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大地への帰還  作者: 桐生真之
35/56

18 崇拝

「友ではなく女でもなくて

 愛くるしいその有様は小動物のごとく

 顎を撫でれば喜悦に緩み

 額を撫でれば赤くなる

 果たしていつからいたのだろう

 少女はあらぶり、彼は自然を想った」

 

 

 万華鏡から世界を覗いているようだと思った。いつのまに頭を垂れていたのか、紅色の敷物に腰を据えてだらりとやって、うとうとの青年が、なんとなく意識を取り戻したと思ったのは少女の呼びかけにかろうじて応えたからだった。ゆるりと頭を振って一周、巡る視界に認識が追い付いてきたという頃になってようやく、焦点を結ぶ青年であったが、視線の先はこちらで見慣れたあの白皙の少女で、青年はまたしても異界に連れてこられたような不思議な感じを覚えたという。

「あら、やっとお気づきになられたのね」

「うん……しかしまだ、ぼうっとするがね」

「仕方ありませんよ。とても疲れていらしたのですもの」

「……僕は疲れていたのか」

「ささ、起き抜けですけど、これを。元気になりますから」

 と言って恭しく、少女は青年に器を渡した。その器というのも日頃、青年がここで使っていた、どこから仕入れたのか見当もつかぬ珠玉の品であったが、興味が湧くのは見慣れた器よりも少女が中に入れた飴色の液体で、揺らせばとろりとして水ではないような。これは何かと聞くのもいくらか無粋な気がして尋ねずにいた青年であるが、どうしてもこの液体の正体が気になる。初めて、気になった。

初めて気になったのだ。

 いつも飲んでいたのに。

「どうして流れ者の僕にこんなにしてくれるんだい」

「だって、あなたは私の太陽で、神様なんですもの」

 女の発言には奇妙な生温かさが混ざり込んでいたが、この液体の美味さにつられてそんな疑惑も胸中からするり、抜けていく。

 それよりも、含んでみれば果実のように甘く口に溶けて爽やかな滋味が広がって、飛天霊の溢した涙でも舌に転がしているのではあるまいかと思ってしまえそうな程で、益々、この飴色の液体の素材が知りたくなるというもの。つ、と煽り切った杯の余韻に一呼吸して、涼風にあたりながら幽邃の一部と化してしんとしていると、甘味があって飲みやすい酒にありがちな酩酊が訪れるものだから、更にこの液体がいかなるものか気になるばかり。

 何の因果か知りはしないが気になってしまったものは仕様がない、青年はついと煽って傾けていた器を膝上に戻して、少女に問うため向き直った。それがいけなかった。

 白皙の少女の、金色をしていたはずの髪がいつのまにか黒髪に変わっているではないか。

『松風に 溶々たなびく黒髪や 覚めることなき 恋の夢』

 淡い白光を浴びながら、少女が詠う。夢から覚めてほしい、でも覚めるな、と、狂おしい思いを込めて。

 少女の蒼いはずの虹彩の色すら、落ち着いた日本人的な黒に変わって、顔の造形こそ西洋人じみているけれど彼女の科、俯き方、微笑み方からは、どこか日本の土地で生まれ育ったといったような風土の色が滲み出てはいないか。

 この時になって初めて、青年はこの少女の着ている物のみならず魂までもが、日本の女のものであったことを知る。

 そしてさらにどうしても知らなければならないのはその正体であったのだが、それはどうにか、定めを悟ったこの少女が知らせてくれた。

「ね、その器の底を見て頂戴」

 と、この一言に釣られて、条件反射かと見まがうような速度で視線を下方へ移すと、黒塗りの器の底に金色の文字の並びが浮き出ているではないか。青年が見た文字の羅列は、これまでいくらこの杯から酒を繰り返し飲んでも見ることのなかった、一篇の名詩であった。

 

 静かなるわがいもと

 君見れば、おもひすゞろぐ 。

 朽葉色くちばいろ晩秋おそあき

 夢深き君がひたひに、

 天人てんにんひとみなす

 空色の君がまなこに、

 あこがるゝわが胸は 、

 苔古りし花苑はなぞのの奥。

 淡泊あほじろ

 吹上ふきあげの水のごと、空へ走りぬ。

 

 その空は時雨月しぐれづき

 清らなる色に曇りて、

 時節をりふしのきはみなき鬱憂は

 池にうつろひ

 落葉らくえふ薄黄うすぎなる

 憂悶わづらひを風の散らせば、

 いざよひの池水いけみづに、

 いとやきあやは亂れて、

 ながながし

 梔子くちなしの光さす入日たゆたふ。

 

