17 詐術
壮絶な目覚めが訪れたのは青年の体が異様な失墜感に襲われたが故であった。布団を剥ぎ取り上体を起こした青年は周囲を死霊に取り囲まれているような薄ら寒さを感じたが、姉が隣に摘み取られた雛菊のように眠っているのを見出してやおら精神を和らげた。
「桜、起きて」
「……んんっ……ああ、正樹」
「おはよう」
青年は姉をゆすり起こした。ふたりは朝の仕度を済ませ食卓へと向かった。卓上には平素より早く朝食が用意されており、早起きして朝食の支度をする筈だった桜を驚かせた。母とあけびで料理の準備をしたらしいのだったが、青年はあけびのようすに気になる点を見出した。
「あけび……その首の傷、どうしたんだ?」
妹の首筋には横一文字に赤い線が引かれ、良く見ると蚯蚓腫れのように少し厄介な傷なのだということがわかった。
「んー。わかんないけど、朝起きたら痛かったのー」
嫌な予感がしたのは明らかであったが、それが何を根拠に訪れたものか青年にはわかりかねていた。黒き記憶は忘却の彼方へ消し去られ、内部をじくじくと蝕み続ける猛毒となっていた。青年だけではなく、妹までも。
「異様な傷だな……首は動くか?」
「ちょっと鞭打ちっぽいかなー」
「病院へ行った方がいい。それから安静にしておくんだな」
「あーいっ」
(それにしても……普通だな……)
いつもと変わらぬようすを見せるあけびを横目に見て縷々と考えを巡らせていたが、急に疲労に襲われて、ぶつりときれて、食卓を後にして、ど、と倒れ込んでしばらく目を瞑っていると、少し元気が出てきたので書籍を手に取って床に腰を下ろし、足を投げ出して読書し始めると姉が入ってきた。彼女は青年のようすを確認するや側に近づいて横になったのだが、枕は青年の太ももであったというのが彼女らしい。青年は姉に一瞥くれただけで何も言葉をかけず丁寧に並べられた活字を味読し続け、その行為を二冊分繰り返し、気付けば昼も間近という時分になって、ようやっと部屋の向こうから接近する小さな足音を聞いた。青年は彼女の訪れを待っていたような節があった。
「お兄ちゃん、入っていいー?」
牧歌的な声であった。
「どうぞ」と青年は平淡に告げた。
「おー、お姉ちゃんいたのー」
「やぁ、そうだよ。私の可愛い妹ちゃん」と、桜は物語のなかの若き王子のように微笑して言い、死に際を間違えた花がふいに首を落とすように、ことり、と安らかに眠りについた。
「へへっ」あけびは無邪気そうに笑い声を発した。
「で、どうしたんだ?」との青年の問いに妹は。
「この間借りたCDを返したに来たの」
少女がCDを差し出した。揺れた虹色が青年をおかしくさせる。
「聞きたいことがあるんだ」
「なにー?」
「覚えているかな……あけびは先日僕に聞いたよね。自分が自分じゃなく思えるときがあるかと。君は自分のなかに別の自分を感じることはあるかい?」
逡巡の色を一瞬だけ宿して、妹は答える。
「……わからないなー。私はずっと私だからさー?」
たいしたもので、心の機微は窺い知れないように見える。情動の嵐を丹田に押し留めていた。
(たいした道化だ)
「君の日記を読んだ。無粋なことをしたと思う」
青年の発言に、少女は氷水を受けたように頬を引き攣らせた。
「――――」
腐って死ぬまで一生埋め続けるのだと思っていた。縞瑪瑙のように斑な彼女の真相が、湖底に隠し続けていた彼女の深淵が、表面に浮かび上がる。
「あんな日記に書かなくても、直接言ってくれればよかったな」
(何処かで見覚えのある光景だ)
「子供の自由研究にしては懲りすぎている気がするな」
いつから予見してきたことだったろうか、陰画と陽画が瞬時に擦り変わるさまを思わせて、
「……言えるなら」
少女の相が変わった。深い沼の底から泡が立つように、少女の深淵が顔を現す。質朴な妹のはずだったが、彼女の飾り気のなさはまさしく飾られたものであった。
「言えるなら書かないわ。私のような人間はね。言えないから書くの」
「言い訳がましく聞こえるよ。まるで自分の欠点を誇っているようだ」
「矜持だと思ってくれたら結構」
「人を異常者のように書いて矜持かい。言葉なんて曖昧なもののくせにものを切りまくる。そして君は罪の意識なくそれをやってのけた。これはタチの悪いことだ。厄介だよ。何故厄介かって、善人が善行を謳いつつ無意識に悪事を行っているからなんだ」
「名称を与えたのはそれを定義して対処するためだったの。怒らないで。差別しようと思ってカテゴライズしたんじゃないということをわかって欲しいわ。特定化しなければ、対象をどう扱えばよいのかわからないもの……」
「思いやりがないね」
「ごめんなさい……でも、だって……例えばニキビを知らない子供が誰かの顔にできたニキビを見たとしたら、その子は驚いて病気なのかと心配するわ。でもそれはニキビというもので自然に治るのだと言ってあげれば安心するもの」
「ニキビはね。だが残念。君が僕に対して仮説を設けた人格障害は治癒しない精神の病だ。以前から君の内面に感づいていた僕でさえ、自分のことは治せない」
「不治の病だからといって放置して、対処もせずに誰かを毒牙にかけるのね。あなたの日記に書かれていたような欲望を爆発させて、いつかは人を殺すのね」
「未来の事なんてわからない」
「私はあなたが人を殺す怪物になるように見えてしかたがないの」
「とんだ妄想だ。しかしもしそうだったとして、どうなんだい」
「最悪の場合、あなたを殺して私も死んでもいいと考えているわ」
「冗談」
「乙女心は複雑なの」
「それ使い方、間違ってるよ」
「とにかく、いまのあなたは危険なの。だからどうにか対処したいの」
「だからどうしてそこまで確信するんだ。君の根拠が見えてこない。人殺しの方法や動物を殺害したことを書き連ねていたらそいつは人を殺すようになるのかい」
青年のこの問いには答えずに、少女は躊躇しながらそれでも明確にとある兄の秘密を述べた。
「私、見てしまったの……お兄ちゃんが……自慰、してるとこ」
「それが君の言う僕が人を殺すようになる根拠かい。失笑ものだ。そんなこと、僕の年代の男なら誰だってする」
「違う! 違うのよ……」
