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大地への帰還  作者: 桐生真之
27/56

13 錯綜

 目を覚ますと、ひとつの世界が終焉を迎えた気がしていた。

(まぶしいな……)

 濡れた十二単をかけられているのか、肉体が文字通りの重い肉の塊だけの体となっているようで起きる気になれぬ青年は、感じた光を忘却の暗がりに追いやって、目覚めのまどろみを貪ることに従事しようと浅い吐息。

「こぉら、いつまで寝てるんだ」

 言葉だけ読みとるならば語句のひとつひとつに怒気を含んでいそうな風ではあるが、音に変えれば違った情味、声の始まりから語尾までは終始徹底して稚気に富んだ、にこやかな笑みを湛えた声音が、青年の頭上から届けられた。

「……」

 無言で、枯れた蕾のようになかなか開こうとしてくれないしわがれた両の目蓋を開ける。と、平素ならば無表情な天井の木目が目覚めを迎えるはずであるのだが、

「ふふ、寝顔、可愛かったぞ」

 青年の枕元に正座して、頬をつつきながら起床を待ち望んでいた姉の顔が、逆さまの状態で青年を出迎えた。仰臥する青年の顔を上から覗き込んでいる格好であるから、自然と桜の長い髪が紗幕のように青年の顔を囲った。青年と桜の顔を囲む、小さな個室が出来上がった。

 頬に触れた姉の黒髪を不思議そうに青年は横目で眺め、手にとって感触を確かめた。上等な絹の質を改めて調べるようなやさしい手つきで、蜜蝋を重ね塗りしたような黒髪を撫で、ふと目前の姉の存在を思い出し、目を向けると、柘榴の実のごとく赤くなって、弾けてなかの種を飛ばしてしまうのでは、との危惧すら覚えてならぬほどに赤面した姉が、唇を波形に歪めて凝固していた。ひとたび声をかけてしまえば液体に変容してしまうのではとさえ思われて、紅玉の君はどこへやら。

「赤い実はじけた、という短編小説を幼い頃に読んだのを思い出したよ、なぜか」

 姉は言葉を選ぶのにたいそうな苦労を強いられ、容易に挫折した。

「どうしたの? 柘榴みたいに真っ赤っ赤になって」

 彼女の額に玉が浮かぶ。体は熱いのに冷や汗が出る。濃密な液体である。

「ごめんっ、こ……こんなはずじゃ……」

「あー」

「意外と……近すぎて。ど、どうしよう……」

 青年の耳の横についた桜の手が、痙攣するように小刻みに震えていた。

「男の子の顔を、こんな近くで見たことがなくて……」

「ふうん……柘榴の花言葉、知ってる?」

「ううん、知らない」

「そう」

「なんでそんなことを?」

 心持ち少し冷静になった桜が姿勢をそのままに青年に問う。

「なんでもないよ」

「なんだ。教えてくれないのか」

「いつか教えてあげる。いつかね。……それより、なんでここにいるの?」

「あのな、それは私の台詞なんだが」

「柊の部屋にいるから?」

「理解が早いな。よくわかっているじゃないか。寝ぼけはもうなおったか?」

「ぼんやりと思い出した。でも柊の部屋で寝ていたらいけないかな。これは、うちでは日常さ。妹と同じ布団で眠った僕を咎めているの?」

「普通……なのか?」

「うん、普通だよ」

「私にはきょうだいなんかいなかったからそういうことはよくわからないんだが、普通なのか」

「きょうだいでしてはいけないことなんて、限られたものだよ。知らないならこれから知ればいいんだ。僕が教えてあげることだって出来る」

「えっ……」

 青年が姉の腕を引くと、姉の体は軸を失い崩れていった。彼女の目には、木の葉の影が傾くほどのゆるやかな速度で下方の青年の唇が近づいてくる様が映り、映像の移り変わりが認識の上に現れたときには、ふたりの唇は綺麗に重なっていた。貝合わせを思わせるほどの。

 小さな悲鳴を上げて体をこわばらせた桜であったが、意思とは無関係に体から力が抜けてしまった。

 風が吹いて、擦れた葉が軋むような音の連なりをふたりの耳に届ける。軽く触れ合せた、しかし綺麗に重なっている唇を、どちらともなく離した。

 先に言葉を発したのは姉の方であった。この場合、先に声をかけたほうが負けであることは多分に言えることであったが、ふたりは試合をしているわけではない。性的な匂いは皆無であったから。

「いきなりなにするんだっ。び、びっくりしたじゃないかっ」

 と声を震わせながら、身を起こした姉は左手の甲で線を引くよう、唇を拭いながら、小さな抗議をした。

 青年も起き上がり、彼女をまっすぐ見据えた。

「知らなかったかな。これは接吻といって唇と唇を接触させることによる太古からの直接的な愛情表現であり……」

「そ、そんなことは知ってる!」

「インテリだね」

「せ、接吻など……!」

 古い本から日本語を覚えた経緯もあるためか、所々、日本語の使い方が無駄に古風なことがある。

「ごめんね。でもこういうことはこの家のきょうだいだったらありえるんだ。このような家庭は少数派であるかもしれないけれどうちではごく自然な風景なんだ。嫌だったなら謝るから。驚かせてごめんね」

「いっ、いいよっ。突然だったから驚いただけだっ」

「欧米人はこういうこと、よくしないの? 挨拶として。違うの?」

「それとはちょっと違うし、その理由は卑怯な気がっ……」

「難しい」

「……む」

「ところで、桜はどうしてこの部屋に来たの。僕を起こしに来たの?」

「そうなんだ。起こすついでに悪戯をしようと思ったら、逆に悪戯された」

「ごめん」

「お前、女の子の唇を奪っておいて軽すぎるぞ……初めてだったのに……」

「いまのはノーカウントでいいんじゃないかな」

「なんだと?」

「親族だから。僕、キスの人数だけだったらこの家庭だけですでに五人だから」

「全員じゃないか……」

「まだ言葉も話せぬ小さな頃に、父からキスを雨と受けた。死にたい」

「だからって私にまで被害を……皺寄せを」

「被害いわない、皺寄せいわない」

 青年は無邪気に笑った。姉は再び顔を赤くした。

「あ、あのっ……そういえば、起こすのと一緒に、言いに来たことがあるんだ」

「なに、大切なことかい」

「うん、知っていると思うけど昨日の話の通り、お父さんがドイツへ出かけた」

「出かけたって、君は買い物にでも行くように言うね」

「まだ日本語は細かい所まで理解しているわけじゃないんだ。わずかな意味の違いを伝えるのはまだ少し難しい」

「時がたてば言葉なんて自然と覚えるから大丈夫。人の脳はその土地に根差した言語を摂取して血肉にするように出来ているんだから。生きるためにね。と言っても、君の日本語は既に日本で生きるには何の支障もない水準に達しているよ。頭がいい証拠だ。もしくは教育がよかった、ね」

「おだてても何も出てきやしないからな」

「いいよ。キスしてもらったし」

「お前っ、やっぱりそういうつもりでっ!」

「さあ」

「な、なんて恐ろしい子なんだ……」

 青年は眠たげな黒猫のように目を細めて笑った。

「お、お姉ちゃんは正樹の貞操観念を心配しているぞ……」

「あはは」と笑う。

「はぁ……」とため息をついた姉が、

「ところで正樹、今日は何をして過ごすんだ?」

 唐突に疑問を口にする。

「静養することにした、かな」

「静養?」

「病気の人が体を休めることだよ。今日ばかりか二三日の間はすることになりそうだけれど」

「どこか悪いのか?」

「どこも悪くない」

「どこも悪くないのに休むのか?」

「どこも悪くないのに痛みがとれないから安静にする」

「よく意味がわからないんだが」

「幼いころからよくあばらが痛むことがあるんだ。医者には、患部は勿論の事、脳、神経、精神までも調べさせたけれど、原因は不明のままだ。近頃ではもう薬すら慰めにはならなくなった。痛みのないときなら日常生活はできるけれど、痛みだしたら何もできなくなるから無理なことはできない。少し前ならしばらく痛みがなかったから旅にも行けたけれど最近は痛む頻度が増えているような気がするよ」

「原因すらわからないの?」

「ああ、いまのところは。でも心配はいらない。いつかは治って、痛みが消えると思うから」

 それは己の命が失せたときだと青年は思う。

「対処しようがないから安静にしているしかないんだ。あまり有用性を感じない安息だけれどね。事実、何をしても何をしなくても変わらないのだろうけれど……だから静養と言っても終わらせるのは自由なんだ」

「お前がそんなものを抱えていたなんて思わなかった」

「知るはずないじゃないか。知り合ったばかりなんだから」

「――――」姉は一呼吸おいて、

「ああ、それもそうだ」

 と呟いた声が、朝の空気に吸われていった。

「ところで、桜は何をするの」

「あっ、ああ、そうだ、お前が家で静かにしているなら、お前に絵の被写体になってもらいたい。ずっと寝ているわけじゃないだろう?」

「絵を?」

「駄目か?」

「ダメじゃないけれど、なぜ?」

「そこに描くべき被写体があるからだ」

「……桜、僕は君のこれからについて何も聞いていなかったが、どうするつもりなの?」

「実はこの春から近くの美大に編入することになっている」

「だから絵を描きたいのか」

「うん」

 笑みながら、桜は少し幼子のように弾けた返事をした。

 良い返事だと青年は思った。可愛らしい返答だ。

「それにしても編入なんてできたんだ」

「仏蘭西にいた頃の大学とこっちの大学が姉妹校らしくて、編入は意外と簡単にできた。ありがたいことにそこの先生は私を認めてくれていて、とくたいせい、というものもそのまま引き継ぐことができたんだ。だから学費面であまりお父さんとお母さんを煩わせることはない。といっても家事はたくさんやるぞ。私は家事が大好きだし慣れているからな」

「それはありがたい。でも間違っても住まわせてもらっているからなんていう風に考えないでほしいんだ。もしそうだとしたら改めてね。僕たちは家族なんだ。桜、君は高咲家という器のなかに迷い込んだ小石じゃない。君も器を形作るひとつの部品になるんだよ。五対一ではない。僕たちは君を入れて六人の、ひとつの集団なんだ。過ごした時間は関係ない。この家庭は君を歓迎したんだ。だから桜、無理なんかしなくていい、と、これだけは言っておく」

「――――」

「どうしたの?」

「いや、あっ、なんでもない……」

「なんでもないようには見えないけど?」

「……あっ、ありがとうっ」

 青年のやさしい語りかけに姉は心を抱きしめられたような錯覚を覚えた。彼女は感謝の意を述べながら声を波うたせ、押し寄せる幸福を抑えられずに泣いていた。

 青年は涙を止めることのできぬ姉の髪を梳かすようにして頭を撫でながら言った。

「桜の絵、今度、見せてくれないかな」

 跳ねるように短い返事をして零した涙の雫を、指先で撫でて拭う青年の、やさしい息遣いに姉は気持ちを落ち着かせた。

 個室の空気を共にするふたりのあわいにはやさしい沈黙が降り立ち、あらゆる思索の必要性を除外させた。歌を口ずさむように言葉がこぼれた。

「正樹、ひとつ思ったことがあるんだ」

 青年は静かに返事をした。

「お父さんがドイツに行くこと、あまり驚いていないみたいだな。昨日の夜もあまり興味がなさそうにしていた」

「うん、驚いてないかな。親父が数日間も仕事でどこかへ出かけることなんてこれまで何度となくあったし、仕事のためにずっと部屋に籠って出てこないなんてこともたくさんあった。会うことが無ければ、東京に行くのも、部屋にいるのも、ヨーロッパに行くのも、同じことだから。それに、親子と言っても男同士なんてそんなものさ。余計な干渉がいらないから楽さ」

「正樹は根本的にあまりお父さんに興味が無いような気がするんだが」

「どうかな、色んな条件が混ざってこういう対応になっているのさ」

「お父さんの本を読んだことはなさそうだね」

「ないかな、桜はあるの?」

「見たことはあるが」

 奇妙な言い回し。

「見たこと、は……ある?」

「ああ、見たことはあるんだが読んだことがないんだ。実を言うと、私は字が読めないんだ。文字を読もうとしても、意味を汲みとれない脳の障害があって。だからお父さんの作品も、読んだことがない」

「文字の意味を認識できない……」

 言葉は勝手に口をついて出た。知識を呼び起こす作業のひとつとして、青年は姉の言葉の意味を確認するように独り言を呟いていた。

「皆と同じように学校教育を受けたが、私は字が読めるようにはならなかった。Dyslexia……日本語ではなんと言うんだったろう……」

「失読症」

 青年は医学書を読んで覚えた学習障害の名を称えた。

「お、知っているのなら話が早い。知っての通り私は文字を読んでも意味を認識できない。日本では珍しいことではあるが、英語圏の人間には特に多くてアメリカでは程度の違いこそあるけれど、人口の一割程の人間がこの学習障害に苦しんでいる。私もそのなかのひとりだったというわけだ」

「日本語のように文字自体に意味のある言葉ならば失読症になる確率は低いけれど、英語のように文字自体に意味のない言語を使う人の間では失読症は増えてしまうんだよね。アインシュタイン、ダヴィンチ、ピカソ、モーツァルト、ベートーベン、ジョン・レノンもそうだった、とどこかで読んだことがある。説によれば、失読症の人間は左脳の機能障害によって右脳で左脳の機能を補っているために、必然的に右脳の能力が向上することがあるらしい。失読症の人間が絵の才能に長けるのは右脳の空間認識能力が秀でているからという可能性があると僕は思う。本人の努力が一番あるのだろうけど、君が美大の教授の目に留まるほどの美術の才能を持っているのはそのためかもしれないね」

「やたらと詳しいな」

「本で読んだんだよ」

「そう。まぁ、はっきり言って面倒な症状だ」

「うん……そうだね」

「でも片方で、私には絵があるから字が読めなくてもいいのかなという気持ちもあるんだ。手放しでは喜べないが、人より失った物もあるけど得た物もあると思える」

(過去に脳の損傷のもととなる事故があったのだろうか。失読症にも種類があり、漢字は読めないが仮名文字は読めたり、その逆もあったり、また何も読めなかったりと、症状の種類によって脳の損傷部分が異なると聞く。脳が損傷を受ける原因は事故や虐待が一般的だ。元々読めない人間もいるのだが、……虐待か。桜の話には父親が出てきても母親が出てこない。まさか母親に虐待されて字が読めなくなったということか)

「どうしたんだ。恐い顔だ。そんな顔をされると、お姉ちゃん、心配だ」

「え、ああ……」

 ふいに気付く。眉間に力が入っていた。力みをほどいて問う。

「無粋なことを聞く」

「なんでも聞いていいぞ。家族なんだからな」

「幼い頃、頭部に怪我をしたことはあるかい。母親が原因で」

 声を失った姉の表情が、踏み潰された真冬の霜のように儚い。

「あ、あははは……」姉は力なく笑った。

 綴るという言葉には文章を書くという意味と繋ぎ合わせるという意味があるが、桜は文字が綴れず青年は心を綴れない。

「デリカシーを欠いた言動だった。申し訳ない」

 寒い思考を切り捨て謝った。桜の表情に仄明るい緋色が灯った。

「あはは、いやいや。ちょっと驚いただけなんだ。長いこと母親のことなんか忘れていたから」

「悪かった。つまらないことを聞いた」

「いいや、寧ろ聞いてくれて嬉しいぞ。ちなみに虐待は受けてないからな」

 彼女なりの心配りか、姉は悪戯を仕掛けた少年のように笑った。青年は姉の笑い声をやさしく断ち切るように微笑んで次の問いをした。

「母親は、どんな人だったんだ?」

 すると如何にもな、予想通りの答えが返ってきた。

「詳しくは私も知らない。母親は私が生まれてすぐに失踪してしまったらしいからな。ただ、お父さんは、私を母親の手から逃れさせるために私を施設に預けたと言っていたことがあった……おそらく母親にとって私は目障りな赤ん坊だったのだろう。

 とうとうお父さんは私に真相を教えてくれないまま逝ってしまったけれど、お父さんが私に付きっ切りだったから、母親は私にお父さんを奪われたと感じて私が憎らしくなったんじゃないかと思っている。

 母親から私を逃がすために、お父さんは私を一度手放した。そしてすぐにまた私を連れ戻しに来た。

 元々天涯孤独だった私の父親は、妻を失って再び孤独になってしまった。お父さんは苦しんでいた。その苦しみを見ながら私は育った。私は父のことが好きだったよ。肉親は父親以外誰もいなかったからな。

 私は母のことはたくさん憎んだよ。顔も知らない相手だけど、産みの親だけど、すごく憎んだ」

「憎むには十分な理由だ」

「そう言ってもらうと気が楽だ。でもな、いまとなってはどうだっていいことなんだ。昔は母親のことなんか、存在すら否定するほど憎んでいたんだけどな。

 小さい頃な、学校に通うようになって、字が読めないことがわかった私は怒り狂った。……いや、あれはなんだったのかな。怒りとも悲しみとも言えない不可解な苛立ちだった。私はずっと暴れた。三日三晩、暴れ続けた。原罪を生んだ張本人――会ったこともない母親に贖罪を求めて叫び続けた。父に、教師に、学友に、当たり散らした。でも暴れたら、熱が冷めた。四日後、私は諦めていた。怒ってみても字が読めるようになるわけじゃない。私は学んだ。それから私は二日間、眠り続けた。起きたとき、やっぱり私は字が読めなかった。でも前向きな妥協と言うのだろうか、不思議と怒りはなく、私は自分の体を受け入れることができていた。

