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大地への帰還  作者: 桐生真之
37/56

19 崩壊

 朝だった。嫌な夢を見ていた。目覚めた青年は頭部をやわらかなものに支えられている感触を覚えた。それはすぐに女の肌の柔らかさによるものだと知れたが、性的なざわつきはなかった。暖かさだけが彼を包んでいた。

 耳に心地よいのは小さな鳥の囀りと、母の唄。

「気が付きましたか?」

 頭上から小さな顏が覗き込む。目を覚まして初めて見たものは母の慈悲に満ち溢れた笑みであった。青年は母に膝枕をされながら眠っていたのである。

 ふたつの視線が睦み、淡く笑む。

「僕は、なにを……」

「桜があなたを見つけて、ここまで運んでくれたのです」

 青年は事の詳細を理解した。

「桜か」

「あの子は、疲れて眠っています」

「すまないことをしたよ」

 母は青年の頬にそっと手を当てた。

「貴方はいつもさみしそうな顔をしていました。でも、さみしいなんて口にしたこと、いちどもありませんでしたね」

 茫洋とした海のような瞳が青年の心を吸い込んだ。母は、この世の一切の艱難辛苦から解き放たれたばかりか、衰微を知らぬ廉潔な心身を悠久の美徳とする飛天のようであった。

「昔は、色んなことを考えていたのではありませんか? どのように笑おうか。私を不快にさせない応答とはどのようなものか。どうしたら自然に胸の内を隠せるか。私はあなたがいつもそんなことを考えていたような気がしていました。でも、いつだってあなたが感じていたのは、抜け道のない深い悲しみでしたね。あなたが私に見せる笑顔は、あなたの心からの悲鳴だと私は知っていた。なのに……私には何の術も――――」

 母の声の震えは青年の胸に痛いほど伝わり、青年の頬を濡らした。

「僕はこれでもよかった」

「あなただって、本当は健全なものを求めている」

「でも……僕は未来に期待が出来ないんだ……」

「すべてのことは一時的でしかありません。未来に期待ができないのなら、ならばせめて今を」

「――――――――」

「今を」

 母の膝を枕に、仰臥したまま青年は泣き続けた。手に掴んで確かめられる確固とした感情の動きがあったわけではなかったが、しかし知らずと涙は滂沱と流れ、青年の白き頬を伝い続けた。

「母さん、僕は……生まれ変わりたい……生まれ変わりたいんだ」

 母は少し驚いたが、すぐに優しく笑んだ。

 しばらくして落ち着きを取り戻した青年は、母の膝の上で再び眠った。悪夢を見ることもなく、安楽とした睡眠のなか、泥濘のなかで遊び転げているような心地を覚えた。まるで悪夢がどこかへ消えて永久の自由と幸福を得たような安らぎであった。

 長いこと眠っていたようだったが、起きてみるとそれほど時が経ったわけではない、永久にも思われた安堵の時は、暗闇によって引き伸ばされた偽りの一瞬であった。そろそろ朝食の時間だった。

 しかしながら、平素なら腹を空かせて起きてくるはずの姉妹たちの姿が未だ食卓にない。訝しんで、ふたりで姉妹たちを起こしに行こうかと話していると、桜がふたりを呼んだ。振り返ると、柱に手をついて青ざめた顔の桜の姿があった。

「どうした青い顔をして」

「ふたりのようすがおかしいんだ」

「なに?」

「とにかく来てくれ!」

 頬を引き攣らせながら言う姉に連れられて妹たちを見に行くと、姉の言葉の通りふたりのようすは一変して不穏なものとなっていた。

 次女のあけびは青年たちが駆けつける頃には起きていたが、目覚めに母の姿が見つからないのか愚図りだし、赤子のようにとぎれとぎれに喚いていた。青年たちの姿をみとめて険しかった表情に綻びが戻ったが、言語を覚えた人間が示すようなはっきりとした意思表示はなく、その表情には赤子の曖昧な安堵が揺蕩っているのみであった。どのようなことがこの次女の身に起こっているのか青年は感づいていたが一抹の希望を捨てきれずにいた。駆け出して、あけびの名を呼ぶ。青年がいまどのような顔をしているのかは背後の桜でも容易に知りえていたが、青年の表情を目にしているはずのあけびは尚も嬉しそうに、きゃっ、きゃっ、とはしゃいでいるのみではないか。

(これが……これが君の選択なのか)

 少女は退行していたのだ。愛されていた頃へと戻るために。

 青年は母にあけびを任せて柊の元へと駆けつけた。そこで青年が見たものは、己の世界を閉ざした三女の姿であった。瞳は虚ろであるのにただひたすらに一点のみを凝視してぶつぶつと何か呟いて、話しかけても反応は乏しく虚ろであった。

(閉じている……)

 柊は最愛の兄に拒絶されたことによる絶望によって外界への扉を閉じた。動物的な衝動を排除し理性を研ぎ澄ませることを人間の義務とするなら、彼女は人類から最も祝福されるべき人間だった。その彼女が積み上げてきたものを全て投げ捨てて退行し、選び取ったものは心の平安、それにつきた。

(全て、俺のせいだ。俺の……)

 これまで積み上げてきたものを全て捨ててまで、ふたりはこれより心が壊れるのを阻止したのだった。

 退行したのが悲しいのではない。自閉症になったのが悲しいのではない。そうならざるを得なかったことが青年の心を強く抉った。

『強すぎる愛は破滅を招く、愛は心を奪うものである』

 そう言って愛を拒絶してきた青年が、愛されたゆえに彼女たちを傷つけることになろうとは、青年は思いもしなかった。

「なぜこんなことが……」

 母の声。一抹の疑惑が、脳裏に強い像を結ぶ。

(まさか、あいつの力が……しかし……)