「何が」
「おかしいに決まっているわ……」
震える唇が紡ぎだす。こじ開ける、開けてはならぬ魔処への扉を。
「――――――――」
「死体の写真を見ながら、しているなんて」
振り絞るように言い切った。
「旅から帰ってきた後か……。まぁ、君の考えはわかる。おかしいものね。僕は自分が多くの一般的な人間と違うことなんてわかっているんだ。君が僕のことを理解できないこともわかる。僕ですら自身のことがわからないんだ。自分でも止められないんだ」
「わからない問題でもないわ。通常の男性の脳は成長するにあたって性中枢と攻撃中枢が分かれて成長するはず。しかしあなたの脳は性中枢と攻撃中枢が未分化のまま今に至ってしまった可能性があるの。性中枢と暴力中枢が未分化のまま発達してしまった脳を持つ者は、暴力的なことを空想しながら自慰にふけってしまうようになる傾向があるの。本で読んだ知識だけれど、実例があるのだから証拠として出しても構わないはずよ。こういった医学的根拠が存在しているから、私はあなたを危険人物だと捉えているの」
「勉強したんだね。僕が幼い頃から君の正体に気が付いていたように、君も随分と前から僕の内面に気が付いていたようだ。だから君は無害な人間のふりをしていたと」
「気付くのはずいぶんと遅かったとは思うけれど」
妹の双眸がただならぬ緊張を含んで翳っていた。まるで肉食獣と相部屋にされたような。
「そんな顔を人間に対してするものじゃない」
「許して、私はいま人間と対峙しているとは思っていないもの」
「……いまわかった。君の良心なんてものは君の主体的な意思によって生まれたものではなく、社会的規範を内面化させたものに過ぎない偽物だ。君の欺瞞は、道徳を述べているように見せかけて自分自身の欲を述べていることだ。利口な君がそんな簡単なことにも気付かないなんてね。君は単に自分のために僕を変えてしまおうというわけだ」
「そんな単純な物でもないわ。私はあなたに対して愛情を持っているつもりだもの」
性愛を意味する言葉ではないことは承知の上だが、つけこむべきは彼女の欺瞞と認識の甘さにあった。
「愛など実在し得ない。愛とは究極の自己犠牲なんだ。相手の為に死ねるのが愛だ。相手が望むのなら殺人だって犯すのが愛だ。愛に禁忌はない。愛にとって大切なのは相手の正しさや秩序ではなく、相手を完全に肯定することだよ。相手を愛するだけで満たされて、相手から愛されなくたってかまわない、それが愛だ。相手が殺人犯だろうとその全存在を肯定し続けるのが愛だ。愛は、らしさのような共同幻想にすらなりえない幻想で、しかし重いものだ。愛情など軽々しく口に出さないでくれ。君は僕に愛情など持ってはいない。
僕たちはみな外部の状況に反応して行動選択をしているだけで自分の判断で行動しているわけではない。そもそも君は自分の気持ちに気付くことすらできない」
「そんなことないわ。あなたの幸せを願うからこそ私はあなたに変化を求める。これが社会的規範を内面化させたものに過ぎないとしても、道徳や良心というものは哲学者の戯れ言ではなく、人間が本能と同じように持っている確固としたものだと私は信じているし、私が信じていればそれで十分だわ」
「錯覚だよ。愛も錯覚。気持も錯覚。人は錯覚の中に行きている。そこから抜け出すことはできない。意識などまがい物なんだ。君も世界も、ただの無意味で虚ろな黒い塊さ。信じるに値しないあやふやなものをさも真理のように語って僕に押し付けないでくれないか」
「錯覚でもいいの。確固としたものでもあやふやな錯覚でも、人はそれを信じてひとりで勝手に満足するし、それしかできない」
「君は幸せ者だね。外部からの攻撃がなければ人は信じるものを信じて、ひとりで充足することはできる。でも君は君の信じるものを侮辱する人間がいたとしたら、それでも自分の信じるものを信じながらひとりで勝手に穏やかでいられるかい。この世界には聖母マリアを眺めながら自らを慰める輩がいることを君は知らない。君は盲目な信者と同じで、美徳や愛の奴隷なんだ。愛と自由は切っても切れないもの同士だけど、君は愛を追求するあまりに自らを縛り付け、愛と自由を見失っている。それは悲劇にすらなりえない、滑稽な喜劇さ」
「世界の残酷さや周りの雑音のことはどうでもいいから私はあなたを理解したいの。人間の愚かさはわかっているし、どうしようとも思わない。私はただ、あなたに堕落してほしくない。それだけよ」
「他人はどうでもいいのかい。意外にずいぶんと閉じているんだね」
「私は寛容な人間だと思うわ。でも私のコミュニティに属する存在である二人称のあなたと、一人称の私を含めた私たち、そしてそれ以外、つまりコミュニティ外の三人称の、彼らとの間には絶望的な差が有るというだけ。私たちという家族こそ、私が信仰するように尊んでいるものなの」
「家族関係になぜ君がそのように価値を置くのか僕には不明だ。視点を外に置けば家族は枠内に固定された組織に見えるが、内部からは幻想の共同体だ」
「幻想でいいの。幻想でも、私は私たちの繋がりの力を信じるわ。人は誰でも群れていなければ生きていけないのだから」
「偏った思考だ。人は群れると途端に愚かになるというのに。君は穏やかな家庭に恵まれたから家庭を大切にできるのだろう。自分にとって都合の良いものだから。だから君はもし別のもっと心地よい場所を見つけてしまえば、そちらになびくだろう。そもそもこの家族もこの家族でなければならない理由がない。君のとってこの家族は唯一無二のものではなく、たまたま大切になったからで、別の何かでもよかった」
「そう思ってくれてもいいわ。でも今あるものが全てなの。ありもしない場合の事を考えても意味のないことだわ。今は今。そして私は社会的な動物の一部だから、私はあなたのことを無関係な事柄として考えられない。それだけよ」
「ほら、やはり君は義務感だけで僕をかばっている」
「ちがうわっ――――」