 黒漆の器の底にゆるゆると現れた金色で記されたこの詩は青年の胸を強く打った。

 この詩は、一九世紀フランスの詩人ステファン・マラルメの嗟嘆といきと呼ばれる詩であり、青年の好んだ詩人の作品である。酷く瞠目して頭痛と吐気が襲ってくるが、やおら青年の身に迫り来るものがあった。それは優しい悪夢の類の、甘い体臭が近づいたかと思えば、震える青年を、あの少女が抱きとめた。

 そっと少女が囁いた。

「――――――――」

 あまりの動揺ゆえに聞き取れなかったが、認識が明確になるにつれて感覚が反転してきていた。

「――いた――に――――ちゃん」

 甘味に満ちていたはずの口腔が、今では鉄の味で満ちている。

(鉄の味……)

 鉄ではない。鉄の味のする液体である。

 現世の感を受けて、落ちていた世界の帳が上がる。

 聞きなれた声が訪れる。

「痛いよ……お兄ちゃん……」

 世界が反転する。青年はやっと幻覚から覚め、正確な認識を物にした。知らなければよかった。夢のままでいればよかったと思うのは優しい夢のせいである。

 青年は、自らの醜態を見出す始末。

 綺麗な抽象画だと思っていた絵画が、苦しんだ果てに命を無くした人間の顔の騙し絵だったと理解したときの恐怖に似ている。気分よく、美しい少女を傍らに、よよと美味い水を飲みほしていた己の真実の姿が、妹の腕に噛みついてその血を啜っている吸血鬼だと知ってしまったとあっては。

「う……うわあああああああああっ!」

 あまりの衝撃に耐えきれず青年は叫び声をあげた。心が割れるほどに声をあげてしまわなければ迫る現実に精神を壊されるからだろうか、しかし喉からしぼり出す獣のような叫びは意思によって生まれたものではない。輪廻転生を繰り返しながら幾つもの生と死を乗り越えてきた魂が幾度もあげてきた産声と断末魔を掛け合わせたような声だったが、その叫びを夜の真闇はたやすく吸い込んだ。

 声を吸い込む闇があるのは現世の家のなかであり、青年はこちら側に戻ってきたことになる。

 きっかけは簡単なところに。

 お兄ちゃん、と、愛称を呼ばれたから。

 柊の肌には無数の歯型があった。彼女が常に長袖を着用しているのは、寒がりだからではなく別の理由によるものであった。彼女は肌を他人に見せられなかったのだ。兄から受けた血を求めたが故の痕跡によって。

「気付いてしまったのね」

 やけに大人びて見えた。彼女の日常的な甲高い声は剥がれ落ち、成熟した大人の声色である。こちらの仕草が本当の彼女なのだと知れた。

「僕はなんということを!」

「いいの……」

「何がだい!」

「あなたの望みは私の望みでもあるのだから」

「なん……だって?」

「嬉しかったの。初めて人から必要とされて……あなたは私を愛してくれた初めての人……私がいないと生きては行けないと言ってくれた人……」

「君は何を……」

「あなたはいつも変化していた。昼と夜ではまるで別人だった。私は初めあなたがふざけているのだと思った。夜あなたが私の肌に吸い付いてこの血を吸っても朝になれば覚えていない。朝と昼のあいだは現実に生きているようなあなただけれど、夜になれば夢遊病のように部屋を抜けて私のところに来る。そして私の肌を破って血を啜るの。魂を清めるために飲むのだとあなたは言ったわ。処女の血を飲んで癒しを得るのだと。実際に私の血を飲んだ次の日のあなたは落ち着いていたけれど、飲まなかった次の日はとても荒れていた。でも私は嬉しいの。父から愛されなかった私を必要としてくれたのだもの。あなたから必要とされて初めて私は私になれた。あなたは私の安らぎの箱舟。私はもうこの身と魂を、あなたに捧げているのよ」

「やっ……やめ」

 柊の献身的な従属を見て、青年は怯えた。

(グレートマザーの愛、何もかもを飲み込む愛、停滞を象徴する愛……でも、何かが違う)

 自分は夜な夜な夢遊病になって柊の血を吸っていたのだ。寒がりな子だと思っていた。しかし彼女の長袖は兄の歯によってつけられた傷を隠すためのものであった。 

 いつも走り回って生傷絶えない妹だと思っていたが、体の傷は青年によって付けらえたものであった。

「き……君は勘違いをしているんだ! こんなの愛じゃない」

 心とは生きるために備えられた超高度な精密機械だと聞く。柊は自己を保全し生を獲得するためにその精密機械に従うしか道はなかったのである。壊れそうな心を守るには、野獣を好きになるしかなかったのだ。しかし皮肉なことにその選択をした瞬間にすでに心は壊れきっていた。

