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大地への帰還  作者: 桐生真之
24/56

稔 2

「その子が、先日お話してくれた子ですね。ゆっくり過ごしてくださいと、後で伝えていてくだいさいね」

 ひとり家にいた若き母は縁側にて息子と少女を出迎えたのが奥ゆかしく。頬に痣を付けて衰弱している寝巻の少女を我が息子が背負って家に帰ってきたのを見たとあれば、息を飲みそして叫んでどうしたのかと狂乱にもちかい騒ぎで息子を問いつめるのもむべなるかなであろうというに、母には予め了解していた風があって、ふたりを待っていた感じすらある。というのも前々から青年は事情を話し、知り合いの少女を数日間家に泊めておくかもしれぬと家族に伝えていたのだった。

「稔をしばらく寝かせておいてほしい」

「奥の空いている部屋に寝かせてあげましょうね。お布団を敷いておきますよ」

「ありがとう」

「いいえ」

「あと、もうひとつ頼みがある」

「はい、なんです?」

「変装を手伝ってほしいんだ」

 母の部屋に行って化粧台の椅子に座ると眠っていたらしく、ぽんぽん、と肩を叩かれ、できましたよ、と告げられると花弁のような瞼を薄く開けた。夕の緋色も薄みかけてきた頃であった。

「あぁ……寝てしまったのか」

「起きましたか」

「もう、終わったの?」

「はい、できました」

「ありがとう、どれどれ」

 未だぼんやりと定まらぬ視界で母をみとめつ、くすりと笑んだ母に向かって微笑で出迎える。変貌した己の姿を鏡で確認して、

「どうでしょう、良い出来栄えだと思いますけれど、正樹?」

 絶句。

「………………」

 青年は嘆息した。

「母さん、ひとつだけ、問いたいことが」

「はい?」

「……息子の性別、知っています?」

「……はっ!」

 亜麻色の髪を肩で揺らめかした少女が、薄紅に色づく、媚びるような唇を尖らせて抗議した。いつもは冷たい乳白の肌膚なのに頬ばかりはこのとき桃色に上気している。頬紅を塗られていた。

 母は息子の注文を忘れ、女装を施していたのであった。

「なぜ実の母から特殊な趣味を植え付けられようとしているのか、私にはわかりかねますが」

「つ、つい……ね」

「ついってなんです」

「だって、可愛いんですもの」

「ダメ、これはダメですよ」

「ごべんだしゃい……」

「ちゃんと注文通りに。お願いしますよ」

「はいはぁい」

 楽しそうである。

「お願いします。時間がないんだからね」

 目をつむってさらさらと頬を撫でられるのが、変装をするための下地造りのためだとしても、心地よく、又もや青年を眠りに誘う。うとうとし、やや、これはいけないどうにも眠くなって、落ちていた、起きなくては……といつも寝足りず、気を許すと即座と眠りに落ちる己が体を戒めて、いまは覚醒に従事する。

「さぁ、出来ましたよ」

「う……うん」

 開きかけの重い瞼で捉えたのは、輪郭の曖昧模糊とした鏡のなかの己の姿。注文通り、スーツにつけ髭に黒縁眼鏡の、老けて見える化粧を施した青年ができあがった。

 ――――かに思えば。

「こんなんイヤや!」

「ええー!」

「ここは注文を間違える変装屋ですか!」

「きゃっきゃ」

 愛らしい、というより、冷たい。凛とした眉のしたに埋まる大粒な黒目は深く沈み行く虚ろな影の色。肌は白雪、鼻梁はすっとして貴族的に秀でて高く、雨に濡れたようなうす桃色の唇が潤んで、痩せているからであろう、鎖骨が艶めかしく落ち窪んでいた。長い、長い黒髪が、青年が見た夢のように尾を引いて、濡れ烏を思わせる。風に吹けばどこまでも流されていくような伸びを思わせる光沢の黒髪を、手で梳いて、腰のあたりではらりと切れた優しさと儚さや、天人の落とした羅紗の衣かと見紛うばかり。煤と膠でかためた墨で塗りつぶしたのかの墨色の……かと思えば、光のあて方によって紅にも青にも緑にも紫にも黄にも見える鮮やかな色彩美――干渉色――が、海面に浮かぶ油のようにてらてらと光を乱反射させ青年の焦燥を煽ったが、すぐに深海に揺落して消えるように純黒にもどる。彼はこの黒髪に、深く蟠る己の内面を見た気になっていた。濡れたような黒髪と指先が悦び戯れるのを抑えることなんぞができようか、弄って、梳いて、戯れて、透きとおった水面に桜の花が落ちたような白と桃色の頬を背景に、透かせて見る髪の美しさを想った、が。

「…………」

 想い煩う、それよりも今は齢二十を過ぎて一つ二つかという婀娜な女が鏡に映るのがなんともふざけて嘘めいている。化粧とは飾り化けることをいうが、このときの青年は自身の素材の端正さも相俟って完全に女に化けていたと言えよう。中年男性の装いを予定していた青年であるが、さもさりながら作戦変更を余儀なくされている。

「変装の意味が……身分の詐称くらいしか……」

「はい?」

「なぜに私はこのような?」

「よく考えたんです」

「ほう」

「私、おじさんメイクの仕方、知らないんです」

「か、かぺぺぺぺぺぺぺ……」

「だから、自然と手慣れた女の子ようのお化粧になっちゃった……てへへ」

「俺はなぜこんな無駄な時間を……」

「……ごべんだひゃい」

「仕方ない。もう時間がないからこれで行く。ありがとう。正体を誤魔化すことは出来るから」

「えっへん。どういたしまして」

「じゃ、行ってきます」

「とても似合っています」

「言わない」

 そのまま奥の部屋で寝ている稔を起こしに行く。

「えっ、誰ですか」

 至極当然の反応と言えた。声帯を締めて女の声を模す。

「高咲のうぜんかずら、と申します」

 夏の花の名を適当にあてた。

「嘘ですか?」

「はい、冗談にもならない偽名です。本当は高咲じゃがいもと申します」

 じゃがいもは夏に花を咲かせるらしかった。

「……あのう、正樹君のお姉さんですか?」

 稔は目の前の黒曜石のような『彼女』に向けて言った。

 これはもうだましておくのも酷いしとにかく時間が無い、青年は普段の声に戻して少女に話しかけた。

「俺だよ。変装しているの」

 稔の驚きは尋常ではなくしばらく息を引き取ったように静止し目を白黒とさせていたが青年に肩を叩かれてやっと意識を取り戻したようで。

「すごい……全然わからなかった……」

「気が進まないけど、大丈夫だろうか」

「ばれることはないと思う。ましてや男の子だなんて」

「不本意だが、身元がばれないのならそれを優先しなくちゃね。とにかく今は急いで着替えて欲しい。今から君の家へ行くから」

 二、三会話して稔を着換えさせた。妹、あけびの服が調度着られるようだったのでそれを着せた。

「正樹君……大丈夫かな?」

「大丈夫。大丈夫じゃないなら、何もしようと思わない。心配しなくていい。君は僕が救ってあげる」

 両親と対決するという絶望的な状況でも、少女は安堵した。

 夜目の利く身であったから青年は夕の日の沈みかける山を降りるのも苦ではなく、少女は手を引かれるのだからなお嬉しい。刻々と家に近づく足取りは重くなるようで、稔は足を振るわせ肩をすくませながら歩いていた。青年の手にも震えが伝わるのだがそれがはっきりと感じられるのだから、力強く握り返さざるを得なくなるというもの。しかし少女の足取りがそれでもおぼつかないのはむべなるかなで、ふらふらと、というよりはがくがくと、両の膝がしらを合わせ打ちつけるように少しずつ前進する。

 目的地周辺に着くころには日もだいぶ落ちこみ、濃紺の帳がややもすると落ち、山に狼でもいれば闇に向かって遠吠えをするような頃である。

 しばらく歩くとアパートがあった。新しくはない。

「早かった。もう着いたね」

 稔の家だった。

 この四階建ての邸は周辺の空気の対流から爪弾きに遭っているような風さえあった。川の流れが止まって死水が溜まっていくように腐りかけているのだ。

「うっ……」

 稔は口元を手で覆って急に襲った吐き気を耐えた。しかし何も感じぬ青年は細長い指を少女の幼い指に絡め長い黒髪を靡かせながらつかつかと、歩きなれぬはずの女の履物を器用に使いこなして少女の自宅の目の前まで歩む。

「心の準備はいいね、始まるけど」

「……」

「大丈夫。君は何もしなくていいから」

「……うん」

「じゃ、押すね」

 インターホンを押した。ほどなくして、

「どちらさまでしょう」

 女性の声がドア越しに届いた。

「夜分に申し訳ございません。稔さんのことで――――」

 と言ったところでドアが開いた。

「稔が、どうかしたんですか?」

 稔の母は息せいて玄関口に立っていた。しっかりと化粧をした顔で、紅赤く、茶色の頭髪がゆるやかな波を奏でている。薄手の赤鴇色のセーターに包まれた小ぶりな胸がうるさく上下していた。

(稔から専業主婦と聞いてはいたが、こいつは水商売の女のような格好をしてやがるな――まあそんなことは関係ない)

 青年は涼しく微笑して、挨拶代わりに軽く要件を伝えたが、青年の笑みは死に神が生命の終わりを告げる如くのようすで、急いていた稔の母の呼吸を根本から止めかけた。

 一筋、青ざめた女の額から流れる冷えた汗が。

 一筋、わざと稚気を含ませて吊りあがり、親しげに結ばれた青年の紅い唇が。

 異界への境界線めいている。

 美しいのに、この青年の微笑は、日本神話における伊邪那美の黄泉でのありさまを想起させる不穏さがある。

 稔の母は、胃の内容物が重力に逆らいせりあがってくるのを覚えた。白い歯を出して明朗に笑もうとするも硬く情けない苦笑いしか出ない己を不甲斐無く思いながら。

「夜分に申し訳ございません。児童相談所の者です。昨夜、相談のお電話がありましたのでお伺いいたしました。娘さん――朽木稔さんのことで、お話をさせていただきたいのです」