「動物の中にはある種の虫や爬虫類のように単独で生きて行ける種が存在する。それは彼らが完成されているからさ。僕もそうなるために生きている。人は愚かだから群れるのではなく群れるから愚かになるんだ。社会的に群れるのは生きるためには必要かもしれないが、心まで群れて誰かに依存してしまうのは堕落以外の何物でもない。家族に対する盲信は君を低級なものにしている」
「人の脳は互いに影響を与えあって発達しているの。心だって同じよ。人は群れてこそ向上できるの。
おいしい物を食べたり、素敵な映画を見たり、楽しいお話を聞いたりしたらそのことを誰かに伝えたいって思うでしょう。これは人が本能的に共に向上したいって性質を持っているということの証明だと思うの。だから人に言葉と両手が与えられたのだわ。完璧であるなら人には言葉や心なんていらないはず。私がカメレオンを飼っているの知っているでしょう。爬虫類は悲しいわ。目も口も手もあるのに彼ら個体全ては絶海の孤島で、家族を作ることもなければ共感なんて持たない。思いやり、エンパシーの欠如した者は例え高い知性を持っていても、どこまで行っても虚しいものよ。だから爬虫類はもう発達しないと思う。後付けかもしれないけれど恐竜が滅びたのは運命だったんだわ」
「だからと言って、人間が共感できているわけではないだろう。爬虫類の話は、君が君の主観でかわいそうだと解釈しているだけだ。爬虫類に共感能力が無かったとしても、それで不幸だと、いや、幸せか不幸せかなんていう価値観で生きているのは人間だけの話で、爬虫類はそんなこと意に介さず生きているだろう。共感できなくともそれで不幸だと思う爬虫類はいない。彼らがそれを認識できるほどの知能を持っていたとしてもだ。君の憐れみ方は根本的にずれている。勝手に憐れむのは命にとって失礼だとは思わないか。もうひとつ、君の言うように共感能力が人間にあるのなら、何なんだいまのこの世の中のざまは。皆我が事ばかりで他人のことなど蚊帳の外だ。心配しても本心からではない。心配しなければ自分で自分を卑劣な人間だと思ってしまうと思い込み、そう思いたくないから無意識の強迫観念に捉われて人を憐れむだけさ。エンターテイメントとして見物するだけで内省せず、傲慢にも勝手に自己満足しているだけだ。共感して身代わりになってやろうなんぞ思う莫迦はいない」
「でもこの先どうなるかわからない。私は希望を見出すことに期待するわ」
「期待? シェイクスピアはハムレットに、この息切れした時代では美徳が悪徳に赦しを請わねばならぬ、と言わせている。大昔から人間はとうに息切れしていたんだ。そしていまでもこのざまだ。
平和のために一ドル使い、戦争のために二千ドル使う、それが人間なんだよ。期待するというのは裏を返せば今は希望が無いと言うことだ。君が言う希望とは共感が完全に作用した時の効果のことだろう。君は人間すべてに超能力者にでもなれというのか。それは心を読むということだ。人間のすることではない。人の心を読むのは魔物のすることだ。もし僕にそんなことができたなら僕はその力を悪用するだろう。又、僕の心を読んだ人間は僕に悪意と怒りを抱くだろう。僕のように必要悪を肯定する者からするならば世間は知って得する情報ばかり満ち溢れていると言える。しかし心が汚されていない弱い人間には知ってはいけないことは山ほどあるんだ。
僕は静かに暮らしたいだけ。君の言っている共感能力というのは人の心が他人を完全に許容できるほどのおおらかさと慈悲を持っていて初めて達成されるものだ。僕のような人間と共感したいと思う奴がどこにいる。許せない人間のほうが多いだろう。それが普通なんだ。僕のような奴に共感してもそいつは堕落するだけさ。そもそも僕のような者に共感できる人間は汚れた人間さ。どうしようもならない。人類は爬虫類化の傾向にあるんだ」
「お兄ちゃんが、そんなこと言うなんて」
「僕の心を知れば皆君のようになるだろう。しかし構うものか。僕は人間に期待していない。僕は僕で向上しようと思っている。君の主張する、生物はコミュニケートしないと向上できないというのは詭弁でしかない。君の言葉を返すようだが爬虫類は共感できないかもしれないが未来に希望がないわけではない。恐竜も絶滅しなければさらなる高い知能をもった生物になれていたかもしれない。
たかが人間、不完全なんだ、どうなろうと。不完全なら不完全でいい。僕も君も高望みしていただけなんだ。熟れない林檎みたいに青い。親父や桜を見るんだ。自己完結している者は強いだろう」
言っていて気がつく。
(意見を投げかけることは共感を求めることに他ならない、いやいまのは違うのか。一方的に意見を提示しただけでは、共感なんぞ果たせない。
興味深い会話ではあった。本当に完全なる共感能力を持ったものがいたら、どうなるのだろう。会ってみたい気もする。しかしそれは興味本位に他ならない。仮に存在していたとしても、その人物がひとりしかいないのでは意味がない。共感とは、受け入れ、受け入れてもらわなくては果たせぬものなのだから)
他者を拒否し、必要とせぬ青年にはそもそもいるはずのない感覚であった。
「君は人間に期待しすぎているんだ。僕は神の存在を信じていないが、例え神がいると仮定しても、神は人間など好きではないだろう。嫌いか興味がないかのどちらかだ。ホールデンの言うように神から溺愛されているのは甲虫だよ。地球上でもっとも多い種であり完成度は人間の比ではない。神に選ばれなかった僕たちは、愚かで不完全なまま生き、愚かで不完全なまま死ぬのだよ。そこには向上も何の達成も尊さも保障されていない」
ふと討論していて気が付く。青年の太ももを枕にして眠っていた桜が目を覚まして椅子に座して、爪を切っている姿が見つかったのだ。突き付けられたアイロニカルな光景に、青年は射竦められる。
観客のように舞台上の役者を観客席から眺めていると思っていたが、しかし自分自身こそが喜劇の小道具のひとつだったことが明示される。人間を論じ合うふたつの駒のそば、これでもかと言うほどの等身大の人間がいたのだ。
溜息をつくと、口角が自嘲的な皮肉の色に吊り上る。笑うしかなかった。
「あけび、僕たちは何も見えていない。何もわかっちゃいない」
「どうしたの?」
のうのうと爪を切る姉を指さす。
「あ……」
妹も気付いた。