 柊を抱きしめて、耳元で彼女にだけ聞こえるように囁いた。

「……シンプルな構図だったんだ。お前は僕のことが怖かったんだ。僕は弱いお前にたいして凶悪だった。ただそれだけの話なんだ。お前が僕の言うことに殊勝に従うのは、僕を心底慕っているわけでも敬っているからでもないんだ。防衛機制に則っただけ。恐怖を克服するために恐怖の対象である相手を好きだと勘違いすることで、人は逃避ができる。プログラムみたいなものさ。自分を守る心のシステムだ。人質が犯人に恋をすることがあるだろう。ヘルシンキシンドローム。君は僕を好きなんじゃない。ただ怖かったんだ」

 柊は海底に潜む魚のように静かにしていたが、青年の言葉が耳に届いているわけではなかった。

(俺が壊してしまった!)

 少しの誤解を心に植え付けて、青年は妹を一方的に吸収した。柊の真実に直面し、柊に吸収されそうになった青年は、自分が聖母となることで反対に柊を吸収した。

「この……美しいものを」

 その後、妹たちを病院に連れても、原因はわからずじまいで家に引き返すこととなった。夜、青年はまたしてもあの妖しの女に呼び出され心神喪失のまま庭にたどり着き、桜が青年を出迎えた。

「どこにいっていたんだ」

「どこにも……」

 青年は姉に目もくれずに部屋へと向かい、姉もそれに着いてきた。彼女は青年の部屋の入口に立ち、うなだれる青年を見つめていた。

「僕のことはいいから、妹たちのことを見ていてくれないか」

「あの子たちはいま寝ている。母さんと三人で」

「そうか……親父に連絡はつかないのか」

「まだ、ついてない」

「そうか……わかった」

「あの……」

「桜、ひとりにしてくれ」

「私はここにいちゃだめかな……」

「――――」

「怖いんだ。これからもっと悪いことが起きそうな気がする」

「大丈夫さ」

「淋しいんだっ、怖くて仕方がないんだ……そばにいて欲しい」

「君まで危険を蒙ることはない。気が付いているのだろう? ふたりがああなったのは僕のせいだ。もうこれ以上美しいものを壊したくない、こんな不本意な形でね」

「そっちに行ってもいいか?」

「やめてくれ、君まで壊すのはごめんだ」

 美しいものを壊したい、壊したくないのに。

「私は――」

「桜、僕と関わるためには堕落してもらわなければならないんだ。しかし君の美しさは犯しがたい。真白のキャンパスに手を加える必要はないんだ。美しいものは皆、虹みたいなものなんだ。遠くから眺めるからこそ良いものなんだ」

「心配はいらない。私は堕落してもお前を満たす自信がある」

「無理だよ」

「私の顔が問題なら……この顔のせいで私を壊したくなるのなら、これをどうにかしないといけない。本当は壊したくないのはわかっている。お前が美しいと言ってくれたこの顔をそのままに、お前が好むように堕落させることができれば、そうしたら私を壊したいなんて思わなくなるはずだ。完全に自分の所有物にしてしまえばいいんだ」

 正樹――と意を決したように青年の名を呼んで桜は、

「これでいいだろう?」

 姉は青年の足の甲に口づけをし、にわかに仰向けの状態になった。

「正樹のおみ足、どんな絵よりも神聖だ。さぁ……」

「君、一体何をして……」

 一度は問いかけた青年であったが、姉の表情からその意図を察した。

「そんなことを……」

 青年は促されるままに姉の顔を踏みつけた。大地を踏みしめるように足の裏の全てを使って姉の顔を踏みしめた。桜の顔の柔らかさを足の裏で感じながら、傷つけないように、じわり、と。

「はぁっ……っ」

 桜が苦悶のような熱い感嘆の声をもらした。

 床と足の間に顔を埋める姉を青年は氷の眼で見下ろしていたが、その目を見て桜は、強く熱した哀切を放つ。

「その目でもっと、私を見て」

 微笑む青年を見て桜も微笑んだが、しかしそれは少女がすべき表情ではない。

「君とは、対等に奪い合えそうだよ」

 彼女の美しい顔を踏むことは、接吻や抱擁や性交などとは比べ物にならぬほどの快楽であった。足裏は大地を踏みしめるもの。青年は桜の顔という美しい大地を踏みしめることで、冷たい現世の大地を離れ、暖かな桃源郷へと降り立ったのだ。

 下半身の屹立は見られずとも、これには精を迸らせるよりも高次の快楽があるように青年には思われた。足裏で感じる春泥を踏みつけるような心地よさは、電流のように激しく体の隅々に巡った。そして桜も同じことを感じていた。性交したいとは思わなかった。

 互いの脳が痺れるようなこの快感を桜も味わっていたというところから、彼らが客観的に主と奴隷に見えながら、彼らの関係性は同等であったことが言える。

 彼らはまさに足裏と頬で共感の先端に触れていたのである。痛みと恐れであるはずの行為が快感として昇華した安堵から、ふたりには共に苦行を乗り越えた同胞への仲間意識が芽生えかけていた。これで健全なまま堕落できるとさえ彼は思った。

「なぁ、大丈夫だっただろう」

 桜は頬を歓喜の色に染め上げ、瞳を涙で濡らし恍惚となりながら、熱を漏らすような吐息で続けた。

「こうやって……幼いやり方でもいい。金魚の尾ひれのように何処に行くかもわからない調子で、ふたりでゆらゆらと折衷案を模索していこうよ」

 しかしいつまでも柔らかい顔の上にいられるわけはなかった。

(これで良いのか?)

