女の息吹が僅かに感じられ、青年は一息ばかりの安堵を覚えた。しかしその安らぎも絶望のなかでのほんのわずかな、ささいな安らぎでしかなく、背後に危機の気配を感じると、一抹の希望の光は頼りなく揺れた。青年は背後に、かつて自身が対峙した気配を感じていた。
振り向けば、そこには赤い男がいた。いつかの夢のなかで互いに意気投合し、少しばかりの時を過ごしていた。玉子から生まれる青い男をふたりで見ていた。その赤い肌の男であった。
「要件は分かっているな?」青年は話しかけた。
「さて……何のことやら」
「見苦しいな。一六歳の娘でも白を切るなんてことをやめたというのに」
「まぁ、そう言うなよ。仲良くしようぜ」
「俺と仲良くしようなんて思わなくて良いが、ただ言いたいことがある」
「なんだ、言え」暗い眼で睥睨しながら男は青年に問うた。その問いに答える。
「もうお前は自らを抑えなくて良い。神経を先鋭化させて嫌なものにさえ目を向けることはないんだ」
「……やめろ」
「蓄積させた怒りは憎しみへと変わる。感情を受け流し、心身の安らぎのため、そろそろ自らに休息を与えるべきだ。それは逃避ではなく、平和のための選択だ」
「お前のせいだろう。自分のことを棚に上げるのか」
「わかっている。お前は俺を恐れていた。悪かったのは俺だ。だから、謝りたい。申し訳ないと思っている」
「……もう遅い」
「僕のことを許してくれなくても良い。でも怒りに我を委ねないでほしい」
「なぜだ……なぜ」
男の足取りが不安定なものになり、ふらふらしたと思えば膝から地面に頽れた。
「なんで……そんなこと言う」
顔を覆いながら涙を流す男の体からはなんと、じわじわと煙が上がり出していた。男の耳のあたりが光りだし、男は悶え苦しみ始めた。
「……熱い! 熱い!」
青年は男の体に触れた。燃えるような熱さだった。
「苦しみから解放してやる」
首をかき抱き、切り落とす。男が微笑んでいた。
「ありがとう……楽になったよ……」
「ああ……」
青年が返事をすると男の体は溶けて、後は黄金の石のみが手元に残っていた。
青年は石を掲げてあけびを救った。