「気付いたか。君のなりたい姿がここにある。原点であり最終地点の体現者がここにいるんだ」
「…………ほ?」
脱力した表情で疑問符を浮かべる桜であった。彼女は論理など必要せずとも生きていけた。素朴な疑問を投げかける。狂おしいほどの期待を込めて問うた。
「桜、なぜ会話に参加しなかった」
「え、だって」
尻込みしながら言う。
「爪が伸びているのが気になっていたんだ……」
双眸が潤んで頬に朱が映える。だんだんと濃い羞恥の色に染まる。
「いや、いいんだ。はははは」
桜の頭部に手の平を乗せる。やわらかな髪と指が睦む。
「な、なにする、私はこれでもお姉ちゃんなんっ――」
「桜、ありがとう」
「な、なんだ。わけがわからないじゃないか」
姉の頭部を撫でているうちにとあることに気が付いた。自分の発言を思い出す。愛は自由と結び付かなければならないが、そう考えることが自由とかけ離れた思想であり、愛ではない。重要なのは論理ではなく実感なのだと考えることがすでに論理に向かい自由からかけ離れている証拠であった。青年の思考は自虐に向いた。
愛玩物としての愛し方しか知らぬ己の薄ら寒さを思う。支配のもとに成立しなければならない愛など欲しくはない。呪いが澱のように胎内に蟠る。吐き出したかった。
「悪かった」と言い残し、その場を去った。
それから日を改めて青年と妹は再び語らうこととなった。どちらからというわけでもなかったが、このふたりの逢着には見えざる手の介入が疑われるほど、偶然を装った誰かの力が働いているのではないかと青年には思われた。
囁きかけるような穏やかな日の降りる午後であったが、美しい胡蝶の群れのなかにまぎれた一匹の毒蛾を見つけたように、青年は草木もまどろむ晴れやかな日のなかに死の匂いを嗅ぎとっていた。ほどなくして、飼い犬である牡丹の悲しい咆哮が耳に届いた。
靴をつっかけて牡丹の鳴き声のする方へ出向いた。木立に入り森にまぎれ道なき道をひた進み、もう少し行けば鬱蒼とした魔処にでも迷い込もうかという臨界で、天がぽかりと開いた、日の降り注ぐ処があった。
そこに見慣れた背中がある。側に寄らずとも分かる。いつもならば無造作に遊ぶままにさせる亜麻色の髪を綺麗に梳かしつけて、屈んで、地面を見つめているだけで、他に何をしているわけでもない妹の姿があった。
どちらが話しかけるより前に、青年は死臭の原因がここにあると感じた。妹の横顔がちらと見えるほどの位置へ回り込んでみると、思った通り、横たわる猫の死骸があった。明るい陽射しを浴びながら横たわるこの猫の死骸は未だ腐敗していなかったが、やはり青年はこの場所から虚無の匂いを嗅ぎとっていた。
少女の呼吸が瞬間、乱れた。青年は少女が話しかけようとしていると感じ、発言を促すように静謐を保った。
待たずして、声がする。
「外傷は見当たらなかった。老衰ね」
妹は振り向かなかった。
「そうか」青年は何気なく答えた。
「牡丹がここを教えてくれたの。優しい子だわ」
「ああ」
淡々としていた妹の発声が、初めて揺らいだ。
「かわいそうだわ……死んでしまうなんて」
「――――」
もう一度。
「かわいそう」
「………………………………」
「この子にはまだやりたかったことがあったかもしれないわ。ここいるたくさんの仲間たちと集って、温もりをわけあって……。お母さんからもらっていたご飯だってもう食べられない。優しく愛撫してもらうこともなく、これからは永遠の時をこの暗く冷たい土の中で、孤独に暮らさなくてはいけないなんて。寂しすぎるわ……」
「喜んであげれば良い」
「……え?」
「天に歓迎されているかもしれない」
「……あの世なんてないわ」
「ないかもしれないね。しかし仮にそのように解釈すれば死の悲しみだって薄れはしないか。それに、その猫は生きている頃より賢くなった。今が彼の生涯で最も厳かな瞬間さ。讃えてあげよう。悲しむことではない」
「薄情……じゃないかな。人の感情は書類のように処理できるものではないのよ」
「悲しむのは君の勝手なんだよ。その猫は君をうっとおしく思っているかも知れないよ。早く埋めろ、とね」
「わかっているわ。私のエゴだって」
「そこまでわかっているのなら泣くよりも埋めてやった方が良い。その方がよっぽど彼は喜ぶと思う。それとも君はこのままにして、彼が蟻や蛆に食われるのを望むのかい。蛆のおかげで土に還ることができるし、自然の摂理だから僕はそれでも構わないがね。
ところで、葬式の心理的作用を知っているかい」
少女は口を噤んだままだった。それは青年の発言を促すための沈黙であった。
「葬式を行うことによって人はその死んだ人間がいない日常を送る準備をする。そうすることによってその死んだ人間が死んだことによって開いた心の穴を埋めるんだ。それは言わば新しい日常を送るための儀式のようなものだよ。だから君のために」
「私のために?」
「その子を埋めてあげよう」
彼らは死んだ猫を地中に埋めた。厳かな時が流れ、彼らの手によって、猫は大地への帰還を果たした。
目を合わせるのを恐れるように視線を外しながら、少女は彼女自身が現在、最も兄に対して抱いている疑問を投げかけた。これはある種の、今後の生命の行方を賭けた質問であった。少女は兄に、
「あなたは今……悲しい?」と問うた。
が、青年は言葉を詰まらせ、困惑しながら呟いた。
「ちょっと、わからない……」
青年は真剣であったが、そうであったからこそ少女をひどく驚かせた。
「……そんなに驚かないで欲しい。本当にわからないんだ。僕は情緒を幼少期に学び損ねた人間なんだ。自分も含めて人の喜怒哀楽を感じ取るのは千年も前に滅んだ言語を諳んじるように難しいことなんだ」
「本当に自分や他人の感情がわからないの?」
青年の動機が早くなった。乱れそうになる呼吸を整え、ひとつ息をついてから、
「僕自身に喜怒哀楽はあるだろうけれど。……君、ちょっと怖いな……困らせないでくれ。わからないんだ」と呟いた。
「頭ではわかるんだ。わかるというより読むことはできる。でも乾いていて伝わってこないんだ」
それは願望であった。
「昆虫や動物を快楽のために殺せる精神だから、猫が死んでも悲しくないの?」