「いえ、……私、そのような電話を差し上げたつもりは……」

「電話は、娘さんご本人から頂戴しております」

「…………」

 母は何も言えなかった。思うところがありすぎたのだ。

「昨晩、稔さんと共にいた友人の携帯電話から児童福祉施設に連絡がございまして、一時稔さんをあずからせて頂いておりました。稔さんがご両親には連絡を入れて欲しくないとおっしゃいましたので、そのようにさせていただきましたが、不都合な点などなかったようにお見受けいたします。警察への捜索願も出ていないようですし」

「……主人が……しなくてよいと言いましたので」

「そうですか」

「稔さんは、虐待を受けているようですね」

「そんな、変なこと言わないでください。言いがかりです」

「虐待は行われていないのですか。そうですか、稔さん?」

「えっ」

 動揺する母は、ドアの陰に隠れていた稔の姿を見て目を点にした。

「稔っ、あなた、心配したのよ。何処へ行っていたの」

「先ほど申し上げましたように、稔さんは昨夜私どもの施設であずからせて頂いておりました。私どもが稔さんを保護した頃、稔さんは酷く憔悴しておりました。今朝、稔さんから昨夜の一部始終と、この家庭内の現状を話していただきました。私どもの見解では、どうもこの家庭では稔さんに対する虐待が行われているようですね。本来ならば警察に通報してもよいのですが、私どもが出向いて、情状酌量の余地があると判断されるならば、警察が介入するようなことにはなりませんが、どうでしょう。少しお話を聞かせていただきますか。この家庭での稔さんに対する扱いに、何か不審な点があるように思われるのですが」

 母が答えられずにいると、奥から夫が現れた。

 稔の父が玄関口まで来る間に、正樹は敷居を跨いで玄関に入った。稔は青年の背後に小さくなって佇んでいる。

「どうした。稔が帰ってきたのか」

「ええ、ですけど……」

 妻の目配せを受けて不穏な空気を察知したのか、夫は鋭い目つきで正樹を見たが、即座に柔和な笑みへと変質させた。

「あのぅ……どちらさまでしょうか」

「児童相談所の者です。昨夜、稔さんから相談を受けて彼女を施設に保護しておりました。稔さんの証言に基づき調べましたところ、身体に数ヶ所、殴打を受けたような痕が見られました。日常的に殴る蹴るの暴行を受けていなければあるはずのない傷です。ご両親は日常的に稔さんに対して虐待を行っているのではないか、これが私どもの見解ですが、異論はございませんか」

「ちょっと待ってください。娘を連れ戻して来てくれたのは感謝しますが、いきなり尋ねてきて虐待だのどうのと、話が突飛過ぎて」

「白を切るおつもりなら、こちらにも証拠というものがございます。これを見て言い逃れできるのでしたら、さあ、どうぞ」

 青年は肩に下げていたバッグから封筒を取り出し、そのなかから写真を摘まみだした。稔の身体の写真である。手足、腰、背中、脇腹、大腿部、臀部、胸部、様々な場所に傷のついた稔の体であった。両親はそれを手にとって愕然とし声を失っていた。父親は肩を微弱に振るわせ、母は気力を失わんばかりであった。

「それはおふたりに差し上げます。破ってしまわれるのならそうしていただいても構いません。それはただのコピーですので」

「……こんなもの……いつ……」

「稔さんの体にどうしてこのような傷ができたのでしょう。これは明らかに殴打の跡です。稔さんのお話から、ご両親、特にお父様から受けた打撲傷だとわかっています。これは虐待です。

失礼ですが、この家庭はすでに機能不全のようです。それどころか稔さんにとって害になっている。稔さんの心身の健康と安全のために、稔さんをここに置いておくわけにはいきません。彼女は保護されなければならない状況に陥っています。これから専門家の診療を受けるために彼女を引き取らせていただきます。しばらく面会は互いに精神的によくありませんので、彼女の行き先も伝えることはできません。面会謝絶ですが、もちろん彼女の身の安全は確保しますし、治療も行います。異論はございますか」

「さっきから何を言っているんですか。人の娘を引き取るなんて出来るわけがないでしょう。どんな権限があなたにあるというんだ」

「権限ならございます。これは特別に私どものみが持っている権限というわけではありません。虐待が行われてしまった家庭の被虐待者を強制的に保護する法というものは確固としてこの国に存在しております」

「そうですか。しかしそうであったとしても私たちは虐待などしていない。仮に娘の身体を傷つけてしまっているとしても、それは教育、躾の一環としてのものであって、暴力ではない。そこを見誤ってもらっては困ります。娘はまだ子供だ。躾と暴力の区別なんぞついちゃいないんです」

「稔さん、ちょっと離れて、大人三人だけにしてもらえないかしら」

「はい……」

「近くに公園があるでしょう? そこにいてくれるかしら」

 相槌を打って稔は正樹に背を向けた。そのまま稔は両親と目も合わせずに家を出て行った。

「み、稔っ」

 母親が小さく叫んだときにはすでに玄関の戸は締められていた。何かが始まった、閉じ込められた、と思って父親は唾を飲み込んだ。

「お言葉ですが、躾と暴力の区別が付いていないのはお父様なのではないか、私はそう思っております。仮にお父様が行っているのが躾とするなら、どういった方針で躾をなさっているのか、ご説明願えますか」

「方針も何も、良いことは良い、駄目なことは駄目だと、単純なことを教えているだけです」

「もっと具体的にお聞かせ願えますか」

「あなたね、お節介にも程がありますよ。人様の家の教育方針に茶々を入れる暇があったら、あなた自身のことに気をかけたらどうなんです。それに躾の仕方なんて其々の家で違うものでしょう。何処が正しいとか間違っているとか、そのようなものでは計れないはずです。他人の教育の現場に土足で足を踏み入れることはエゴの押しつけであり、お節介以外の何物でもない」

「今は私自身の問題ではなく稔さんのご家庭と稔さん自身の問題が重要なのです。躾に正しいも悪いもないというお父様のご意見には肯けます。教育は結果論的な部分が大きいものですから、いくら悪辣な家庭環境で育った子でも、素晴らしい人物になることもあります。しかしそれは希なのです。殆どの被虐待児は精神的に何らかの重荷を背負って生きています。稔さんは善良な人間です。彼女は積極的に他人に害を及ぼすような人間ではないでしょう。しかし彼女は虐待による精神的及び肉体的な傷を負って、自ら壊れようとしています。善人なのに自らの意思に背いて他者を傷つけてしまう、そんな悲劇の日がくるかもしれません。それが精神的な病なのです。彼女の目を見てわかりませんか。稔さんからは被虐待児の一つの特徴がはっきりと見て取れます。見れば見るほど、話せば話すほど。思考が鈍いゆえに反応が遅いばかりか、判断力と決断力が乏しいために自分の意見を言葉にすることが非常に困難です。目は生気が薄く、固まり、表情は乏しく虚ろとしています。彼女と短時間接触しただけで、それらの特徴が見られました。これらは全て虐待による影響なのです。おわかりいただけましたか」

「ちょっと待ってください。稔にそれだけの特徴があるからといっても、私たちが虐待をしていたという証拠にはならないじゃないですか。私たち以外の誰かが稔に暴行を加えているかもしれない。例えば、学校の生徒からいじめられているとか、そういうこともあるでしょう。なぜ私たちが加害者だと頑なに主張するのか、その根拠はなんですか。あるはずないじゃないですか。直接稔を殴っている現場を見ているわけでもないし、例え稔が、私たちが稔を殴ったと言ったとしても、それが嘘ではない保証はないはずでしょう。思春期の難しい年頃ですから、あの子は何を考えているかわかりません。親のことが嫌になって家を抜けだしたくなることだってあるでしょう。学校での不満などを親のせいにしたくなったりすることもあるでしょう」

「稔さんが嘘を言っていると、仰るのですか。稔さんは嘘をつくようなお子さんでしたか」

「…………」

「もしも学校内でいじめが行われていたとしても、家庭で稔さんが十分に愛されていたのなら、あのような精神状態にまではならないはずです。この家には確実に愛情が不足しているばかりでなく悪意が充満しています。ご自身で仰っておかしいとは思いませんでしたか、稔さんを愛して気にかけているのならば子供が学校でのいじめに遭っていることに気付くとは思いませんか、例え本人が隠していたとしても」

 父は愕然としたまま女を見た。

「私はお父様が嘘をついているように思います。稔さんから相談を受けましたが、彼女が嘘をついているようには思えませんでした。彼女が話すときの目線や掌の発汗の具合、又、脈拍を継続的に調べていましたが、そういった科学的な見地からしても、彼女の証言の中にはひとつも嘘は見受けられませんでした。それに対してお父様には嘘をついているときの人間の行動が顕著に表れています」

「なっ」

「と申しましても、それはお父様が稔さんに暴行を加えているという証拠とは言えません。ここまで申し上げていて何ですが、現在の時点では、全ては推測なのです。稔さんの体についている打撲傷も、彼女の発言も、虐待が継続的に行われているということを明確に表しているようですが、何せ昨日の今日のことで調べが未だ足りませんから、全てを結論づけることはできないのです」

