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大地への帰還  作者: 桐生真之
28/56

H 異変

 重々、身を覆う真闇。万物の輪郭を曖昧模糊と変える現と幻の狭間で、迷い果てる青年がひとり。墨色の帳が落ちて、滔々と降り落ちる銀線は乱れ髪を思わせ、青年を雑多な気持ちにさせる。ベタ降りに降っているというのに、しんしんと鳴るはずの雨の音は、鼓膜へ届く前に中天で切り取られてしまい耳まで届かず、寂、寂、寂、と凪いで静か。でも、胸奥には春の嵐のような轟音がわだかまっていることを感じていた。

 焦燥感だけが心底で暴れる。どうにか頭蓋を冷水で満たそうとするも能わず、心は幼子が鎖で両腕を拘束されるようにあっけなく絡め取られて、足腰は三日三晩耐えながら歩き抜いた後のごとく鈍重で痛みさえ覚え始め、脳髄は爪の先ほどの糖すら残ってはいないと思えてしまうほどに疲弊し切り、末梢神経群は乱れ散っていた。終わりとするならいまが適当である。さらりと彼の脳裡にはそんな憧れが浮かんでいた。

 温めた糖蜜ほどの抵抗力でさえ、今のこの身には、柔靭な鞭に縛り付けられるのに等しいだろう。茫洋とした闇、これこそが世界の真の姿なのだと青年に思いなさせる濃紺の闇。

 思う、いまおそらく自分は白痴のような虚ろな表情をして、見えるはずの物を見ず、見えないはずの物を見ているのだ。

 薄暗い闇に凝り固まった焦点を、投げ出すように外に逸らした。採光窓の枠に切り取られた景色が、建物の内側と同じく、どんより、鬱々とした印象を与える。

 しんしんと降っていた小糠雨がいつの間にか鉄の玉のような大粒になって天より打ち降り、このままでは今夜のうちに町中大洪水でここもだいぶ危なくなると正樹は思ったがしかしやはり、奇妙なのは、これだけの大雨が降っているのに雨音がひとつもないばかりか、大雨になってからはさらに濃いシジマに覆われて、冷たい糸が張りつめたように、空気が凍って、声さえも失いそうである。

(……ここは)

 ここ、とはどこのことだろう。と思った砌、初めて青年は、自分は何処かに迷いこんできてしまったのだということを肌で感じ取った。

 指先の痺れを誤魔化し二三度繰り返し拳を作り解いて、としていると、じわじわと血が通う感じをようやく掴みとる。野良猫のように粗く瞼を擦り、散乱していた焦点を定めて天を仰ぐと、薄ぼんやりとしているなかでもちょうど天井の木目が明暗を露わにする。眼球だけを動かしてぐるりと視線を巡らせると、ここが室内であることが知れる。木目のしっかりとした天井と白いカーテンのかかった窓、背の低い古びた本棚と照明、机と衣装箪笥、畳と押入れ、ゆり椅子と寝具、これらが密室の構成分子である。やさしい暗がりが肌に馴染むのは母胎を根城にしていた昔を思い出させて懐かしいからか。麗らかな闇の中、羊水と溶け合うのを邪魔する者は見当たらず、許されるままにこれを貪るとしても咎め立てる者はひとりもいまい。青年は目を閉じる。

 再び開けると、部屋の調度は変化していないのであるが、昼間のように明るくなって、暗闇に埋められていた頃の不穏さは掻き消え、いまにも窓辺に花瓶と花でも置いてこようかという具合であるが、しかし外の景色は対して変化しておらず大きな雨粒が降り続けていたから、この部屋の変わりようは作り物めいたものに感じられてくる。

 誰かいないか探そう、と青年は思った。奇怪異様な状況にあることを青年は認識できていないようで、部屋を抜け――――といっても扉がひとりでに開いた――――食卓に向かう、と、卓上には豪華絢爛なる料理がこれまた美麗な食器群に盛られているではないか。人気がなく無音の空間でどこから灯しているのかもわからぬような、わざとらしい明かりの部屋で、食卓に温かな料理が並べられているのだ――それもひとり青年の分だけが、卓上所狭し、と並べられて、これをひとりで平らげようとするならばどれほどの巨漢か、もしくは人外か、というところ。