 自問自答を繰り返すこともなく解は訪れた。続けていれば直ちに崩れ去ることは明確だった。いかなる者であろうと、人は冷たくも頑強なこの世界で生きてゆかねばならない。

 人間は生きて大地を踏みしめているだけでその足裏の下にあるものを汚していくのだ。人は生きているだけで加害者となり得、桃源郷を踏みしめていた青年こそが桃源郷には適わぬ、冷たい頑丈な大地を踏みしめるしかないほどの加虐性を持った生き物なのである。

(偽りでしかない……)

 青年にはこの優しく美しい欺瞞が赦せなかった。幻想は破壊しなければならなかった。

 大地を傷付けたくなかったが故、己が大地と化すべきだと青年には思いなされた。永久の安堵を勝ち取るために大地との共感を果たしたいのだ。大地を取り込みたい。大地の核が欲しいのだ。

「こんなもの、何の意味もないさ」

 青年の足裏と姉の頬が接着から解き放たれた。これは偽りの桃源郷からの解放であった。踏み込みかけた代替案は空虚な物だと知れていた。

 青年は常に自分が大地と決別しているような気がしていた。その気持ちは反作用を起こし、大地と接続したい、大地を取り込みたい、大地を我が物にしたいという願望の原動力ともなっていた。

 青年は姉に背を向けて去ろうと試みた。

「どこへ行くんだ」

 今生の別れでもあるかのように姉は青年の背に飛付き抱きしめた。その様子は母親の乳に必死にしがみ付く赤子にもよく似ていた。

 静かな声で背後の姉に告げた。

「世界で自分が一番使えない奴だって思ったことはないかい」

 聞き返す以外の言葉をどうやって桜に生み出すことができようか。麗しの優しいこの青年が、己の存在を卑下していようとは。

「僕は自分がわからない。恐いんだ」

「……正樹」

「知らない間に人を傷つけてしまいそうで。いつ、自分を抑えられなくなるだろうかといつも不安でしょうがない。誰も傷つけたくないんだ」

 抱擁が強まった。

「いいんだ」

 今までの様子とは驚くほど異なった、落ち着いた静かな声だった。まるで母と赤子が逆転してしまったような印象さえ抱かせる。

「誰だって、自分のことなんてわからないさ。だから知るために生きていくんじゃないか。知ることが出来れば、対処の仕方もわかるだろう?」

「考えたよ」

「え?」

「対処の仕方も考えた。それでもわからないんだ。俺の心はとても醜い。心が麻痺して、何も分からなくなってしまう時、僕は君のことを酷く傷つける」

 一人称の混同から、桜は青年の自我が混乱に陥っていることを感じた。

「でも、でも」

「――――」

「でもいまは、いくら分からなくなる時があるって言っても、いまは私がいまここにいるのはわかるだろう? 私もお前がここにいるのがわかるよ。いまはこうちゃんとしているじゃないか」

「でも、いまでさえも、僕は自分のことが嫌いだ。こんなの嘘だし、こんな役立たず、いないほうがいい。命を絶つことも考えた。でも母を悲しませたくはない。どうすれば……」

「死ぬなんて言うな! 私は、私はお前のことが好きだよ」

「面白い話をしてあげるよ」

「面白い……話?」

「あるところに檻に閉じ込められた虎がいたんだ。ある日、その檻に兎が入れられてきた。虎と同じ檻に閉じ込められた兎は虎に殺されるだろう。兎に逃げ場はない。でも虎は兎に恋をしたんだ。虎は兎に触れたい。でも細心の注意を払っても、大きな爪は兎の柔肌を貫いて殺してしまうことがわかっている。自分が戯れに恋人を殺してしまうことを恐れているんだ。そうしながらも虎は兎と仲良く静かに暮らしていた。でもある日、調教師が来て虎を理不尽に虐待するようになった。虐待は毎日続いた。木の上に無理な体勢で吊るされていたり、鞭で叩かれたり、水に沈められたり、眠る時間を与えられなかったり、色んな虐待を受けた。理由なんてわからない。虐待が続くうち、虎に溜まった怒りは抑え難いものになっていた。虎は来る日も来る日も続く虐待のせいで、世界に対して凄まじい憎悪を持つようになっていた。自分でさえも憎く感じられた。この感情は自分ではどうすることもできない。愛する兎をどうしても殺したくない虎は自分を抑えるために去勢を考えた。しかしそんなことしても根本的な解決にならないこともわかっていた。怒りと悲しみと絶望に暮れて、虎は暴れるしかなかった。暴れて何人もの調教師を食い殺した。でも食い殺しても代わりの調教師から虐待されるだけだった。そんな状況下でも虎は兎だけは傷つけまいと大切にしていた。兎も虎に只ならぬ好意を持っていたし、その好意と同じくらいの気持ちで、毎日の激しい凌辱と暴行を受ける虎を心配していた。しかしある日、怒り狂った虎に兎は恐怖してしまったんだ。虎は恋人に拒絶されたと思った。それがいけなかったのかもしれない。その後、虎はどうなったと思う?」

「どう……なるの」

「あまりのショックに気絶してしまった。そこまでは良い。しかし、気が付いたら、目の前には自分に食い殺された兎の肉片が散らばっていたんだ。虎は泣きわめき、己の性器を二度と使えないように引き千切り、潰した。そして最後に、舌を噛み切り自害したよ」