「だから……わからないんだ。母さんが可愛がっている犬や猫たちだから、害になるような行為はしたくないが」
「なぜ幼い頃に昆虫や下等動物を殺していたの?」
「犬や猫を殺せば人が騒ぐから」
「……なんですって」
「命の価値は皆等しい。だが犬を殺せばニュースになるが、蜥蜴を殺してもニュースにはならない」
「そう……でもあなたなら隠しおおせることが出来たのじゃない?」
「さっきも言った。犬や猫を殺せば母さんが悲しむからだと」
「仮にお母さんが犬や猫を好いておらず、犬や猫を殺しても報道されなければ、犬や猫を殺す?」
「どうだろう。わからない」
このはぐらかしに含まれたものを妹は掬い取った。兄は犬猫を殺すだろうと思った。
「あなた自身の人としての悲しみはなさそうね」
「誰だって悲しみくらい知っている。他人の哀しみは知らなくとも自分の哀しみくらいは。悲しみを知らない人間なんかいない」
「どうかしら」
「君に証明はできない」
「私はあなたほど利己的な人を見たことがないわ」
「そうかな。鏡を見ればいつでも会える」
「違う。私は今すでに悲しいわ」
「へえ」
「猫一匹でこれだもの。肉親の死になんて耐えられるはずないって再確認したわ。命は等価値ではないわ。いえ、等価値かもしれないけれど、肉親の死はどれだけの数の猫の死よりも悲しいわ。比べ物にならないほどの絶望なの。いいえ、肉親の死は人類の死にさえ値するわ。そんな風に思ったりはしないの?」
トーマスベルモンテは家族に第一の人間的価値を見出だすが、あけびもそういう節があったからか薄情な兄の思考には共感しかねた。
「……さぁ、本当にわからないんだ」
「家族が死んでも悲しまないの?」
「常々君のことは気にかけている。心配しなくて良い」
優しく言った。
「あなたはもっと他者に自己を委ねたって良いと思うの」
「驚いた。まさか君の口からそんな台詞が出るとはね。自己を委ねることは他者に心を仮託するということだ。それは幸福を人質に出すこととどう違うのかな」
「なんでそういう悲しいことを」
「そんなこと言われてもね」
「あなたは生まれてくる星を間違えた宇宙人だわ。人類を殺しに来たの」
「どうしてそんな風に思うのかな」
「私も人間が嫌いだから」
「人間が嫌いな人間なんていくらでもいるけれど。人なんて簡単に嫌いになれる時代だからね」
「そういうのとは違う。私は幼い頃、自分が人間じゃないような気がしていた。普通の人がゴキブリを見て嫌悪感を覚えるように、私は人を見てそんな気持ちを抱いていた。莫迦な話だけれどもしかして自分は遠い星から流れてきた宇宙人なんじゃないだろうかと、そんな肥大した妄想を抱いていたこともあったわ。今となっては笑い話だけれど。でもそういう感覚を今も過去にあったものとしてちゃんと覚えているの。だからあなたの気持ちがなんとなくわかる」
「僕のことがわかるのなら僕がこれから辿る道もわかるよね」
「おそらくあなたはこれから社会に出ても上手くやるわ。悪人でもまっとうに生きて行く。大抵の悪人と呼ばれる人間は頭が良く環境の適応能力が高いのだから。口が上手くセルフプロデュースが天才的で魅力に溢れカリスマがある。でも罪悪感が欠如し虚言を吐き責任感がなく無感情、攻撃的、不誠実、多面的。いくらあなたが体裁よく着飾ってもあなたの欺瞞は消えない。いつかはボロが出て破滅に向かうわ」
「そうかい。上手く考察できたね」
「あなたはいつも柔和な微笑を称えている。でも私には微笑の奥でぎらつく目と歯からあなたの悪魔的な本質が見えて仕方がない。拙くはあったけれど私もあなたと同じように本性を隠して生きてきたから」
「そうだね。君も隠してきた。父に好かれるためにかい」
「気付いていたのね」
「君の言った通りだ。僕たちは似た者同士だから」
「でもあなたは自分だけが好きなのでしょう。ナルキスのように。あなたは水に映るわが身に恋して死んでいくの。あなたにとって人はただの木魂で私のエコーはあなたには届かないのね」
「……」
「話しすぎたわ……ごめんなさい」
「――」
咄嗟に、
「じゃあね……」
青年の側を通り過ぎて、妹は去った。とり残された青年は、己の心情を吐露していた。
「あけび……違うんだ。僕は自分のことが全く好きじゃない。むしろ、憎んでいる」
死の匂いは消えていたが、日は落ちはじめ、うすら寒さが揺蕩っていた。
次の日、山中の大きな蔵にて、書物の探索として、迷路を巡るように書架の合間を歩いていると、あけびが入ってきた。書架に手を伸ばして本を取る青年の姿を見とめると、凛とした調子で決然と言い放った。
「やはりあなたは検査を受けるべきだと思うの」
「どうしたの突然。そんな顏をしないでほしいな。せっかく可愛いのだから」
「昨日話したでしょう」
「何だい。言ってごらん」
「知ってしまったこと。あなたの秘密を」
「さて何だっただろうか。中学の頃同級生三人を自殺に追い込んだこと。中学の頃恋人に虐待していた両親を精神崩壊に導いたこと。小学生の男の子と肉体関係を持っていたこと。それとも、インターネットや映画で残虐なシーンを見ながら自慰するということかい。ああ、昨日話したね」
「昨日話したことよ。それにしても自分から言うなんて予測していたばかりか後ろめたいとも思っていないのね」
「健全な感性だ。異常者を異常者と見なすことのできる感覚。君の人生には多くの安全が保障されている」
「皮肉な物言いね。私の感性が正常かどうかはわからないわ。多数派だとは思うけれど」
「良いんじゃないか。社会では多数派であることと正常さや正義は切り離せない」
「私が正常かどうかの議論ではなく、私が問いたいのは、いまはあなたがここで何をしているのかということ」
「見ての通りさ。本を探している」
「その手に持っているのは医学書ね」
「そうだよ。解剖学の」
「肉を切り裂くイメージを育てるために読むのでしょう」
「頭の中だけで楽しむのは悪いことかな」
「頭の中のみでなら構わないわ。でもあなたは実際に動物を殺しているから」
「あぁ、日記を読んだんだったね。あとそういえば昔少しだけ見せたことがあった」