 席に座れば、どこからかスッと手が伸びて誰かが酒を勧めてきたのであるが、それが誰かはわかりもせぬ、青年は酒を差し出した人物の方を見ずに酒だけ受け取って、一息に呷った。勢いよく流し込んだ酒であったが、流し込む勢いとは対して酒はつるりとして甘く、舌に旨みがじんわりと滋味良く残る。これはどんな酒かと、隣で酒を酌んだ手に尋ねようかと思った矢先、世界が黒く暗転した。いままでの灯のともった世界は偽りであり、これこそが本当の姿であると言わんばかりの変容である。

 豪奢な器だと思っていた物は枯葉と化し、象牙造りの箸だと思い込んでいた物は枝と変じ、あらゆる料理は有象無象の虫けらから小動物までを取り集めて細かく刻んだ禍々しい死骸の屑と転じた。毒虫を頬張っていた青年は苦味に耐えかねて吐き出すと、皿の上で節足動物の足の破片と、体を真っ二つにされた蛆虫が踊る。

(なんだこれは……いいかげんにしてほしい)

 景色は変わる。視界を砂嵐かと見まがうほどの灯虫が通ったかと思えば、いつのまにかのことで青年はいつこの自分の身が足を使わずしてこのような場所まで運ばれたのかわかりもせぬ、青年は絢爛たる食卓からはじき出され再び暗く長い廊に戻された。ただ、眠ったように静かだったこの家屋が意思を取り戻し胎動し始めたように空気が蠢いているのが今までとは異なる点で、青年はこの異変を不快に思う。どうやらこれからなにか不穏な事態に陥るのではないかと思い始めた折りに青年の予想は不幸にも的中した。というのも、青年の目前から壁から虫の大群が現れ、青年の足元をとてつもない速さで過ぎ去ったとあっては、あまりの唐突な事態であるから、日ごろ豪傑な気概を持つ青年であっても驚愕に戦き声をあげかけ、しかしどうにか胆力で声が漏れるのを抑えた。蜥蜴・蚯蚓・蟇・蟻。嘗て青年に殺された生き物たちがせめてもの復讐に青年の言霊を浚っていったかの大行進であった。

(何なんだ此処は……現実の家でもなく、あの悪夢のなかでもない……どういうことだ)

 青年の考える通り、ここは日々の生活を送る家のなかでもなく、あの地獄のような悪夢の館でもない。

(誰かいないのか……?)

(いや、そもそも……)

 混乱、青年にとって、幻と現の境は極めて薄く頼りのないものへと変容し始めていた。

(今、俺が認識しているこの世界は何だ……)

 青年が絶望の淵に堕ちようかというそのみぎり、景色が揺らめいた。視神経の異常からくる視界の歪みなんどでなく、ぐにゃり、建物自身が全体で湾曲しているのだから、これでは自らの神経の問題であった方がまだいくらかましであっただろう、と青年はかく考える。しかしまた一瞬にしてぶれた世界は折り目正しき空間に引き戻り、空間が歪んでいたことなど嘘のようであるが、一点、変化があった、というのも、

「……うそだ……」

 遠く、後姿が闇に霞んでいるけれど、あの闇に一点、白百合が咲いているようなのは、きっと優しき母の背中。

(母さん……なのか?)