「……」

「しかし、この国の法では、虐待が行われている恐れがある、という極めて主観的な判断で、捜査の手を入れることができるのです。虐待が本当に行われているか否かは問題ではなく、全ての人間の独断と偏見で通報して良いのです。そのように児童福祉法第25条などに規定されております」

「しかしさっきも言ったとおり、私がしているのは躾であり、虐待なんぞではない。あなたも野次馬の早とちりに過ぎないんじゃないか」

「ご両親が躾と認識なさっていても、稔さんのためにならなければそれは虐待です」

「だから稔はまだ子供で、良いか悪いかなんてわかっていないと言っているでしょう。あまり度が過ぎると警察を呼びますよ」

「どうぞ、お呼びください。今この状況であなた方にとってその発言は不適切です。警察を呼ばれて不利になるのはご両親のほうでしょう。稔さんへの虐待を疑われるような状況なのですから。それに私どものような仕事をしていますと、警察の方々とはしょっちゅう一緒に仕事をすることがありますので、顔見知りの方は何人もございます。ここから通報するのでしたら、この界隈でしたら私の知人の警察官が飛んでくる可能性は非常に高いと言えます」

「……」

「これは事件なのです。

虐待は広い意味を持つ言葉ですが、そのほとんどが、暴行、性的な強要または悪戯、侮辱、教育放棄などに分類されます。これらの犯行が公に広まればあなた方は警察を相手にしなければならなくなるでしょう。ですが私どもはご家族の名誉のため、内密にことを解決するよう取り計らうつもりなのです。これは救いの手なのです。リスクを最小限に抑えるための提案だとお考えください。体裁を一番にお気になさるご家庭のようですので、改善の余地があると判断できれば後日稔さんを引き渡して私どもと回復プランを受けていただきます。改善が難しいと判断されるようなら警察を介入させ稔さんはしばらく私どもがあずかります。簡単な提案でしょう」

 菩薩のように諭した。優しく接しているのに両親は冷や汗を垂らした。

「稔さんの体に殴打の痕があることや、彼女が精神に傷を負うような目に遭っていることは確かなのです。ですから私どもは虐待の可能性を疑っているのです。……児童虐待の定義をご存知でしょうか?」

「……」

「児童虐待とは十八歳未満の児童に対し不当な扱いをし、心身を傷つけ健全な成長を妨げることです。児童の健康と安全が脅かされ危険に晒されてしまったり、児童に不可欠なものが与えられていないことを言います。虐待は保護者の意図とは関係なく、ご両親が躾と思っている行為でも児童にとって悪影響を及ぼすものであるのならば、それは虐待と判断されてしかるべき行為なのです。稔さんが受けているのは殴打のような目につきやすい虐待ばかりではありません。体を傷つける身体的虐待以外にも、精神的虐待・性的虐待・ネグレクトを受けている可能性も考えられます。この四項目が主に存在する虐待の形態であり、稔さんはこれらの全てを受けてきたようです。

 さらに細かく言うと、心理的虐待は、言葉による暴力や、差別、そして故意に無視をしたり、拒否したり、その児童の自尊心が傷つくようなことを繰り返し口にすることです。産まなければよかった、と、稔さんに対して口にしたことはございませんか。そのように彼女の存在を否定する暴言を浴びせられ続けていれば、その児童にとって、家庭は心安らげる場ではなくなってしまいます。

 心理的虐待は身体的虐待やネグレクトと重なって起こることが多く、それ故に心理的虐待の深刻度は高いのです。

 あなた方に自覚がないように、家庭という他者の眼に付きにくい場所では心理的虐待は発見されにくく、被虐待児は自ら語る能力が育っていないことが多いため、発見は更に困難なものになるのです。稔さんと接し、明らかに虐待を受けているのにも関わらず、自分が晒されている状況を上手く伝えることが出来てはいなかったのには、そのような理由がありました。

 また、彼女は暴力だけでなく性的虐待も受けているといった旨の証言もしていました。彼女はお父様から、触ってほしくない所を触られる、撫でられる、と述べています。家族ですから身体的な接触は日常的な行為です。抱きしめてあげたり頭を撫でてあげたりといった愛情を示す行為は寧ろたくさんしてあげた方がよいでしょう。

しかし他人には普段触られることのない口腔・性器・乳房・臀部・大腿部などのプライベートエリアに性的な欲望を持って触れたりすればそれは性的虐待になりえます。また、大人の性器を露出させたり、児童の入浴を盗み見したり、一緒に入浴を強要したり、児童の裸を撮影するというような性的強要、さらに児童の前で加害者が意図的に自慰をしたり、見せたり、それをさせたり、あるいは口腔と性器性交、性器と性器性交、肛門性交、性器へ性器以外の異物、指などを挿入するなどの性的暴行まで様々な可能性が考えられます。

 性的虐待は重症度が高いとされる故にトラウマ治療が必要とされ、それには非常に膨大な時間を要するのです。

 性的虐待……」

 父親に接近し、下からその顔を覗き込む。

「したこと」

 稔の父親は、柔和な笑みの奥に隠れた魔物の目を見た。この女は表情をころころと変えるばかりではなく、一瞬で笑みを消すことができた。見たばかりの笑みを忘れるほどに。

「ありますね? むしろ継続的に行われているでしょう」

「…………」

「言葉もありませんか、まぁ良いでしょう。お母様にも問題があるようなので、お母様にもお話させて頂きましょう」

「はっ、はい」

「お母様。あなたは母親の役目を果たしていないようです。あなたも加害者であり虐待をしている一人ということです」

「わ、私が?」

「ネグレクトという言葉をご存知でしょうか」

「……いいえ」

「ネグレクトとは保護者が養育を放棄したり、放置したり、拒否したり、児童の健康状態や安全を損なう行為を指します。稔さんの幼少期のお話も伺いましたが、典型的なネグレクト家庭でした。

児童の成長や発達に必要な食物を与えていないなど不適切な与え方をしていたり、長期間入浴させず、下着も替えずに不潔にしていたり、病気なのにも関わらず医者に診させなかったり、受診が遅れる、不潔な環境に放置している、一室に閉じ込めて外出させない、児童を置き去りにして外出する、児童の登校を禁止する、住居が一定せず放浪状態のまま、衣食住の世話をせずに養育を拒否している、車内に児童を置き去りにしたままパチンコやカラオケなどに熱中していたり、児童に留守番をさせて夜遊びに出たけたりなどがネグレクトの例です。稔さんの幼少期に、そういったことをされていたようですね。

稔さんが生きているからまだ良いものの、ネグレクトがひどくなると栄養失調や脱水症状により児童が死亡してしまうケースもあります。問題視すべき親から子への対応です。稔さんを見ればネグレクトを受けている可能性を検討しなければならない、それ程の状態なのです。

ネグレクトや身体的虐待や性的虐待は同時に心理的虐待にもなり得ますので、稔さんには心理的虐待を受けた児童の特徴が顕著に表れています。

 先ほども申し上げましたが心理的虐待を受け続けている児童は徐々に子供らしい表情が失われ、無表情、恐怖に満ちた表情、凍りついた目つき、といった顔つきを見せることがあります。

 稔さんにもみられるように、顕著な心理的虐待は、情緒の発達もさることながら身体の成長をも遅らせることがあります。

また、心理的虐待を受けている児童は虐待の問題を思春期に先送りすることも多く、非行に走り、アルコールや薬物の乱用、家庭内暴力、引きこもりなどの行動を起こすことがあるのです。まだこういった特徴は稔さんに表れてはいませんが、いつ爆発するとも限りません。

さらに、稔さんには愛情剥奪症候群の傾向も見受けられます。母親が自分の子供を精神的に受け入れたり愛情をかけたりすることがなく、それが慢性的に持続していくと子供は、感情を出さない・精神発達の遅れ・かんしゃく・周囲への無関心などの情緒的・心理的な障害を起こしてきたり、それに加えて身体的な成長障害をみることがしばしばあります。

 児童の印象は痩せて、発育・発達が遅れ、陰気で、表情に乏しく、膨満、全体的に汚れた感じを受けるでしょう。それほど愛情というものは人間にとって大切なものなのです。

 愛情剥奪症候群の子供に正常な成長を促すには、愛情のない母親との分離が優先されます。母親との分離こそが適切な治療法なのです。

愛情剥奪症候群の子は、母親との分離によって健全な心身の成長を得るのです。

 稔さんは非常にわかりやすい被害者です。通常、児童の身体的な特徴や態度にわかりやすく虐待の形跡が出ているのであれば発見は難しくはありませんが、虐待は家庭という密室で行われていることがほとんどですので、発見者が注意を払い、被虐待児に表れる特徴を把握していなければ発見は困難なものなのです。しかし、稔さんが訴えてくれたおかげで我々は知ることが出来ました。

 我々のように、虐待が如何なるものであり、被虐待児にはどのような特徴があるかということを理解していれば、児童の何気ない仕草や保護者の言動などから虐待を発見することができます。不自然な傷や、子供らしさが失われた表情や、虐待されていると思われる児童や加害者と思われる親の不自然な言動や、理解し難い言い訳や説明から、虐待の痕跡を読みとることができます。

 その点、これは稔さんの学校の生徒から聞いた話ですが、稔さんは、理由不明の欠席や遅刻が目立つことや、対人関係が苦手で友人が少ないまたはいないといったはっきりとした特徴がありました。そして残念ながらご両親にも加害者の特徴がございます。児童の発達に問題があっても認めようせず、説明が頻繁に変わったり子供同士のせいにしたりしていましたね。それらは虐待する親の特徴といっても良いでしょう」