「……そん、な」

「この檻は人間社会と換言できる。頭の良い君なら解るね?」

「私は、お前を否定しない。拒否しない」

「そう」

「何があろうと」

「君が欲しい。好きなんだ」

「私も、同じ気持ちだ」

「なら、君をくれるかい」

「私は正樹の物だ」

「君は僕のために死んでくれるかい」

 桜は言葉を失った。言葉の意を図りかねたのだ。

「君を殺したい。じわじわと殺したいんだ」

「お、おい、何を言っているんだ……」

 桜は困ったように笑っている。しかし内心、本気でないことを死に物狂いで願っていた。

「本当だ。僕は最低の怪物なんだ。妹たちがこうなってしまっても、僕は何も変わっていない。僕がいま痛切に思っているのは、君を壊して手に入れたいということ。それだけなんだ」

「……わ、私、お前に何か悪いことでもしてしまったか? そうだったら謝りたい。お前に嫌われるのは好きじゃない。むしろ嫌なんだ。私のことが嫌いになっちゃったのか?」

「君のことを嫌うわけない。むしろとても好きなんだ。好きだから、君が魅力的だから、君みたいな芸術品はなかなかいないから、君を犯して切り刻んでじわじわと殺したくてたまらないんだ。 

 君の苦悶の声を聞きたい。君の血と涙を見たい。君の血と肉の味を知りたい。首を絞めたり刺したり切り刻んだり食いちぎったりしたくて、たまらないんだ。君の肉の感触を、奥歯で感じたいんだ!」

「わ、悪い冗談はよせよぉ……嘘なんだろ?」

「嘘なもんか! 苦しいんだ! 自分を抑えられない! 脳味噌を熱い鉄の棒で掻き回されているみたいで頭がおかしくなりそうだ。いままでは死体の写真を見たり虫や動物を殺したりしてどうにか耐えてきた。でもあれでも限界だったんだ。機械が壊れて狂ったみたいに脳の奥の方がそうさせる。制御不能なんだ。勝手にそうなってしまうんだ。なんで自分がいままで人を殺さなかったのかわからないくらいだ。でももう限界だ。衝動を止められそうにない……許してくれ……相手を傷つけずに愛する方法を知らないんだ」

「そんな……」

「家族だけにはこんなことしたくなかった……家族だけは。でももう」

「あぁっ!」

 あまりのひ弱さに驚く。桜を押し倒して組み伏せるのは猫の首の骨を折るように簡単なことだった。

 幼少期、彼女は男子相手の喧嘩でも負け知らずらしかった。しかし性差は明確な腕力の差であり時の流れは女である桜に成人の男のような腕力を与えなかった。対して青年は男である。しかも体は鍛えあげられていた。

「可愛いよ、桜。いま僕がどんな気分かわかるかい」

「わ、わからない」

「わからないか。なら教えてあげる。いまとても子宮が食べたい気分なんだ」

「しきゅう、って」

「そういう単語はまだわからないのかな。仏蘭西語ではutérusって言うんだ」

「ひっ――ッ」

 首を絞められたように桜の声が引き攣った。恐怖に歪んだ顔にもう一度、愛を囁いた。

「君の子宮が食べたい」と。

 最大限の慈しみを込めて愛を謳いあげた。

 かの文豪、夏目漱石が英語教師であった時分、I love you を月が綺麗ですねとでも訳しておきなさいと生徒に伝えたという逸話はあまりにも有名であるが、正樹にとって、好きという気持ちを伝えるために考えられる最適の言葉はそのようなものではない。

 地球の傍に浮かぶ月と、月のものと関係の深い生殖器と、月という言葉に対してのつながりはあるが、後者に情緒はない。

なのに、それなのに、彼にとって『君を愛している』と『君の子宮が食べたい』は同義であって、どちらも酷く情緒的な言葉なのである。言い回しは異なるも抱く気持ちは一緒である。風情があるなと感動する、彼はずれている。

「だめ、だめだよ!」

 安易に距離を取れば攻撃されることがわかっているのか、桜は力を込めて青年の胴にすがり付いた。彼女は優秀であったが、しかしこの体勢からでも首は絞められる。抵抗は無益なものであった。その優秀さと愚かさは青年の支配欲を掻き立てるものでしかなかった。

 青年の瞳に射られたまま、桜は問う。

「正樹、どうして」

「止められないんだ。ごめん」

「そんな……」

「助けの声を上げないんだね。このまま……死ぬかい」

「正樹に……抵抗なんか……できない」

「どうして? もっと嫌な顔をしてよ」

「――――――――」 

 抱き着く桜を引き剥がして再び組み伏せる。

「嘆かわしいよ、愛おしいよ。君は世界一美しい襤褸切れなんだ」

 頸動脈に歯を立て甘噛みする。

「あ……うぅ……」

 これほどまでに他者に慈しみの心を持ったのは初めてだった。彼女の愛らしさがそうさせたのだ。萌えだした恋心。この気持ちを大切にしたかった。

「ほら、わかるね。ここが頸動脈だよ。ほら、ここ。皮膚の上からでもマカロニみたいなほどよい弾力がわかる。桜のだからとびきり美味しいんだろうな」

 声の調子のみ聴くならば愛を囁いているような。

「あ、あぁ……」

「すぐ噛み切れてしまいそうだ」

「はっ……はぅ……」

「桜、好きだ。もう待てそうにない。いいだろう?」

「あぅ……っ――ぁ……っ」

「ねえ、桜。君はなぜ生きるんだい? この不条理の、混沌の、癌の、エイズの、貧困の、差別の、事故の、死別の、精神病の、強姦の、老朽の、窃盗の、裏切りの、離苦の、戦争の、騙しの、惰性の世界で、肉親と死別し孤独になり偽りの家族の一員となって未だ何を得ようとするんだい? 愛別離苦を繰り返すのか。それでもまだ生きたいのかい。君は何に抗うことができるだろう。君はなぜ苦しみながらも生きるんだ。