 何かを言うつもりだったのか、抱きしめにでも行ったのか、青年は母のもとへと駆け出す。八代の不知火のように遠くほのめいてゆらゆらと、このままいつまでもたどり着けぬのでないかと思いながら追うと、案外これまたどうしてか、ぱっと至近距離まで近づいた。しかしそれで良かったのかどうかは定かではなかった。

「母さん、どうしたのこんなところに」

「――――――――」

 青年の存在に気が付いていないかのごとく母は言葉を返さないばかりか、後ろ姿のままぴくりともせぬまま、まるで打ち捨てられた人形の如くで、青年の焦燥をいよいよ極限までに高めつつあった。

 このとき青年がとった行動を誰が咎められようか、とてつもない非常事態において人は藁をも掴むと言い習わすが、目前に現れたのは藁でも芥でもない、人であり自身の母である、青年は己の焦燥がこれで収まるのを確信して、母の小さな肩に手をかけて、引いた…………が、これがいけない。

「な――……っ!」

 びりり、と和紙を破くような音と感触があったと思えば、その音と感触の通り、紙を破いたように母の肩が引きちぎられていたとあっては。千切れるというよりもやはり、破れるというほうが的確で、いつからこの世界の人間の体は紙になったのであろうと青年が思う余裕すらも剥ぎ取るくらいの怪事であるに加えて、人の肩が破れただけではない、母を自分が傷つけたのだ。青年の受けた衝撃は長年積み上げてきた世界認識を変容させてしまうほどのもので、とうとう青年は冷静ではなくなっていた。

「嘘だ……嘘だ……」

 悪いことは続くもので、肩が破れた母の顔が振り返り、青年を見た……はずなのだったが、顔がない。目と鼻と耳と口、顔を象る全てがなく、取って代わったのは、のっぺらぼうのような紙の面、真白な面である。あるのはただ、白い平面の顔。

「ああ……あっああぁ……――――」

 混乱と恐怖に振り回されて言語の統制を失った青年に、しかしこれでもかと追い打ちをかける怪奇が。

「いたーい! いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたいいいいいい!」

 肩を引きちぎられた、のっぺらぼうの顔に、流れるように文字が浮かびあった。文字というものは商いのために開発されたものであるというのが定説であるが、和紙と化した母の顔を見て思う、文字は人を恐怖させるために生まれたのではないかと。定型文のように常々、定まっていた母の微笑は消え、代わりに母の顔に張り付いていたのは白い紙。微笑の喪失と代わりに与えられたものの理不尽な結末に思いが後悔となり、気が遠くなる。

 人間なんて紙と同じ、自分は紙を引き破るように人を殺せる。自ら吐いた下賤な言葉を、いまになって突き返されることになろうとは。

 あらゆる人間に対して抱き続けてきた思いが凝り固まって、異なる形に姿を変えて帰ってきた。己が蒔いた種である。暴言とともに吐き出した蒸気が雹となって天から降り、この身を串刺しにしたような。因果の果てとしてもアイロニックに過ぎてはいないか。天に放った唾が、嘗て放った弾丸が、いまになって自分のもとへ打ち返されたのだ、それも対象としては最悪の人物から。

 何とか、絶え絶えの息を整えて母に声をかけなおそうかと決めた刹那、

「いやああああああああ――……っ!」

 母が、顔から、次は首に、肩に、そして全身にという経路でびりびりと破れていく、血の一滴すら流さず。叫び声を上げながら、青年はなすすべなく、母は青年の目前にて細切れの紙屑となってはらりはらりと床に散る。なんと儚い死にざまであったことか。

 塵となり、あるはずのない風に運ばれる母は最後に言葉を残した。

「何を驚いているのです。あなたが言っていたことじゃありませんか」

「消えろ、消えろ。こんなのは全部、幻想だ! 誰かが俺に悪夢を見せているんだ」

 青年は残った母の紙屑を蹴りあげて言った。

「誰がこんなことをさせているんだ……」

 すると。

「嗚呼、滑稽だったわ。あなたのそんな顔、見たのは久しぶりよ」

 朱色の着物を羽織った女が青年の耳元で妖しく囁いた。

「またお前か……」

「あら、そんなこと言っちゃ、いやね」

「ここはどこなんだ」

「賢いあなたには、ティンダロスの猟犬と言えば分ってくれるかしらん」

「ふざけるな」

「ああ、こわ。落ち着いてくださいね。これからもっと面白いものを見せてあげるのだから」

「何を言っている」

「わからないのも無理はない。黙って見ているのが賢明でしょう」

 と意味深なことを言い放って、女はその身を翻した。すると今まで壁だったものがいつのまにか障子と変わり、事象の裏と表を思わせる変化を見せる。

「アハハ――かわい。きょとん、とした顔をして。あなたのそんな顔……もっと見たいわ。もっと面白いものを見せてあげる……このお座敷はね、特別に見せてあげる……でも、驚いたって知らないわ」