 もう字なんか読めなくてもいいと思って、前向きな諦めができるようになった。母親のことも、字のことも。

それでも前はね、字が読めないことで自分だけ宇宙人のような疎外感を味わったこともあったけれど、それを否定的に考えることはやめてしまったし、文字という記号を介して人と交信できなくても私にはまだ声があるし他にもコミュニケーション手段はあるだろうし、強くなる道がなくなったわけじゃない。だからいまは昔ほど排他的じゃない。だからこれから色んなことを受け入れたいと思うし……受け入れて欲しい」

 最後の一言は、咽喉から絞り出すように発した。

「うん、大丈夫。心配なんかしなくていい。ここを生まれ育った場所だと思ってくれていいから」

「うん、ありがとう……」

「それとさっきの話だけれど、字が読めないとわかったのは海外の学校にいたときでいいのかな?」

「うん、小学校に入ったときはアメリカにいたから、そのときの話だ。ここに来る前はフランスにいたけど、その前はオランダとかにもいた。度々日本に住むことはあったけれど、だいたいは欧米諸国をぐるぐる回っていた気がする。そしてその都度、私は文字を認識できなかった」

(日本語、英語、フランス語、オランダ語、その全てが読めないのか。知的障害があるわけでもないのに奇妙な……失読症は当然のごとく脳の機能不全が原因だが、読めない言語形態の違いによって脳の機能不全の場所は異なり、文字が意味を持つ日本語や中国語と、アルファベットを使用する言語では脳の使用され方が異なるから、桜がどんな文字も読めないのは不思議なのかもしれない)

 しかし文字が読めなくとも生きては行ける、青年のように月に三十冊程度読む人間や、あけびのように月にその十倍以上の書籍を読破する活字中毒のビブリオマニアもいるくらいで、この多読の書籍収集家はHoardingという不安型精神症かもしれないとは思っていたが、蒐集癖があるとしても、好きで集めるものは彼女の個室のみに詰められるという話で、少女が目を通すのみに終わってたいして思い入れのない書籍は蔵に収まるということから、少女を精神症とする判断は正鵠を得てはいぬかもしれぬ、と青年はかく考えた。他方、年間五冊程度しか読まぬ失読状態の柊のような人間もいることから、失読症とは読めないという症状のことと、読めはするが読むことのない状態のことも言うのではなかろうか、と青年は他愛の無い思いを巡らせ、またまた別種の他愛のない事柄を舌に乗せた。

「横文字の日本語を縦にして読みたがるような脳の癖とは違うのだね」

「私の場合は脳の癖とは違って、学習障害なんだ。治療プランはあるがそれは米国での話で、日本ではまだ遅い。言語形態が違えば使う脳の部位も違うからな……」

 彼女には文字を介して得られる一切の可能性が無い。

 知恵として昇華されず行為に応用されない知識は蒼白い学究の虚栄であるが、それでも読書を愛することは素晴らしい行為である。しかし世間に氾濫するジャンクフードのような情報の摂取を少しでも免れることが出来るのなら、桜の文盲は才能なのではなかろうか、と青年、この姉は文章を読むことによる心の汚染を回避できるのだ、と思う。

「字なんか読めなくて良い。読めるようになる必要なんてないんだ」

(そうすれば少なくとも文字による汚染は免れる)

 人間は言語によって社会を、社会によって知性を、知性によって秩序を、秩序によって文明を進めた。斯様な秩序ある国家のなかで初めて個人に、孤立していては決して得られない無数の機会と手段とは開かれた。それゆえ孤立して生きるためには、人は動物であるか、それとも神であるか、そのどちらかでなければならない。

 青年は桜に動物性と神性を同時に見出していた。

「そうだな……私としては生まれつき字が読めないから、いまとなっては不便かどうかの判断も曖昧になってしまったんだ。だから必要かどうかもよくわからない。でも私は本が好きなんだ。色んな物語が好きだった」

「へえ、読んでもらっていたのか?」

「うん、字が読めないぶんお父さんによく読んでもらった。私はお父さんに本を読んでもらうのが好きだった。グリム、アンデルセン、トルストイ、ツルゲーネフ。高校生の頃はクラスの人や先生から、絵を描いてあげる代わりにショーペンハウアーやニーチェやキルケゴールやスタンダールを音読してもらった。もちろんお父さんにも。そういえばフランスにいるとき、先生にマルグリット・ド・ナヴァルという作家の本を読んでもらおうとしたんだが拒否されたんだが、あれはなぜなんだ。正樹、いつか私に読んでくれないか?」

「マルグリット・ド・ナヴァルね。読んであげてもいいけど」

「本当か? 彼女の作品を知っているのか?」

「以前、読んだことがある」

「大まかな内容を教えてくれるか。作者のことでもいいし作風のことでもいい。読んだ感想でもいいんだ。教えてほしい」

「そうだな、作者は昔のフランスの王女で、例えば彼女のエプタメロンという短編集は、性愛を主なテーマとして取り扱っている、といった内容なのだけれど、文章は雅で、不貞といった非道徳的な事象と絡めて宗教的な観念を上手く使っている。感想としてはこんなものかな。先生はたぶん君のことをませた子供だと思い、侮辱されたと思ったのかもしれないね」

「うっ……」

 桜は視線を床に落として赤く頬を染め、

「どうした?」

 ばつが悪そうに告げた。

「ちょっと……行ってくるから、早く朝ごはんを食べに来るんだぞ」

「言ってくるってどこに?」

「デュシャンの泉」

「ああ、そう」

「わ、わかったのか?」

 手洗いのことである。

「わかっちゃいけなかった?」

「あう」

「自分から言ったくせに」

「うっ」

「赤面するくらい恥ずかしいことをなぜわざわざいったのでしょう」

「……ううう」

 桜はむすっとして、頬を紅潮させながら青年を睨んだが、微笑む青年に負けて、「いじわる」とだけ言い放ち、背を向けて去った。

 柊の部屋にひとり残った青年が、口元に片手を当てて栗鼠のように笑う、姉が妹に悪戯を仕掛けて虐めたときのような、中性的な仕草。

 外は晴れていたが気分が優れているのは天候のせいではない、悪夢が去った後の目覚めの一番に綺麗な姉の顔があったからに他なく、これから度々で良いから朝の迎えは彼女にしてほしいものだと青年は目を閉じて沈思黙考するのであった。来るその朝に焦がれながら。あの姉の、未熟であるが蒼く凛としたあの姉の、顔から四肢までも朱に重ね塗りして恥ずかしんだ朝の、自分だけが知っているあの姿態を暗闇の画布に立ち上げると、それだけで夜着に染みついた嫌味な寝汗も涼風を受けたように清かに変わる。体に痛みは感じられない。良い気分で部屋を出た。

 顔を洗い寝惚けの身を引き締めて食卓へ向かうと、桜のいう通り朝食の仕度はほとんど済んでいるようで、女たちが其々で食器なんど運んでいる。父親の姿はなく、代わりに新しい姉がいる。朝の食卓を囲む人数に変わりはないが、自分以外のここにいる人間は全て女なのだということが、この家には元々男は自分と父親しかおらず女のほうが多かったのだと改めて知らせる。あの姉が――女がひとり増えたせいで、元からいたはずの母や妹たちまでもが女の香りを増したように思いなされたのは気のせいか。

「おはようございます」

 縁側にふらりと現れた青年に最初に声をかけたのは母であった。

「おはよう……」と青年も挨拶を返す。

「おはよー」と遅れてあけびも続く。笑顔であった。

 彼女は良い子に見える。

 次は桜である。声をかけようと思えば母よりも先にかけることができたこの姉であったが、先刻の逢引きまがいの戯れがあってか、少々吃音を発し語尾を跳ね上げながら、遅れがちに、忙しなく視線の有り場を探しながら、

「……お、遅い、早く食べるぞっ」

 と苦心しながら告げるだけでもやっとのようであったが、それは柊も似たようなものだった。

「おはよ」

 と短く切れた挨拶で、肩を縮こまらせて目を合わせようとしないこの末っ子は、昨晩の自分の涙と起床してすぐ、耐えられずに兄の隣から去ってしまったことを思い出し、未だ数分前のこととは言えど、いまさら顔を合わせるのはこのうえなく羞恥心を掻き立てられるようであった。しかし言いたいことは言いたいようで、桜と柊は青年のほうへ歩み、近づくと、左右から、

「昨夜のことは――」

「今朝のことは――」

 同時に、

「「誰にも――」」

 耳元へ、

「「言わないように――」」

 と囁いた、刺々しく、困り顔で。

 青年が目を見開き、眉を上げた剽軽な顔をして固まった隙に、ふたりの姉妹は頬を膨らませ唇を尖らせて素早くくるりと反転し、また席に戻る。

 何もなかったように青年が席について朝食は始まった。母もあけびもこのことには何も口を挟まなかった。まるで見えていなかったとでもいうように、全く。あるいはふたりにわからないようなタイミングをあの姉妹は選んだのか。

「いただきます」

 五人の合唱が温かい食卓に響き渡る。落ち着いた雰囲気ではあったものの女が四人もいれば会話は弾み、話題は月の裏まで飛んでしまいそうなほどに飛びに飛んで、永久に終わらないのではないかと思われる。彼女たちは欧州へ旅だった父の安否を気遣い、そして土産話に期待を膨らませていたが、青年には彼女たちの会話が薄ぼんやりとした霧の向こうでなされているもののように感じられ、会話の内容をうまく思い出すことができそうにもなかった。

 その日、青年と桜はたわいのない話をした。きっかけは、今朝、桜が青年にした絵の約束のことであった。

 青年と同じように縁側を気に入った姉は、青年の隣に座している。すると、柊がふたりに話しかけた。

「桜お姉ちゃんがお兄ちゃんの絵を描くんでしょ? 私見てていい?」

「いいぞ。いいよな、正樹?」

「良いけど。柊も知っていたのか。桜が絵を描くって」

「私が朝ごはんの時に言ったじゃないか」

「お兄ちゃんはぼうっとしていたから知らないんだよね」

「僕は呆けていたのか」

「かなりな。体調が悪いのなら今日はやめておくか?」

「あまり長い間同じポーズをしているのは辛いかもしれない。今は元気だけどいつ痛み出すかわからないからな……でも、いいや。痛み出したら休憩すれば良いわけだし」

「無理はしなくていいぞ。絵のモデルは結構な重労働だからな。やるとしても早く済ませるつもりだが、まぁ、気が向いたら言ってくれ」

「そうする。ありがとう」

「あはは、感謝するのはこっちのほうだ。勝手なお願いに応えてくれるっていうんだから」

「ねえねえ。私、お姉ちゃんが今まで描いた絵を見てみたいな」

「ほほほほほー」

 桜が演技めいた笑い方をする。

「ナイスな提案だね。そんな良い子にはお姉ちゃんの絵を見せてあげようかな」

「見せて、見せてっ」

 柊は飛び跳ねながら喜んでいる。

「いいぜぇーっ! 思春期の少女にはちっとばかし刺激が強いかもしれないが、特別に見せてやろう」

「お姉ちゃん、それ、えちぃの?」

「えちぃの?」

 と意味が分からないという風に姉が青年に視線を投げる。

「そのセバスチャンは服を着てる?」

「着てる、が、それがどうかしたのか?」

「着てるなら違うって言えばいい」

「違うって何が?」

「いや、えちぃのが」

「ああ、そうか。違う。違うよ」

「う、うん」

 柊は未知なる生物を目にしたような表情をしていた。

「なんだかよくわからなくなってきたぞ」

 桜が疑問を呈したが、青年は話を先に進めた。

「とにかく絵を見ようか」

「そうだな。それにしてもお前はしっかりしているな」

「なにが」

「いま私を助けてくれた気がする」

「たぶん気のせい」

「そうか?」

「いいから、早く絵を見せて。柊も待ってる」

 柊はにこにこしながら嬉しそうにふたりの様子を窺っていた。眩しいものでも見るような笑顔で。

「嬉しそうだな、妹よ」

 桜がこの家に来て姉となって、妹を妹と呼んだ初めてのことである。彼女は孤独を守り抜いていたと言っていたものの、環境変化に対しての適応力は備わっている。彼女は人に溶け込めぬ人間ではなく、あえてそうしていなかったのだと青年には感じられた。

 柊は照れていた。

「かわいいなぁ、もうっ!」と叫んで小柄な妹の肩を力いっぱい抱きしめ、両手を翼のように広げて、絵を取りに自室に駆けて行った桜を見て、更にその思いは強くなった。

「はぁ……びっくりした」

 後に残された柊は、坂を駆け上がった後のように息せいて、頬を上気させていた。

「大丈夫?」

 青年が横目で問う。

「なにかが……目覚めかけたよ」

「何が」

 眠たそうに半目で青年、妹に問う。

「ちょっと眠かったけど、いまので眠気ははじけ飛んだの」

「そういうこと」

 柊が女性に対しての性に目覚めたのかと思った、とは言わない青年である。

「そういうことって?」

「いや、なんでも」

 程無くして桜は現れた。後ろ手に隠した絵と共に、悪戯好きのする笑みを連れていた。

「それでは、お披露目と参りましょうか」

 快活に言う桜に乗って、柊も溌剌と。

「いえーい!」

「」

 姉が後ろ手に隠していたスケッチブックを床に置き、はらり――画用紙を一枚、開くと、そこには、

「うぎゃあああああああああッ!」

 地獄絵図としか形容できない悍ましきものが、妹の背筋を凍らせた。叫び声を上げ、半狂乱となったまま柊は逃走した。

「アフタフォローが必要かな」

 その様子を眠たい眼で眺めて、青年は呆れながら桜に告げた。

「いやいや、ごめんな。にっししっ」

 対して桜は実に嬉しそうなのだった。

「こういった絵を描くのかね、君は」

「なははは」と笑ってから「そうだが、だが勘違いしないでくれよ、私の頭がおかしくなったわけじゃない。遊びのつもりで、ベクシンスキーの真似をして描いてみたんだ。だから、私の頭がおかしくなったわけじゃないんだぞ?」

「ベクシンスキーは知っているしこういう絵がたくさんあることは知っているから、桜の頭がおかしいなんて思っていないさ」

「それならいいんだが、柊があそこまで叫ぶなんて思わなかった。お姉ちゃんちょっと落ち込んじゃったぞ」

「らりってるとしか思えん、と思いながら今頃は震えているかもね」

「後で埋め合わせしたほうがいいみたいだな」

「肉でも食わせとけばいいよ。種類はなんでもいいけど、皮がカリカリの腿肉をやっとけばなおよろしい。まず間違いはない」

「にしししっ、そうか」

 目を細めて笑う姉をしり目に、青年は桜の絵を再び見直す。

 ミイラのような人間と人間の体が抱き合うように溶けて結合し、なにやらひとつのモニュメントのように描かれている。直接的に死体やおぞましい怪物を描いているのではないにしろこの絵には死体やおぞましい怪物から感じられるのと同種の生々しい迫力があった。生々しく、虚しいobjectであった。この絵には彼女の体内を泳いでいるような気にさせる、陶酔を齎す魔力があり、目をそむけたくなるような嫌悪感に満ちているが、だからこそ目をそむけられなくなる。

「タイトルをつけるとするなら?」

「暖かな灰」

 桜は答えた。彼女は人とは違った見方をする。

 青年の視線に気づいた姉は、頁に手を伸ばす。

「こちらはどうかな?」

 と言いながら、ひらりと捲る新たな頁。

 関節があらゆる方向に曲がった人間たちが楽しそうに宙に浮いていた。

「こりゃあ、また、狂気の沙汰だね」

「その通り。狂気と不条理の世界。現実的ではない」

「確かに現実的ではないが」

「だが、私たちは不条理の仮想と現実の狭間に生きている。私の絵はお前の目から見たらとんでもない不条理かもしれないが、私は人間の世界をそのまま描いているんだ。絵は私という自己と世界の闘いだ。闘いだってコミュニケーションのひとつだからな。私は絵を描くことで闘い、人と繋がるんだ。人間の心なんてピカソの絵みたいなものじゃないか。ま、彼の絵画は計算されたデタラメだがな」

 と演説ぶちかます。

「だからこういう作風になるわけか。しかし、さっきのよりはだいぶましだが、普通の神経ならばまずこのような構図は思いつかないし描かないな」

「ありがとう。普通なんてものには何の価値もないからな。イカレテル、は私にとっては誉め言葉も同然だ」

「これはシャガールを模倣したのか?」

「よくわかったな。シャガールだな」

「好きな画家だから」

「そうなのか。私はダリとかも好きなんだ。でもこんなのお遊びで普段はあまり真似しないんだ。自分だけの物を作ることに価値があるから。究極の独りよがりかもしれないが、これは楽しい」

「壮大な夢だね」

「ああ」桜は満面の笑みを見せた。

「私はもっとめちゃくちゃなものを描きたいんだ」

「綺麗なものを描きたいとは思わないのかい」

「整っている芸術・綺麗な芸術は描いてもつまらないものなんだ。そんなものは嘘っぱちだし、なんの価値もない」

「なら、僕を描きたいと言ったのは僕の顔がめちゃくちゃだから?」含み笑いでいう。

「そ、そんなわけない! むしろお前の顔は……きれいすぎるくらい……」

「綺麗かはわからないけど、めちゃくちゃじゃないのになんで描きたいんだろう」

「それは、正樹が不思議な人だから……」

「赤くなってない?」

「ちっ、ちがう!」何が違うのか、とは聞かなかった。

「本当は、家族だから肖像画を描いておきたいと思ったんだよ!」

 しかし気付く。

「桜は、人の顔は描かないみたいだけど」

 桜のどの絵を見ても、人こそ登場すれど顔は描かれておらず、全てが顔のない姿。それが無意味・無意識とは考えられぬほどの徹底ぶりである。

「これは、痛いところを突かれたな」

 明らかに言いよどんで。

「偉そうなことを言っておいて、と思うかもしれないが、いま人の顔を描く気になれないんだ……だから治療も込めて、正樹にモデルになってほしい」

「いいよ。なってあげる、モデル」

「本当か。感謝する」

「しかし珍しいね。クロード・モネのエピソードを思い出すよ。モネは病床に伏せる奥さんの絵を描いていた自責の念と後悔からか、人の顔を描けなくなったと読んだことがある。顔のパーツなんて記号なのに」