「それでも憶測に過ぎないじゃないか」

「何度も申しておりますが、見ただけでわかります。怖がる、服従する、密着したがるまたは密着を拒否する、無表情・なつかない、怯える、情緒的な問題がある。これも退行現象を認めれば、より重症度は高いと判断されます」

「なんで私が我が子を虐待しなければならないんだよ!」

「虐待の理由は多々ありますが、お父様の場合は、お父様自身が虐待を受けた経験がある、または過去に子供を虐待した経験があるのでしょう」

「……」

「あなた方は若年結婚です。望まない妊娠ではなかったのではないですか……あなた方は、地域の方々との繋がりが希薄なようですね。周囲の援助に対する姿勢:実家や婚家との関係が悪く、援助者がいない、地域から孤立している、友人や隣人の援助が得られない、保健や福祉の関係者にもガードが固くて援助を受けようとしない態度であれば虐待を疑われても仕方がないのです。人目には分かりにくく、家庭内で抱え込まれる養育の放棄や心理的虐待は、児童の心をさらに深く傷つけるものです。私はあなた方の欺瞞を許しません。しかし悔い改めることはできます。聞けば、お父様はお酒を飲むと暴行が酷くなるようですね。アルコール依存症なのであれば、治療が必要です。アルコール依存者は、自分にアルコール問題があると思っていても素直に認めようとしませんので非常に厄介なのです。否定というものはアルコール家族の病理ですから、児童への虐待があったとしても認めないのが常です。

 またアルコール依存家族で起こる虐待は、加害者自身が幼い頃に親から見捨てられたり、虐待を受け継いできた世代間連鎖があることが多いため、もともと人を信頼する能力が薄弱であったり、防衛的で親密な人間関係を結べない人間が多いのです。自分の家に困ったことや暴力が起こっても、他人にはなかなか相談しようとしません。見かねた周囲の人間や親戚が、福祉事務所や保健所に相談するといったケースになりがちなのです。あるいは児童自身からの訴えや状況から発見し、介入することもあります。今回は稔さんの訴えがあったので調査の手を入れることができました」

 とここで一旦話を止め、肩にかけていたバッグの中身を取り出した。バッグから青年が取り出したのは、小さな音声再生機であった。青年は証拠写真を撮影していたあの日を含め、数日分の稔の証言の要点をまとめていたのだ。両親に聞かせるために録音した稔と青年の、質疑応答の繰り返し。その再生機のボタンを押し、録音していた稔の声を流す。小さな声であるが、明瞭な音であった。

「これは私どもの職員と稔さんの問答です。しばらくお聞きください」

 質疑応答を聞きながらふたりは唖然としたまま固まっていた。美しい蜘蛛に囚われた二匹の蛾は、もがくこともなく食われるがまま。青年は録音されていた質疑応答を数分間流し、再生機を止めた。

「これが彼女の証言です。稔さんはご両親のどちらからも愛情を感じていないようです。問題は、お父様のみにあったわけではございません。お母様にも思うところがあるのではないでしょうか。これは私と稔さんの推測に過ぎませんが、あなたは子を産みさえすれば今のご主人と結婚できると思ったのでしょう。子供を結婚するための道具に使ったのが愚かでした。父親であるご主人は子供もあなたとの結婚も望んでなかった。意見の不一致があっても子を産みさえすれば夫も心変わりするだろうと思ったのが甘かったのです。ご夫人は子供を入れたあなたとの関係がさらに煩わしくなってきたのではないでしょうか。始めのうちはよかったのでしょうが、やはりストレスは溜まっていたのでしょう。

 子育ては辛く厳しいものです。お母様だって思うところはあったはずです。喜んでくれるはずの夫が喜んでくれない。子供なんて言うことは聞かず病気はするし泣く、一日中見ていなければならないし、子育てなんて子供が可愛くなければできません、重労働ですから。そしてあなたは気が付いてしまった。子供なんて何も可愛くないことに。よくわかったことでしょう。母性も父性も愛も、社会的な共同幻想でしかなかったことに。自分の心のどこにも子供を愛する気持ちがなかったことに。あるのは子育ての責務と後悔と、もしも奇跡的にあるとしたら少々の憐れみだけでしょうか。自分の子供に愛情を注ぐことができないなんて何らおかしなことではありません。生物のなかには自分が産んだ子を餌だと思って食べてしまう種もいるくらいです。これらの動物は子供のことを自分が産んだ我が子だとは思っていないのです。お母様だってそうでしょう。子供はご夫人と結婚するための道具であったはずです。稔さんは育てにくいお子さんではなかったはずです。癇癪も持っていない、目立った病気もない、障害があるわけでもない、でも育てたくはない。いいんですよ、そう思うのはおかしなことじゃありませんから。おそらくお母様は幼少期においてご両親からの愛情を十分に受けることができなかったのではないでしょうか。母親の愛情など知らないのに周りはちゃんと育てるようにと期待をかけてくる。しかし愛せないものは愛せない。それを世間はわかってはくれないのです。ご両親に申し上げることができるのはただ一つ、周囲のご家庭ともう少し密な関係をお築きください。そうすれば背負わなくていい負担まで背負うことはなくなるはずです。もしかしたら良いアドバイスも聞けるかもしれません。それまで私どもは稔さんを保護するつもりです。稔さんは普段通り学校に通わせますが、待ち伏せして稔さんを連れ行こうものなら警察を呼んで対処させて頂きます」

「稔を連れていくだと……」

「はい、子どもの保護が緊急に必要であると判断される場合には、児童相談所で一時保護することができます。この一時保護は、児童相談所長の職権で保護者の意に反して行うことも可能なのです。職権による一時保護を行った場合には、保護者からの引き取り要求を拒むことができます。ちなみに立入調査は児童福祉法第29条によってできました。虐待事実の蓋然性、子どもの保護の緊急性、保護者の協力の程度などを総合的に判断して、児童福祉法28条の承認の申し立ての必要性を判断するために、子どもの住居に立入り、調査することができます。状況によって警察の対応が相当と認められる場合は、事前協議と連携を得て、適切な調査の実施に努力する必要があります。

幸運でしたね、本来ならば私どもではなく、直接警察の方々から先にこの事件に介入することもあるのですから」

(民法第834条のことは言わなくて良いか)

 民法第834条。父又は母が、親権を濫用し、又は著しく不行跡であるとき、家庭裁判所は、子の親族又は検察官の請求によって、その親権の喪失を宣告することができるとあるが、この両親が稔を手放したいが故に再び虐待を行う可能性もあったため口にすることはなかった。

「稔さんの状態は正常ではありません。彼女の心の問題はご両親の元を離れればそれで解決するというわけでは決してございません。加害者から引き離せば虐待の問題が終わるというわけではないのです。稔さんはこれから心の治療をしなければなりません。彼女はこれから様々な被虐待児のためのトラウマ治療・リハビリを臨床心理士とともに行っていきます。これには多くの時間がかかり、稔さんはこの治療を終えてやっと虐待を乗り越えることができるのです」

「ほ、本当に稔を連れていくのか……」

「ええ、先ほどから申し上げておりますよう、稔さんを連れていかなければなりません」

「稔は、稔は俺のものだ!」

「人は誰かの所有物ではありません。人権を無視する者に人権は必要ありませんよ。あなたは態度を改めなければなりません。親としての責任をあなたは果たしていないのですから」

 当然ながら両親は青年の意をくんでいるわけではない。寧ろ溜まりにたまった不満を抑えるのがやっとといった様子で柳眉に深く谷を刻んでいる。

しかし青年はすでに潮時を感じていた。

「まだわかりませんか? 同じ目に、あわせましょうか」

 と青年が呟いた刹那に目の前のふたりが犠牲者と成り果て、二度とこのときに起こったことを思いだしはしなかった。

「親が子供に対してしてあげなくてはならないことは多々あるでしょう。子供が安全かつ社会の一員としての成長を保証すること。住居や食べ物、病気のときのケア、危険から保護するなど身体的に必要なことを充足してやること。子供の成長につれてバランスが変化するのに合わせて自立と好奇心を育てること。他者との肯定的な人間関係を築く能力を含めて人格的発達の源泉になること。これらが親の責任として期待されることであり、虐待はこれらの親の責任が果たされていないということなのです。又、子を育てるという行いを経て、人間は成長できます。親は子供に育てられるのです。そのことがわからない傲慢な親は子供を恰も物であり所有物のように見るようになるでしょう。先ほど言いましたように他者の人権を無視する人間に人権は必要ありません。私はあなた方にそれ相当の措置を取らせていただきます」

「ま、待ってください! 稔を連れていかないでください!」

 稔の父親は悲痛な顔で土下座した。

 まさか、と思ったが、少し考えると、この人のやりそうなことだ、と考えを改めた。青年はこめかみの辺りに冷気を感じた。

 突き放すように、告げる。

「あなたが土下座をすることによってあなたの不利益になるかもしれませんが、それで我々や稔さんの利益になるわけではない。自分が不利益になるだけで相手に何かしてもらおうという精神のある人は怠け者で、自分の利益にならないのに相手を不幸にすることのできる悪魔の素質を持っているのです。相手の利益にならないことをして相手の良心に付け込んで脅迫するのですから、非常に残酷な資質を持った人間だと言えるでしょう。自分の手をナイフで傷つけて、他人から金品を与えてもらおうとするようなものです。

不利益をこうむって人を動かそうとする酷い人。あなたみたいな人がやりそうなことです。

ここは悪魔の住む家です。

即刻、稔さんとは距離を取らせなくてはなりません」

淡々と突き刺す。

「稔は私の宝物なんです、連れていかないでください!」

「綺麗な顔で虚偽を語るのは醜いというものです。きれいさっぱり忘れましょう。穢れは流して、清い心にいたしましょう。悪しき習慣は滅ぼしましょう。いまこそ、更生のときなのです」