幼少期に兄妹で行った綺麗な川の石の裏側に、プラナリアという生物が発生していた。青年はこの生物が高い再生能力を持ち切断しても死なぬことを知っていたため、妹の目の前でこの生物の体を切断したことがあった。驚かそうと思っていた。わざと荒々しく切り刻み、それから妹の腕を見た。この腕を切ったらどうなるだろうという顔を妹に見せつけた。この作業と同じことをトカゲの尻尾でもやって見せた。
妹は冷や汗と苦笑いで応えた。この妹は、幼くして愛想笑いというものを習得していた。
幼い青年は自嘲的な笑みに頬をひきつらせた。
妹があまり驚かないために青年に飽きがきた。
何をしようが相も変わらず虚ろは虚ろであった。切断したプラナリアはまだうねうねと動いていた。
そんなことがあった。
「聞いて。医学的知識は生命を守るためにあるの。言い換えれば人の寿命を延ばすことを念頭に置かれているの。なのに、あなたはそれを破壊のために使うなんて本末転倒だわ」
「寿命を延ばすことに……ね。しかし近年求められているのは生命の質だ。長さよりも質を尊ぶんだ。それなら堕落の一途を辿る輩を解放してやるのも救いだとは思わないか」
「救済のために殺すというのね」
「そこまでだいそれたものではないさ。学校で強制的にさせられるボランティアみたいなもので利己心と利他心の狭間で竹箒を振り回すだけ」
「綺麗に言っているけどしかしそれはやはり利己的な主張に過ぎないわ。救うという字の中には求めるという字が入っているように、求めない者を救うことは出来ないの。殺されたくもない相手を殺すのはやはり一方的な御節介で、いくらあなたが救済と銘打ってもそれは犯罪であり罪なの」
「そうかもしれない。しかしどちらとしても、利己的か利他的か解明したとしても、僕はかわいそうな愛しい者たちを生きる苦しみから解き放ってあげたい。殺してやりたいんだ」
「本気で言っているのなら極めて危険な全能感だわ。救世主は民を苦しみから解き放つ者であり、民を地上から消してあげるという意味で人を殺すのだけれど、まさかそういった存在を目指すというの?」
「現実的にできるとは思ってはいないけれどね」
「頭のなかではしているのね。もしくはそういった願望を持っている」
「さあね」
「呆れた。どうすれば変われるのかしら」
「それは僕こそが知りたい。衝動を止める術を。僕にとって生きることと壊すことは同義なんだ。これをどうにかしなければね。止められないんだ。若さゆえか」
「ならば老いがあなたを鎮めるまで待つしかないと?」
「もしくは病と死だね」
「改善策がないなんてことはないはず。時間だけに解決を委ねるのは愚かだわ」
「良いんだ。僕はもうどうしようもないから。僕はどうしようもないできそこないなんだ」
「やめて! 自らを侮辱するなら例え万人に心から愛されようともあなたは不幸なままよ! あなたが幸せになってくれないと私だって幸せになれないんだから。どうにかあなたを苦しみから解き放ちたいの。わかって」
「待ってくれ。僕は苦しんでいない」
「いいえあなたが苦しんでいるか苦しんでいないかで判断するなら患者が感知できない初期の癌などは病気でないことになるわ。自覚がなくても治療が必要なケースは五万とあるの」
「暴論に過ぎる。無意味な問答だ。魔女狩りの論法と同じじゃないか」
「あなたの言い分では死人が自分で死んでいると認識しないと死んでいることにならないということになるわ。それはおかしい。だから症状も同じように、その決定は主観よりも客観的事実に求められる。そもそもあなたの症状は自覚症状がないということ自体が病だから。つまり自責の念の欠如、それが悪であり病だということなの」
青年は慈悲深く笑んだ。
「僕はね。自分がおかしいことはわかっているんだ。どうしてこうなのかも理解しているつもりだ。でも治し方がわからない。……ありがとう。お前が僕のことをこんなに思っていてくれたこと、嬉しく思う」
「それは言葉よ。単なる言葉。客観的に自分を分析して謙虚さを演じ、問答から逃げるための空虚な音の羅列よ。実益の無い感謝の言葉よりも私は現状を変えたいの。あなたの病理を解明して治療したいの」
「そこまで言うのなら僕の病というのは何だい。言ってごらん」
「悪」
「あく?」
「病名はない。でもあなたは悪いの。悪よ」
「わからないな。どういうことだい。説明がほしいな」
「悪。あるとしたらそれが、あなたが持つ病の名だわ」
「随分と覚えやすい名だね。しかし病気ではないかな」
「病気ではないわね。でも病的なものなの。どこにでもあり、あなたに巣食うもの」
「何を根拠に」
「あのね、私は悪口を言わない人間より悪口を言われたってけろっとしている人間の方が好きだった。人を騙さない人より人に騙されない人の方が好きだった。悪口を言わないにこしたことはないし、人を騙さないにこしたことはないけど、悪口を言ったり、人を騙したりなんて、みんなやっている。世界は欺瞞と暴力で満ち溢れている。
人は日常的に無意識に悪びれもせずにそれを繰り返している。全ては人であるが故の所業だと思って口を噤んでいた。――でも! あなたのような人間がいることを実感すると黙ってやり過ごすことができなくなった。この世界には積極的に搾取する人間がいることを知ったの。もちろん私は知っていたわ。世界にはとんでもなく残酷は快楽殺人犯や、権力や金のためといった強欲のために簡単に人を犯し殺し不幸に陥れる人間がいることを。でもそのような人物と私は関わりがなく、それらはまさに三人称の遠い世界の人物だったと思っていた。でもいつしかあなたの危険性に気付き、こんな安穏としている私の人生も、三人称の別世界と確実につながっていることを知ったの」
「的外れな説法を聞きたいわけじゃないんだ。質問に答えてくれ。僕が問いかけているのは君が何を根拠に僕を悪だと定義しているのかということだ。
良いや悪いよりもその前に人間はちっぽけで愚かなものだと思うけれど君が僕を悪と定義するならそれでもいい。だから後学のために興味があるうちにもう一度だけ聞いておこう。僕が悪だって証拠はあるのかい」
