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大地への帰還  作者: 桐生真之
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M 悲嘆

「泣き濡れて、落ちた涙は川へと流れ

 いつしか湖を満たすまで

 泣いても泣いても涙は枯れず

 視界はゆらりと歪んでいる

 手を差し伸べて涙を拭い

 腕を広げて抱きしめる

 背中の震えが少し止まった」

 

 

 明確なる意志を持ってここに現れたことは青年にとって初めての事のように思われた。嘗てない鮮明な感覚が青年の内に漲っていた。精神は肉体の調子ばかりか認識までも変調させている。暗闇は全て己の影なのだと思えるほどに、感覚が外部に広がり、世界との一体を肌に感じる。

 目を閉じて気配を探った。闇に闇をまた塗り重ねる、と、ひとつの灯火が脳裏に起こる。知己の少女の息吹が明滅しているのを感じた。

(すぐ助けに行く)

 目的の場所へ向けて一目散に駆けた。心臓の鼓動がありありと感じられる。暗い廊を直走り、同じ景色ばかりに不安が込み上げそうになるも、青年は確信を持って走った。

 目的の場所は見つかった。どれだけ地下深くに降りてきたのか、そこには今まで見たこともない情景が広がっていた。周囲は荒々しく尖った岩で覆われ、目前には広い川が流れている。コーキュートス――――この暗い川がまるで冥界への入り口のような嘆きの川を思わせるのは、この川の水が、人々が悲しむがゆえに流した涙のように思われるからだ。

 凍えるように寒く、青年は白い息を吐きながら言った。まるで地獄のようだ、と。

 そしてこのような場所に姉妹のひとりがいることを確信して焦りが生じる。荒々しい岩肌を飛び越えながら奥地へと進むと、景色が変わった。荒々しく、暗く不穏なものでしかなかった川辺から一変して、ここは宝石のように輝く氷の粒が散在する神聖な場所であった。そしてそこで最も神聖なのは、自らが淡く光を放つ、人を飲みこむことができるほどの巨大な氷塊であった。

 そしてそこで青年は柊を見つけた。

 ひとつの岩のように巨大な氷が壁に張り付いて、まるでこの少女を吸収せんと腰から下それから両の手を飲みこんで、柊は上半身だけ外部に曝されている状態で項垂れていた。目を瞑り眠っているようにも死んでいるようにも見える彼女の頬は、触ってみると雪のように冷たく、青白い。吐息で手を温めて再び頬に触れてみるも、熱が伝わり彼女の頬が温もりを取り戻していっているような気がしない。ぴくりとも動かぬこの妹を見あげながら青年の心に去来したのは悲しみであった。

「可愛そうに……氷漬けにされて、壁に埋もれて……」

 青年の涙腺が一粒の塩水を流そうという頃、背後から気配が訪れた。振り向くとそこには嘗てこの暗闇の館で時を共にした青の男がいた。男の表情ばかりか顔の造形は今までと変わらずどこかでよく見たことがあるような気がするのに上手く認識できず、印象は茫漠として頼りないが、口元がにやりと卑猥な形に折れたのが何とはなしに察せられた。嘲っているのだと認識することにした。

「久しぶりだな。こんなところに何の用だ」

 男は青年に話しかけたが青年の返答を待たず、話し続けた。

「面白いものを見つけたんだ」

 青年は射殺すような視線を青の男に向けた。

「不快だ。訂正しろ」

「なに?」

「この子は物ではない」

「こいつは裏切り者だ。物でいい。お前を裏切ったんだぜ? お前を幻想のなかで遊ばせていたのに現実に引き摺りだした。

 裏切り者はここで氷漬けにされると太古の昔からそうなっている。気にするな、綺麗な物を永遠にそのままの形にできるのだぞ。お前にとっては喜ばしいことじゃないか」

「悪いが、お前の言う通りにはさせない。助け出させてもらう」

「何を言っている。狂れたか貴様」

「狂れたのかもしれないが、決めたからには妹を解放させてもらう」

「無慈悲に人を殺し続けてきたお前が、妹だけは助けるか、偽善者だなぁ……」

「心外だ。俺は知り合いが死んでもなんとも思わん人間だ。死人の報道を見て笑い、死体写真を見て笑むような畜生だ。妹を助けるのは私利私欲のため。収集癖のためさ。俺のものは渡さない。壊させない」