 青年の瞳が赤く光る。両親は恍惚の笑みを浮かべて気を失った。青年は、一時的にふたりをあの世界へ連れ去った。

「出来ればこんなことは控えたかったのですが。まだ覚えたてなので、この使い方には慣れていないのです。失敗してしまえば、あなたがたの脳に機能障害が残る恐れがあります。死んでしまうことはないと思いますが、手足が動かなくなったり、目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったりするといった怖れがあります。なんだがそれは、とってもまずいでしょう?」

 事実、後遺症は現れなかった。ふたりが極端に機械的な善人になったことを除いては。

 …………実家の門をくぐったときには随分と暗くなっていた。そろそろ夕食を取ろうかという時間であった。

 化粧を落とし着替えを済ませ、青年は、前日に話していた通りに稔を連れて家族にことの流れを全て話した。一番あっけなかったのは父の柳だったが、住んでいる場所のせいだろうか、家族全員浮世離れしたところがあった。よって語らいにもやわらかな風味が含まれる。

 柳は青年から一通り話を聞くと、そんなこと取るに足らない問題だという風に、極めて自然に言った。

「おー。しばらく泊るのか。別に良いんじゃね?」

 こんな調子なので、母も同調していた。

「愛ですねえー」

 大らかであるが、現実的には、まともな両親とは言い難い。

妹のあけびなどはおかしそうにはやし立てて、

「らちかねー? ゆーかいかねー?」

 と言い、それが次女の柊までにも伝染していた。

「なにかふらちなにおいがしませんかね?」

「しないしない。しばらく稔がここで住むようになったから、よろしく頼む。仲良くしてやってほしい。親父と母さんたちにはすでに言っているから大丈夫だとは思うけど。この通りです。よろしくお願いします」

 青年は頭を下げた。父は快活に笑んだ。

「人数が増えて楽しいなぁ」

 この両親にはあまり他人と身内の垣根がなかった。

「ええ、もちろんですとも」

「稔ちゃんも遠慮せずにリラックスして過ごしてくれ。正樹だけでなく、何かあったら誰にでも言うんだぞ」

「…………」

 稔は返事をしなかった。返事をしない稔の本質的な異変を正樹は目ざとく見つけた。稔はこの現状を全く認識していなかったのである。

「疲れているみたいなんだ。今日はもう寝かせたほうがいい」と青年。

「側にいてやれ」と父が言う。

 稔はしばらくこの家に住まうこととなり、ここから学校に通った。青年のおかげで彼女の両親からの干渉もなく、静かに毎日が過ぎ去った。しかし稔の精神の歪みは生半可なことではなく、様々な症状を現し始めた。

(歪みも狂いも単なる個性。そもそもが皆、狂っているようなものなわけだし)

 元々このようなことに備えていた青年にとって稔の病理の表出は驚くべきことではなく、彼は恐ろしいほどに冷静に稔の心に対処していった。所謂、洗脳を始めたのである。少女に対しての心理操作は完璧な人間を創造するための手段であったが、彼は方法を根本的に間違っていたと言える。稔は自立するどころか青年への依存を深めていった。しかしそれも計画の内であるから、精神が歪んでいるのは少女の方ではなく青年の方だと言える。

 彼は美しいものが好きだった。彼は美しいものに完璧さを見るのであった。美しきものを己の手で作り上げることが出来さえすれば、世界の真理の全てを手中に収める気になれると確信していた。完璧なものを求め、それを己の手で壊すことを切に願っていた。

 稔の病理の表出は目覚ましいものであった。

 退行現象――――安心できる相手の前だけ、自分を傷つけることのない絶対的な存在の前でだけ、稔は精神年齢を劇的に下げた。多重人格と思われるほどに。時には赤ん坊の頃に戻ったような状態になり、青年に無理なお願いをした。そして稔の要望の全てを青年は受け入れた。

 とある午後、入浴を済ませ、夕食も食べ終えたふたりは青年の部屋に戻っていた。何もせずゆるりと語らうはずであった。しかし稔は不安げな顔をし、稚気に富んだ声を出した。まるで媚びるような調子の。

「まぁーくぅん。お願ぃがあるの」

(ああ、やっぱり。無理もないか)

 青年は直ちに了解した。この稔が、ぶれた稔であることを。

(退行現象か……?)

「どうしたのかな? 言ってみて」

 俯いた稔の表情や所作からは幾許かの葛藤が見て取れた。

「あ……あの……」

「ん?」

「……あう」

(何を言い出すんだ)

「おいで、ほら」

 青年は少女の手を取って抱き寄せた。少女の小さな頭蓋が青年のなだらかな胸に深く収まっている。青年は少女の頭を撫でながら言った。

「大丈夫、何を言っても驚かないし、稔を拒否したりしない。寧ろ言ってくれると嬉しい。なんでも、ね? どうしたいの? 言ってごらん」

「あ……あ……」

「うん?」

 数秒、躊躇して、赤子のような少女は言った。

「……おしめ……代えてください」

 青年は少女に微笑みかけた。慈しみを込めて。この身を頼ってくれる他者がいることは少し嬉しかった。

「いいよ。でもおしめはないから下着を代えるってことでいいかな?」

「あの……まーくんに頼もうと思って、買ってきたのがあるの」

 少女は立ちあがり、硬い所作で衾へ歩み、中から包みを取り出し、青年に広げて見せた。羞恥によって紅色に染まった頬を隠すように、視線を床に這わせていた。包みからむつきをひとつ、使う分だけ取り出して青年に言う。

「これ、これを……あの、……お願いします」

 青年は低い声で、

「うん、いいよ。少し待っていて」

 と告げて別の部屋から濡れた薄葉紙の箱を持ってくる。

「じゃ、仰向けに」

「うん……」

 少女は手をついて仰臥の姿勢から両膝を立たせたが、落ち着かないのか青虫のようにもぞもぞと膝と膝を絡ませていた。瞳がわずかに水分を増して、潤んでいるのが見てとれた。

「腰を浮かせて。下着、脱がせるから」

「はい……あっ」

 悲鳴のような小さな喘ぎを少女が漏らしたのは、とある事柄を想起したからである。少女がスカートの下に履いているのは肌着ではなく、すでにむつきを着用していた。しかしそれを告げる前に青年はこの誤謬を諒解していた。

「もう履いていたんだ?」

「うん、ごめんなさい」

「いいよ。それじゃ、脱がせるね」

「はぁい……」

 舌足らずな少女の声は、退行の深度が増していることを明示していた。表情も年齢に沿わぬ幼さを醸し始めて爛々と輝き羞恥を忘れ、無邪気な笑みまで見せる程。仰向けの姿勢で両の掌を閉じたり握ったりしている赤子が青年の目の前にいた。彼女は豹変してしまっていたが、これは少女の過去の写し絵なのだろうと、青年はかく考える。

 ふたつの心は母と赤子のそれであるのに、姿かたちはうら若き男女のそれであるから奇妙な光景である。

 記憶におぼろげな、妹たちにしてやったことをかすかに思い出しながらむつきを取り外す。と、わずかに見えた粗相の痕跡。青年は掌を少女の額に乗せた。

「おしっこできたんだね。偉いよ。次はもっとできるといいね」

 撫でた額は熱を持っていたが、病による棘のある発熱ではなく、稚気と悦びによるやわらかな熱であり、微妙に汗をかいているのがわかった。

 呼びかけても少女はきゃっきゃっと笑うだけで、言語を発してはいなかった。拙いながらもいままで成長してきた自我と共に、言葉すらも封印してしまったのだとわかった。

「それじゃ、拭きましょうね」

 露出した下半身を丁寧に拭い粗相の後始末を終えると、少女がすでに購入していた別のむつきを替わりにあてた。

 スカートを履かせてふたりとも布団に横になった。抱き合ってしばらく静かに停止し続けるふたりの周辺では、幸福な倦怠感が螺旋を描いていた。ふたりは海底で交尾に疲れて死んだ深海魚もかくあるかの姿でまどろんでいたが、青年の寝息が少女の睫毛を震えさせると、敏感な少女は虫食い花から逃れる蜜蜂のように苦しみながら夢見から解き放たれた。少女の覚醒に伴って、神経が繋がっているのかと疑わせるくらいの絶妙なタイミングで、青年も目を覚ました。熟睡などしたことのない彼らしい早い寝起きであった。寝起きはいつもひどいものだった。体に根が生えたように重く、各所が痛んだ。でも顔には出さなかった。どうしようもないからだった。よって少女は悪夢から目覚めたように一瞬だけ動揺していたが、青年のやわらかな微笑を見ると、深く安堵していた。そしていままでのことを思い出し、赤面したのだった。目覚めた彼女は退行からも戻ってきていた。

 俯き、開口一番、謝罪を込めて心情を吐露する。

「さ……さっきはごめんなさい。私どうかしていたんだと思う」

「ううん。構わない。して欲しいことがあったら何でも言うんだよ」

「それはいけない。依存してしまうもの。迷惑でしょう?」

「迷惑だなんて思ったことない。僕が好きでやっていることなんだから、臆する必要なんてない。寧ろもっと甘えていいんだよ」

「ありがとうね。でもこれ以上正樹君に頼ってしまったら、私、またあんな風に……今の自分が消えちゃうんじゃないかって思うの」

「どういうこと?」

「何も抑える必要がないとわかったら、どんどん甘えてしまいそう。いままで親に甘えたことが無かったから、正樹君に今までの分甘えてしまいそう。でもそうすると、今の私は消え去って、あの子ばかりが出てしまうようになってしまうかもしれないの。今も後ろの方からあの子が見てて、出てきたいって思っているの。幼い私と今の私がひとつながりのものなのかわからない。もしかしたらどちらも大きくなって、お互いにぶつかって、大変なことになってしまうかもしれない。それが、こわいの」