「稔さんの思考力と主体性を剥奪して支配した」
「どこまで知っているのかは知らないけれど僕たちは恋愛をしていただけだ。彼女が僕に依存的だったのは彼女がそれを求めたからだよ」
「この問題の厄介なところはあなたがそう主張してしまえば第三者はたいていそう思ってしまうということ。少なからずそれもあったでしょう。でもわざとそう仕向けたのでしょう」
「僕はそう思わないし証拠もない」
「いいわ。あまり他人の色恋に首を突っ込むのは好きではないし、もっと大事なケースが残っているし」
「もっと大事なケース?」
「柊が睡眠不足なのを知っていたかしら」
「さぁ、それが何か」
「はっきりしないのね。人か神があなたを罰する前にどうにか解決したいものだわ」
「そうかい頑張って。そもそも神なんてまやかしにすぎないけれどね。いたとしても人にとっては頼りないものだ。君はなぜに善良な人間でさえ不意に死んでしまうと思うかい。
神には人間の区別がつかないからだ。神は人の区別なんてつかない。人間にとって蟻の顔が見分けられないように。人間からは蟻が全て同じに見えるようにね。
人間が蟻を殺す時に何か考えるだろうか。神も同じだ。神にとって人は蟻と同じなんだ。何とも思っちゃいない。神は甲虫が好きだとホールデンも言っていたように、そもそも神は人間が好きではないのだと思うよ。
神の存在の証明は誰にもできないがいないと考えるのが妥当だ。神は人間が作った想像上の産物だ。神なんていなくてもいいんだ。あれはろくなものではない。神話を読んだことはあるだろう。あれは人間の醜さの縮図さ」
そうして話を逸らす。
知識を得ることは快感を伴う作業であったから、青年はあらゆる書籍を濫読した。それは真理に近づくための聖なる信仰のように厳かでもあった。
貪り読んだ古今東西の書物。手掛りは散在していたが成すべきことの答えはどこにも書かれていなかった。しかしそれは分かっていたことなのだ。わかった上で数多の書籍を読み漁るのは、やはり知識を得るという行為自体が快楽に直結するものだからであった。
学びという行為は高尚にして他ならない。数学の精巧なる公式が解答を導きだす芸術性は宇宙の真理と繋がったような快感を与え、歴史を学ぶことは例え書面であっても嘗ての世俗に身を浸すような旅の感覚が味わえ、物理の示す世界の理は日常を驚愕の奇跡にも変え、外国語を学ぶことは皮肉にも日本語への親しみを覚えさせ、しかし、拙くとも学んで身に付けた外国語が異国の人間に通用したときの喜びは例えようもなく頬を緩ませ、生物について学ぶことは人間が万物の頂点に立っているという驕りを剥ぎ取り人を謙虚にさせる。しかし音楽のテストで皆の前で歌うのは嫌だったし、道徳の授業は洗脳のようだった、と思い出して青年は怯えた。
学びには様々な喜びがあったし、どこにも答えはなくとも彼は答えを探し続けた。真理を掴めず苦しむのは愚の骨頂だが、みな確かなものを求めて足掻かずにはいられないのだ。
しかし世界への単純な知識欲は、自身の問題が明確化してきたことによって形を変えた。知識を得るための理由は、己を知るためとなった。彼は己を征服したかったのだ。己で己を教育しえる者が最も強いのだとわかっていた。
天からの視点と心性を持つことは宇宙に行くことよりも困難である。人間が宇宙に行くことは可能になったが、自らの眼で自らを宇宙から見守ることは出来ないことを青年は知った。肉体の業から逃れるためには死しかなく、死してしまえば虚無へと帰し、何も残らない。死は躊躇われた。
全能的な客観性を持つことが不可能であるのなら、せめて己の体から生まれる衝動だけでも制御したいと思った。しかし皮肉なことに青年が知識を積もらせ身に付けたのは誤魔化しと他者を操る詐術であった。
知識を得る理由は変わり、青年自身も変質していった。世界と自己の同一化を図るために。自らが世界に迎合するのではなく、世界に寄り添わせるために。己を知り、世界を知り、強さを手に入れるためにあらゆることを知りたかった。
知識こそが力となりうる。欺瞞と屁理屈の浮世にて、我欲を突き通したいと思うならば、更なる欺瞞と屁理屈を重ね塗るのみだと青年は悟った。試みは成功した。物事を知り、試せば試すほどにそういった思いは強くなっていった。
啓発を促すため読破した書籍は哀しきかな、皮肉なことに青年に悪知恵を授けるのみ要を成した。己を知り改善を促すはずだった数々の情報は他人を操るためと自己正当化の論理を固めるために利用された。
拷問についての書籍や殺人犯についての書籍は丹念に読み込んだ。人がどこまで残酷になれるのかを知りたかった。何故そうなるのか知りたかった。結果的にそれらも青年の肥やしとなった。非道徳的なものはしかし魅力的であった。
殺人犯についての逸話を読むならばその生涯の壮絶さに息を飲まざるを得ず、読後にはあらゆるものが軽薄に感じられ、奇妙なことに彼らの言葉と行動に共感している自分に気づく。そして思う。彼らは初めからこの身の内にも生きていたのだ。
正常な人間なら眉をひそめるような彼らの言葉の殆どを青年は当然の観念のように思っていた。彼らの心の闇が理解できると様々なことを思い巡らせ、最後には自分はどうしようもない屑だと絶望の淵に落ち込んだ。
しかしそれよりも許せないのは何もかもを知らぬことであった。知らぬは罪であった。己の無能さを認識できぬのも無能さの一面に他ならないが、その一点にのみ青年は利口だと言えた。
しかしあけびは『知っている人間』だと自己を認識していた。あけびは唇を縫われたように言葉を封じ込められていた。話そうとしても言葉は声にならず、音にすることさえかなわず、佇立し続けた。
(無理するな。足が震えているじゃないか)
妹の愛は転覆していた。
愛は与えるものなどという単純な構図によって形成されただけのものに非ず、愛とは与えるように見せかけて相手を奪うものである。愛には愛を振りかざす己をすらペテンにかける大悪党の捻くれた性根がある。厚顔無恥な陶酔した赤ら顔で、全てを自らの手の内に奪い去るのである。
愛の圧力に辟易しきっている青年であったから、そっけなく捨てるのも早かった。