 人を支配すると言うことは苦痛を与えると言う事である。苦痛を与えることは支配するための手段である。青年は柊に対してそれを実行した。幻覚のなかで。

 白皙の少女は妹の柊であり、飲み続けていた甘い液体は柊の血液であったのだ。

「君はずっと快活な少女だったはずだ」

「自律した無害な存在に見せないと、あなたは私を受け入れてくれないから」

「なんてことだ……君が僕のせいで大地のふりをしていただなんて。いいや! 僕がそうさせていたんだ! 僕が君を万物の理から遠ざけていただなんて……」

 青年は少女に恐れをなした。完全なる侵略を許す底無し沼は、侵略したと思わせて相手を取り込む。

 しかし青年は実のところ、痛みと快楽を結びつけることによって彼女を操っていたのであった。

 しかし少女は言う。

「私は大丈夫。それどころか私はあなたのことをわかってあげられる。誰もあなたを理解しなかったとしても、私だけは絶対なの。誰だって私に比べたらあなたを大切にしていない。私はあなたが大好き。あなたのためなんでもするわ。ほら、この黒髪だってあなたが好きだって言うから伸ばしたの。あなたが私を痛め付けたいのならそうしたって構わないわ。私だけが分かっているのだから」

「違う。僕は君を壊してしまったんだ。恐怖する相手に迎合するのは自我を守る心の機能なんだ。君を壊してしまったのは、僕なんだよ……君は、自分が自分であるために僕が必要だと言った。けれど本当は他者を必要とするあまり自分を見失っていたんだ……。君は何にでもなれたのにその可能性を僕が摘み取ってしまった」

 彼女は何にでもなれた。呆れるほどの羨望は懐古を伴い浮上するも、それは過去にしかないものだと悟った。

「遅かった……のね」

 賢しらな妹の声が混沌とした夜の合間を縫った。

「……あけび」

「やはりあの歯形はお兄ちゃんがつけたものだったのね」

「お兄ちゃんを悪く言わないでね」

 青年をあけびからかばう柊であったが、眼が、その眼が、夢を見ているような気がしてならない。灰色に輝いていた虹彩がいまはいくらか澱が沈んだように濁っている。

「悪くなんてないわ。悪いのはお兄ちゃんを騙していた私たちなんだもの」

 伏し目に、申し訳なさそうにあけびが告げた。

「柊が長袖を着ているのは肌に付いた擦過傷の後を隠すため。初めは柊が虐められているのかと思った。元気のいい子だし、目立つから。でも何十人もの柊の知り合いに聞いたところ、虐めなどなく、むしろ、大の人気者ということがわかったの。それもそうだったわ。小学校と中学校、私はあの子と同じ学校に通っていたんだから、柊が虐めにあっていないことくらい知っていたはずなの。ならば体に付いたあの傷は誰が付けたのか。そう思って調べていたら、柊の体中に付いていた歯型と、お兄ちゃんの歯形の一致が証明されたわ」

「――――――――」

「お兄ちゃんが旅から帰って来た日、私、お兄ちゃんの食べかけの食べ物を貰ったでしょう?」

「そうだ、猫にあげると言って――」

「ううん。違うの。お兄ちゃんの歯形を採取したのよ。ごめんね」

「そんなことまで……」

「お姉ちゃん。どうしたの、なんのこと?」

「あなたを愛し傷つけていたのはいつもの兄ではないのよ」

「それは……わかっていたわ。けれど、私は理解したの。この人は誰か違う人だって。でもお兄ちゃんなんだって」

(やめてくれ……やめてくれ!)

 愛とは停滞をもたらすものである。

 支配していたつもりが、全てを許容する無限の愛によって包み込まれ、身動きが取れなく支配されていたと気づいたときの恐怖は計り知れぬものであった。無限の愛の前に秩序は存在しない。論理など通用するはずもない。秩序など見出だせるはずがなく、気が付けば愛の海に取り込まれ、自由を奪われ、窒息死するだろう。道徳は人が自己に課すルールとしてのみ意味を持つ。柊の道徳は青年によって受動的に萌芽したものに過ぎなかった。

 落胆は別の場所にもあった。柊を虐待していたことで青年は、自分すら自分のことを信じられないことを知った。己をコントロールするために積み上げてきた書籍の数々が今砂と消えた。

 小さな柊が今は底なしの沼に見える。強迫観念めいたものを感じた。

(飲み込まれる……)

「やめろ!」

 青年は狂れた。狂れて、走った。しかしすぐさま青年を嘔吐感が襲った。

 フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルによれば、嘔吐感を催させるものはネバついたものだという。粘性質のものは我々が所有したと思っていると反対に我々たちを取り込み支配してしまう。一刻も早くその場から離れねばならなかった。巨大な愛による取り込みから逃れるために青年は走った。

 そして力尽き、気を失う。


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