「どちらでも稔は稔だよ。どうなっても稔はひとりだ。ちょっと幼くなった稔も今の稔も、大きな稔というなかの一部なんだと僕は考えるよ。人の自我なんてわからないものだよ。自分のこともわからない。例え稔の中に何人もの稔がいても、全員愛してあげるよ。僕が喧嘩しないでって言ったら、聞いてくれるでしょ? 大丈夫だよ。君は――――僕の揺りかごのなかだけで生きていけばいい」

 彼女は一瞬言葉を失い感激に打ち震えた。そしてしばらくした後、ありがとう、と告げて少女は涙を流した。青年は少女の涙が頬を伝うまえに人差し指で涙を掬った。温かかった。

 むつきを替えるというこの奇妙なお願いは、少女から青年に対して無意識に行われた試験のようなものであった。少女は青年が自分のわがままを受けて入れてくれる絶対的な味方であるかどうか試していた。己の心を許すことのできる相手であるか、その最終的な試験である。

 彼女は幼児期に実の両親から受けられなかった愛を受けなおしていた。幼児期の過ごしなおしをしているのである。生まれ変わりに似た育ちなおしである。愛の欠如した悪しき赤子時代を塗り替えるための命がけの行為であった。

 こうやって少女の青年に対する依存は深刻なものへと発展していった。

「君は僕の一部みたいなもの。僕から半身と思われるためには何をすれば良いかな。どんな努力が必要? 心を支配すれば良い? 肉体を縛り付ければ良い? 教養を得れば良い? 美しくなれば良い? どれも違うんだ。なにもしなくていい。悲痛な努力なんて必要ない。僕たちは取引やゲームをしているんじゃないんだ。恋愛における駆け引きなんて、ナルシストしかしないような愚かな行いだろう?」

 このような言葉は麻薬と同じであり、稔の思考を溶かすには最適であった。

 稔には物理的な自由、彼のもとを去る自由が与えられていた。しかし依存心は鎖となって自身を彼の支配下に縛り付けた。こめかみに銃口を突き付けられた子供のように無力だったのである。

 これは蝶に化けた蜂の、愛の脅迫である。美しく飾られた虚構の姿に見とれている間、針は獲物に向けて狙いをすましていた。優しい言葉で思考能力を奪っていった。

 少女はすでに青年を愛していた。自発的に愛していると思い込んでいた。

 人は先入観によって判断を左右されながら生きていくしかない。高咲正樹という青年を、自分を肯定してくれる愛の権化だと定義してしまった彼女の認識を変えることはもうすでに並大抵の努力ではなし得なくなっていた。

 支配とは己の不足を恣意的に補う行為であるが、少女には青年から人格的な欠如といったものの一切を感じ取ることはなかった。そればかりか青年は優しく、少女の欲求を理解し、恐れや不安を取り除いてくれる神のような存在であった。少女は世界の答えが青年にあるような気さえしていた。青年のまえでは考えることさえ馬鹿らしい無用なことだと思いなされた。

「心配しなくていい。何も考える必要はないから」

 という言葉が少女を幸福な堕落に陥れた。

 青年の為なら何でもしようと心に決めた。料理の苦手だった彼女は、青年から料理の仕方を教えてもらった。

「ゆっくりやればいい。時間はいっぱいあるんだから」

 この言葉を信じて稔は腕前を上げていった。それと同時に明るい自我も芽生え始めて行ったようである。

 しかしそれが自立した後にひとりで崖から落とされる前触れだとはどうしても気付くことはできなかった。当然である、青年が少女を騙していたなど誰も知ることができなかったのだから。

 家族が笑い合うことを知らなかった稔にとってこの家庭は竜宮城のようなものであった。

 ただ、竜宮城を出た先に、悲劇はつきものだった。

 心安らげる胸の中、聖域、避難所、硬い貝殻の中、稔は青年の庇護を受けているうちは安心を保障されていたが、殻に籠り続けてよいばかりではなく、学校という規定事項が現実的な問題として壁となっていた。ひとときも青年から離れたくはない稔であったが、突然自分がしゃしゃり出て青年の学校での人間関係を壊すことはできなかった。少女は学校にいる間、青年に近づきがたかった。青年の周りにはいつも誰かがいたからである。

 青年は絵に描いたような優等生であった。質実剛健・頭脳明晰・加えて容姿端麗といった人間である。

 黙っていても嫌でも目につく存在であったから、異性からの黄色い噂は絶えなかった。多数の女子が彼を欲していた、が、ときに彼女らは天変地異でも起こるのかと狂乱すべきとある噂を耳にするのである、が、それが――――彼に、恋人が出来た、と。

 まさかの流言、嘘であってほしいと願うもどうやら噂するその人数が並みではない、噂は広まりと比例して真実味を帯びはじめる。恋人が出来たことでさえ驚天動地の大事件であるのに、相手となるのが、明朗で成績優秀の学校一の美少女―――ではなく、みすぼらしく、挙動不審の、会話すらままならぬ、いてもいなくても変わらない、あまりにぱっとしない、塵といっしょに片隅へやられるような朽木稔という娘であったから、幾人かは呆然自失とし、幾人かは嫉妬に怒り狂い、幾人かは号泣し、幾人かは手首を切った。

 様々なアプローチをかけたにもかかわらず相手にされない女子たちは口々、青年の少女のような愛らしい顔のこともあって男色家なのではないかとの噂をしたこともあったが女子の恋人が出来たことによって噂は晴れた。しかし彼女たちは勘違いを犯し、別の可能性をはなから検討していなかった。というのもあの青年は愛くるしいものであれば性別を問わぬ雑食であった。

 注目の人物に恋人ができたという事実はすぐさま校内に広まった。そして当然の成り行きとして、稔は目を付けられた。

 とある日の廊下で、理解のある悪友が苦虫を噛み潰したような顔で青年に話しかけた。

「正樹、お前の彼女が数人の女子に裏庭に連れて行かれたところを見た奴がいるらしいぞ。どうやらやばい雰囲気だったらしい。行ったほうが良いんじゃないか?」

 彼の口調は急いていた。綺麗な小麦色の額には薄く汗が滲んでいた。対して青年の体は急に冷たくなった。全身の血が凍ってしまったかの如く、殺意を覚えた。

 しかけたわけではないし、稔が虐めを受けることは計算済みであったが、例えば自分が大事に育てた花を勝手に摘まれたら人は怒るだろう、大切に作った料理を勝手に食べられては怒るだろう、しかし怒りではない、冷たい殺意のみが訪れた。

「そうか、ありがとう」

 青年は烏のように微笑した。

 青年は怒りという感情を愛でていた。気高いと思った。自分には掬いあげる程もない感情だ。いとおしいものだった。青年には欠落した感情だ。似たようなものはあるが、怒りどうかは、甚だ怪しいばかりであった。怒りのかわりに住まっていたのは、殺意でしかなかった。怒りは温かいものだが、しかし殺意に熱はない。

 青年の去りぎわに友人の微笑はかき消え、無機質な驚愕のみが表情にたゆたっていた。青年の悪魔の笑みを目にしたが故。

 裏庭に向かった青年は友の言葉の通りに稔と女生徒の一団を見つけた。歩み寄って声をかけると、女生徒たちはあからさまに動揺を示したが、偉いもので即座に平静を装った。しかし幼稚なままごとに等しく、海千山千の詐欺師である青年を相手にするには稚拙に過ぎた。青年は微笑んだ。稔も青年の姿に気が付いて、表情を弛緩させたが、虐めを受けている光景を恋人に見られたとあって、恥ずかしんだ。

 少女は弱すぎた。青年を介してしか世界と接することのできないようにしむけられていたからか、彼女はもう青年がいなければ外界との接触方法を忘れてしまっていたかのようだった。しかし内に籠って誰とも接しないことはある種、強いことと言えた。稔は虐めを受けていることばかりで傷ついているのではなかった。青年に自分の情けない姿を見られることを情けなく思っていたのであった。

 だが青年にとってこのような状況は寧ろ好都合であった。ふたりの凝集性を強固なものにするためには、外部の敵に対する憎しみや恐怖を助長させることが望ましく、外集団の欠点や罪に関心を向けさせることが求められる。外部の敵を得ることによって仲間と己に誇りを持つようになり、関係は強いものとなる。青年が稔に考えるひとつの方法であった。

(そろそろだと思っていたが、早かった)

 見る限り、初めてのことではなさそうだった。否、初めてではないと知っていた。最近の稔の様子を見てある程度状況は把握できていた。それを知って、放置していたのである。稔をさらに自分に帰属させるため、気付かぬふりをし、虐めを少し続けさせてから、やめさせるべきだと判断していた。

「あ、正樹君。稔ちゃんと付き合ってるって本当?」

 ひとりの少女が親しげに声をかけたが、眉が硬く歪んでいるのが、彼女が精神の滞りを整理できていないことを証明している。このまま答えずにいれば、さらにどのように顔が歪んでくるのか見ものであったが、特にそれに関して興味のなかった青年は、さらりと。

「そうだよ。付き合ってる」と言った。

「そうなんだぁ」女生徒の明るい物言いが痛々しかった。

 夢中になれることにはとことん突き進んでいくが、特に興味のないことにはすぐに飽きてしまう性分の青年は、すでに倦怠を感じていた。よってこの場を早く終わらせたかった。だから突飛な物言いもあり得ることであった。