 母に捨てられ、字が読めず、虐められ、父は病に伏せ、虐めに打ち勝ち、父を死によって失い、君は孤高を研ぎ澄ませた。父の死により完璧に近い孤高を得た。君はどこへでも行けた、どこへでも行くタイミングがあったはずだ。なのになぜこんなじめついた山の奥で足を腐らせる。なぜ気高さを退化させる」

「わからない、そんなの、わからないよ……」

「君は三島由紀夫の金閣寺を知っているかい」

 不意の問いに、恐る恐る答える。

「フランス語でなら読んでもらった……原書はまだ……」

「知っているなら話が早い。金閣寺という作品は、金閣寺がこの世で最も美しいものだと教え込まれて育った男が主人公だってことは覚えているかい」

「うん……」

「しかし彼は実際の金閣寺を見ても教えられたほど美しいとは思えなかった。しかし音楽が流れているときや、戦争が始まり金閣寺がいつかは滅びてしまうとわかった途端に金閣寺が美しく感じられる。永遠ではなく刹那のものだと認識された瞬間に金閣の美しさが増すんだ」

「そ、それで……?」

「この家の女たちにはどこか金閣に共通した絵に描いたような美しさがあるんだ。この家の暗闇が時の流れを鈍くしているからなのか。だから僕はね、君たちの時を動かしてあげようと思うんだ」

 桜は小さく悲鳴を漏らした。

「人生は退屈だと思うかい。あらゆる空虚で満たされ、感動は一瞬でしかないと思うかい。死の危機を失えば生の倦怠が生じてしまうと思うかい。誰もがそんな倦怠を感じたことがあるはずだ。

 しかし当然ながらこれは単なる個人的な認識の違いに他ならない。死は壁の向こうにあると思っている人間が多いだろうが、本当は死なんてものはどこでも待ち構えているものなんだ」

 肌を切り刻むのも肉を断じるのも彼にしてみれば愛撫に変わらぬ遊戯にすぎぬ。

「孤高を貫いて凛として生きている物が好きなんだ。けれど堕落した美しさを愛でるのもまた一興。

 君の部屋の間取りは護身にとても向いているね。暴漢に襲われそうになっても机が自分と敵の間にあれば助かる確率は机がない場合と比較して上がる。自分の身は自分で守る。君の心から滲みでた西洋的な資質が家具の配置をさせたのか、それとも幼少期における孤高の女傑としての期間がそうさせたのかはわからないが、君の部屋の配置からは自律的な君の精神の発達が窺える。

 そんな君の心性を、僕の手のうちでならば堕落させるのも悪くはない。とことん堕ちるところまで落ちてもらう。桜、僕は君の孤独な者特有の凛とした姿勢が好きだった。しかし君は僕と一緒になりたいという。ならばどうしなきゃいけないかわかるよね」

 美しい花は摘みたくなる。愛しい兎は撫でていたい。悪手で兎は傷ついてしまうが、止める手段は持っていない。

「生きているものが美しいのは滅び行くからなのさ。人は滅びゆくから美しいんだ。今、君とても綺麗だ。君にはずっと美しくいてほしい。その美しさを永遠にこの手に閉じ込めておきたい。滅びの一瞬が永久の美しさに通じるんだ。

 君は桜よりも薔薇のような女だと僕は思っている。美しいが毒と刺があり、止まった時のなかで生きているようなんだ。まるで腐っているのに首を落とさない薔薇のようにね。それは君が過去を見つめて生きているからだと僕は思っている。桜はね、最も美しいときに散らなければならないんだ。君の宿命は、その名のもとに殉教することさ。君は美を極めるために生まれてきたんだ。親が子にとっては神も同然なら、君は神の意思によってその名を付けられた。ああ。

 僕は君が食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい…………美味しそうな君を食べてしまいたい。血の一滴も残さないで食べてしまいたい」

 青年の切望に飲み込まれてしまいそうになる姉であったが、驚愕が口を突いて出た。

「今までは、そんなそぶりなんて見せなかったのに……」

 一個人が抱く程度の些細な疑問には、明確な答えが用意されているものである。

「僕はね、道徳観によって静穏に暮らしているわけでないんだよ。他人の目があるから善人に紛れて生きていけるだけであって、もしもギュゲスの指輪があれば簡単に人を殺すことだってできる。この世界の法と秩序が僕を抑えているだけなんだ」

 スイッチを切ってしまえさえすれば、目にするものは絵になる紙になる。情緒の色味はかき消えて、痛みも悲しみも消え失せる。荒れ狂うのではない。静かな狂気がそこに揺蕩うのみである。

「どうにも、ならないことなのか?」

「なにがあろうと僕の衝動は消えない。例え両手両足がなくなろうとね。去勢されたことに気付かず鳴き続ける蝉のように」

 恐怖によるものだろう、姉の細い体が震えた。歯の根が合わず、言葉もままならぬばかりか息をするのもやっとのことと思われる。

「僕の手によって命を散らす前に、舌を噛み切って自害するかい。君がそうしても僕は構わない。君は死姦を知っているかい。君が死んだ後、僕は君の死体を弄ぶ。それを死姦と言うんだ。むしろその方を好む酔狂だっている。

 死体を美しいと思う心は何百年も前から人類に備わっていた情緒なんだ。昆虫採集の歴史が中国で始まった頃のような何百年も前からね。死体を愛でる行為は珍しいことではない。僕には動かない人形を抱いて喜ぶ小さな女の子たちこそネクロフィリアに見えてしかたがない。