「――――」

「単なる物質の形の違いなのに」

 桜は絶句していた。一呼吸、二呼吸おいて、動揺と共に口にする。

「そんなこと言う人、初めてだ」

「すごい驚きようだね」

「驚くさ。そんな風に思ったこと生まれて一度だってなかった。別の星の文化を目の当たりにしたようだ」

「そこまでいうかね。でも、そうだね、言うことを間違えたかもしれない」

 昆虫の顔が皆同じに見えるように人の顔も皆同じに見えることがある、とは言えそうにない青年である。睡魔に襲われるとそのような気分になるとも言えるはずもなく、話題は絵の感想に移った。彼には情緒の前に血がないのだった。

「顔を描かないという共通点はあるけど、モネは夢のように美しい情景を描くよね。例えば老女が少女だったころの、嘗て憧れた少年との逢瀬を懐古しているときのような、どうしようもなさの漂う、切なくて暖かくて美しい夢だ。けれど、桜は悪夢を描いている。それは黒くて醜くて汚くていやらしいもの。でも美しくて魔性の力があって、だから観るものを引き付ける。桜の絵にはそういう力があると思う」

「――――――――」

 桜は何も答えなかった。変わりに、肩を震わせていた。

「どうしたの?」青年が問いかける。

 ぽつりと、姉が震える声で言った。

「感想を……もうちょっと聞かせてほしい」

「嗚呼、うん、そうだね」

 と、花弁の筆で描いたようなひそやかなる唇にそっと指を乗せて、青年、床の絵を見つめ続けて沈思すること数秒、ぎりぎりと虫が奏でるような音が姉の奥歯からそろそろ出てこようかという折になって、姉の、青年を見澄ましたその熱で陽炎が立ち上ろうかという頃、青年はふわりと笑んで、「とても美しいね」と誠実に感想を述べた。

 姉の表情は打たれたように固まって、続きの言葉を求めた。

「そして……それから?」

 感情の高まりに遅れて表情が付いて行くように、じわじわと頬が朱に染まりだし、遅れがちに瞳に期待の赤鴇色が灯った。

「そして」

「そして?」

 濃紺の声色で青年は絵画の評価を説く。

「とても気持ち悪いとも思う」

 簡素な答えだった。

 奥歯に力を入れて噛んだために眉間が盛り上がり、あまりにも強く手を握りしめているがために、姉の掌は白夜の太陽のように淡白く透けている。

 怒らせたかもしれない。否、憶測の範疇を既に超え、彼女の怒りと青年への叱責と失望は決定的な事項になってしまったのだろう。信頼しかけていた青年からの辛辣な物言いは、このふたりにとって溝を造る火種になりえるものである。青年は思う、己の性質を客観的に顧みて、正直に感想を述べたとして相手を不快な気分にさせる言葉を発し、事実相手が不快になるであろうということがわかっているとき、自分は正直に感想を述べるような人間だったろうか。否であった。青年は相手の喜ぶことを述べた。それも正しく、具体的に、笑顔で。

 それ故によりによってこの大切なときに限って、なぜ姉の作品に対して『きもちわるい』なんどと悪評を付したのか判然とせぬ。が、言わなければならないというある種の霊的な使命感を感じていたことも確かであって、言って良かったのだと青年は決めつけることにした。その結果、桜が憤慨するならば仕方のないことだったが、気にするべきことでもないと思った。青年はとうの昔に結果論を廃棄していた。

 俯いて震える姉は、小さく呻きながら怒りを耐えているように見えた。次の瞬間にはあらゆる罵倒が雨と降り続くものかと思われた。降りた前髪に隠れて目元の見えぬ姉の頬に、一筋の透明な粒が転がった。泣かせたか、とやはり青年は思う。

 俯いていた姉が青年と視線を合わせる。赤く充血して潤んだ目。刺すような視線で青年を見あげ、彼女はゆっくりと掌を広げ、腕を持ち上げ始めた。打たれてから謝罪の言葉を告げようと考えていたが、しかしまこと奇妙なことに青年は、

「お前は最高だ!」

 歓喜の言葉と共に抱きしめられていた。

「え」

 驚く青年に向けて、桜は興奮に浮かされながら語りだした。

「正樹、君は最高の鑑賞者だ! 怖い絵ばかり描いているわけじゃないのに、いままで誰に見せても、ろくに見もしないまま『うまいわね』とか『センスがいいね』とかしか言われたことがなかった。私の怒りや喜びや怨念や情熱や魂がぶちまけられている、そんなものが小綺麗なわけがない! わけがわからなくて気持ち悪いんだ! 綺麗と美しいは違うんだ! 醜悪なもののなかにこそ美がある。正樹はそれをわかってくれた! 私の技術や上辺を褒めてくれたんじゃなくて、ちゃんと奥にあるものを見つけてちゃんと評価してくれた。いろんなものがぐちゃぐちゃになってひとつになっているのが人間だ。そんなものは正樹の言う通りきもちわるいに決まってるんだ」

「うん、同意するよ」

「本当にありがとう。嬉しくて……涙が出そうだ」

「もう出てる」

 桜は拍子抜けした顔をして目元に手を当てると、また笑みに戻って言った。

「本当だ……そんなことも気が付かないくらい嬉しいんだな……こんなにちゃんと評価してくれたのはお父さん以外では正樹が初めてだ。あー……いま、すごく、すごく幸せな気分だ……」

 青年が何かに驚くということは実に稀な事柄であり、予測を外さぬ青年にとって、姉の反応は新鮮であった。彼女は青年の予想に反した。青年にとってこの姉の対応はやさしい裏切りだった。

 青年はふと思う。

(彼女ならもしかすると他者になりえるかもしれない……わかりあえるかもしれない……こんな僕とでも……)

「そんなに喜んでくれたなんて……正直にちゃんと答えてよかった」

「意外か? 全て理解して言っているものだと思っていたが」

「どうかな……ここまで喜ぶとはもちろん思っていなかったけど……ただ、遊びで描いた、真似して描いた、と言っても、それでも絵に対する真摯な姿勢と習慣のようなものは滲み出ていたと思う。だからちゃんと評価しなければならないという気になったんだ。桜の絵が優れていたからそうさせたんだよ」

「そうかそうか」

 木天蓼を与えられた猫のように目を細めてうんうんと頷く姉は明らかに上機嫌で、不図、青年の唇から呟きが漏れた。

「君は不思議な人だね。今、喜んだ君の姿を見て、嬉しいと思ってしまった」

 ハッとして口を噤むが時すでに遅しというもので、剥離した心の欠片は目前の姉の手の内にすでに捕らわれていた。

「にししししし、そうかねそうかね」

 と彼女特有の妙な笑い方をして、青年の頭に手を伸ばして撫でていたが、彼女の耳は真っ赤になっており、照れ隠しでやっていることが容易に知れた。彼女なりに姉として振舞おうと試みているのがわかった。

 青年は何も言わずに撫でさせていた。姉の笑みが止み、次第に鼻を啜るのが聞こえてきたからだった。得意げな笑みで、新しくできた弟を可愛がっていた彼女であったが、又しても目に涙を溜めていた。突風にさらされた吊り橋の上に佇むように姉の心は揺れに揺れているのが視認できる。理解はできた。そこに共感はなかったが。

「私、やっぱりここにきてよかったんだと思う。ここに来なかったら、ひとりで生きていける人間じゃなくて、ひとりでしか生きていけない人間になってしまっていたと思う。色んなものを拒絶して、内側を向いて、そして自分すらも拒絶して……だけど」

 声が震えていた。言葉は続かなかった。

 そう、とだけ告げて、青年は次の言葉を待つ。

「ごめんな……ここに来てから泣いてばかりだ……」

「やっぱり、まだ、お父さんに会いたいよね」

 ああっ……と嘆きの声が漏れる。

「理解しようとしてもだめなんだ。頭ではわかっているつもりなのに、淋しくて……淋しくて…しかたがないんだよう……本当に愛しているから、会わなくても良いとさえ思っていたのにっ……あああ……――――っ」

 どうにもならぬ苦しみを吐露し続ける姉の頭を青年は優しく撫で続ける。

「本当は、私が人の顔を描けなくなったのは最近のことなんだ」

「お父さんのことと関係があるのかい?」

「そう、私が人の顔を描けなくなったのは、お父さんの死と関係がある……お父さんが車の事故で死んだ後、棺の中で眠っているお父さんの顔を見たんだ……眠っているみたいに安らかなんだけど、生気が抜けて物みたいになっているお父さんの顔を見て、なぜだか私は、最後にお父さんの姿を絵に描かなきゃと思った。だから描いたよ必死に。泣き叫びながら。

 でもなぜか……お父さんの顔を描こうとしても、描けないんだ……文字が読めないみたいに、目の前にあるのにイメージが消えて筆が動かなかった。

 それから私は人の顔が描けなくなった。もちろん人の顔の違いはわかるし、これまで通り認識している。でも描けなくなった。本当に描けないんだ……」

 長い陳述が終わると桜は悲しみながらも落ち着いたのか、安堵していたようだった。いつのまにか青年の胸に顔を埋めていた姉は、ぼんやりしながら小さく囁いた。

「なぁ、まさき」

「なに」

「あけびと柊は妹って感じがするけれど、正樹は、弟という気がしない……なんだか私よりも年上みたい。お兄ちゃんみたいだな」

「僕が君より年上のようかはわからないけれど、僕は今までふたりの妹の兄として――――長男として生きてきたから桜がそう思うのもおかしくはない。あけびは長女だけれど兄という僕がいるから彼女は長女であり妹だったからね」

「じゃ、お兄ちゃんって呼んでいいか?」

 青年は考えるふりをして笑みを含みながらから囁いた。半分は冗談で。

「それはダメかな」

「な、なんで」

「変なことになる」

「もう変だよ」

「違いない」

 ふたりは笑顔である。桜は無意識的に、青年は意識的に。

「いつか人の顔が描けるようになるといいね」

「うん。そこは自分との闘いなんだろうな。描きたいと思っているのに描けないのは許せない」

「頑張って、応援するから。暗闇を見つめながら光を掴むようなことかもしれないけれど、君ならできるかも。僕はそう思っている。もともと共感しあえない人間同士に対して共感を求めようとするような君でもね。独り相撲と思われても発信し続けて欲しいと思う」

「馬鹿だと思わないのか。笑ってもいいんだ。正樹は、私がおかしいことをしているとは思わないのか」

「君のやろうとしていることは砂漠の中で失くした指輪を見つけるくらいに難しいことなんだろうけれど、真剣に取り組んでいるんだ、笑ったりしない。それに僕は探し物を手に入れた君を見てみたい」

「なんでそこまで言えるんだ」

「僕は。いや、なんでも」

(僕は探せない)

 すでに絶望しているから、とは言えず、青年は出かかる言葉をさらりと打ち切る。

「なんでもない、か」

 姉は笑む。

 肋骨が逆さに湾曲して外と内が反対になってしまいそうな気持ち悪さを覚え、青年は口を塞いだ。

 袋小路に行き詰ってしまいそうな先の見えた会話を混沌としたものに変えた青年、唐突に話題を逸らす。

「桜は人間の内面を写実的に表そうとしているんだと思う」

 桜は素直に首肯した。どこかに逃げたはずの柊が再び湧いて出てきた。

「しかし創作に対する姿勢は自己の抑圧された感情などのエネルギーの表現に思えるんだが、そう解釈していいかい」

「創作に対する姿勢だけじゃなくむしろすべてが自己満足だと思ってくれていいぞ。人に見せるつもりのない創作だってたくさんしてきたから。だが、抑圧されたエネルギーの表現といっても変な意味じゃないからな……」

 誰にも披露するつもりのない芸術を人は作るだろうか、しかしカフカのような生き方もあったわけだ、とかく呑気に考えていると姉がおかしなことを言う。性的な話題に移行する考えを持っていなかった青年は、姉の過剰な性に関する欲求不満の否定を、子供がするような、まさに抑圧された欲求の表現だと考えた。故に、姉の心理を慮ってそちらの話題に進みゆくのを避けた。

「僕と君のこの語らいは性別を超越したものだと思っている。創作意欲というものは性欲が別の形をとって顕在化したものだという解釈もあるくらいで、創作を語るのなら性欲の話は避けては通れないね。しかし、矛盾しているかもしれないが、だからあえて、君を女の子だと思って話しているつもりではないんだ。

 僕の問いが悪かった。嫌だったのなら謝る。

 僕の考え方以外にも創作の心得など多様にあると思うからね」

「いや、こちらこそすまなかった。お前の言うことは理解できる。ただ、私が絵を描いているときは自分を慰める行為かもしれないが、作品を観てもらうことにより、見られることによって快感を覚えるという、より高尚なものになるんだ」

「……君は……まぁいい。

 では桜の絵は他者がいなければ高次のものになれない、というわけかな」

「そうだな……作品の質自体は変わらないのに、観てもらっただけで高次になるというのは奇妙な話だがなぁ……」

「君の論理、わからなくもない」

「あのう……突っ込み役がいないボケはカオスの一途を辿るね。まるで無法地帯」

 黙ってふたりの討論を聞いていた柊であったが、自分が蚊帳の外に追い出されつあるのを知って、口をはさんだのであったが、当のふたりはつらつらと語り続けて収まりがつきそうにない。

「秩序の無い解放区は排泄物の吹き溜まりになるからな。

 そういえば私は常々、なぜ野外でする排泄行為は快感を伴うものなのだろうと不思議に思っていた」

「肉体の解放が精神の解放に繋がるからだろう。肉体と精神の相互関係はいまとなっては誰もがわかっていることだ。しかし、気持ち良いからといって不法投棄はいけない」

「私はなぜあなたたちの下劣な会話が高尚な会話に聞こえるのか不思議でたまらないわ」

 柊が吐息まじりに訴えたが姉は、意気揚々と聴衆の予想を覆した、それも意図せずして。

「私の言っている排泄行為とは鼻をかんだりすることのつもりだったんだが」

「たばかったな!」

 妹は声を荒げた。

「そのつもりはなかったが、いままで下ネタを言い続けてきて排泄行為の話を振れば誰もが下の話だと思ってしまう。思い込みや固定概念というのは時に恐ろしいものだということがよくわかるな」

「また下衆な話なのに真面目な話にしてしまった」

「固定概念とは常に戦うべきだ、柊」

「しかしそれは戦いというよりも、反発ではないか。反発は一見能動的な働きだが、実は受動的な対応だ。君の戦いに意志はあって主体的なものなのか。意志のない、抗うだけの行為の先にあるものは宙ぶらりんの自分だけだ。何かを得ても得たのは偽りの実感だけではないかい」

「全ての固定概念と戦うことは無理な話だ。私もそこまでは考えていない。何と戦うかの取捨選択は脳味噌が勝手にやってくれる。思想も行動も相互に変化していくものだしな」

「戦う対象として意識しているものはある?」

「正直……よくわかっていない。何かわからない怖いものに向けて、闇雲に銃を撃ち続けていると言われても仕方のないことを私はしている。強いて言えば、独りよがりの作品を作り出して共感してもらおうという卑怯で捻くれたことを考えている。他者との壁も分かり合える部分もどこにあるかわからない。だからいまは見えたものすべてに向けて銃を撃っていくしかない。打つ方向はどこでもいいんだ。たが、弾丸は自分のものでなければならない。それも純正の中の純正のものだ」

「受け取らせる気がないから弾丸なのかい」

「そう、莫迦で傲慢なことをやっていると思っているが、残念ながら私は他のやり方を知らない。これが自身の欠陥でもあるし色でもあるとも思っている。まったくの、自慢できない愚かな性だが」

「頑固者だね。敵を作りやすいタイプだと思っていたけれど、今の話を聞いてよくわかったよ。嫌いじゃないよ。傲慢な愚者、社会不適合者の論理といわれても仕方のないことかもしれない。桜のように芸に秀でた者でなければ、それを言い出すと簡単に爪弾きに遭う。

 君の場合は元から何にも属していなかったから爪弾きに遭うにも遭えないだろうがね。

 莫迦のようなことをしているけど莫迦ではないということは知っているよ」

「ちょっ……ものすごくひどいことを言われているような気がするんだが気のせいか?」

 桜は笑いながら言ったせいで声が震えていた。

「君の熱烈なファンだって言っているんだよ」

「ば、ばか……」

 姉は耳朶を赤く染めた。

 青年は姉を貫くように見つめた。彼女のことをもっと知りたいと思う。

「そんな真剣な顔で見ないでくれ……」

 青年から目を背けるも、彼女は自分の顔が熱くなっているのが嫌というほどわかった。

「私はお前を……見られない」

「どうした」

「見られない。だから、絵が描けない……」

 目を合わせようとしに姉のようすを疑問に思うふりをして、青年は彼女の頬に両手を置き、自分の顔と姉の顔を正対させた。青年の唐突な行動に姉は驚きふいに目を合わせるが、羞恥心に負けて視線を逸らし、

「や……やめっ!」

 と叫んで青年の胸を平手で押して、その場から早足で逃走した。これよりひとときもこの場にいられぬといった動揺が彼女の後姿から滲み出ていた。

 それからというもの、この姉は青年のいる手前、どうしたというのか、どうしようもなくおどおどとして、挙動不審な様を見せ始めるようになった。ふたりの距離に変化はないように青年には思えたが、姉は目に見えて狂い始めた。