「ところで君たち、犬は好き?」

 青年の、突如の奇怪な問いかけに対して意図を探ろうと思考をめぐらせる女生徒たちであったが、青年の屈託のない笑みからは何の意図も読み取れず、無邪気な話題提起に過ぎないと勘違いを起こした。よって、

「……うん、犬かわいいよね」と迷いながらも同調した。

 罠に嵌った。

「僕の家の回りにはいろんな動物がいてね。犬もいるくらいなんだ。野良なのに懐いてかわいいんだ」

「え、すごい、見てみたいな」

「野犬たちのボスはうちで飼っている牡丹っていう大きな犬でね、野犬たちは牡丹に服従しているみたいなんだ。それで、牡丹は僕たち家族に服従しているから、自ずと野犬は僕たちを襲わないんだよね」

 女生徒たちは青年が溌剌と話してくれることを行幸のように感じた。稔をいじめていたことを感づかれていないと判断したからだった。

「でも僕の家の人間になついているのはいいけど、野犬ってすごく危ないんだよね。病気とか怖いし、小さな子供だったら一対一でもそうは勝てない。十匹集めれば中学生女子三人なんて、五分もたたずに殺されてしまう。昔、保健所が捕まえに来ていたんだけど罠にかからないし捕まらないし別に被害はないしで、処理されてないんだ」

「正樹君の家って大きいんだね。行ってみたい。牡丹ちゃんに会いたいな」

「牡丹に会いに来たいかい。いいよ、会わせてあげる」

「やった」

「うん……」

「会いに来るときは君たち全員、野犬の腹のなかに綺麗におさまっているだろうけれど。それでもかまわないのなら来ても良い」

 絶句する女生徒たちであった。緊張ゆえに膝を振るわせ立つのもままならないと言った始末であるが無理もない、目前にいるのは鬼神の如く黒い冷気を纏った怪物である。

「野良犬に喰わせてやろうか。塵屑どもが」

 女生徒らは喉を引きつらせ、ひ、と小さく叫んだ。

「こいつは俺のものだ。人のものを傷つけたら飼い主は黙っちゃいない。覚えておけ、汚穢に住まう塵虫ども」

 すでに殺意も怒りも湧いてこなかったが、楽しい余興のように台詞は口をついてでた。

「二度と稔に手を出すな」

 しかしこの言葉を発すると人間的な怒りの感情がふつふつとわきあがった。珍しいことだった。

「言葉を濁さなかったことを慈悲と思え」

 稔を虐めていた女生徒たちを追っ払った後、青年は稔の手を引き、仏頂面で無言のまま歩いた。そして止まると、稔をきつく抱き締めてすぐに去った。稔は頬を赤く染めて呆然としたまま、去りゆく青年の背中を見送った。

 青年は廊下にて、別の友人に出会った。

「何の話をしていたんだ。楽しそうに」

「なんでもない、犬の話だ」

「犬の話ねえ。そらぁ、楽しそうだ」

 その後、稔を虐めていた三人の女生徒は不登校になり、その理由もわからず仕舞いだった。そしてその理由は永久に不明なものとなる。少女たちは青年に稔の虐めを発見されたあの日以来、毎日のように幻覚と悪夢を見続け、仕舞には同時に別の場所で建物から身を投げて自殺したのである。女生徒たちは自ら命を絶つその日まで、常々両親に言い続けてきたことがあった。一言。

「悪魔がくる」と。

 …………日中は、春の日のような麻薬めいた酩酊を誘う剣呑が、温かな木漏れ日と相俟って穏やかな日であったが、その日の夜は少し寒かったかもしれない、ふたりは青い影の降りた部屋で抱き合いながらまどろんでいた。少女、朽木稔の精神は次第に回復してゆくばかりか成長を見せ始め、最果ての無感の荒野にひとりうずくまっていた白痴美の面影は消え失せていた。少女は明朗活発なやさしい女の子へと変貌する兆しを見せ始めていた。皮肉にもきっかけは破瓜にあった。

 心と体は連結しているというが、恋を覚えたからとて少女の器がすぐさま青年を受け入れるような準備を整えられるわけではない。しかし盲目的な恋に落ちた少女にとって、体を重ねることや破瓜の痛みによる怖れより、尊い青年の為に何とか感謝の意を伝えたいと思うことのほうが強かった。低俗な欲求がなかったわけではない。むしろそちらのほうも強かった。しかし痛みを乗り越えた先にはさらなる深いつながりが、強い絆が得られることは明白であった……通常の愛し合う男女関係では。

 破瓜は一度の交わりで迎えられたわけではなかった。何度も肌を触れ合わせ、試行し、妥協し、改良し、挫折し、絶望し、励まし、愛し、辿り着いた安心と快楽。最終的に青年が少女の痛覚を麻痺させ痛みを快楽に変えたことによってことは行われるに至った。感覚を欺くことは気の進まぬことであったが、破瓜の思い出を痛みと苦しみに彩られたものにさせたくはなかった。これまで十分に痛みは受けさせてきた。もうたくさんの汗と涙を流させてきた。

 己の愚かさを愛すことのできない青年であったが、少女の愚かな部分は愛おしく思えた。心を持たぬ青年に思いやりというものが芽生え始めていたのだろうか。しかしそれは他者に対してもたらすことのできる感情だ。稔を服従させ、己の所有物として愛でることを追求した青年にとって、少女を傷つけまいとする行為は別の個体に向けた自己愛に他ならなかった。よりよく長く遊んで愛でるためには、お気に入りの人形は綺麗なままでいなくてはならなかった。痘痕も笑窪と言い慣わしはするも、破瓜による傷が限界だったと言えよう。だから、いつでもその気になれば捨てられた。そう、思った。

 青年にとって現世での初めての交わりは稔との間に交わされたものであったが、何の快楽も得られないばかりか、途端に気分を悪くし、しばらくした後、手洗いに行った際に激しく嘔吐していた。失敗に終わったのだと青年は悟ることになった。初体験は、愛なぞなくとも射精できることを再確認する作業でしかなかった。

 青年は悲しみに暮れながら自分の心の行方を探していた。彼は自分には心が無いことを知っていた。稔を通して愛情と心を人工的に得ようと思っていたが、性交が単なる一時的な肉体の接続以外の何の意味も示さなかったことを思い、青年は自身に裏切られたと深く悲しんだ。

 どう天地がひっくり返っても、この運動が愛情表現と成り得るのか青年には分かりかねた。眼下の相手の最も性感の高まる瞬間にでさえ青年はただただ、ただただ混乱していた。

「あの……まーくん」

 呆然と絶望の淵に落ち込んでいた青年は稔の呟きなど耳に入っていなかった。よって、反応できるはずもなく、

「まーくん……」

 二度目にしてやっと気が付いた。

「ああ、ごめん」

 少女の背なにうつぶせのまま倒れ込んでいた青年は、返事に一歩遅れてやっと状況把握のできる精神状態に舞い戻った。少女からは青年の顔は確認できなかったが、少女の背後には目を白黒させて心ここにあらずの青年がいた。

 青年は泥沼にはまっていた。繋がりを得たい、絆が欲しい、他者が欲しい、心が欲しい、しかしその方法は不明瞭なままで遠い闇にたゆたったままだ。方法を知らない青年は、さらに少女を自分に帰属させる道を選んだ。

 また、答えから遠ざかる。

(こんなんじゃ、だめだとわかっている。なのに……)

 支配にはあらゆる物が使えた。経済的支配、暴力的支配、これらのものは精神的に物理的に支配するための要素であった。しかし性的な支配はより簡単に、少ない労力で成し得るものだった。稔の性と心は青年に帰属するものであった。

 支配し、権力を行使し、相手を従わせることができても共感とは遠い次元のことだと彼にはわからない。青年は誤っていた。支配構造を生むファクターとしての性であったから多種に渡る試みがあった。彼は思慮深かった。人は人を完全に所有し支配することができるか――これが彼女に対する彼の命題であるようですらあった。

 権力資源としてマキャヴェリは軍事力を、マルクスは富を使うとしたが、そういった大それたものはいらなかった。必要なのは体と言葉。授乳するように剛直を吸わせた。

 少しも快楽が得られないことに対する苛立ちは憎悪に変化しつつあり、対して性感を発達させ快楽を積み重ねてゆく稔に嫉妬を覚えていたから、さらなる恥辱と服従を与えようと思った、しかしその試みはむしろ少女をひどく喜ばせた。

 辱められ貶められることを養分にして稔は成長していった。彼女は支配される側のプロであった。少女は支配されながらも、風を受けて船を操る大きな帆のようであった。少女は言う。

「女を模した人形だと思っていたの。飾りのない、つまらない裸の人形。でも、あなたのおかげでわかったの。私も雌なのよね、って」

 と、こんなことまで。

 どちらが支配しているのかわからなくなってきていた。

 青年が主体となって相手を所有する支配のための性であった。社会構造や権力構造と結び付くまでに形式化した、しかし極まった性だった。性の最終形態である教育を通して青年は稔を女として仕上げていった。動物にする訓練のように稔に性を教えた。その結果として生まれたのは自由の女神ではなく、従順な豚の姿をした蟻地獄であった。