「虚勢を張るな。お前の動揺は目に見えているぞ。唯一無二のこの少女を失くしてはならないと思っている。今のお前は何と見苦しいことか」

「黙れ。俺の手で堕落させてしまったのだから、この底なしの沼から彼女を引き上げるのは俺の役目。例え見苦しくとも地を這うことになろうとも助け出すんだ」

 青年は少女を引き摺り出そうと氷に手をかけたが、青の男はすかさず口を挟んだ。

「おっと、無理に引き摺り出そうとすればその子は崩れて二度と元には戻らなくなるぞ。それでも良いか」

「ならばお前が出せ。お前がこの子をここに閉じ込めたのだろう」

「嫌だと言ったら」

「口で言ってもわからないのなら、それなりのことをさせてもらう」

 ぬらぬらと光る地を蹴って男との距離を縮める。避けざまに男が腕の一撃を放ったが、片手で防ぎつつもう片方の爪で腕を切り落とす。男が叫びを上げながら青年を弾き飛ばした。空中でのコントロールを失い、飛ばされた青年はそのまま背後の岩に体を激突させた。身体的な接触があったわけではなく、念のようなものを駆使して青年を吹き飛ばしたように思えた。

 男は切られた腕の強烈な痛みによって狂わんばかりに唾液を撒き散らしながら、吹き飛んだ青年のもとへ走り、片手を大きく振りかぶり爪で薙ぐ、が。

 青年は人差し指を外に引いた。

 横一線、天地を切り分けるような何か鋭いものが男の体を通り過ぎ、男の体は腰から上と下に真っ二つに切り分けられ、どさりと音が立ったらば、男の上半身は下半身から落ちて地に転がっていた。切断面からは黒い血が流れ出していた。

「な……に」

 片腕で体を支えながら苦しげに呻き、青年を睨み付けた。冷血なはずの青年が、わずか憐憫に眉を歪めたのは気のせいか。青年はずっと男を見ていた、流れる黒い血を、苦悶の表情を。

「話せ、どうすればこの子を安全に助け出せる」

 冷たい妹の頬に手を当てながら青年が言った。美しくも淋しげであった。

 男は呼吸の乱れを抑えて静止した。そして男の眼が黄金に光ったかと思うと、男の切り取られた体はみるみるうちに再生した。切られた片腕も下半身も植物のように生えて元通りの体になっていた。

「普通に体を切っても無駄だったわけか」

「俺の体を切ろうと俺はこうして元に戻る。俺を倒す術はお前には無い」

「いや、そうでもない」

「何だと?」

「簡単なことだ。再生する前に殺してしまえば良い」

「そんなことお前にできるはずがないだろう。なぜならお前は――――」

「俺の悲しみがお前を産み出した。俺がかたをつけよう」

「貴様、正気か」

「さぁ……果たして俺が正気だったことがこれまであったかどうか」

 青年は右掌を天に向けて口元にかざした。そして大きく息を吐き、細く短く息を吐く。すると男は苦しみの声を上げてのた打ち回った。

「どうだ息吹で殺されるというのは」

 片目を両手でおさえて頽れたまま尚も悶えていた。

「生まれ変わるんだ」

「なぜ……なぜだ……」

 問いの意味を察することはできたが答えることはできなかった。

「いっそ産んでくれなければ……」

 悲痛な声であった。男は声を振り絞りながら最期の時を迎えようとしていた。急所を突かれた青の男に体を元に戻す術はなかった。

「気持ちはわかるさ。お前は、俺なんだから」

 青年は囁いた。

「君は泣いてもよかったんだ」

 青は悲しみの色であった。

「悲しいのなら……」

 男の眼が再び光りはじめる。その光は爆発的な強い光であったが、傷を治すことがないばかりか、その光のあまりの強さのために男の体を焼き続けた。男の体は瘴気を噴き出しながら燃えていき、後には男の眼――――光の石だけが残った。

 青年は黄金色の石を手に掴み、柊の眠る氷に向けて掲げた。石が再び強い光を帯び、氷塊を溶かしていった。氷は完全に溶けてしまった。

 青年は柊に手を伸ばし、強く胸に抱きしめた。少女の鼓動が胸に伝わる。白い瞼が小刻みに痙攣し、頬に赤みが戻ってきていた。

「お帰り、柊――――」


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