 そして僕だってその枠からは外れはしない。君の不名誉は僕の情欲を掻き立てる材料に過ぎない。君が自ら命を絶つことは僕に無抵抗に体を差し出すということなんだ。これは僕に対する奉仕となる。

 君が親切にそうしてくれるのなら僕は喜んでその忠誠心に応えよう」

 青ざめながら、ふるふると姉は首を横に振った。

「なるほどこれには同意しかねるわけだ。そうだよね。死んだ君を弄ぶなんて贅沢すぎるというものだもの。どうせ遊ぶのならば、最も美しい君とその幸福な時を過ごすのが作法というものだ。そのために君の美しさを今一点に集約させたい。怠惰による堕落を改めるんだ。

 桜、苦汁を舐めながら長々怠惰に生きる君よりも、死に向かう一瞬の君のほうが比べ物にならないくらい綺麗なんだ。花火を思わせる一瞬の閃きの中に命の美しさはあるんだよ。芸術は爆発だってよく言うじゃないか。君と言う芸術は、僕の手によって完璧なものになる。作業を終えた後、僕は君の一瞬の美しさをこの命尽きるまで無限に空想することで再現することができる。僕の中で君は最も美しい姿で永遠に生きるんだ。それは心踊るほどに素晴らしいことなんだ。

 僕は今一度君に問いたい。産みの母に捨てられ、父との愛別離苦を経て、他人の家に打ちやられ、慣れない日本に来てまで、何故生きる……何故生きるんだ。親しくもない中年を父と呼び、嫌悪の対象である母親と言うものにここでも出会い、異常者を弟と呼び、莫迦な年下の女たちを妹と呼ばなければならない。これほどの屈辱を君が受ける理由がどこにあったというんだ。君が何をしたというんだ。君は何も悪くない」

 息をのんだ桜であるが、青年の言葉の最後に哀切を読み取った。

「……私たちは多かれ少なかれ、生まれによって不当な目に遭うし、私も人間が嫌いだ。それでも私たちは生きていかなきゃならないんだ」

「その言葉は解決を与えてくれるかい」

「わからない。だけど私たちはその問題に対して真剣に考え、解決を模索することができる」

「なんて頼りない言葉だろう。僕を失望させないでくれ。桜、君は解決策を考えて、今まで答えが出たことはあるのかい」

 桜は口を噤んだ。

「僕に君の価値を下げさせないでくれ。君の言葉を刈って荒探しをするようなことはしたくないんだ」

 桜は幼子のように涙目になって押し黙った。

「そうだそのままで良い。沈黙は君を賢く見せる。僕が好きなのは気高く生きる孤独な鳥だ。でも僕に近づくのなら堕落させてもらう。この手のなかで」

 抑えていた願望が爆発しかけていた。桜の四肢が抗うように蠢き、小さな悲鳴が漏れ聞こえる。

「い……いや……」

「いけないかな。僕は良いと思うけど。まだこの世界に罪なんてものがあるなんて思っていたのかい。根本的に罪なんてものはないんだ。罪は誰かが作ったもので、紙面に鎮座しているか人の頭のなかに揺曳しているだけ。罪なんてものはこの世界に絶対的な物理現象のように存在しているわけじゃないんだ。この部屋の中は罪と罰の概念から免れている。僕と君の間にどんな罪がある。君は誰に罪を訴える。声は届かない。誰も来てくれやしないよ。叫んでごらん。そうしようとした瞬間に、僕は君の首を絞めているだろう。それから喘ぐ君の舌を食いちぎって、ゆっくりと眼球をしゃぶりつくすだろう」

「そんな……ゆる…………して」

「悪いけど君に選択権なんてものは無いんだ。人間の歴史において、現代のように仮の民主主義的法律のない原始的な社会では今よりもさらに強者こそが絶大なルールだった。ならば密室という法の及ばないこの部屋……原始的な人間関係を形成させるこの部屋では僕がルールだ。家には家のルールがあるんだ。特に人里離れたこんな山奥の家では独自の秩序が形成され易い。その圧力は内へ内へと進み行きさらに濃密なものへと変化を遂げる。閉塞した家のなかにあるこの部屋は極めて個人的な思念に動かされる。家のなかにもうひとつの家が出来るんだ。そしてこの密室の内側では外界の他者の介入する余地など皆無に等しい。社会の秩序なんてものはこの隔離された空間では何の効果も持たないんだ。いまここで僕を裁くなんてことは出来ない。ここには法律家も為政者も警察もいない。僕が裁かれるとしたら法の下に降りた時だけだ。その時は僕を拘束して独房にぶち込むことが出来るだろう。法的に命を奪うことだってできる。

 強姦殺人犯の顛末はとても貧相なものだ。しかしそれでは手遅れだろう。君の肉体と精神の損傷は免れない。それどころか死だって回避できるものか。自分の身は自分で守るもの。ここでは己の有能性が全てだ。戒律など関係ない。他者を支配せしめる能力こそが権力でありルールだ。正しさを気にしていれば身を食われることになる。そうだろう。弱い君が愚かなんだ。

 強くならなくたって生きていける世の中かもしれない。だが弱者が生きるには困難な世の中であることには変わりはないんだ。弱者は強者に搾取される。それはここでなくとも同じ事だ。地球というひとつの閉鎖された世界では強き者が弱き者を支配する。弱者が強者に勝つことだってある。だがそれはその弱者が実は強者で、強かったというだけのことだ。弱者は強者には勝てない。それが世界の真実だ。そしてその醜く単純で阿保らしい陳腐な構図はここだった同じなんだ。

 天地がひっくり返ったって君は僕には敵わない。恐怖に萎えた女の細腕ほど非力なものがあるだろうか。破瓜を迎えた数分後、君の冠状動脈は僕の手によって二度と酸素を運ばなくなる。僕が裁かれるのはそれからだ。

