12 羅列
現実的な夢は夢の主を現実と幻想のあわいに佇ませ混乱に陥れる、過去に起きた事柄を夢のなかで再び追体験することは時間を遡行しているような感覚さえ青年に植え付け、現在を狂わせるものである。混乱の境地に飲み込まれた青年にとっていま夢として流された映像が己の脳が何らかの理由を持って見せたものだとはどうあっても受け入れられぬ代物で、第三者から脳裡への干渉を疑うほど。
(稔、もしくは、桜……君がそうさせたのか)
青年の袖を握りしめながら静かに瞼を伏せる美しい姉を眺めた。上体を起こして、絹のように整った前髪を横に払い、少女のような姉の額を撫でた。髪も、肌も、やわらかな質である。白銀に反射した光のような透明な白さの額から桜の体温が滲み、かつて共にいたあの少女を思わせた。
「状況が似ている……」
それ以上は考えなかった。強く認識して概念化してしまいたくはなかった。どちらにしても答えは出ない問題だった故に、青年は眼球を内に押し込むように目を閉じた。暗闇のなかでとほうもない酩酊を感じて目を開いた。酔いはしばらく続いていた。
長い夢が現実味を帯びて迫ってくる度に上書きされ続ける夢の記憶は、蓄積し堆積し、現世の記憶をその下に埋没させる。長い夢を見終わり現世に到来するときに、青年は途切れた時空の上に放り出される気持ちになる。客観的には日常生活として夜に就寝し朝には起床するという健全なサイクルに見えるのであるが、彼の主観的には何十年もの冷凍睡眠から目覚めたようなもので、交互にふたつの世界に属しているような錯覚を覚えずにはいられなかった。
様々なことを見逃しているような気がしたが、気にはならなかった。それよりも今は気を取られることが他にある。
鼓膜に白砂を流されているような細やかな粒が絶えずゆるやかに流れる音がある。や、ばらばらと屋根が鳴くのは、天界の民がいかって飛礫をこの辺りへ打ちやったからか……違う、それもいまは間違いだ。布を引いて、横に切るように、サッ、と開けば、雨、雨、雨。黒い雨が地を叩いている。雪崩のごときドシャ降りなのに風だけは凪いでいたからだろうか心は静かで。
水には万物を浄化する力があるとした民は太古の世界ならばどこにだって存在していただろう、青年も又この雨が地上の汚穢を流してくれることを願った。もしくは破壊してくれと。デリートキーを押すように簡単に始末してくれることを。
布団を離れて直立すると、薄い氷の膜が脳の表面にへばり付いているような寒気がした。喉は毒虫の肝でもへばりついたように苦味を帯びていた。
降り続ける雨の高い音が、耳元で短く切れ続ける。
時計の針を確認すると、これから寝るのも起きたままでいるのも何かと煩わしい半端な時刻をさしていた。
(面倒な時間に起きてしまったな……)
頭が冴えているのかぼんやりとしているのか判然とせぬまま青年は部屋を出て歩き、夢遊病者のように家のなかを放浪し始めていた。夜闇のなかでも濃さには微妙に違いがあり、なかでも濃いものは迫りくる壁に見える程の圧の有る、黒くて重い、塊で。避けるように歩いているとあけびの部屋の目の前に出た。理由はわからないが顔を見たいと思った。扉に手を置いて、内部に侵入した。
入りしな、鼻孔を圧する香りがこの酩酊しかけた身に教えるのは、この部屋の密度の濃さ。古い書物の匂いとよく馴染むのは老齢の皮膚のような匂いばかりではない、澱のように堆積した古紙の香りに潰されてわずか香ったのは、砂糖菓子をたくさん詰めて丸めて捏ねて焦がしたような甘い匂い。儚げな少女から立ち上る体臭である。
胎児のように丸まって深い眠りに落付いて、起きる気配なぞ毛頭ない様子の少女より、この部屋の有様が気になる青年、夜目を凝らして部屋を反時計回りに眺め始めた。
この部屋を少女の部屋だと断じてしまうものがいたとしたら、その者は常識を疑われるべき世間知らずかその少女本人であろう、部屋の様子は活字の狂気に埋もれた活字の色情狂は宛らで。文字がびっしりと埋め込まれた、床にちりばめられた原稿用紙の山を見る限り、使い勝手についての何らの利点も見出せはしないだろう。飾りや空間といった他者を招くための要素がひとつもなく、この部屋は完全なる個室、自分だけのための世界、母胎を思わせた。
(記号だらけの部屋)
壁沿いに書架が鎮座しておりもちろん隙間なく書物が詰められているが、書架に入りきらない書物の数のほうが多いのではないかと思わせるほどで、あらゆるところに書物が重ねて積まれている。この落花狼藉の部屋で足を踏み入れることが出来るのはわずか、落ち葉のように床に散らばった原稿用紙の隙間だけ。鏡も香水も化粧品の類もありそうにない。ペットの爬虫類――カメレオン――を飼うためのケージがあり、他には机とベッドがあるばかりである。この家で彼女の所有物と言ったら他には冷蔵庫のコンデンスミルクとシュークリームと、台所のバスケットに入っているビスケットと蜂蜜と紅茶くらいのもの。