 ……偏執的な気のある彼がついつい一点を穴の空くほど見詰めてしまうのは彼なりの理であり、又、その目付きの鋭さと熱視が相俟って、穴の空くほど、と言うのがますます相応しい。絵を凝視する青年の隣で、桜はいつもならばにやにやと嬉しそうに青年の姿を瞳に納めているところだが、しかし次第に時が経つにつれ何の因果か、姉は顔を伏せて顔を赤らめちらちらと青年のようすを横目に窺うだけでまるで落ち着きを失ってしまう。

 家族との語らいのなかで桜に話題を振ってみてもすぐに目を背けて、

「……あ、ああ」

 なんどと俯きがちに呟いてみるばかりで張り合いがない。が、病にかかったように変わってしまった姉であったが、落ち着きを取り戻し始めたときがあった。というのも、桜は青年との直接的な接触を避けながら、隠れて遠くから青年の姿を目で追うようになっていたからだった。

 桜は己の理念を曲げてまで青年との接触を避けた。他者との、個性・利己心のせめぎ合いの摩擦点に倫理性が生まれ、それを彼らは心と呼び、この姉はそれを肌で理解していたし、いままでもその感覚に基づき振舞ってきたが、青年のことを思うとどうもうまくいかなくなっていた。胸のなかで恐れと期待が綯交ぜになるという感覚を彼女は生まれて初めて味わっていた。

 ……自室へと続く廊下を歩く青年を、桜は柱の陰からじっと見つめていた。ドアを開閉させる音が消え、桜は青年が入室したことを確信した。後からついて行って、青年が何をしているのか、壁越しに音を聞いて推定しようと思っていたが「――――なにしてるの?」と背後からやさしく語りかけられることになろうとは思いもせず「ひゃっ!」と、声を跳ね上げて青年を背後に硬直した。彼女がハリネズミならばすべての針を飛ばして青年の身を串刺しにしていたであろうの驚きであったが、計算外だったのは桜だけ。青年はわざと幼稚に笑むくらいの余裕綽々の始末だから「じゃ、僕は部屋に入るとしようかね」とさらりと言い置いて部屋に入る。その姿態の隅々を、混乱したまま姉は見送っていた。

 姉をドアの前に残したままで青年はベッドにうつぶせになって寝ころんだが、佇立したままの姉をちらと眺めて「なにしてるの、そんなところで」とまたも意地悪く姉に質問を投げかけたが、形ある返答を望んだわけではない。青年は興味なさげに姉から目を逸らして、寝返りをして仰向けになった。

 予想外の行動をとり続ける青年を垣間見て、桜は混乱を覚えた。自分は侮辱されているのかもしれない、という気持ちもわずか浮かんだが、根本的にわけのわからぬ事態だったので、自分の気持ちの理解は諦めた。

 肩を震わせながら足に根が生えたようにその場から動かぬ姉にたいして青年は接触を試みてみようかという気になって、手を広げて「おいで、こっちにおいで」と呼びかける。驚いて瞬間的に目を大きく広げる桜にかまわず青年はさらに「だっこしてあげる」と。

 みるみるうちにこの姉は顔を紅色に染めはじめ、意思の籠った鋭い目つきで「バカにするな!」と青年に対して怒鳴り、くるりと背を向けて廊下へ出て行った…………筈であったが。

 すぐさま引き返して、燃えるように赤く咲いた顔を隠しながら廊下と部屋の敷居で立ち止まった。小さな涙の粒を目に溜めて。ふるふると身を震わせる姉であったが、葛藤などは簡単に欲に負けてしまうもの、次の瞬間には、姉は両手を広げ「だっこ」と親に甘える子供のような声で言い、青年に飛びついた。

 青年は、自分のものとして青年を独占したがった桜に深く関与せず自由にさせ、優しく宥めて安心させ、吸収してしまう時期が来たと思っていた。

「いろんなことが不安でしかたないんでしょう。知ってる。でも、もう大丈夫だから、安心して」

「……うん――」

 桜の世界から一人称と三人称が消え去る。我もなく彼もなく、あるのは、あなただけ、の、自我無き依存とその世界。爾来、彼女の変質は顕著であり、元来の行動的な性質もあってか、子犬のように純粋に青年のそばにいることを望み、求め、実行した。

 羞恥心が消失したわけではなかったが、青年のそばにいたいという単純な願望と、青年に拒絶されなかった事実が彼女に積極性を与えた。彼女はひたむきに青年を追った。未だ青年の前ではおどおどしてしまう彼女であったが、一緒に居たい気持ちがいつでも勝り、どこまでも青年の後を付いて行った。

 とある日など……否、平素、どこに行くにもあの姉は青年の腕に凌霄花――ノウゼンカズラ――の蔦ごとく絡みついてくるので、何を言っても無駄だと思っていたし面倒がりの青年であったから、桜が何をしてもいないものとして考えて、能面の無反応で、彼女のさせたいようにさせると決めた。それでも桜は青年のそばにいられるならば大変に満足らしく、青年にくっついては終始にこやかな笑みを浮かべていた。

 いつものように歩いていると早速、姉は腕に絡みついてきたが、手洗いに行って用を足したかった青年であったから、迷わず手洗いに向かった。青年は気にせずに手洗いのドアを開けてズボンを脱ぎ…………かけて、自分が用を足そうとしているのに未だ姉が目の前でにこにこしているのに気が付いて、嬉しそうに無言で笑む姉の肩を押して、手洗いの個室から無理矢理退かせた。ちなみにこの前日にこの姉は青年と入浴しようとして脱衣所でこのときのように肩を押されて夢破れたばかりであった。

 強引についてこようとする姉であったが、もちろん青年もひとりになるべきときはあったので、そのようなときはうまくやさしい言葉をかけて、姉が恥じ入って現実を忘れている間にさらりと消えた。

 …………良く晴れた日であった。青年は雲を見ていた。いつもより辛辣な悪夢を見た後に、脳髄で旋廻する熱を鎮めるため屋根に出ていた。

「おーい、まーさきー」

 桜が下から呼びかける。

「ん?」

 庭を見ると白のワンピースを着た桜が青年に手を振っている。

「なに?」

「いまから私もそっちに行くからー」

 どこから持ちだしたのか、桜は五メートルもする竹を肩に担いでいた。

「え、何する気?」

 桜は距離を測りながら後退する。助走距離を取っているかのようだ。

 桜は膝に力を溜めて、家に向かって走りだす。

「はい?」

 竹を地面に突き刺すと、棒高跳びよろしく跳ね上がり、屋根に飛び乗った。

「よう、正樹! かっこよかっただろ?」

「いや色々とおかしいシーンだったと思うけど」

「かっこよかった?」

「ふう……。いけない。いけない。私は萩原朔太郎の死なない蛸の眷族となって異次元に逃げ込むのです」

 青年は起き上がって歩みだそうとした。

「逃げたらあかんめぇー」

 しかし桜は涙目で青年に追いすがった。

「早く帰らないと、庭に干してる油揚げがコンドルに食べられちゃう」

「そ、そうなのかっ?」

「嘘なのだけれど……あぁ、ここまで盲目になってしまうなんて」

「え」

「ちょっと君からご都合主義キャラの匂いがしてきたから帰るとする」

 と言い置いて帰る青年を、姉は追わずに見送り、しばし行われ続けてきたこの静かなる狂騒も終わりを迎えたかに思えた、がしかし桜という人物がこのまま素直に折れるはずもなかった。彼女の沈黙は一時的な擬態であり、青年の心を注意から遠のけ警戒を緩めさせるための布石であった。

 青年の神経が緩和し始めていた頃、追跡は再開された。

「…………」

 彼女は再び手洗いにまで付いてきた。青年は姉の肩をやさしく手で押してドアを閉めた。

「…………」

 入浴も断った。

「…………」

 夜、部屋に鍵をかけて就寝に移ろうかと布団に潜りしばらくすると、姉が襖から現れた。闇に潜みながら一歩一歩、黒猫のようにゆっくりと床を這って青年の布団に近づいた。

 青年の布団に忍び込んで同衾しようと布団を摘まんだ瞬間、向こうを向いていた青年の顔がぐるりと回り、姉に冷えた汗を出させた。青年の瞼は初めから開いていた。

「襖の中にいることはずっと知ってたけど……何してんの?」

「や……やぁ!」

「こんな僕にも、人権というものがあってね。私生活というものも、あっていいと思うんだよ」

「てへ、ごみんなさい」

「はぁ……桜、ここまで振りの長いノリツッコミをした人間は希だと思う。たくさん君を泳がせた。文化人類学のひとつの資料として後世に伝えてもいいんじゃないかと思うくらい」

「そんなことしたら、正樹が有名になって正樹を求める女の子がたくさん現れてしまう」

「そんなことはないし、どちらにしても、桜の存在だけで一万人分くらいの圧があるのだから、もし誰か他の人が現れても今と変わらない」

「私の存在は正樹にとって一万人の女の子にも勝るのか! 私という人間がお前の中でそんなに大きくなっていたなんて」

「わざと意味を歪曲させて解釈しているのか。君は。わざとなの、ね、わざとなんだよね」

 このように軽く言ってみるくらいでは桜が折れることはなかった。次の日、青年が寝ようとすると姉が天井に張り付いていた。

「いや、こわいから」

 その次の日は畳の下から現れ出た。

「突っ込む間もない」

 また次の日は壁から現れた。

「いつからここは忍者屋敷になったの」

 また次の日は天井裏から降りてきた。

「最初と言っていることが全然違うと思うのだけれど、どう思うの、君は」

「正樹が……そうさせたんじゃないか」

「なんでや」

 姉の蟀谷に拳を当てて捻じる。

「い、いたい……いたい」

 明らかに喜んでいた。

「制裁になっていない……」

「あは」

「僕はこの家を忍者屋敷にしてほしいなんて言ってないからね。君はなんでアタルがラムチャンから逃げるのかわからないのかね。ギャグ調にしたってダメなものはダメなんだからね」

「一緒にいたいんだ!」

「桜……残念でたまらない。孤高を貫いて気高く生きて行くこともできたのに。その黒髪ロングは何のためにあるんだ!」

「正樹の言っている意味、お姉ちゃんにはわからないぞ。きっとお前は頭が良すぎるんだ」

「皮肉を言っているならまだ笑えるけれど、君の発言は本気なのだろうね」

「何を言っているんだ? 当然じゃないか」

 この姉は青年の言葉に対してだけ曲解の天才である。

(防衛本能か……彼女は、自己愛によって俺に依存しているだけなのだろう。自己依存が他者依存に変化したが我欲の強度は変わっていないようだ)

 この我欲の強度というのは青年の思考していた通りのもので、どうあっても姉の行動は受け皿の大きな青年に我儘を通しただけのもので、これより他の発展はないように青年には思えたものだが、この姉は彼が思ったよりも――青年がそうさせたのかもしれないが――強く、青年とのある程度の距離感が形成されたと認識してからは、様々な奉仕的な試みを行うようになった。甲斐甲斐しく身の回りの世話をするようになったのである。

 これまでは榧とあけびと柊の三人で行っていた料理の仕度のほぼ全てをこの姉が自分でやりたいと言い出し、妹たちが受け持っていた部分のほとんどを自ら受け持つようになった。茶を淹れるとき、料理を盛り付けるとき、青年への、桜の心からの主張は幾度も続けられた。

 桜の目は饒舌にこう述べていた、『あなたに仕えます』と。

(緊密に編まれた天鵞絨はほどけかけている。ほつれた天鵞絨にもはや愛でる価値なんぞ有りはしない。遠くに伸ばした両手では、自分の体は磨けない。最悪の事態が迫る前にどうにかしなければな……)

 とは思いはしても、桜の暴走を止めることはなかなかできそうにもなかった。青年は、高尚な理想と心地よい現実のあいだで揺れ動いている己に焦燥を感じていた。

 とある日、青年が姉に黙って旧友との遊びに出かけ、終えて帰宅すると、玄関に桜が佇立していた。光線を浴びた雪のように煌びやかな表情が咲いて、「ご飯にする? お風呂にする?」と告げ、続けざまに、「それとも……」と来るものだから、青年は「カ・ブ・キ?」と、見栄を切った。

「なんで歌舞伎なんだよ! 違うだろ! ……そこは」

「ワ・キ・ゲ?」

 右手を天へ伸ばして左手で脇を押さえた。

「最初しか当たってないから!」

「難しいよこのクイズ」

「クイズじゃないけど……もう、いいよ……とほほ」

 と蔓のようにしなやかな腕をだらりと落して姉はため息をついて、「そういえば、どこに行っていたんだ? 探したぞ。天井裏も蔵も畳の下も探したけどどこにもいないじゃないか」

「桜の感覚で人探しをしても見つからないと思う」

「なんだか意地悪なことを言われた気がするぞ。バカな私にはわからないと思って難しいことを言うよな、お兄ちゃんは」

「お兄ちゃん禁止命令発動」

「お前は私よりしっかりしているからお兄ちゃんって呼んでもいいだろう? 私の方がひとつ年上だがな。これは我ながら素晴らしい提案だと思うんだが」

「前もダメっていったじゃないか。君が読めないのは字だけではないようだね」

 桜がはっとした顔をする。驚いているつもりだろうか。

「お前は言ってはいけないことを言った」

「だったらどうなの?」

「お前の家に毎日無言電話かけてやる」

「それ自分の家でもあるからって言って欲しいんだよね? 言って欲しいんだよね?」

「ぷん!」

「ぷん、とな」

「お前はなんて意地悪なんだ! そんなに意地悪するならこちらにも考えがあるからな!」

「なにそれ、どうせたいしたことないくせに」

「どう見ても呪いをかけているとしか思えないような正樹の肖像画を作製する。正樹が全裸で縛られている絵を精巧に描く」

「それはいやだね」

「なぁー。お兄ちゃんって呼んでいいだろぉー?」

「だめ」

「お兄ちゃん」

「お兄ちゃんって言うな」

「えへへ」

「うわー……こりゃあかん……」

(怒られて喜ぶとか変態すぎ)

「怒られて喜ぶとか変態すぎ」

「こら! 心の声が漏れてるぞ!」

「あ、ごめん」

「ふひ、ふひひ!」

「もう、ネバってしすぎだ。これじゃサルトルじゃなくてもゲロ吐くって」

「お兄ちゃんって呼んでいいですか?」

「いや、もう聞いてないよね。自分の願望まっしぐらだよね」

「だって正樹は落ち着いてるし、なんかこう……包み込んでくれるからな。これはもうお兄ちゃんでしかありえないじゃないか。お前はお兄ちゃんという生物すぎると思うんだ。お兄ちゃん率百パーセントの紛うことなきお兄ちゃんだ。お兄ちゃんまっしぐらだっ」

 ふたりの会話の声を聞きつけた柊が話に飛び込んできた。

「それはちょっと違うよお姉ちゃん。お兄ちゃんはたまにひどいボケぶっこんでくるんだよ。ゲロマジえげつないから。しかもだいたいは嫌がらせだよ。しっかりした人じゃない。だいぶ抜けてるんだから」

「どんなどんなどんな?」

 柊の言葉に桜は興味を持った。

「面白そうに聞いているんじゃない」

 嬉戯の延長として言葉を放った姉を小さく制した青年であったが、妹の柊はここ数日のうちに受けた青年からの被害を簡潔に纏めた。

「最近だとあれかな。お兄ちゃんが裸で家のなかを練り歩いた件。中学生女子の前でなんてことをしてくれたの。あれで私は天に召してしまいました。御愁傷様です。本当にありがとうございました」

 柊はむすっとして、右斜め上にある兄の顔をチラと確認して、呆れを込めながらさらにこう締めくくった。

「いつもはちゃんとしてるのになー」

 白皙の少女のような堀のある目元が、いつにも増して陰りを見せた。

「決めた」

 桜が唐突に言う。

「何をだ」

「うん、決めたッ、決めた、決めたッ」

「だからなにを」

「やはり、正樹の方が私よりしっかりしている。まるで年上と思える位に」

「いまの柊の話、聞いてた?」

「私は上下関係という実を伴わない形だけの人間関係は嫌いだから、やはり私は正樹をお兄ちゃんと呼ぶことに決めたんだ」

「さっきから意味不明すぎる。宇宙人」

「まぁ、そうおっしゃらずに」

「だいたい、上下関係が嫌いなら兄やら妹やら、形式を取りはらって名前だけで呼ぶのがいいんじゃないか。僕を兄と呼ぶなら、君が嫌いな上下関係の構造を順守していることになる」

「しかしその構造をあえて内側から破壊してみようと思う」

「理解が追い付きません」

「許可が下りたのでさっそくお兄ちゃんと呼ばせて頂くことにします、お兄さま」

「許可してないからね」

「私は、いままでずっと誰にも甘えずに育って来たんだ。でも、やっと……やっと、安心できる場所を手に入れたんだ。だから幼い頃から十分に甘えられなかった分、いま正樹に甘えたい! 甘えまくりたいんだ! 甘々でドロドロになるまで!」

「両親に甘えたらいいじゃないか」

「正樹のほうが仲良しだから正樹に甘えるー」

「おかしい、おかしい、おかしい。君は姉だからね」

「お姉ちゃんだから弟に甘えちゃいけないなんて法律はないし、私はお兄ちゃんが欲しかったところもあるから正樹をお兄ちゃんにして甘えるんだよ! そうなんだよ!」

「秩序がまたひとつ去っていくのか、我が家から」

 青年は左手であばらを押さえた。

 このようなことがあった日の夕食は青年にとって公開処刑も同然であった。

「なあ……お兄ちゃん。私の箸をとってくれませんか?」

(この子みんなの前でもお兄ちゃんって言いやがった。言いやがった)

「……あ、ああああ」

「……ななななな」

「……あわわわわわ。ぱくぱくぱく」

 榧、あけび、そして詳細を知悉していた柊までもがこの修正できそうにもない歪められた空気におののいた。青年と桜を除いた全員の目線が、縦に横にと泳いで溺れ。しらじらしくも、話を母とあけびよりも理解している柊は、唾を飲み込んで訥々と話し出す。

「冗談だよね、えへへへへ」

「これは、プレーです」

 柊の問題提起に母も賛同した。

「やっぱプレイなの?」あけびは自らの予想と真実の合致を確認した。

「ええ。ロールプレイ、ごっこ遊び、いわゆる世間一般で言われるところのプレイですね。お医者さんごっこ、先生と生徒ごっこなどなど……はう!」

 母の発言に、皆の視線がバタフライ。

「おほん……」と空咳打って、母は仰々しくふたりの男女に告げた。

「あなたたちがそういう関係を望むのでしたら、私たちはいつだって桜を正樹のお嫁さんとして迎えられるように……」

「安心して。いまのはこの子なりの冗談だと思うから」

(冗談じゃない。私は真剣だぞ。ダーリン?)

