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大地への帰還  作者: 桐生真之
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青い目の子

 なよやかな優しいものが指先で蠢いている、しかし淫靡なものではなく病褥に伏せる体を労わるようなやさしいもので、それが誰かの細い指の感触なのだと気付いたのは、指がそっと放れて、相手の手の先をしかと認めてからのことだった。だが外面的には面妖な、死にぎわの蜥蜴の尾っぽを眺めているような気にさせる指の動きで、青年は困惑する、所へ、

「どうなさったの? さっきからぼうっとして」

 虚ろになったままで覚醒しきらぬ青年は、あとわずかばかり女の声が遅ければよだれの一筋でも垂らしていようかというくらいの茫然自失であったが、女の声に五感が起きたか、しゃっきりと意識を取り戻した。

「ああ、すまない」

 つるりと言葉が出てきたところからもう疑心は始まっていた……青年は始めて声のする方、女の顔を見とめるに至り、息を飲む。

 見目麗しき紅毛碧眼の、白皙の女が和装を成して青年の隣に慎ましい挙措で、寄り添うように座している。﨟長けてはいるが女というには未だ形は娘そのものであり、女ではなく少女と言った方が妥当であろう、老成している精神が外面に関する判断を鈍らせたのだろうと青年は思った。

 意識がはっきりすると、身体感覚も起きるのは至極当然の事で、喉の渇きに意識が向いた。

「すまないが、何か飲み物をいただけないか? とても喉が渇いているんだ……」

 しわがれた声であるが、言葉がひとりでに漏れたと言うべきか、唇がこの台詞を覚えていて、与えられた言葉を後からなぞったかのように自然とでた。それにもしや覚えていたのか……青年はこの少女がいつも何か美味い飲み物をくれていたような気がしていた。我欲が肥大した妄想ではないように思うのだが。

「ええ、喜んで」

 と、杞憂は杞憂に終わって、ここで少女は初めて窈窕たる笑み見せた。それは一瞬の軽いものであったけれど、彼女の笑みにはその年齢以上のものを積み上げてきた者の悟りと精神の充溢が滲み出ていた。

「これくらいのものしか、ありませんけど、もしよかったら」

 と、恭しく酒器を差し出して杯に注いだのだが、流れた液体が飴を溶かしたように艶めいて、この飛天霊の溢した涙であろうかと思われるほど。漆の酒器が雅であったが、さりながら注がれた美酒に口つけることがなくとも、空気に触れた酒の甘味が鼻まで通い、すう、と滋味よく残る。こちらも恭しく、杯を頂いて、飲めば多種に渡る果実を精製したような甘味が舌に溶けたが、厭味ではなく、鼻から抜けてさやかな風味さえある。

 気狂い水なんどとどこのだれが呼んだものか、飲めば飲むほど肉体が洗われて気力が漲るようで、気付けば青年、白皙の少女に勧められるままにまたも杯を押し頂いていたのもやむなしというもの。

 酔いが回ってくると少女の顔をしかと見定めることが困難になってきたが、かわりに金の毛髪の美しさは酔いと光との関係か、前よりも映えて青年の興味をそそるまでに。よって青年が少女の毛髪について述べたとしてもことのなりゆきとしては至極自然な成り行きであった。

「綺麗な髪ですね」

 と正直に述べた青年に対して少女は含んだ笑い方をしたのであったがそれは己の心の隙に入り込んで取り込もうとする異性を嘲笑って受け流そうしている戯れた笑いではなく、別の意味があった。