観念の戯れ合いは終局を迎えていた。
「あのね、あけび。君が当然のように思っていることで傷つき悩んでいる人間がいることを知ってほしい。傲慢さを戒めて無知を改めるんだ。懺悔などしてはいけない。懺悔は欺瞞と言い訳に満ちている。神に祈ってはいけない。神は責任転嫁のために形を与えられた虚無でしかない。形而上の偶像を正当化のだしに使ってはいけない。それよりも多くのことを知り、多くのことを認識し、世界が単純であることを理解し、自らを戒め、純粋な心に向かい、生活を改めるんだ」
少女の瞳が蝋で塗られたように冷たくなる。
「それのみが君が赦されるための方法だ。無知は赦されない。無知は罪だ」
唇が綻びを忘れて固まっていた。その顔に諭す。
「君は君の嫌いな女教師と同じ事をしていると気付いたかい」
「嫌われたっていいって思っていたの。私はあなたに嫌われても仕方ないことをしているのだから。でも、でも……」
青年は自身がいかに卑賤で狭量な視点でものを語っているかなど百も承知であった。青年は彼女の言葉に傷つけられたわけではなかった。彼女の言葉は青年の精神に愛撫を加えたのみであった。
彼女の博識と利発さと冷静沈着さと用意周到さと勇気と儚さは、支配欲を掻き立てるカンフル剤。
のんびり屋の仮面を被った彼女、犀利な本性を表す彼女、どちらも作りものの魅力があった。どちらも彼女が育ててきた自分なのだ。強く生きようとするもそれが叶えられない彼女の悲劇性に助けの手を加えてしまうのは憚られる。雪は溶けるから川へ流れる。堕ちた姿が見たいと思った。
悪辣な性根が鎌首を擡げる。こめかみから熱した針が突き刺さり、脳の中枢部にかけて貫かれる感覚が走る。衝動は我慢できそうにない。触れたい、手にしたい、見ていたい。だから破滅を呼ぶ呪文を、優しく唱える。
「罪悪感があったんだよね?」
「…………」
「自分ばかり父親に愛されて、兄は自分よりも愛されていないって」
優しく言う。
「なのに自分はなにもしてあげられないって。何もしてあげられていないのに、自分はいつまでも父親の愛を貪るだけだって」
そうされることこそが辛いことを知っていて、あえて健気な笑みで。
「いいんだよ。気にしちゃいないんだ。おかしいかな。愛してほしいなんて思ったこと、一度もないんだから」
一歩下る少女に、青年はとどめを刺す。彼女を矛盾から解き放つため。
優しく告げた。
「汝裁くなかれ、然れば、汝裁かれん」
少女が波形に揺らぎ、放射状に飛び散る。
「……ああ」
初めて、彼女が叫び声を上げた。
「ごめんなさい……ごめんなさい!」
悲痛な声を上げながら両手で頭を抱えて頽れる。
その細い首を掻き抱く。
(自らの恐ろしさに恐怖を覚えたね)
汝、裁くことなかれ。しばし前後関係を無視して引用されがちなキリストのこの文句には歴とした意味がある。汝、裁くことなかれ。然らば汝裁かれん。
人は何かを責めずにはいられぬものだが、他人を咎める以前に己は他者に対して言及できる立場なのか顧みるべきである、と。青年は問うたのだ、お前は人を非難できる立場かと。
包み込むような声音で、耳元に囁く。
「君の失態は、あれほど自らに言い聞かせていたにも関わらず、僕と自分への配慮を怠ったことだ。僕を判断する以前に自己批判をしていなかった」
「偉そうな口をきいてごめんなさい……」
「心配しないで、かわいい妹。僕が心の闇を取り除いてあげる。君はもう楽になっていいんだ。僕の心に踏み込んで君が穢れることはない。可愛いままの君でいてくれないか。綺麗な心に染みをつけることはないんだ。
君はこれから多くの光りを見ることになる。怪物を相手にするときは自分が怪物にならないように気を付けなければならない、なぜなら暗闇を見詰める時、暗闇もまたおまえを見詰めているから。知っているよね。ニーチェの言葉。君は暗闇ばかり見ることはないんだ」
恐れからではない。
心を見られるのを怖れるからではない。
「近寄られると、傷つけてしまいたくなるから」
汚れの身――手の届くはずのない綺麗なものが近くにあれば触れてしまいたくなるのが理である。
「辛かったんだね今まで。でももう泣かなくていいんだ。君のことだから本当はいつも泣いていたんだろう。無垢に見せようとしていたけど無垢ではなかった。君は傷ついていた。驚きはない」
優しく諭す。
「良かったんだよそのままで。仮面を被って生きる力を肯定できないなら、それは世界を許容できないのと同じだし、高潔さを売りにしたって襤褸が出る。世界の残忍性に対抗できるのは、自分の中の残忍性だけなんだ。悲しいロジックだけれどね。でもね、戦えば戦うほど、人の心は摩耗してしまうんだよ。その相手が心無い僕ならば、君は無意味に壊れてしまうだけなんだ」
丹念に刷り込んで、心を縛る。
「日常世界に没入して生きていれば、いくらなんでも世界が問答無用だということに気付くようになるさ。色々と生に理由を付けたがるのは椅子に座ってする思考実験で、そこから生まれるほとんどの概念は詭弁だよ。だからあけび、そんなに悩まなくたっていいんだよ。君は君らしくしていればいいんだ。いままで僕を心配してくれていたんだよな。ありがとう。でも、君が僕を心配するほど、僕は君が心配になるんだ。もう心配はいらないから、ゆっくり、力を抜いて、ほら、腕の強張りを解いて。抱きしめてあげるよ」
「ぐすっ……ごめんなさい……お兄ちゃん」
「強くならなくたって、上手く生きなくたって良いんだよ。もう怯えなくたって良い。今迄恐がらせてごめんな」
「……だいじょうぶ」
「あけび、僕を軽蔑するかい?」
「しません……軽蔑なんて絶対にしません」
正義感は哲学者が机上で作った空論のみにあらず、倫理観は人間が脳にインプットしている本能の一部である、というのはこの妹の述べた言葉であったが、それを狂わせるのも人であった。青年は妹を自己の物差しのなかで正した。
青年はほっと一息ついた。
罪悪感を失う。それだけのことで人は悪になれる。罪悪感の欠如した人間は悪魔の素質を持っている。妹を陥れたことにとうとう罪悪感を覚えることはなく、乾いた充足が齎されるのみであった。