(ダーリン言うな。ともかく、彼らの前でお兄ちゃんって呼ぶのと、恋人みたいに振舞うのはやめれ)

(彼らって誰のこと?)

(家族に決まってる)

(なるほどね。じゃあ、妻のように振舞えってこと?)

(全然違うわい)

(お前の言っていることがよくわからないんだが)

(僕は桜が僕の恋人か妻かを話しているんじゃない。僕はこの家での秩序の話をしているの)

 桜と青年がひそひそと話をするが、意味がわからないふりをして聞いているあけびがわざと目を丸くしてふたりに問うた。

「ふたりともなにしゃべってたのー?」

「大きくなったらわかる」と青年。

「大きくなったらわかるよ」

 と桜が小さく笑いを漏らしながら言うも、

「黙ってなさい」と兄と呼ぶ弟に咎められる。

「ごめんなさい……」

「ううん、わかんないー」

 わからないふりをしてあけびが唸った。

「……………………」

 青年は沈黙に逃げた。

「それにしてもお兄ちゃんとお姉ちゃん、仲良さそうだねー。恋人さんたちみたいだよ?」

 柊が言った。

「そうだろ、そうだろ?」桜が言う。

 その日、桜は自主的に一日中、青年の部屋を掃除していた。理由は、柊の言葉が嬉しかったからだという。

 桜が青年の写実的な絵を描いたこともあった。顔の描けぬ姉は手先の器用な榧に青年の顔を描く依頼をしていた。

 そして、その絵と口づけを交わした。青年にとってはセクハラであるが、絵とは合意の上らしい。

(あの気高いアテナがとうとう本格的に腑抜けになってしまったんだな)とまで青年に思わせた。

 風呂に入れと姉に告げようと青年が姉の部屋を開けると、姉は青年の姿を描いた肖像に慕わしげに唇を押し付けていた。

「こんなに写実的な絵も描けたんだ。聞いてなかったな」

「それは当然、独創性が大切だと語る私だが、デッサンの基礎くらいはできるんだ。ピカソだって本当は写実的な絵も描けるのにあえてああいった絵を描いた。顔は母さんに描いてもらったがな。これで正樹の絵にチュッチュしてやるんだ」

「僕にとってはたんなるブラックジョークの域を越えてる」 

 その次の晩、風呂に入れと告げるため姉の部屋を訪れると、姉は青年の姿の等身大の人形にキスをしていた。

「…………」

 姉は青年の姿になど気づいていないといった風に青年の姿をした人形の唇にむしゃぶりついていたが、ある種その姿態には見せつけているようなわざとらしさもあった。

「んんっ……まさきぃ……」

 姉は嵐の日の海面のような激しさで舌を波立たせながら人形の唇を舐めまわす。

「僕がいるって知っていて、わざとやっているよね?」

 やっと桜は青年のほうを向いてしたり顔で答えた。

「妬いているのか?」

「あほですか、あほの子なんですか?」

「にししししし」

「それにしても君は……この僕を完璧に模した像に口づけなんて。変態が技術を持ったら碌なことにならないな」

「嫌なら、実物にキスさせるんだな」

「条件が悪くなっとるやないか」

「キスさせろーうおー」

「うおーじゃない、だめ」

「キスしてくれたらもうしないから」

「いーや」

「うう……本気なのに!」

「なおさらあかん」

 青年が波斯猫のように嫣然と微笑した。今日は落ち着いていたから、遊戯にふけっても安心だと思った故、姉と遊んでやろうという気になっていた。

「……しょうがない奴だよね、君は」

 そして抱き寄せた。友として、更生してほしいという気持ちがある。

「正樹……」

 驚く桜の、鎖骨から首筋へかけて舐め上げる。

「ひっ!」

「可愛い」

「恥ずかしいこと、……言うな」

「命令するなよ、お仕置き」

 舌先を耳に侵入させる。ほどなくして桜は耳朶も耳の内側も犯された。

「あっ……ああうっ」

「これで懲りた?」

「……して……いい……」

「え?」

「もっと……してほしい……」

 桜の肩を押さえて首を持つ。顔をじろじろとなめまわすように見た。桜が赤面して目をそらせる。自分から青年に接触するのは平気なのに、こう一度、青年から攻め込まれるとどうしようもなくなってしまう桜だった。

「な……、どうしたんだ」

「綺麗な顔」

 湯気が出るほど赤面した。またキス。

…………失神。

 ――――別の日、いつも青年と共にいたがる桜であったが、週末はさらに一緒にいようと躍起になる、友達から誘いがある青年であったが、桜からの誘いが先に入っていたために、桜の願いに付き合うことになっていた。

 ふたりは街に出た。

 曇天、なんでもない休日を満喫した。常に遠くあるかなきかの静かな音楽が流れていた。書店、喫茶店、映画館、と渡り歩いて公園にでもよって帰宅しようかと街を歩いていた折、前方から青年と桜を目がけて歩いてくる二人組の男と出会った。つくりもののように美しいふたりであったから、街を歩く青年と姉は非常に目立つ存在だった。道行く人間がふたりを凝視し、振り返り、連れ合いとふたりの美しさを話した。数人が、青年のことを男か女かで討論した。

「ねえ、ふたりともどこ行くの?」

 ひとりの男が青年たちに話しかけた。男たちの視線に性的な濁りがある。落ちたハンカチを届けてくれたわけでも、極楽浄土へ連れて行くための有難い説法を聞かせてくれるわけでもない、端的に、ナンパである。求めもしない相手から性的な期待を込めた目で見られる気持ち悪さを青年は思った。

 男たちを、数人の人間が憐れみを込めて見た。あんな綺麗所ふたり、つかまわるわけがない、と。

 遊んでやらないこともなかったが、この後の予定を崩したくなかった青年であった、無言で桜の手を引いて、男たちの前を通過した。が。

「ちょっと、話だけでも聞いてよ」

 青年の細い手首が、背後から男の手に握られた。青年は瞬時に表情を悪女の笑みに変え、演技めいた所作で言った。

「ナンパは悪いことだとは思わないけれど、下手糞で強引ね。下心を持つのも良いわ。それを開けっ広げにしろとはいわないけれど、でももう少し紳士的にしてほしいものだわ」

 元より青年の性別を誤解している男たちである、女の声を作って話す青年を、男たちは完全に同性だとは思っていない。

「な、なに言ってんの?」

 青年の発言に、男のひとりが動揺した。

「下手糞なんだから正直に言えばいいのよ。私と、したいんでしょう?」

「なっ?」

 冗談めいた言い方であったが、青年の言葉に男たちは絶句していた。先刻から女のふりをする青年を見て桜は吹き出しそうになっていたが、最後の言葉を聞いて耐えきれなくなった。

「ぷっ――――あひゃははははははははは!」

「ど、どうしたんだよ?」

 男は、狂ったように笑う桜に問う。

それについて、桜は男たちに言った。

「お前ら、そっちの気があるのかい? ひゃ、あはははははは!」

 桜の発言を聞いても男たちは事態を理解できずにいた。

「そっちの気?」

「この人たちゲイなのかな、ねえ、ダーリン?」

 男たちは桜の発言の意味をやっと理解したが、青年の性別が女ではないことは未だ信じられはしなかった。

 桃色の唇、白い肌、儚げな涼しい目元、可愛らしい頬と頤、華奢な四肢、女性的な美しい顔を持つ青年は、長身で細長い指を持っていても、度々このように性別を誤解されることがあった。そしてこのような自分の容姿を良いように思っていない青年にとって、性別を正確に認識されないことは青年の心中を複雑な問題で埋めた。

 青年はこの状況に飽き始めていた。しかし桜は笑う。

「ぐしししし」

 青年が姉をじとりと睨んだ。もちろん本気ではないが。

「からかってるの? 確かに背は高いけど、こんな可愛い顔で男ってことはないでしょ」

「いや男だよ」

「嘘でしょう?」

「本当」

「またまた」

 執拗な押し問答に桜も辟易し始め、

「もう、信じやがれよ馬鹿野郎共。よく見ろ」

 と言いながら青年の喉仏を指差した。

「この喉仏が目に入らぬか! この喉ブッタが!」

「おもしろい方に言い変えんでいいわい」

 地声に変えて桜を制した青年であったが、元来野太い声ではない青年の声である、男たちは未だ青年の性別を男だとは思っていなかった。

「それにこの胸!」

 男であるという証拠。喉仏の次は、胸らしい。桜は青年の背後に回って青年の胸をわし掴み、揉む。そして叫ぶ。

「この胸のどこに乳があるか、乳が!」

 背後で自分の無い胸を揉む姉に、青年は呆れ顔である。

「乙女がそんなこと言わない。言葉はエレガントに使うもの。君にそれを求めるのは酷かもしれないけれど、せめて下品な言葉は使っちゃだめ。せっかくの魅力が半減するよ。それに公衆の面前でなんてもっともいけない」

「……あい」

 桜はうつむいた。

 置いてきぼりを食らいかけていた男たちであったが、なんとか立て直したようである、青年の性別をどうにか信じることにし、その上での行動に移した。

「じゃあさ、こんなナヨナヨとした奴より俺たちと一緒に遊ぼうって」

「おいおい馬鹿言え。こいつはな、見た目は細いが脱いだらモリモリの――」

「こんな女みたいな奴が? 冗談」

「お前らな、大体において自然界では雄のほうが美しいんだ。こいつが綺麗な顔しているからってこいつを僻むんじゃない。このカスども」

 桜の挑発的な発言、男の額に浮く、青い筋。

「優しくしておけば、なんてこと言いやがるこのクソ女」

「おい……お前ら」

 青年の低い声が飛んだ。地の底から伝わるような暗い響きの。

「なんだ? ずっと黙っていると思ったら何か文句あんのかオカマ野郎?」

「ちょっと、こっちに来い」

 四人は裏路地に入った。

(桜がいるから手荒な真似はできないが)

 暗い路地。周囲には誰もいない。死角である。

 青年は桜に口づけをした。刹那、桜は柘榴のように赤面して気絶する。桜を横たえながら青年は思った。

(な、なんて簡単なんだ……)

 桜が気絶した瞬間、ことは終わっていた。男たちは意識を失って倒れていた。

(こんな奴ら、あれを使わずに済んだんだがな……)

 使えばあばらの痛みは極まる。青年は男ふたりの顎を瞬時に打ち抜き、物理的に気絶に持ち込むこともできた。

(しかし、何故か無性に腹が立った)

 青年は、気絶する男たちに力を行使し、今日の記憶を取り除き、新しい記憶を埋め込む。そして頸椎捻挫、大腿骨骨折、顎関節破壊、肋骨の一本を粉々にする。青年が手を加えた所を、誰も見ていなかったし証拠もない。なぜなら勝手に男たちが倒れたからだ。

「んん……」

 桜の頬を撫でて覚醒を促した。

「おはよう」

「なんだか正樹が私にキスをした現実を見た気がする……」

「まぁ、夢じゃないからね」

「ひゅう」

 再び気絶しようとする桜を青年が呼び戻した。

「起きて、そして帰ろう」

「こいつらは?」桜が問う。

「捨てたの」

 失神して横たわっている男たちを見下ろす青年は冗談めかして言った。

「そうか……」

 起き上がった桜は気絶する男たちの目の前まで行って悪態をつき始めた。

「ファックユーッ! このクソボケナスども!」

 口汚く男たちを罵りながら、桜は男たちを足蹴にした、猛烈に。

「このイカ野郎! 死にやがれ! 死にやがれ! 貴重なダーリンとの時間を邪魔しやがってッ! 死ねっ! 死ねッ! 百回死ねッ! 胸糞悪いんじゃ! 二度と目の前に現れんな! このダボがッ!」 

「それくらいにしておいたら?」

「ふう……」

「さっき言ったよね。汚い言葉を使っちゃだめ。綺麗な言葉を使って。せっかくの顔が台無しだから」

「ごめん」

 バツが悪そうに桜が言う。

「わかればよろしい」

「でも……」

「何?」

「怖かった~っん」

 姉は上目使いで青年を見つめながら言った。

「いやボコボコにしてたやん。それにさりげなくダーリンって言っていたし」

「てへ」

「あと」

「ん?」

「さっき俺が女の子と間違われていた時、君笑っていたよね」

「う……うん」

「後でお仕置きだよ」

「あうーん、でもわくわく、ほくほく!」

 桜は身を捩じらせた。明らかに興奮した面持ちで。

 公園に行くはずのふたりであったが、気分を変えに砂浜へ行った。そこで綺麗な貝殻を見つけた。貝殻を耳に当てて海の音を聞いた。

「子宮の音がする」と桜は言った。

 青年はこの姉を愛おしいと思った、物理的に。

 帰宅後、風呂に入ろうと青年は、着替えを手にかけて自室から脱衣所への廊下を歩いていたときであった、廊の床にべたりと背中をつけた桜が天井を仰いでいる、何かを待ち構えているかのごとく。

「なぁ……何をしているのか、教えてくれないか?」

「ここを通りたくば、私を踏んでから行け」

「ここを通りたくば私を倒して行け、の亜種?」

「顔を踏んでほしいんだ」

「ギャグ補正はまだ続いてる? ただの変態にしか見えないんだけど」

「言っている意味は分からないが、さぁ、私の顔を踏むんだ」

「僕もたいがいだとは思うが、桜、君の行動の方がはるかに、理解に苦しむ時がある」

「誠心誠意を込めて、曇りなき、心の月を、先だてて、顔を踏んでほしいんだ」

「僕の足は大地を踏むためにある。君にはサフランの花を贈ろう」

「うう……まさきぃ」

「うん?」

「あの……実は私、悪いことをしているんだ……」

「今度はなぁに?」

 姉は起き上がり、青年の目の前でスカートの裾を摘まんだ。潤んだ瞳を恥ずかしそうに伏せて、どこともなしに視線を床に彷徨わせて、姉は手首を反してスカートの裾をたくし上げる。と、彼女の下半身に装着されていたのは女物の下着ではなく、青年の下着であった。

「……悪いことしたから叱ってほしい」

 鉄拳制裁。

「おバカ! 人の下着を履くんじゃない!」

「いいっ! ありがとうございます! ありがとうございます!」

「はぁ…………はぁ……。自分の姉がこんな変態だとは思わなかった」

「待て、それは誤解だぞ! 私は変態じゃない! 私はただ正樹から邪険にされるとマゾヒスティックな欲動がフライ・トゥ・ザ・ムーンするだけなんだ! だが私は変態ではない!」

「…………」青年は姉を射殺すように見下ろした。

「ああぁ! いいなぁ、その目! もっとその目で睨んで、こんなに莫迦な私を詰って。……あぁ、踏まれたい。お前から所有物のように、物として扱われたいよぅ……」

「……顔を踏むって……」

「一回だけでいいんだ。顔を踏んでくれたらもうこんなこと言わないから」

「はぁ……わかった。でも顔を踏むだけでいいの?」

「えっ?」

「首輪をつけて飼ってあげようか?」

「う、嘘だろう? そんなこと言われると期待したくなる……」

「冗談だよ……お姉さん、あなたはいつも本気なんですね」

「私はいつだって本気だ」

「俺は君みたいな家族がいて本当に嬉しく思う」

「正樹の愛が五臓六腑にしみわたるよぉ」

 実際には五臓六腑しかないわけでもないし、また五臓六腑の中に含まれるサンショウという臓器も存在はしない。

「私、正樹のためにならなんでもできるよ。料理だって洗濯だってマッサージだって。背中も流すし、一緒に寝ることだって」

「それらは全て君の願望であるわけで」

「まー」

「もしかしてからかっているの? 人を舐めないでほしいね!」

「……わ、私は舐めてほしいし、正樹が良いというのなら舐めたい。あのときのように、私を舐めてくれ」

「そっちの舐めるじゃない! このエロビッチ!」

「心外だ! 私はエッチではあるがビッチではない」

「もう黙って!」

 間合いを詰めた。黙らせるべきだと判断した。

「近寄っちゃだめだ。体が火照る」

「全然、話が通じてない」

「正樹、大好きだ。愛してるよ!」

「はぁ……あのね、桜」

「ん?」

「自律していた君はもっと美しかった。気高い君はどこに行ったのだろうか。君は僕を好きなんじゃない。捕まえた相手に逃げられるのが嫌なだけなんだ。必死になって逃げられまいとして、僕の気持ちなど考えてはいられないんだろう。ここまで自分を投げ出せる人間をある意味羨ましくも思うけれど、君が好きなのは僕ではなく自分なんだ。