 もし仮に僕が法の手から逃げおおせることが出来れば僕は裁かれることはない。死んだ君は僕の不幸を誰に願うのだろうね」

 神の存在を問われたらば間違いなく否と答えるような無神論者の青年であるから、彼のする神の話は常に皮肉を帯びた。彼は神なぞ信じてはいない。必要とさえしていない。例え神がいたとして神は青年に興味すらないだろう、そう青年は考えた。仮に興味を持つとすれば青年を忌み嫌うためだと。青年は神の敵である。

「神さえも罪を犯すこの世界だ。こんな世界で人に見つからないのなら誰が僕の罪を裁ける。僕が通り魔や災害や事故に遭い命を落としたら君の憂さは晴れるだろうか。僕なら晴れない。僕が君だったらこんな僕を自分の手で嬲り殺してやりたいだろう。嬲り殺すくらいではぬるい。想像しうる最大の恥辱を与えて殺すだろう。死ぬことすら赦さないかもしれない。生かしたままこの世とあの世の全ての苦しみを体験させるだろう。

 しかし僕に膨大な資金があり天才的な弁護士を雇うことが出来れば、僕に膨大な法的知識と天才的な弁護力があれば、僕の罪がかき消される可能性は少なからず存在する。罪は消えずとも刑を減らすことは出来る。

 裁判というものは試合だ。証拠はその試合を戦うための駒で弁護力は攻撃力と防御力。一八歳の男が一九歳の義姉を強姦殺人。

 幻視する人間も、猟奇的な行いを理性的にこなすことが出来る人間も狂人と言う。共に自然科学の萌芽を待っていた時代に多くの人々は、狂人を悪魔に取りつかれた人間だと判断していた。統合失調や多重人格は地方によっては巫女であり預言者であり狐などの低級悪霊に憑依された者とされ、また地方によっては、カニバリズムは吸血鬼とされていた。文明の発達により呪いや魔法は科学に置き換えられた。しかしそれでも人は全ての罪に対処法を与えられたわけではない。

 医学的な狂気と法律上の狂気は異なるように、心神喪失で善悪の判断が出来なければ法律上の狂気となり医学的には狂っているが、善悪の判断は出来るので法律上は正気となる。前者は精神病院送りで後者は牢屋行きか死刑だ。法律は僕を狂人と見なさないだろう。

 よって僕が裁判に負ける可能性は非常に高い。結論はよりわかりやすい方に、説明しやすい方に導かれるものだから。金も知識もない僕は負けるだろう。しかし僕は足掻くだろう。証拠などうやむやにしてやる。

 君の性器に付着した僕の精液も君の性器ごと食ってやる。どこかに付く僕の歯形も僕の唾液も肉と一緒に食ってやる。

 こんな山の中だ。訪れる人間なんてそうはいない。親父の編者も来月まで来ない。荷物が届けられたって宅配員は玄関から先へは入って来ない。家の中の状況を把握できる者は今月中、誰ひとりとして外部にはいないんだ。電話が来たって僕が出れば良い。誰かに変わってくれと言われても今はいないと言ってしまえば良い。僕以外の家族が電話に出ないことに困惑を覚えるだろうがなんとでも言い逃れできる。まず電話に出なくたって良い。

 なぜこんなことを言ったと思う。君を殺すと今日中に家族の誰かに必ず見つかるだろう。みんな悲しむ。だからみんな僕の手で殺してやるんだ。殺した後にみんな捌いて小さく細切れにして食べてやる。ミキサーにかけてジュースにするのも良い。硝酸に入れて溶かしてしまおうなんてもったいないことはしない。骨だって料理次第では食える。来月までに平らげればいいんだ。腐らないように干物にだってしてやる。冷凍保存もしてやる。もし腐っても食べる。大事な家族だから。全員殺して食べ切った後に僕は証拠をなるべく小規模に抑える。そのために知識を溜め続けてきたんだ。来月まで時間があるがやるなら早くやってやる。すくなくとも僕は十日あれば全てを処理できる。猫たちにもお裾分けすればなお早い。それがいい。猫たちも僕たち家族は大事な存在だったろう。莫迦みたいに放火して証拠を失くしてしまおうなんて気はないさ。放火しても証拠は消えないし目立ってしまって発見を早めてしまう。僕は準備を整えた後に静かに姿を消すのさ。雨の後の朝に深い霧の立ちこめるこの山のような静心で消える。煙のように。

 それから何処に行こう。そうだ孤島に行きたい。無人島だ。いつか旅した時に南の方に良い島を見つけた。ボートを買ってあの島に行く。あそこなら僕は自分にさえ惑わされずに生きていけるだろう。僕に暴力を起こさせるものはない。その代わりそこには病院も薬もワクチンも消毒液さえも無い。冷蔵庫も車もコンビニもテレビも何も無い。

 現代人の僕は多分すぐに死んでしまうかもしれない。しかし生命の強さをなめてはいけない。人間の適応能力も。寿命は長くはないかもしれないが、僕は余生を快適に過ごしてやる。僕以外誰もいない生活は退屈かもしれない。僕は言葉を忘れるだろう。自分の顔さえ忘れるかもしれない。でもこの頭脳さえあれば何でもできる。今まで鑑賞した映画や絵画や舞台やテレビ、今まで聴いた音楽、今まで読んだ文学や漫画や様々な本、行った街や海や森や川や林、出会った人間や動物や昆虫、君との思い出、そして母の笑み。一度目を瞑れば、僕はそれらを楽しむことが出来る。そこに新たな物語を加えて楽しむことだって出来る。