 サア、と声を上げて障子を引いた。

 開けられた障子の奥にはあるはずのないものが現在しており、その様子は青年をひどく震え上がらせたという、障子の奥には、青年を狂気の渦に陥れるほどの光景があった。

「ここは平安朝時代のお座敷。いまならちょうど、一家惨殺事件の犯行現場が見られるところよ」

 子供たちは……桜、正樹、あけび、柊……高咲家の住人と同じ顔であった。

(嘘だろ……なんなんだこれは……)

 障子の奥の景色……質素な着物を羽織った子供たちが洞窟のなかで飢え死にしていた。

「さぁ、次はこっちよ」

 と青年を誘導して女は次の障子を開けた。

 そこで見た景色はさらに凄惨なものであった。いま目にした子供たちが、この女に食われ殺されていた。柊とあけびが寝ている間に女はふたりを食べ、青年と桜に噛みつかれたが、女はふたりとも殺してしまった。

 次の障子の向こう側の映像はさらに直視に耐えがたいものだった。妄想に侵された青年には家族があの妖しの女に見えてしまい、家族たちを襲い食べてしまっていた。

「平安の中期、日本中どこにでもあるような六人家族の長男が、とつぜんおかしくなってしまって、その数日後に家族はみんな殺されてしまい、その男の子も首をくくってしまったの。さぁ、その男って、誰なのでしょうねぇ?」

 青年は次の障子を開ける。

「そこは鎌倉時代の映像。場面はさっきと似たような所。六人家族の息子が両親と姉妹たちを殺して崖の上から海へ身を投げた。お母さんは最後まで息子に怖気づいていたわね。叫んでいるうちに、息子に殺されたの。でもあの母親はいつもあんな風で、怖がってばかり……自分の子供をなんだと思っているのかしらん」

 次――――。

「その襖をあけるとお次は江戸時代。これも長男がひどくおかしくなって、あるとき癇癪をおこして、白い紙がどうのと言って、刀で、家族みんなをばっさばっさとめった切り。そのあともやっぱり同じような結末で、今度は夜の山に行って、狼に自分を食べさせちゃって、それっきり」

 次――――。

「時期は違うけれど、そこも江戸時代のお座敷ね。また六人家族の長男が、あるとき急にひとりごとを言いだして、しばらくしてから鍬を持って暴れ出した。家族みんなを殺した後は、お腹がはち切れそうになっても、殺したみんなを食べちゃった。正気に戻って、自分がしたことのあまりの恐ろしさにおののいて、またおかしくなっちゃって、今度はその村全ての建物に火をつけて、村は全焼。村人は、みんな残らず死に絶えた」

 次――――。

「そこは明治の家族のお座敷よ。これも長男がおかしくなっちゃって、家族みんなで山菜を取りに行って、飲むはずだった水の中に毒を盛って長男以外みんな死んだ。死体を土に埋めた後、自分も埋まって、それっきりよ」

 時代の違いはあれども、繰り返し行われているのは嘆く暇さえ与えられない惨劇であった。

 青年に似た――否、同じ顔の男のようすがおかしくなると、このような悲劇が起こるようだ。障子の向こうでは家族が楽しそうに食事していたり、とある障子の向こうでは家族が殺し合ったり、とある障子の向こうでは男と姉妹たちが饗宴の最中であったり、母が自ら命を絶とうとしたいたり、男が家族を食っていたり、兄妹が色情関係で結ばれた挙句、兄の胃袋の足しになっていたり。