 桜、君の行いは、愛ではないんだ。愛は、君のように求めてばかりでは成立しない。

 愛は君の極端な心では、たどり着けない代物なんだ。愛は当事者同士の中間点を探して、そこにたどり着くための、痛みを伴う採掘作業なんだ。許してばかり、優しくしてばかり、求めてばかりでも成り立たない。容認と要求、受諾と拒否、秩序と奔放の両方が求められる。相手に対する形而下を超えた共感が必要なんだ。君は、僕に共感してる?」

 ここまで言って正座していた桜の顔がにやついているのが見受けられた。そして桜が言った。

「私のためにこんなに怒ってくれてるなんて……う、うれしい」

 青年は久々に愕然とした。

「……うわー」

(やはり、強力な自己愛のために自己を守りたいがために情報を湾曲させて認識しないといけないのか? 拒絶しているのに愛の美徳を盾にして自らの意志を通す共感力のなさ、このうえなくけたたましいばかりだ。なんという旺盛な自己愛だろうか)

 珍しく自棄になっていた。自分で自分の心を歪ませているのを認識していても、それがどうにもコントロールできない、できないというよりも、したくない、本当は。

彼も彼で、天邪鬼なのである。

「桜、君は以前、調和というのはぶつかり合うことだと言っていたね?」

「ああ、そうだな」

「依存もエゴだということがわかってやっているんだ?」

(まさか……桜は痛めつけられている僕を助けようとしてマゾヒストの振りをしている? 暴力を発散させて僕の衝動を軽減させるために? ……それはないよな)

「わからない……なにもわからないよ。こんな感情、経験したことがないんだ。これを恋というのか知らないけれど、今まで感じたことのない何かが発露したのはわかる。ただ、私のなかでどんどんお前という存在が大きくなって、大きくなって、止まらないんだ」

「桜、それは夢なんだ。巨大な幻想なんだよ。現実に冷める時がすぐに来るんだ」

「どちらでもいい。私にとって双方は変わらないものなんだ。ただ、お前が全てなんだ」

「なんでそこまで……」

 一拍、冷たい沈黙を刻んで、姉がぽつりと疑問を投げかけた。

「正樹は……いままで彼女がいたことはあるのか?」

 不安と羞恥がまじりあった面持ちで問うた姉であったが、青年は平然と答えにならぬ返答で。

「その質問に答えるまえに、桜、君は君に対して俺が誠実であることと、俺が俺に対して誠実であること、どちらを望む?」

 桜は困った後、疑問符をその美しい顔に浮かべながら想いを言葉に変えた。

「正樹が正樹に誠実であることを私は望む」

「そうか……」と青年、小さく言った声がかすれていた。

「今まで近しい関係になった人間はふたりいる」

 息を引き取るように驚いた桜であったが、やはりという気がもちろんあったために、彼女は黙って肯いて、青年の次の言葉を待った。

「ひとりは数年前に出会った同級生の女の子だった。彼女は親から虐待を受けていたから、俺はそれをやめさせた。親の手から離すために、何日かこの家で暮らしていたこともある。でもあれが一般的な恋と呼べるようなものだったのかは、未だにわからない。今はどこにいるかすらもわからないさ」

「も、……もうひとりは?」

「もうひとりは、今話した女の子と離れ離れになった後、五つ年下の顔のきれいな男の子と恋愛していたことがある」

「お、……男の子?」

「うん、そうだよ。いけないと思う?」

「いけ……いや、悪くないよ」

「もっと詳しく聞きたい?」

「そ、……その男の子とは、今はどうなっているんだ?」

「あの子も、もうどこにいるかすらもわからないよ」

「そうか……じゃあ、今は誰とも付き合ってないんだな?」

「そうだよ」

「そうなのか……勇気を出して聞いてよかった……」

 桜は小さな籠の中で戯れている栗鼠に向けるように小さく笑った。

 どのようなものにせよ青年の個人的な情報を得ることができたという喜びと達成感から、桜は安堵を勝ち得、又、その安堵は興奮への下火となった。

 明くる日、珍しく自分にまとわりついてこない桜を疑問に思いながら、青年は自室の扉を開ける。と、布団が人ひとり分盛り上がっているではないか。近づかなくてもわかる、姉が青年の布団に頭まで埋めて包まり、何やらもぞもぞと蠢いているのだと。しばらくすると、蠢きのせいで腰のあたりの布団がはだけ、姉の着衣が布団からはみ出したのだが、その着ているものが青年の服であったものだから青年は声をかけずにいられなかった。我が布団のなかで蠢く姉の裾を掴んで、問いかける。姉が自分の布団のなかで何をしていたのかを知っていながら。

「桜、これ俺のシャツなんだけど」

「ひっ!」

 仔馬のように叫んで、桜は身を硬直させた。恐る恐る布団から顔を出して、見下ろす青年の顔を出迎える。

「や、やぁ」

「やぁ、じゃないでしょ。どうして俺の服を着ているのかな? そして何をしているのかな?」

「正樹の服を着ているのは……正樹に包まれているような気がして、なんだかそれが嬉しくて……」

 姉は言葉を切って青年の布団の香りを吸い込んだ。

「ちょっと、なに人の布団の匂いかいでるの」

「い、いいじゃないかちょっとくらい! 正樹はいいにおいだ。お姉ちゃん、お前のせいでベロベロなんだ」

「なぜ横柄な態度にでる。君には根本的に教育が必要だな」

 布団に手をかける。

「あっ、ダメだッ!」

 布団をはいだ。

「ひゃぁっ!」

姉は下半身を露出させて、恥部を弄っていた。

「全部、見せてしまった……」

 これまで見せたことのないほど桜は全身を紅色に染めた。

「ごめんなさいは?」

「ごっ、ごめんなさい……」

「何に対するごめんなさい?」

「えっ? 私がこんなことしているから……」

「こんなこととは?」

「……じ、自分で、自分のを……」

 この言葉のときだけは姉は青年の顔を見ることができなかった。

「……ここらへん……正樹のことを思うと……おなかの下の辺りがすごく熱くて、ぽっぽってして……それで、手でいじり始めたら気持ち良くなって……」

 潤んだ眼で言う。桜は正座した。

 知識としては知っていたが、桜の性は体験に根差したものではない。本は読んでもらうが、友達はあまりいない、テレビもみない、そんな桜の無頓着な性の集大成が、いまはこれである。桜は性の情報――言葉は知っていたが、言葉は言葉でしかなかったから、彼女は何も知らなかった。何も。

「いい匂いがする。何の香水、使ってる?」

「使ってないよ、何も。というか本気でいい匂いって言ってる? 香水を使っていない僕が、いい匂いだって?」

「本当にそう思ってるが。どうかしたのか? なんというか甘くてすごく癖になる匂いがするんだが」

「いや、もう言わなくていい」

「なんだよ、なんでだよう」

「桜が僕を本能的に好きかもしれないってことが判明した、それだけ」

「えぇっ?」

「女の子は自分と遠い遺伝子――適した遺伝子――を持った異性を匂いで判別することができるんだってさ。多様な抗体を作って、丈夫な子供を産むためにね。だから女の子はその子にとって良い遺伝子、遠い遺伝子を持った異性の匂いをいい匂いだと思ってしまうものなんだ。思春期になった女の子が父親の匂いに対して拒絶的な反応を示すようになるのはそういう理由があるのさ。父は娘にとって酷似した遺伝子を持っているからね」

「わ、私は、愛の告白をしてしまったのか……?」

「まぁ、そういうことになる。というか、今さら君が自分で驚くこと? いや、話が逸れたね、僕たちは別の話をしていたんだ」

「あ、そうだそうだ」

「そうそう、桜、僕は自分で自分を慰めることを悪いことだなんて言わない。ここを使いたければ使えばいいよ。どうせ君はここでこうするのが初めてではないんだろう。ただ、ひとつだけ」

「うん」

「次からは、タオルを敷いてね」

 桜は涙を溜めて謝罪した。

「ご、ごめんなさいっ……」

 桜の下半身のまわり、そしてシーツには円形の濡れた個所があった。

「してほしかったら、指くらいでならしてあげる。だから、次からは自分で慰めるときはタオルを敷いてからしてね」

 童話の赤い小さな鶏のようになんでも自分でやる人間だったがこれに関しては、姉にまかせておくと自分の寝床が悲惨な末路を迎えるに違いないと思った。

「そ、それは、恥ずかしいよ……」

「冗談だから。恥じらう女の子は可愛いね」

「そ、そんなこと言ったら……もっと……変になる」

「気が向いたら言えばいい。そのときは呼んで」

「まーくんは優しいな……」

 姉は涙をこぼした。

「まず服をちゃんと着ようか」

「私……ここにきて良かったよっ。そうじゃなきゃまーくんに出会えなかった」

 もぞもぞ動きながら姉は着衣を正した。

「桜、聞いて……」

 姉は布団に座り、青年と正面から向き合った。青年は問う。

「ねえ、凌霄花の花言葉って知っている?」

「うん、でも突然――どうしたんだ?」

「凌霄花の花言葉は、豊富な愛情・愛らしい人・女性らしい人、そして、執着心」

「えっ……」

「鴇色のきれいな花が咲いている。薔薇のような激しい赤は薄れたけれど、これはこれできれいだと思っていた。凌霄花はつる科の植物で、巻き付いて上る木を必要とするけれど、時に絡みついた木を枯らしてしまうことがある。凌霄花の凌という字には、押し分けて前に進むという意味がある」

 凌霄花という植物は寿命の短い花であるが、夏の暑い時期だけ美しい花を咲かせる。

「他者に依存しながら、凌霄花は他者を破壊する。君にはそんなふうにはなってほしくない。これは単なる僕の願望だから許容しなくていいけれど。理解はできる?」

「私はいままで、凌霄花の蔓だったんだな……」

「かもしれないね。そして、それでは君の求める愛情は成り立たない。これまでみたいな狂騒的で一方的な関係ではなく、本当に僕と向き合いたいのなら、それ相応の覚悟が必要になる。それでも、良いの?」

 桜はいつになく真剣な顔で首肯した。

「はい」

 迷いはなかった。迷いなど捨ててきたから。いまは、迷い方を知らない。

 ふたりは濡れた桜の体を洗うためと、これまでのふたりの関係を洗うため、共に入浴をした。

 桜の化粧を正樹が取る。

「これから俺が許可しなければ、化粧をしてはいけないから」

「うん、わかった」

 染髪もだめ。もししていたらメッてする」

「メッ、されたい」

「染めた場合は、燃やしちゃうから」

「染めないし、化粧もしません」

「そのままが綺麗だ」

 浴槽に入り向かい合いながら話した。

「ひとつ聞きたいことがある。君はなぜ、ああまで僕に付きまとってちょっかいを出したの? ある種、桜らしいけれど、客観的に見てちょっとおかしいなとか、僕に嫌われるかもしれないからやめた方がいいだとか考えたことはなかったの?」

「異常なくらい、この人ならたくさん甘えさせてくれると思ったんだ。私がなにかちょっかいを出したときにお前は私を咎めるような眼差しを向けるけれど、それは本心ではなくて、本当は全く怒ってなんかいない。私はお前のあの目を、妹たちに向けるような優しい目だと解釈した。この人なら私を嫌いにならないでいてくれるかもしれないと思った。私はお前の眼の底にある寛容さにひかれたのだと思うんだ。だから私は、お前のあんな目を見るたびに、正樹にちょっかいを出して怒らせるべきだと思ったんだ」

「そう」

(俺の瞳の中には何も詰まってなんかいないよ……残念ながら、何も)

 素晴らしく簡素な和解であった。そもそもが仲違いすらしていなかったのかもしれないが。

「あのさ」

 桜が意を決して、言った。

「なに?」

「正樹……お風呂に入った後の、水を飲ませてほしいんだ……できなければ足を洗った後の水で良いから、飲ませてくれると嬉しい、かな……」

「それは僕を怒らせるためにわざと言っているのかな?」

「い、いや……これも本気だ……」

「莫迦っ、だめ」

 主人が飼い猫の子猫に向けるような、くしゃっと笑む顔を模写した青年であった。

 桜がこの家に来てから様々なことが変化した。

 平和な日々が続いた。

 だが青年は、嵐の前の静けさにも似た不穏さを感じていた。

 …………不確かな感情を持て余しながらもふたりの関係は安定的なものに移り変わり、あの姉はこれまでのような狂乱づくしの接触を青年に求めることも減ったのだが、これには当然の如く青年の精神的・父性的な包容が姉の彷徨える心に働いたからである、ふたりの関係性はある種の帰着を迎え、実生活にも楽しげな安寧が訪うていた。

 アンビバレントな価値観と複合的な思念と多面的で複雑怪奇な性質を持つ青年である、平素であれば表面上は穏やかに生活を全うする彼も、突発的に、他者にとって理解しがたい奇異荒唐たる怪事を曝すことも少なからずあった、かなり見知った間柄のみに限られることであったが。というのも、青年は人を驚かせることを好み、冗談で妹たちに可愛げな、ときには洒落にしてはちと刺激の強すぎる悪戯を仕掛けることがあり、今回は親しくなった姉を驚かせてみようと思っていたのだった。

 サングラスを装着し、右目から流血しているように見せるために目から下にかけて血糊を付着させた。先日から購入しておいた、眼球……をなまなましく模した玩具を手に持って、居間へ向かった。居間からは和やかな音楽が流れだしていた。壁際から覗くと、三姉妹が菓子を口に運びながら睦まじく談笑している。

 お話に夢中になって青年の接近に気付かぬ姉妹のすぐ側まで近づいた青年がこの先にすることは決まっていた、青年は姉妹に手の届く距離まで近寄り、姉妹たちが青年に気付くのと同じタイミングで……血糊のついた玩具の眼球を机に転がした。

 悲鳴、というよりも絶叫を上げたのは桜と柊であり、すぐさま混乱し始めたのもこのふたり。

「「うわあああああ!」」ふたりは同時に声を上げた。

「痛い……痛いよ――右目、出てきちゃった……」

「だだだ、大丈夫か!」

「どうしよう……痛い、痛い、痛い……」

「きゅ、救急車を呼ばなくちゃ!」

「だ、大丈夫」額に汗を滲ませながら青年は訴える。

「お前が擦ってくれたら治ると思う」

「ほ、本当か? でも、どこを?」

「胸のあたりをさすってくれたら痛みはまぎれると思う。眼球は後から自分で入れるから心配しないで……」

「お、お前、本当にそれで大丈夫なのか?」

「うん、大丈夫だよ。僕はスーパーマン。その気になれば体の再生くらいできる」

 死にぎわの人間の笑みで言う青年。

 撫でられて数秒後、

「不思議だ。桜には僕を治す力があるんだな」

 と青年は出任せを言うが、忠実な子犬の表情で桜は笑んだ。金閣寺戦法が効いた。

(駄目だ。こんな仮病ですら見抜けないほど……)

 しかしこの一件でさして動揺していない人物がいた。桜がこの家に来て長女から次女となった高校二年生の妹――あけびである。

「おにーちゃん手が込んでらっしゃるのー」

 子供が自作の詩を読むような明るい調子であけびが言った。

「それどこで買ったのー?」

「お前はやはり賢いな。まぁ、普通にわかることだが、驚かずに冷静に見極めたのは評価してもいいかな」

「え、なっ? 何の話だ?」

「ああ、この眼球は見ての通り玩具で、僕の眼球は取れてなんかいない。見ての通り健在である」

 と言いながら青年はサングラスを外してウインクした。

「はぁ、なんだ……よかったぁ」

 桜は抗議の声を上げるよりも青年の無事を第一に喜んだ。

「ごめんね」

「あはは、正樹がこんなお茶目な一面も持っていたなんてな」

「それにしてもこの目玉はリアルだよねぇー」

「なんでお前はこれが偽物だってわかったんだ?」

「だって本物だったら目の周りに筋肉がついているはずでしょー? それに眼球がこんなきれいな形のままポンと飛び出すことはないと思うのー」

「さすが本読みさんは博識だね」と青年は言う。

 数秒の会話を交わした青年と妹のふたりのあわいには、不明瞭な了解のようなものが生まれていた。そこには共感のようなものはなく、暗号で描かれた同じ説明書を別々に読み合ったといったような把握であったが。

 …………午後、買物のために母と街へ出る。

 クラシカルな装いながらも、榧が和服でなく現代的な洋服を纏うのは新鮮味のあふれることこの上なく、シンプルなレースの装飾の、涼しげな白のブラウスはタイトながらもするりと榧の身に馴染んで貞潔の象徴であるように榧を守り抜いていたが、一度そのボタンが解かれるならばたわやかな母性が豊穣の海となって目を覚まし花ひらくような、ある種の危うさを青年は思う。胸座の下にかかるのは、一双の小丘にも満たぬような未熟の種子でしかない榧であっても。

 このブラウスに限ったことではないが、女性向けの衣類は左手にボタンのついたものが主であるが、ひとつの理由としては、赤子に授乳させる際に右乳房をはだけやすくするためであるという、榧はこの皮肉を恨めしく思って暗くなった。

 だが青年の声で、明るくしなければと気が付いた。

「そんな服、持っていたっけ?」

「ええ、このお洋服は柊のなのです。私とあけびと柊は度々、お洋服を貸し合っているの」

「なんともはや、すごいとしか言いようがなくなってしまった」

(ある意味で……あなたは末恐ろしい)

「ふふふ、街へ出るには、いつもの和装では目立ちすぎてしまいますから」

「それもそう」

「それにね、こんな格好、私だってたまにはしてみたいんです」

 と言って、くるりと一回転。黒のフレアスカートが風に乗せて舞うように。

 風が吹いた。桜の花びらが舞い散ったが、意識に映らぬまま視界から消えて、背景と溶けた。

「さぁ、行きましょう」

 母が手を引く。ただの買い物に行くだけだというのに、映画の一齣を鑑賞しているようで、戯画化された世界に閉じ込められたように感じる。引き伸ばされた濃密な刹那に、永久の香りが漂うが、それは副作用の強い薬も同然に違いなかった。