 それだけではない。楽しみはいくらでも作ることが出来る。壁画を描いたり、昆虫採集をしたり、星座を眺めたり。自分だけの空だ、新しく星座を作ってみるのも良いかもしれない。動物と仲良くなるのも魅力的なことだ。人に会わず衝動の薄れた僕は動物たちと仲良くやっていけると思う。

 僕は風邪を引いただけで死ぬかもしれない。だがそれで良い。それまでは快適に生きていける。重い病を患って苦しさに耐えきれなければ自殺すれば良い。誰も気に病む者はいない。海に身を投げれば鮫の餌にだってなれる。森で死ねば肥やしになれる。それはとても良いことだ」

 死ぬことは恐怖ではなかった。青年の精神は生にも死にも属していなかった。

「ははは! 人間の世界に未練なんてない。もともと何も無いんだから。気が変わって人に会いたくなったら十年くらい待つだけだ。奇跡的に十年生き延びれば僕は罰を受けずに済む。十年過ぎてもその時まだ僕は二十代だ。どうにかなる。気に食わなければ島に戻れば良い。

 その頃にはもっと人間らしくなっているのかもしれない。そのとき例え改心できるとする、でも自分の業を受け止めようにも、どうしたら良いのかわからないんだ。自分がなんでこんなふうになったのかさえわからないのに。

 言い訳もしない。この衝動は抑えられないんだ。飢えが止まらないんだ。どんな動物でも餌がなければ共食いは起こる。僕は飢えていた。ずっと、ずっと。

 理解に感情が付いていかないんだ」

 先刻まで震えていた桜が、鳥の雛のように唇を開けて言う。

「傷つけずに愛する方法を知らないんだって言ったよね?」

「うん、そうだよ」

「人はね。みんな誰かを傷つけ、傷つけられながら生きてるんだ。そして被害を最小限にするために秩序や倫理があるんだ」

「そうだよ。その通りだ」

「愛する者同士には秩序はいらないって、言ったよね」

「ああ」

「そうなんだ。私は正樹を愛しているから、何をされても良いんだよ。愛し合う者なら互いに傷つけあっても良いんだ。汚し合っても良いんだ。それは私の言ったぶつかり合ってこその調和とは少し違うけど。

 人は人を傷つけたから愛せることもある。私はお前を愛してる。それだけが確かならそれでいいんだ。好き同士なら、相手との合意があるのなら、何をしてもいいんだ。好き同士の間に、してはいけないことなんてないんだよ」

 黒曜石の粉を練り込んだような硬質な光が桜の瞳に灯っていた。

「好きなんて嘘さ。気持ちなんて錯覚なんだから」

「錯覚でいいんだ。すべてが錯覚なら、私の気持ちは錯覚の中の真実だ」

「――――」

「お父さんと死に別れて初めて正式なこの家族の一員になった日、縁側でお前が私の手を握ってくれた時、あの時、私はまだ世界に見捨てられていなかったんだって思ったんだ。正樹、お前は私に第二の人生を生きる力を与えてくれた恩人なんだ。私を見捨てないでくれ」

 姉の必死さに笑いが込み上げた。

「ふふ――――ふふふ」

 抑え込むも、高い笑いが込み上げる。

「……ど、どうしたんだ?」

 動揺する桜に向かって、にこりと笑ってさらり、

「冗談だよ」と呆気なく。

「じょう、だん?」

「君を殺すなんてありえない。僕は君を見ていたいからね」

 強制的に、意思によって荒ぶる情動を抑え込んだ。

「今日はやめておく。もう少し君を見ていたいから。もしも僕と生を共有したいのならいつでも命を捨てる準備をしておくんだ。このように突発的な形ではなく、もっとじっくりと君を愛したい。だから今日は君の血を飲むだけにしておくよ」

「血を……飲むの? なぜ?」

「僕は人の精神というものを信じられないんだ。君が僕と繋がりたいと思えば文字通り血を分けることが大切なんだ。肉体の一部を取り入れることによって共感が芽生え安らぎを得られるような気がするから。迷信的な思想だけれどね」

「わかった」

 即答だった。桜は腕を差し出した。

「腕じゃ駄目。首を出して」

 青年は桜の首に噛みつき血を吸った

「美味しい」

 青年は笑った。

「あ……」

「僕の血を飲んで」

「わ、私も……?」

「うん。飲んで」

「は……はい」

 桜が青年の血を飲む。

「美味しかった?」

 青年は笑った。

「正樹……か、可愛い……」

「僕が可愛い?」

「うん……」

「可愛いなんて……いやそうな顔してくれなきゃだめじゃないか」

「だって可愛いんだ。お前の唇……男の人のなのにどうしてそんなに紅い色をしているんだ。肌は白く、頬は赤く、女の子みたい。可愛い。背中も綺麗」

「神仏を眺めるように僕を見ないで」

「私の視線はもっと低俗なものだぞ」

「知ってる」

「あはは。……正樹、キスしたい」

 唇を重ねた。

「僕はいつでも君の舌を噛みちぎれる。ほら、ぞくぞくするよね?」

「うん」

 刹那は永遠にも思われた。圧縮されたふたりの時間は、現実を忘却させた。しかし唇を離せば時の歯車が回り出し、宿命の音を浮き彫りにする。

「ねえ、桜。寂しいからって唇を求めるのはこれで最後にしよう。こんなに悲しく唇を重ねるのはいけないと思うんだ。もっと欲しくなってしまうから。

 それに、妹たちがあんな状態なのにこんなことしているのは、やっぱりだめだから」

 桜は首肯した。彼女は少しだけ姉らしい表情をした。


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