「わかったよ……もう見なくていい……」

「もう? あなたが見たのはまだ半分もないわ」

「自分の罪をこれだけ直視できるほど神経の図太い人間じゃない」

「あら、いつものあなたと違うようね。自覚がないの?」

「毎日自分のダメさを自覚して生きる日々だ」

「そう、それは大変ね」

「ひとつ聞かなきゃならないことがある」

「なぁに?」

「単純な問題だ。どういう理由でこういうことをしているのか、そういうことだよ」

「この一家を恨んでいる生霊、もしくは単なる呪縛霊……なんていうつまらない、なんてことのない理由――だったら?」

「お前を、俺の狂った脳が見せる幻覚だと思うことはやめた。単なる霊魂だとも思わないことにした。例えそういったものだったとしても、存在するものとしてお前と向き合う。お前を消滅させて、この莫迦げた悪夢を終わらせてやる」

「へえ……莫迦ねぇ。あなたなんかでは、私の手の内から逃れられないわ。私にもあなたにも使命があるのだから、それが終わるまでは、定められた通り。あなたも私も、ね」

「俺が幼い頃から悪夢を見せつづけ、俺を痛めつけ続け、おかしな力まで与えて、……俺たちに似た家族の歴史を見せて、近ごろはこうやって出てくるまでになった。お前はいったい……何がしたいんだ?」

「なにって、当然じゃない――――もっともっと…………ほつれてほしいの…………」

「お前の思惑には乗らない。俺はお前に抗い、解決法を見出す」

「ご勝手に。そうそう、文献を探して確かめようっても無駄よ、私が消し尽くしたから。でも――」

 と言った矢先、摘むように合わせた指の間に色の崩れた薄紙が数枚、炙り文字のように現出した。

「これは私がこの世から消した文献の抜粋。見てもいいわ」

「いらない」

「あら、そう」

 女の指の上で古紙が燃えた。

「読まなかったのは賢明かもしれないわ。読んだって、あなたにできることは何もないもの。あなたには何もわからない。あなたは狂気の海に堕ちいる。

 現実も仮想も私たちの脳が作り出す現象。現実と仮想の境目を線引き出来ないなら、どちらも同じではないだろうか。あなたの思考は段々、そういう世界認識をし始めている。もう止められないわ」

「それとお前が俺の母を憎んでいることと何の関係がある」

「あらあなた、察しが良いわね。どうしてわかったの?」

「お前が俺の母を憎んでいるのを夢で見た。お前が見せた虚偽かもしれないが。様々なことが重なりすぎている。本当に母があんなことを繰り返してきたのなら……。あんな途方もないことを……。雨乞いの祈りが千年後の天に届くようなものじゃないか。お前に呪われ、記憶があるまま生まれ変わり、いつも同じ家族を持ち、いつも同じような運命に生き、いつも息子に殺されている。……俺の母を憎んでいるのなら、なぜ、お前自らが手を下さない」

「そんなの簡単なこと。信頼している者からの拒絶は、人間にとって最も辛い部類に入る災難でしょう。私に殺されるよりも、あなたに殺された方が苦しいに決まっているわ。あなたがそんなことを聞くなんて驚きね。あなたが身を持って理解してきたことじゃないの。あなたなら良く分かっていると思っていたわ」

「……なるほど。わかりやすい。余計に、お前を消滅させたくなった」

「それにはまず、私のことを知らなければね」

「お前の行動の動機には不明瞭な点が多すぎる。俺に母親を殺させたいのなら、こうやって俺に過去を見せる必要はなかった」

「さぁ――それはね――」

 口元を覆い隠すように女がさらりと袖を振れば、屋敷が揺れて壁が歪む。涙と景色が泥む。狂気の沙汰の形状と化した空間には嵐のようなざわついた音が満ちて、竜巻に遭ったのかのごとく天井が弾けて飛び去り、天井が舞ったかと思えば消え去り、代わりに舞うは花吹雪。生命の終わりを伝え万物を無に帰すような圧倒的な、桃色の、花、花、花、花ばかり。視界を花の色で埋めつぶされて青年は、前後不覚、花の舞だけを見つめたまま――――。


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