(しかしここならば、あるいは閉じ込められても)

 それが堕落だとは思えなかったし、自分がそう確信できるかそうでないかが全てであるように思えたから、彼は己の幸福と堕落を自我の乱用とも言うべき極めて恣意的な思考を基に定義して、満足した。

 獣道を抜けて、だんだんの石の連なりを、下りて、下りて、下りて、下りて、曇りの日の涼やかな柔い風を受けながら誘われるようにふたりは街へ着く。麗らかな光の射すような天候ではなかったにしろ、曇りの過ごしやすい春の日であった。行きかう人の群れは静かな息をして、静寂と喧騒が裏取引をしてこの落ち着きを演じているように思われた。

 鈴が鳴るように気持ちの良い声でころり、ころりと話をする母であった。姉妹たちはそれぞれで用事があるらしく、母と青年のふたりで買い物に繰り出すことになったのだが、母とこうしてふたりきりになって何処かへ出かけるというのは昨今では甚だ機会の少ないことになっていたから、この突然の仕儀に戸惑わずにいられぬ青年であったが、体の痛みは忘れよう、何も考えずにいよう、と思った。ただ今日だけはどうか悲しいことが起きて欲しくはないと願ったことも確かで、零れる母の笑みがただただ、ただただ青年の歪んだ心を幾許か治癒した。

 密度の高い人の群れのなか蟻の顔が同じに見えるように人の顔が全て同じに見えていたが、青年の認識に強く上ることはなかった。

 しかし、とある顔に気付く。人混みのなかでさえその対象を観測することができたのは青年にとって彼女がかつて特別な意味を持った存在だったからであろう、あるいは今もか。

 カクテルパーティー効果というものがある。人間はパーティー会場のような喧騒の中でも、例えば自分の名前などの自分に関する事柄については無意識に情報を拾って認識することがあるという。墨色の溶けた液体のなかに純白を垂らしたものかと思われるように、喧騒のなか遠くを見つめる彼女の姿は青年の網膜に張り付いて離れなかった。周囲の誰もが彼女になぞ注目していないのに。それどころか認識しているのかどうか。

 だから青年は彼女を見つめることにした。雑踏の中で見つけた彼女の現在の姿を目の当たりにして、過去に振り落してきたものを掬い上げるため。胸のなかに蟠るのは喜びか、悲しみか、罪悪か、いかなる感情を持て余しても、彼女の傷を青年が癒すことはできぬように思われたし、己がそうするべき立場ではないのだと確信した。

 数年ぶりに目に焼き付けた彼女の姿は、昔とたいして変わらぬように思えたから、青年は時が遡ったような錯覚を覚えた。もしくは青年がそう望んでいるからか?

(馬鹿馬鹿しい、そんなの……)

 想いを断ち切るように彼女の姿を視界から排除する。彼女のことは一度として嫌いになったことはなかった。

(……もう、会いたくない)

 もう誰も傷つけたくなかった。

 嘆息。胸のうちで別れを告げて、一歩踏み出そうとしたその時であった。

(………………っ!)

 脳髄に強制的に信号を送られているような感覚に襲われる。神経系への外部からの干渉。悪夢のなかで味わう感覚と同じものを彼は初めて現世で受けた。

(だっ、誰だ……?)

 青年が思ったのはまずそれだった。周囲を見渡して青年は愕然とした。

(これは、できすぎだ……)

 彼女が青年を注視している。淡い熱を帯びた瞳で、ほころんだ笑みで。深い海の底を見通すような瞳でやわらかく。青年は槍で串刺しにされたような感覚を覚えた。

 彼女は明らかに青年を注視している。ふたりの視線は絡まり、ここで視線を外してしまえば青年にとって悪いことが起きるような気がする。

 彼女の視線のみに注目していた青年は、彼女の顔全体の蠢きを確認する。すると極めて程度は微細であったが、彼女の口元が僅かに動いているのを発見した。何度も同じパターンを持って規則的に、ぞわぞわと蠢いている。その唇を読む、と。

『ア・イ・シ・テ・ル』と呪文のように繰り返している。

 数年前、教室の窓辺にいる青年が校庭の彼女に向けて送信したものと同じメッセージで、その伝達方法も同じであったから、青年は瞠目した。

(君も僕も、何も変わっていない……特に君は、変わろうとすることさえ己に許さないんだな)

 もうひとつ、別種の意思を彼女は青年に送信した。慈愛に富んだ微笑みを。それは別れの挨拶のさいに見せるような笑みというよりも出会いのための笑みのようであった。

 彼女は去った。青年は彼女と再び出会うことになるであろうと思った。全く良い気持ちがしなかった。

「正樹、正樹?」

 榧の声で、硬直していた意識を引き戻される。

「大丈夫ですか?」

「ああ……うん」

「帰りましょう?」

「うん、。それ、持つよ」

 買い物袋を受けとって、青年と榧は帰路へ――――。

 小雨が降りだしたのでふたりは傘を広げて歩いた。

 はらはら、ちらちら、ほろほろ、さらさら、雨の粒子が頬の産毛を撫でる。古語の天津水から、猫毛雨、天泣、卯の花腐し、銀箭、秋湿り、戯、とこの国の人間は天から降る水滴に多様な名を付した。まるでそれぞれが全く別のものであるように、ただの天から落ちる水をみな別の言葉で表した。この自分には何か自分と定められるものがあるならば、自分は自分なのだろうか、と途方もないことをうつらうつら、思い悩む青年である。

 記号は便利なものであるが、しかし記号は付随するべきものであり、それが主になるのはいささか本末転倒である。名を与えられ肩書きを得たときその現象は記号化される。呪いのようなものであり、実に古の頃から名と呪術には深い因果関係があった。呪いをかけたくば名前を知れということらしいが、よく的を射ている教訓である。名前を使って、人間を簡素なものに仕立て上げる。

 だから、

(そうならないように自分の記号を捨て、抽象的な世界の中で漂っていたけたら、と夢想するのは野暮な話か)

 何かにならなくては生きてはゆけぬこの世界で、何者にもならずに生きていけたら、さぞかし心地よいことだろうか。

 急に、嫌な予感がした。悪夢のことではない。現実に何か奇怪なことが起こりそうな、己の存在定義を揺るがされる前触れを想った。

 家に戻ると予感は当たったようで、ひとりの女が庭の正樹の木を眺めているのが、見える。傘で雨を受けながら佇む姿は彼女の生き様そのものを写しているようで、彼女は後悔というものを断ち切れず過去に生きて、生にしがみ付く生ける屍のようであった。一握りの希望のために人生に振り回され続けて絶望の淵に落ち、なお天を見続け足元を腐らせた人間の饐えた臭いがする。

 青年と榧の訪れを待っていたかのような所作で、女は振り返った。ゆっくりと笑う、母の笑み。

「…………っ!」

 青年は時間遡行をしたような強い衝撃を受けたという。彼女の笑みのせいで胎児の記憶が呼びさまされるような衝撃の海で、青年は女の顔をしかと目に焼き付けた。否、元々焼き付けられていたのだろう。老いこそして潤い薄れた目やら口元なぞには皺が刻まれてはいるが、その面ざしの造形はかつて母の部屋の床下で目にしたあの箱の、あのなかの封筒から取り出して見つけた写真の女と同じではないか。古い写真のなかの、赤子を抱いた女はこのときとおなじように母性の塊をその笑みに付属させて、こちらに微笑んでいた。慈しみ深く。ここ何年もそのような笑い方をしていなかっただろうに、子を愛する母というものは不思議なもので、我が子を見れば長年離れ離れになっていても、すぐにまたこうやって優しい母の笑みをして、子供を愛せるのだろう。

 青年は思う。

(疑い続けていたけれどさ、こうやって目の前に出されると、ねえ……)

 ひとりの時間が色濃く刻んだ眉宇には哀感が滲んでいる。その瞳で真直ぐと青年を見ていた。美麗な顔だった。年を重ねているが、青年に良く似た、愛らしく美麗な顔立ち。

「家に入りますか? それとも」

 青年の背後から不安げに語りかける母の声。母が悟っていることを青年は悟った。

「ごめん、あの人とすこし、話をしてきて、いいかな」

「…………」

 想いが剥離して口から出たのか、母は何か呟きを漏らしたがそれは弱く、雨に溶けてぬかるんだ地に落ちた。

「僕に会いに来てくれたのですよね」

 女が息を飲んで驚きを露わにした、まるで後ろから首を絞められたような顔で。それも冷たい怪物の手で。

「……ほんとうに、ごめんなさい」

 これはここに来たことに対する謝罪で、

「……ほんとうに、ごめんね」

 そしてもう一度目の謝罪は、過去の己の弱さと身勝手さに対する謝罪であった。

「あなたにはどこかでお会いしたことがあるような気がします」

 青年が言うと、女は泣いた。

「僕は高咲正樹といいます」

(あなたの話が聞きたい)

 青年の念が通じたか、女は語りだす。

「私はかつて子供を産んだことがありました。男の子です。しかし私はその子を育てることを放棄してしまいました。当時の私は十代の半ばでした。子供の父親は私が子供を産んだ途端、消息不明に。駆け落ちまがいに家を出て、親から勘当され、自分で生きることすらも精一杯だった私が、赤ん坊をひとりで育てることなど、不可能でした。傷心しきった私は赤ん坊とともに命を絶とうと思いました。しかし子供の笑顔を見て思いとどまることができました。私は生きようと思いました。けれども、身寄りもなくお金もない私といても、この子は死んでしまう。私は、赤ん坊を施設に預けました。私は、ひとりで生きていくことになりました。赤ん坊を手放したことを、何度も後悔しました。何処にいて、ちゃんと生きているかも分からない赤ん坊の幸せを毎日祈っていました。それだけが、自分の罪を償う手段でした。そうして十八年の月日が流れました。あの子が生きていたなら、高校を卒業したくらいの頃でした。ある日の夕方、私が仕事から帰宅していると、私の携帯電話に、知人から電話が入りました。知人は、私とよく似た顔の少年がテレビに映っていると、言っていました。家に帰ってテレビをつけると、若い頃の私とよく似た少年が映っていました。何かの間違いかと思いました。本当にそっくりでした。私は目を疑い、歓喜し、そして恐怖しました。神様を信じない私が、初めて神に感謝しました。ですが冷静になってみると、手放しで喜べる立場ではありません。何年かかろうが、犯してしまった罪は消えません。会っていい私ではないのです。あの子の中に始めから私など、存在していないのです。もしも会ったとしても、あの子は私のことなどわかりもしない。……でも、一度でいいから会いたい。一度だけでいいから、あの子の顔を見て、あの日の事を謝りたい。罵倒されても、許してもらえなくとも、だからどうしたと言われようと、会わなくてはすまなくなっていました。自分勝手な決断です。でも、もう止められませんでした。私は知人に頼んで、その少年の事を調べてもらいました。見つかった場所は、意外と近くでした。その子の名前も分りました。その子は、私が赤ん坊につけた名と同じ名を持っていました。施設に預ける時に、赤ん坊とともに、名前の書いた紙と私とその子が写った写真を置いていました。私のもとで過ごしていたなら、その子の苗字は私と同じ古川ですけれど、当然その子の苗字は違っていました。私の名前は、古川奈々子。そして、私が手放した子供の名前は、正樹。そしてその子の今の本名は高咲正樹、あなたです」

 母を置いて、青年は言葉を返す。

「……僕の身勝手さは、あなたから受け継いだものかとも思えなくもないようだ」

 独り言のように青年は漏らす。根治したのかと思われるほどにあばらの痛みが癒えていることに気が付いて、青年の言い知れぬ喪失感は又さらに深きものとなった。

 あの日、母の部屋で写真を見つけたときから青年は己の起源に気が付いていたのかもしれない。

「こういう話はしっかりと場所を設けてするものなのでしょうが、ここでこうやって話すあなたを見ると、どうもそういうつもりはないのでしょうね。そもそも僕に接触する前に予め両親に接触して、僕にいまのように色々と言うべきではなかった。僕の人格によってはあらゆる混乱が予測できたはず。身勝手なのは似ていますが、そこまで考えが回らないのは、産みの親よりも育ての親だということなのでしょうか」

「――――――――――」

「今なら未だ、あなたの存在をなかったことにすることができる。凍結した虚像のなかで生き続ければ、一切が美しく済むこともある。あなたは一言だけ謝りたいと言った。ならば用事は済んだのです。これ以上、ここにいて会話を姉妹たちに聞かれるわけにはいかない。僕は醜い欺瞞を許しはしないが、美しい嘘ならば好んでつくのです。自分のした無責任さを呪うのです。僕なんて出来損ないをこの世に産み落として……本当ならば呪い殺してやりたいくらいなんです。

 どうせ無知であるが故の快楽主義でどうにかなるとでも思って、快楽のためのセックスで膣内に射精させたのでしょう? それか男を盲目に愛し、尽くしたいがために射精させるのを拒めなかった。その他、僕を身ごもった理由は多々あるかもしれないが、自分が子供を育てられないというくらい、現実的に考えてわかるはずなのに、あなたと男の無知であるが故の軽々しい行為で僕なんぞが誕生して、こうなってしまった。僕を産んだのは、あなたの馬鹿さ加減のために起きたことです。そしてここにくることであなたはその馬鹿さ加減を僕に見せつけている。

 中絶は善悪では裁けない問題です。強姦されて妊娠した子供を中絶させることを世間は肯定しますが、和姦で妊娠した場合、皆が中絶を肯定してくれるわけではありません。

 神が与えてくれた命なのだから医学の力でそれを殺すのは道徳的に罪だと言う人がいますが、そのような無責任な発言には、僕は吐気を覚えます。そのような人たちは、経済的な問題や親の年齢や知識や精神的な問題を度外視して、後に訪れるであろう子供と親への不幸を考えずにそのような発言をします。そして子供を産んでも育てられなくなる、又は自分の人生を狂わせた子供に憎しみを覚えることになる。自分が蒔いた種なのになんと親というものは身勝手なものか。あなたみたいな人間が育児放棄をしたり虐待して子供を殺したりするのです。

 自殺しそうになって赤ん坊の笑顔を見て又生きようと思ったなんて、そんな一瞬の感情は日々降り積もる子育てや仕事などの疲労や様々な軋轢や苦悩によって消え去って、憎しみに変わります。

 江戸時代の子じゃないんだ。昔は幼い娘が嫁いでいたこともあったけれど、この現代の日本で十代の子供が赤ん坊を産むなんてそんな滑稽な悲劇はない。小説やテレビドラマにあるような夢物語に踊らされないでください。かつてのあなたと赤ん坊にハッピーエンドが用意されているわけなんてなかった。

 育てられないことがわかっていたから赤ん坊を相談所に預けたことは、百歩譲ってまだ利口だったと言えますが、あなたも無知で愚かであるが故に子供を産んだのです、虐待する親と同じようなものです。

 あなたこそが生まれなければよかった。本当に死んでしまえばいいと思う。

 大きくなった我が子を見つけて、感動の再会を妄想していたのでしたらそのような思い違いなど早く捨てて、この重い罪を背負って、一生忘れることなく身分不相応に悔いながら、自分が屑だということを思い切り自覚しながら、これ以上誰にも迷惑をかけずに、屑通り幽霊のように世間に隠れるようにして存在を消し続けてください。僕はあなたとどうしたいとも思っていません。思っているとすれば、あなたのことをとても陳腐で馬鹿な迷惑者で、生きるに値しない屑だというくらいです。さぁ、これ以上他人の人生に迷惑をかけずに、ここから消えるのです。そして僕たち家族は何もなかったように生活します」

 潤いを忘れてしまった女の髪が卑屈に、そして激しく揺れた。

「本当に……本当に申し訳ございませんでした!」

 女は転がるように逃げ帰った。

 青年が振り返ると、母が膝をついて涕泣していた。傘はない。顔を覆いながら嗚咽するその母の肩が、初めて罪を犯した少女のように母を頼りないものに見せていた。全身を水浸しにして泣く母に青年は衝動的に声をかける。母を失ってしまうのではないかという畏怖に駆られた。

「母さん」

 母は力ないを顔をこちらに向けた。それは笑みにも見えたが、大きくつぶらな瞳には、塩分を含む水滴が光っている。青年は傘を放り出し、膝をついて呆然としたままでいる母を強く抱きしめ、目を閉じる。やわらかな感触と甘い匂い。この弱さと柔らかさと甘さが我が母の特質なのだと青年には改めて思いなされた。

 母は青年の胸に抱かれ「ごめんね……」と呟いた。

「大丈夫。いつからか、そうなんじゃないかって、思っていたんだ。桜はもちろんだけど、僕もあけびも柊も、みんな血が繋がっていないんでしょう? 顔……全然、似てないんだもの」

「私たちの血が繋がっていないのは事実です。でも、真実を見て。私たちは、あなたが欲しかったから、正樹のことが欲しかったから、あなたが欲しくなるほど可愛かったから、あなたをうちの子にしたのです。それだけは、心に留めていて下さい……」

 嬉しかった。母の涙が。

「本当の……家族になりましょう」

「うん、ありがとう」

 この言葉は青年にとっての、最上の、贈り物であった。しかし母は理想を天高く掲げすぎたあまり、日常的な感覚を遠く逸らせている。本当の家族は「本当の家族になりましょうね」とは言わない。この言葉の表面には家族愛の賛歌があるが、反して、この言葉は、家族が偽物であることが前提にあり、二重構造が隠されていることを暗示していた。母はこの矛盾が青年を分裂させることに気付いていない。青年は、家族になれない。疑似家族止まりなのだ。最大の欠点を挙げるならば、まず母は青年たちが幼いうちに子供たちを貰って来たことをひとりひとりに告げるべきであった。目の前の母が、ただただ遠い。