表層的には……この部屋は神経を疑われても仕方のない病的な蒐集癖とがさつさがあいまった末に生まれてしまった狂人の寝床なのではないかと思えてしまうが、原稿用紙は散らばっているが、全体に埃は無く、書架の書物は作者の名で五十音順に正確に並べられ整頓されている。部屋の隅には書物が堆く積まれているとは言え、全て角を合わせて積まれている。机上は綺麗に片づけられて、簡素な趣さえ。衣類は衣装ケースに仕舞われ、がさつな者がするような脱ぎ散らかしはない。思い起こせばこの妹は起床後には毎日ベッドメイキングを欠かさない子だ。青年は違和感を覚える。
部屋のなかで床に散る膨大な量の原稿用紙だけが唯一の異物で、他は完璧な様相であった。両親の了解を得ているのかは承知していないにしろ、両親はこの部屋の紙の散らかり具合に関してとやかく言ったことは無い。
床に散らばる原稿用紙と、清潔な部屋。アンビバレントな要素を持った個室である。
又、気になるのは彼女の愛読書たちである。目についたものから記す。
仮面の告白、金閣寺、午後の曳航、黒死館殺人事件、ドグラマグラ、少女地獄、恋人たちの森、私の美の世界、高野聖、草迷宮、夜叉が池、天守物語、女系図、日本橋、変身、幼年期の終わり、アクロイド殺し、二十四人のビリー・ミリガン、アルジャーノンに花束を、地獄變、五重塔、罪と罰、カラマーゾフの兄弟、地下室、貧しき人々、白痴、死霊、白夜、はつ恋、異邦人、タイタンの妖女、春琴抄、痴人の愛、恋人たち、銀色の恋人、バスカビル家の犬、百年の孤独、夜間飛行、不思議の国のアリス(原書)、鏡の国のアリス(原書)、嵐が丘、車輪の下、女生徒、ラグクラフト全集1、ラグクラフト全集2、ラグクラフト全集6、リルケ詩集、神様の話、マルテの手記、源氏物語(与謝野晶子訳)、悪女について、ロリータ、若きウェルテルの悩み、ゲーテ詩集、遠野物語、存在と苦悩、読書について、この人を見よ、嘔吐、片腕、眠れる美女、月に吠えよ、フラニーとゾーイー、ナインストーリーズ、冷血。
(ざっと見たなかの一部だが、しかし偏っている。しかし一部だ。これらはこの子の指の爪の先くらいのものでしかない)
この部屋に導かれて来たからには何かがあるものかと思っていたがこのときの直観はそう頼りにならずに青年はここから去ろうと思い始めていた。主の趣味が臆面もなしにぶちまけられたある種の清々しささえ感じてしまえるほどの個室であったが、いつも見てきた妹の部屋だということで、何ら気にかかることなぞ、これより他はない故、妹の寝顔を拝見して去るのみ、というのも自然と首肯できるだろう。妹の顔に濃い影が覆ったからか、はたまたタイミングのなせる偶然か、妹の寝顔を覗き込んだ際に青年の瞳に引っ掛かったのは僅かに痙攣するように蠢いた少女の目蓋であるが、気にはしなかった。
このまま部屋を出てしまおうかと思っていたが、可愛い妹は愛おしかった、歳はさほど変わりはせぬが、表面的な精神の成熟度は十も違うであろう妹に最後の別れを告げるように、青年は慈しみを込めて妹の額をやさしく撫でた。この妹に関しては、いままで柊の姉として、長女として生きていたのが不自然なくらいに思われた。桜がこの家に来て、やっと彼女の魂に与えられた自然な振る舞いができるような段階に訪れたような気さえする。彼女は何か大きなものの庇護に置きたくなるような、もしくは置かなくてはならないような姿態をしているのだ、いつも。
(俺は、たぶん妹たちを愛しているんだ。いや、気にしたいんだ。気にしなくてはと思い、またそれを喜んでいる。不思議なことだ)
しばらくあけびのやすらかな寝顔を眺めながら静かに息していた青年は、妹のいつも通りの姿を見て安心し、部屋を出た。
廊下に出たのは柊の部屋を見に行くためであった。酒を飲んで酒に飲まれたような、芸者のように白い肌の頬を桃色に染めて、女のような青年は三女となった柊の部屋を開けた。
この部屋は彼女の内面を良く表していた。
ピアノと机とベッドがあり、机の上に楽譜とノートや教科書がこぢんまりと並べられており、ベッドの上にはいつも柊と寝ているぬいぐるみがある。
柊の寝顔。イメージの隔絶に驚かされる。いつもは凛として強く世界を見つめている明眸だ。それが今夜ばかりは、溢れる紅涙が青白い頬を止め処なく濡らしている。
青年は、その場までかけより近くで顔を見る。月明かりのせいか涙は光っていた。柊は眠りの中にいながら、大粒の涙を流し続けていた。時々苦しそうに悲しい声で喘ぐ姿もある。
「柊、大丈夫か?」
ほどなくして、呪縛から解放されたように柊が目を覚ました。
「……お兄ちゃん」
「どうした。魘されていたぞ。それに泣いていた」
「怖い夢を見たの……」
「怖い夢……」
それからは聞けなかった。聞いてしまうとあらゆることが終わりの道へと決定してしまうような気がしたからだ。
その晩、青年は柊をあやして寝かしつけた。妹が寝たのを確認して青年も眠りに就いたが、後味の悪さは夢まで続いていた。青年の目の前には巨大な絶望がいくつも横たわっているように見えた。