「あなたが」と初めて、少女は三十も年を重ねたような調子で淑やかに言う。

「あなたが、こうしてほしいっておっしゃったのよ?」 

「なんだって?」

「ふふ。もうお忘れなの? 貴方にしか見せないように、いつもは髪を下ろさずまとめているんです。これもあなたが私に頼んだことなんですから」

「ちょっと君……名を教えてはくれないか」

「教えたって無駄……いつもお忘れになるんですもの」

 伏し目に少女は告げる。

「本当は教えたいと思っているのでしょう?」

 青年の言葉に眉根をぴくりと蠢かせたが、偉いもので動揺を嘆息と一緒に吐き出した少女は、妥協を受け入れて言葉を紡ぐ。

「いいんです。あなたは……私になんかかまっているべき人ではないんですもの。あなたと私は違います。あなたは風上に立つ人間で、私は風下に立つ人間ですもの」

「何も教えてくれないのか」

「人生が多難であるほどあなたは多くを得るでしょう」

「聞きたいのはそういうことではないよ」

 青年の圧力に負けが入ったか、少女は陳謝の意を込めて言い訳を漏らす。

「あなたはいつも突然ここにいらして、いつもここに来たことを忘れてしまうんですもの。そしてまたここに来る」

(彼女の言い分は本当かもしれない、だって)

「なぜだか君とは初めて会った気がしない」

 いつであったかわからぬ。いつ打ち解けあったかわからぬ。生まれる前から魂で結ばれていたような気すらした。

「君は本当に人間か?」

 少女は、くく、と笑って、

「あなたは前にも聞いたんですよ。そして私はいつも言われるんです。妖精さん、って」

 あまりにもまかり通った常識とばかりの物言いであったから青年は次に告げるべき言葉を失くした。しかし次の言葉で驚きは深刻さを増したのであった。

「私はあなたに教えられることはありません。ですからせめて」

 呟いた言葉の語尾に合わせて少女は青年の手を取り近づいた。吐息が側に寄り、白皙の少女が香るのが、酒精に口つけるような酩酊をもたらした。年齢不相応の婀娜なやりかたであったがそれよりもこの少女には、何もかもを取り込むとてつもなく大きくやさしく恐ろしい粘菌のような姿態があった。青年は少女の行いを素直に受け入れた、というよりも酩酊があった、長年に渡って畑を守り続けてきた案山子の方がこのときの青年よりも矜持を持っていたであろう、青年は操り人形のように無心だったのである。少女が青年の腰を両足で挟む格好で、青年の腰に坐して対面し、密着する。このときになって青年は初めて、白皙の少女の体の小ささを知った。

 口づけをした。少女が着物の前を少し開けて青年を導いた。青年は咎めだてるように少女の手を取って、自らの手で、十全に着物を肌蹴させた。日本女性の肌の白さを溶け入るような白さと言い表すならば、西洋の女性の肌の白さは浮き上がるような白さと言うべきか。透けるような青白さというよりも、この白は冷たい瓶に滔々と垂らした酪漿のような乳白で、月の下に映えるというよりも太陽の光に映える白であり、この白だからこその真鍮の髪なのだと青年に思いなさせる。

 唇を強く当てると少女は吐息を漏らしながら、肌を朱色に映えさせた。

 ふたりは椅子に腰かけた。青年は少女を自分の膝の上に座らせて、まるで小さな我が娘を座らせるようにして、口づけをし続けた。着物をはだけた少女の、平原のようななだらかな丘の頂きの可愛らしい薔薇の蕾は丘の低さに不満なのか双方ややそっぽを向いてつんとすましている。それでもその吐息が、艶冶な口づけが、この少女は自分が女だということを知っているのだと青年に実感させる。

「君はだれなんだ……」

「そんなこと……誰にもわかりやしません」

「君までそんなことを言うとはね……まるで全てわかっているみたいに」

「私たちなんて、星屑みたいなものじゃないですか。光っているのは見えるけれど、本当の状況はその星に近づいてみないとわからない。でも自発的に別の星を見に行く術はない。そうしているうちに、近づくことにも飽きてきます。見えているからいいやと思って、怠慢が生じます。多くの場合、それで不幸になることはありません。でもいつのまにか衝突して、壊れて、それでやっと気がつきます。ああ、こんな星だったのかって。後悔するんです。後悔する資格すらないのに」

「君は何を知っているんだ……」

「私は、あなたのすべてを知っています」

「なんだって……?」

「だってあなたは、私の太陽、私の泉、私のゆり籠、私の神様なんですもの」

 少女の可愛らしい顔が艶めいたものに変わりながら近くなると、急速に視界がぼやけて霞み、青年の意識はそれっきり。


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