 が、それでも母の愛の吐露は単純に嬉しかったのだ。

(もう、これで、心おきなく、死んでしまえる)

 死に場所はこの土の上で良い。

 予期しえぬことだった。まるで何年もかけて必死に探し続けてきた宝石箱の鍵が、胸のポケットから見つかったような。死ぬならこの時に。

 落雷、地割れ、隕石、何者かの襲撃が欲しかった。

(牡丹、このノドブエを噛み千切ってくれないか)

 結果論が全てならばいまこのときが死すべき最上の時宜であった。いつのまにか力尽きて気絶するように眠っている母を掻き抱きながらかような一考をめぐらせる。

 母の青白い顔は皆既食のみぎりに闇を齎し静穏とした深い森を思わせる。聴覚が本来の働きを忘れたのかのごとく、静寂が天地を囲っていた。森羅万象がその優しき面ざしを榧に向けて、その小さな寝息に耳を澄ましているようだった。

 青年は母を抱きかかえて玄関口に入る。かつて負われた人を負うというのは流れた時よりも多くのものを青年の胸中に巻き起こした。体に付着した汚れを拭って、母を抱えたまま、母の部屋に入った。布団を引っ張り出して、そこに一時的に安置する。青年自信が濡れていると母を着替えさせてもまた母が濡れてしまう、青年も自室で着替えをした。母の眠る寝室に戻り、引き出しから襦袢と着替えを取り出して、眠る母へ振り向く。

 家中を歩き回りいくらか現実的な物の考え方を取り戻したということだろう、だが沈静とした心持ちに移り変わっていのが元凶である、狂人にとって異常な事態は正常であるが、正気の人間にとって異常は異常、目の眩むようなものが立ちはだかれば、衝撃も一入で。

 振り向いた刹那、襦袢と着替えを床に落とし母のそばに寄る青年は、母の青白い額と赤く仄めく頬に逐一手を当てた。

 手を触れれば、焼け付くように冷たい母の柔肌。深山幽谷の、月光の染み入る湖面に白薔薇が一輪だけ月から降り立って咲いている、と見紛うほどの幽玄なる聖母の裸体の美質は、青年を吸い込んで、青年は、母の目覚め間際の花の蕾のような唇に、自分の唇を押し当てることと相成った。

 白銀色に光る優しく熟れた柔肌は輪郭を曖昧にしている。肌と肌とが張り付いて離れず、濡れた襞に包みこまれていくような感覚に指先は埋もれて、指先は全身の神経が集まったように敏感になり母の肌を感じて、青年は恐れ震えた。母の肌は日に焼けた粗目の掌によく吸いついた。しっとり媚びを売るような張り付きかたで指先に馴染む。皮膚と熱が融合し指の股から柔く白い肌が落ちていくかのごとく。

 薄弱とした意識のままに、虚空を見つめるように母を見る青年の脳裡にとある痛烈な映像が浮かび上がり消える。未だ自我も覚束ない頃、朧げな日々に現れた祖母の亡骸の幻影である。凍て付いた、然れども生々しい肉の質感は、横たわる母の痩躯と重なるものであった。羞恥を覚えるほどの鮮麗な雪景の。

 激烈な熱を莖の深部に宿した凍て付く肌膚に、暖かい命を注がなければならない。死んでも死なないうら若きしかししおらしく熟れた薔薇の花弁に命を吹き込むべく青年は、また唇を当てた。

 この接吻はかつて青年が赤子だった頃の、母との接吻を想起させるものであっただろうか、失ったものへの回帰を願ったための賜物だったろうか、この口づけは母を痛切に求めた懐古のなかに眠る赤子の影がさせたものだったろうか、

(思い出だけが独り歩きして……まやかしだ)

 青年は母の裸体を目にして色情を呼び起こしていただけではないか。

 舌の先で母の歯茎を撫でまわして、類えるまでもないほど均一に整っている玉のような歯の並びを感じた。

 唇を離して母の上に覆いかぶさったまま、上から眺めてみたいと思う。どれほど焦がれているのかを胸の鼓動が教える。

 刹那、繊細なつくりの薄い瞼が小さく蠢いて、雲母のように黒光る瞳が覗いたように見えたが、青年にその虚実を判定する能力は備わっておらず青年は、唇の感触の恋しさに胸を締め付けられて意識はそればかりに向いていた。

(いまじゃ人類は簡単に月へ行くというのに、俺は未だに自分の心の問題すら解決できないでいる。そんな怠慢を、俺は自分に許すのか?)

 熱い吐息が漏れる。親子でなければ恋していると言えるのに、例え義理の親子だろうと正樹は言えない。その悲劇を吸い取って、ドブのように黒い湖の底に吐き捨ててしまいたかった。

 初めよりも激しく唇を当てた。口付けというより、噛みついて牙を当てたように。乳歯のような歯を舌先で撫で回し、その奥にある舌を強く吸う。吸って、甘噛みすると肉汁のような唾液が口腔から溢れ出す。唾液が流れ出すのとほぼ同時に母は甘くあえかな吐息を漏らした。恐らくそれは砂地を歩く猫の足音のように静かなものだったが、閑寂として雨の気の混じった濃密な周囲の空気と、何時の間にか妙に心地よい静けさを帯びた自身の精神と相まって、それは喘ぎのような嬌声に交じって耳に高く一本の絹糸のように閃いた。その声が愛らしくて、まともな想念など簡単に浸蝕してしまう。更なる悦楽を、悶えるように渇望した。

 またも合わせた唇の合間から、悶えるような嬌声が零れ落ちる。しかし、顔を上げ揺れる視界のなかに青年はとあるものを見出した。こちらに驚愕の視線を向けている狂人と目が合っていることに気付く。その双眼は血走り、歪み、肉食鳥の嘴のように鋭く尖っていた。濃墨を垂らしたような黒い瞳に吸い込まれるものかと思われたが、徐々にその狂人の瞳は飼い主に叱責を受けた子犬のそれのように頼りなく変わり果て、視線からは、滾っていた精気の熱が冷めるのが認められると、狂人の正体は鏡に映った狂える自身の姿であるのだと、青年は怯えを含んで考えた。

 一瞬にして夢の世界から現実の世界に魂ごと身を引き剥がされてしまったような墜落感そのまま、粒のような汗が頭髪の合間を縫って滴り落ちる。その意味するものはつまり魂の絶叫である。聖母を汚してしまった、と青年は考える。狂人は、発狂した自分だったのだ。

 青年の手前に佇む鏡の中に逃げ込みたいができず逃げ道は何処にもあらず、両足は大木の根のように凝るに至り、仕舞いには鏡に映るこの身さえも己の所有物でなく虚像に思えはじめた。対面に佇立している男が赤の他人であるような懸念に、何が出来るわけでもないのに心が追い立てられる。己の肉体というものは借物の器に過ぎず、蝉の抜け殻のようなものであって魂を覆うだけの膜のようだが、しかし脱皮したとてその内側にその先に、己と確認出来る何かが存在しているとも青年には断言しかねた。何よりもしも何もなかったときを考えると、ただ恐ればかりに襲われて仕方がない。だからか青年、このときは高咲正樹という人間は死んだものと思うようにして、何とか精神の安定を一心に求めて、得て、残りの母の着替えに没頭した。

(生きることだけに特化した脳がほしい)

 しかし着替えを側に置いて、鏡に目を向けると、青年はいっそう己の身に嫌気がさしたという。青年は屹立する己の剛直を鏡のなかに見出したのだった。青年は混乱と恐怖に堕ちた。このとき家のなかには青年と母しかいなかったことがせめてもの救いだった。

 …………気が付けば青年は森にいた。どうやってここまで来たのか、どうしてここまで来たのか判然とせず、錯乱に拍車が掛かかるばかりでいまの己を見出す余裕などもはや二度と戻ってくるのかどうかさえ怪しく、

「――――てんやわんやと、なにをそんなにもつれているの、あなたは――――」

 幻夢に引きずり込まれるならばこれほどの適時が他にあるかというくらいで。青年は再び――――悪夢のなかで何度も目にした朱色の着物の女を見出す始末。

 シラーは言っていた。『人間は一人一人を見るとみんな利口で分別ありげであるが、集団をなせば、たちまち愚か者が出てくるものだ』

(集団は人を堕落させる。人は俺を堕落させ、俺は人を堕落させる。俺は――――ひとりになりたかったんだ)

 ぞわり、背後に悪意をばら蒔かれた気がして振り返る。

「またお前か」

 嫌悪感が口をついて出た。

(又か……薬もやってない、統合失調でもない俺に、なぜこっちで幻覚が見える――――これは夢なのか?)

 嘲弄を浮かべる妖しの女に一拍で詰より、闇に隠れた手で女の首を掴んだ。ぎりぎりと力を込めながら細長い首を握り潰しにかかるが、髪に隠れぬほうの女の瞳はなおも青年の眼を見据えて嘲笑う。すると――、

「良いぞ良いぞ……そうやってお前はもっともっと――」

 女の声が脳に木魂したと思えば青年、空砲の直撃に遭ったように後方へ体ごと弾かれた。

「……ッッ!」

 青年が吹き飛ばされる刹那、女の体は微動だにしなかった。物理を超えた念の力というものか。

 青年に握られた女の首回りはくっきりと指の形の痕を残し、痛々しくへこんでいた。粘土を指で押したならばちょうどこのようなへこみができるだろうという類の。 

 しかし女は平静の面持ちを崩しもせずに期待を込めて青年の瞳を見据えた、はずであったが、すでに視線の先には青年はおらず、視界から消えてすらいる。

 女は背後に気配を感じ、空気に身を溶かすように危機を避ける。女の両目の元あった場所を、青年の指が通過していた。背後から手を回し、目を突こうとしていた青年であった。

 頭を垂れながら青年が女に問う。

「よく背後にいるのがわかったな」

「あんなに心を弾ませて……気づかれないとでも」

 女は青年の背後の枝を中天に浮かせて青年を串刺しにしようと試みたが、背後から高速で接近してきた枝を青年は難なくかわしていた。影は青年の末梢神経の役割をしていたとも言えた。

「危ないことをする……」

 青年は女を見つめる。

「――――っ!」

 女は金縛りにあったように硬直した。女が痙攣しているように見えるのは、無暗に青年の呪縛から逃れようと必死になっているからだろう。

 青年は女に近づいた。戯れを始めようとした刹那、間一髪というところで女は青年の呪縛を抜け、姿を消した。

「なんだったんだ……あれは……」

「嗚呼、乾いてきた……」

「疼きが止まらない……」

 酒で食欲が増すように少しの刺激と興奮で発作に拍車がかかる。重い足……夢遊病患者のような足取りで帰宅への山道を行く。疲労が蓄積して思考すら邪魔している、なのにどうしてか肉体だけが着火したように熱が迸って、じりじりと精神を虫食む地獄の業火。青年は満身創痍の身となっていた。ゆらゆらと玄関口にさしかかろうといういう頃になって、声が庭に響いた。

「正樹じゃないか!」

 縁側から姉が声を飛ばしていた。

「…………ああ」と虚ろに応える青年の、瞳の生気は薄れている。

「どうしたんだ! 帰ってきたと思えば母さんは寝ているし、一緒にいたはずのお前はいないし……それにその格好……」

 姉は青年を見て訝しみ目を細めた。裸足のまま山に入って女と会っていた青年は所々濡れた土で汚れて、それを桜に見とがめられたのだった。

「ちょっと待ってろ。タオルを持ってくるから」

 青年が玄関に入ると姉も走って玄関に来た。

「どうしたんだ。こんなに汚れて……」

 虚ろな目の青年に対して桜は問いかける。タオルで青年の全身を拭いながら青年を着替えさせる作業は、神に身も心も帰依した敬虔な信者が神の偶像を丹念に清める様を思わせる。

「悪かった……」

 と告げて、着替えを終えた青年は部屋に向かった。このときを一刻も早く記憶の底に埋め、二度と思い出さぬようにしたかった。姉の顔を見てしまえば、途端に衝動に駆られるだろう、己の異常性を知悉している青年である、姉の看護に感謝の意を表するよりも、いまは彼女と己の安全のため、とっとと姉から離れてひとりにならねばならぬ、そう考えて、青年は急いた足で廊下を踏む。

 しかし姉は青年に問いたかった。この状況を、青年の抱えるものを。

(ダメだ桜……ついてきちゃ)

「正樹、正樹!」

(やめてくれ……君が欲しくてたまらなくなる……)

 青年は背後で呼びかける姉の声を無視して自室に戻るが、姉も部屋までついてくる。

 桜は青年の背中を見つめる。青年は暗闇をじっと見つめていた。長い沈黙がふたりを取り巻いた。姉の気配は未だ背後から消える様子はなかった。

 青年が姉に語りかけた。

「いつまでそこにいるの」

「…………」

 姉は気圧され、何も答えられなかった。

「消えてくれないか……今すぐに」

 動揺しながらやっと姉が口を開く。

「ああ……あの……」

 しかし言葉にはならない。

「俺に背を向けないようにして、そっと」

「…………」

「早く消えてくれ、いますぐ。俺に背を向けないでそっとここから出て行くんだ。俺にお前を傷つけさせないでくれ」

「ごめん……」

 扉が閉まる音が聞こえる。

「俺なんかに関わったって……良い事はないぞ……」

 ひとりの空間を得たのだと思いながら、青年はこれから癒すことになる疲労のままに精神を投げ捨てるべく、息をついた。吐き出される吐息に沿って、肉体が弛緩していった。虚しさが胸にこみ上げる。自らの手で、この肉体と魂の帰結を迎えてしまおうかという気になる。

(そしたらば、彼女は泣くだろうな……)

 姉のことを瞼に思い浮かべた。すると不思議に、姉の微香が鼻をかすめ――――青年の背は、彼女の感触に包まれていた。

 姉は青年の部屋を出てはいなかった。疲労に神経が鈍っていた青年である、自分を抱きしめるまでに近づいた姉に気が付くことはなく、背後を許した。青年はやさしく後ろから抱きしめられていた。

 肩の近くで、姉の唇が蠢くのがわかった。

「自分のことを、なんか、なんて言うなよ」

「……なっ……」

「ひとりで抱え込まずに、お姉ちゃんにも色々、言ってくれていいんだぞ? 甘えてくれ。好きなだけ、目一杯、甘えてほしい。たくさんたくさん……な? 私はお前のお姉ちゃんなんだからさ」

 息が肩にあたる。香しき首筋。あまやかな香りのする四肢。姉の体が側にある。

 しかし、桜に抱きしめられたとき性的なざわつきは感じられなかった。桜に抱き締められても嫌ではなかったのは、抱擁のなかに彼女なりの意味があることが感じられたからだった。愛は秩序なく受け入れるものだが、桜は道徳で動いていたから。秩序は他者に委ねられ、道徳は自己に委ねられる。彼女自身の判断で、彼女自身のルールで正樹を抱きしめてくれたのが嬉しかった。深淵に飲み込まれる恐れはないと青年は感じて安堵した。

「でも、俺と仲良くしたいならもうそういうことはやめてほしい……」

「こういうのは、ダメか? 兄弟が出来たのは初めてだからわからないんだ。兄弟では普通、こういうことはしないのか?」

「兄弟のことどころか、僕らは互いに人のことすらわからないよ」

「正樹、人間は家族どころか、誰のこともわからないともうぞ。自分が相手のことを分かっていればそれでいいんだ。私たち人間は万物の霊長でありながら、互いのことを何も理解できないんだ。人間と人間が心の共有を果たして、共感の極致にたどり着くなんて、それこそおとぎ話のなかのことで、奇跡なのさ。でもね、愛していることを伝えるために奇跡は要らないよ。私は読み書きすらできないけれど、愛を伝えるためなら文字すら必要ないんだ。こうしてさ、強く抱きしめれば……ちゃんと伝わるんだ。

「――――」

「ごめん……うまく言えなくて。そういう器用さは諦めているんだ。でもだからこそこうやって肌で伝えたいんだ。……苦しまないで。正樹は正樹のままでいいんだから」

「分かっていない。俺みたいな出来損ないがありのままに振る舞えば、悪いことを起こすに決まってる。やめてくれ。慣れないことはするものじゃない。お前こそ、こんなことをするなる必要はないんだ。お前はお前のままであってほしい。お願いだから」

 母性――――究極の愛は青年を支配し縛り付けるもの、よって青年は母性の発露を迎えた姉に、母性愛を発揮されないことを望んだ。青年と対等な関係を保つのならば、母性を持つことは平和的な終末を放棄するも同義であった。

(この種の人間に慣れることのできる日はいつ来るのだろう。一糸纏わぬ愛で包み込む者の存在を)

 しかしこのとき心はいくらか安寧としていたように思う。それはまさしく桜の資質がさせるものであった。

 文学や音楽を堪能するためには、読み、聞くといった長い時間が必要であり、これらは時間の連なりの上にやっと成り立つ芸術であるが、絵画は瞬間的に世界を評価できるものであり、よって画家の思考や行動選択はインスピレーションに則ったものである傾きがある。青年が虚を突かれたのは姉が彼女の心の熱・情緒で動いていたからだった。

「悲しみを知っているからこそ、何気ないことに幸せを見出すことが出来る。悲しみを知ることが、幸せを知ることなんだ。たくさん悲しみを知っている正樹は、たくさん幸せを知る人になれるんだ。お前が言ってくれたことだ。悩みがあるかもしれないけれど、私たちなりの幸せを探していこうよ。愛しているよ。大切な家族なんだからさ」

 精神衛生を保全する自己防衛本能故か、青年の意識は活動を停止した。――――――――。


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