 彼女は何をしても喜んだ。

 動転するふりをする彼女。青年は強制的に口腔を蹂躙した。剛直が咽喉の奥を攻撃し、生理的な体の拒絶反応によって少女はその場に嘔吐した。がしかし。

「吐いちゃうなんて、駄目な子。もったいないよ。せっかく母さんが作ってくれた食事なのに」

「ごっ、ごめんなさいっ」

 稔は吐瀉物に手をかけて掃除しようとした。

「なにしているの。ダメだよ。これはちゃんとこうして――」

 青年は床に落ちた少女の吐瀉物を手ですくって少女の口元に運んだ。

「――食べなきゃ、ね。できる、君は僕のためならなんでもできるんだから」

 稔は一口含んで再び噎せながら吐いた。

「あーあ。もっとよごしちゃうなんて、これはお仕置きが必要だよ」

 青年は少女の口腔へ剛直を突き入れた。固形物と粘液が性感を高めてくれるはずであったが、青年にとっては無意味に終わった。

「そのままくわえながら自分でしてみて。君の体がどんな風に幸せになるのか、もっとじっくりと診たいから」

 少女は簡単に果てた。口から青年の逸物を吐きだし、潤んだ目で青年を見上げていた。

「良くできたね。ご褒美をあげる」

 青年が少女の下半身に手を添えて腰をうねらせると少女の体が三日月形に弾けて沿った。

「ほら、次は犬のポーズ。君は犬。犬になるんだよ」

 少女が舌をだらりと垂らして、熱っぽい目を虚ろに輝かせて、はぁはぁ、と熱い息を小刻みに吐きながら、四つん這いの姿勢で青年の冷たい熱を受け入れた。

 この一連の行為中、絶えず稔の体は悦びの絶叫を上げていた。嘔吐を食べさせられながら嬉しさに泣きじゃくり、原初の快楽を貪る乳飲み子のように青年の逸物を吸っていた。

「よしよし。君はとてもいい子だ。とても。大好きだからね」

 どんなことをされても最後には青年のやさしい愛撫が待っていた。それだけで全てが幸福な戯れへと昇華した。

 次第に彼女は自らの願望を口にするようになった。私を壊して、と。

「壊すってのは、所有していないと許容できないことでしょう? 他人の物を壊すのはいけないことだもの。でも、自分の所有物なら、それを壊しても他人はそれを咎める権利はない。壊すというのは、自分の物だと確認する作業なの」

 彼女は青年から壊されるのを望んだ。青年は彼女の肉体と思考を支配し、彼女は青年の汗や排泄物や垢やその他諸々の青年のものを独占した。彼女の主観としては、青年の穢れを手に入れることは、金銀を搾取しているようなものであった。

 気怠い体を毛布で包んで事後の余韻を楽しんでいたふたりであったが、しばらくして少女の下腹部には再び火がついた。

「……ねえ、またしよ」

「また発情したの。まるで盛りのついた雌犬だね。いいよ。お尻をこっちに向けて。犯してあげる」

「はぃ……」

「そんなに犯されるのが嬉しいなんて、稔、君がそんなに変態だったとはね。こんな卑猥なことは絶対に言いたくないのに。君が相手だと口をついて出てきてしまう。

 君は、とても夜が似合うんだ」

 青年が施したのは、内部と外部の両側から人格を変えていく矯正であった。自分は人格を否定されても良い単なる膣であり、性具として使われることを喜びとする、とまで稔に言わせるほどの矯正であった。

 青年が絶えず言い続けてきたのは、純粋無垢であること、幼くあること、それが自らの穢れによって自らを滅ぼさんとする君に言える唯一の、又は最適な助言だと。

 被虐待児症候群にかかり無感を貫き通していた少女のこの劇的な変化は目を見張るものであった。当然である、少女は初めて人生に喜びを見出したのだから。

「私ね、いままで知らなかった。知らないことだらけだった。でも世界は私にとって辛辣すぎて、重すぎて、大きすぎて、私はこのままその力に押しつぶされる小さく弱い醜い、生きているか死んでいるかわからない存在のままだと思っていたの。朝が明けるのが待ち遠しいなんて、愛する人がひとりいるだけで世界に鮮やかな色が生まれるなんて、家族は仲良く笑い合うものだなんて、知らなかった」

 少女は泣いた。

「私ね、思うの。正樹君は、いままで辛い目に遭ってきた私に神様が与えてくれた贈り物だって、……いいえ、もしかしたら、正樹君がその神様なのかもしれないわ。本当に感謝しているの。ありがとうね。すごく、すごく愛しているからね」

「どうして……どうしてそんなに僕のことを信頼できるんだ。もしかしたら、君を騙しているのかもしれないのに」

 無意識に――少女の笑みは母の形に。

「いいの、正樹君になら騙されたっていいの。君はそれ以上のものを私にくれた人生の恩人なんだから。私の心を冷たい氷の中から暖かい日の射す揺籃に掬いあげてくれたんだから」

「そう……」

「――ねえ――あばらは、まだ痛む?」

「気付いていたんだ……?」

「うん、だって見ているもの。君のことを、いつも、ずっと……だから正樹君が時々苦しそうにあばらをおさえているのを知っていたの。君は隠していたのかもしれないけれど……ごめんね。秘密を暴くようなことを言っちゃって……知られたく、なかったかな?」

「いいや、気にしてくれていたのなら、寧ろ嬉しいと思う。ただ、言いたくなかったのは確かかな。これは誰にもどうすることもできない正体不明の痛みらしいから」

「原因がわからないの?」

「今は、ね。いつかはわかるかもしれない。だから正体不明の痛みらしい、ということ」

「過去に打って痛めたとか」

「それは違うかな。過去に打って痛めた個所ならたくさんあるし、今でも新しく傷を作ることはあるけれど、どれもすぐに治るものだった。でも、これは原因も分からないし、治らないし、治し方もわからない。医者の話では精神的なものが関与している、ということらしいけれど、それだけじゃないような気もするんだ。何をやっても痛みは取れなかった。ただ、強く痛む時はわかってきた」

「そ、それは……いつなの?」

「強い痛みはたいてい家にいるときに訪れるんだ。もっとも安らげる場所にいるのにこのざまだ。だから僕は旅に出るんだよ。好きで旅に出ているわけじゃないんだ」

「そうだったの……私が力になれたらいいのに」

「気持ちだけで十分嬉しいよ。僕は幸せだ。力になりたいと思っている人から、力になりたいと思われるなんてね」

「私も――私も幸せだよ」

 青年は稔が虐待されていたことをなんとも思っていなかったが、いまではそれに感謝さえしていた。

 しかし、変化は訪れる。

 青年は、無意識に女の死体の絵を描きながら、少女に語りかけた。

「熊って可愛いかな」

「うん、可愛いと思う」

「ぬいぐるみのことを言っているのかな。テディベアは熊ではないよ。本当の熊は獣そのものなんだ。君がテディベアだと思っているものは獰猛な獣なんだ。そしてその熊は歌のなかの森の熊のように逃げろなんて言ってはくれない。熊は自分がテディベアではないことを知っているし女の子が好きだから逃げろなんて言うけれど、普通は好きなら待ってほしいと思うのが自然だよね。好きな人を手放したくはないからね。でも触れてしまえば傷つけてしまうんだ。だから逃げろと言うんだろう。でも逃げさせても傷つけても、どちらにしろ、喪失は訪れる。自分で傷つけて自分の物にすればいいのか、自分の手で傷つけるのは悲しいけど誰かに渡したくないから傷つけるのか」

「救われる方法はあると思うの」

「え? どうするの?」

「女の子も傷つかないように強くなればいいと思うの」

「……人間には……無理じゃないかな」

「愛していたら、痛みだって耐えられるよ」

「身を滅ぼしてもいいの?」

 少女は無言で微笑した。この無言の微笑はつまり肯定であった。

(幻想だ……壮大な幻想だ)

 少女の肥大した妄想に押しつぶされかけていた。

(獣と愛を語らうなんて)

 稔は、青年を治すとは言わなかった。

 終わりは着実に近づいていた。

 又、数日が経った。

 授業中、教室の窓から校庭を眺めると、女生徒の集団が体育の授業としてトラックを走っていた。その中に一際目立つ少女を見つけた。艶めいた髪を黒豹の尾のように弾ませて走る彼女の薄い体育着の内部の一双の小丘は、つましくきれいな流線型を描いていた。紅色の頬はふっくらとして覚めぎわの花びらのようにこれからの開花に向けて待ち遠しそうに涼やかな風を受けている。形の良い唇は桜色に映えて、濡れたようになって、疲労のためにすこしだらしなく、何かを求めるように開いて、熱い息を吐いていた。造形もさることながら、少女からは、彼女に与えられた骨格――――単なる形としての小奇麗さよりも、精神の充溢が美しさの源として現れているといった印象を受けた。

 少女は、青年の意識に強く訴えかけた。琴線に触れる美しさだった。

(ああ……本当に変わったんだね、君は……)

 腿を高く上げ力強く走る彼女の生命に、羨望を覚える。

 校庭を走る少女は――――稔であった。

 稔は変わった。稔は健全になっていた。健全になった彼女は美しかった。相変わらず友達はいなかったが、それでも彼女は気にしなかった。むしろそのほうを好んだ。青年がそういった彼女の態度を望んでいると知っていたからだ。雑踏に身をよせず、荒野からただ青年だけを見つめている少女だった。青年は少女に対して、明確に劣情を抱いた。好きだったのかもしれない。しかしそれが恋であるか、それは青年にはわからなかった。

 授業が終わり、休み時間となった。稔のクラスも運動を終え、校舎に移動し始めていた。窓際の席にいる青年は窓を開けて、校舎に向かって歩む稔を眺めていた。桃色のタオルを首にかけて額に滲む汗を拭いていた。彼女が持っているものは数えられるくらいの少ないものであったが、彼女は十分に満たされていた。

「正樹君! 正樹君!」

 校庭から青年の名を呼ぶ声が聞こえる。嬉々とした子供らしい声だ。目線の先には稔の姿があった。夏の花が似合う笑顔だった。少女は大きく手を振りながら青年を見ていた。少女はさながら主を見つけた子犬であった。

 青年は涼しい目で母の微笑をした。

 愛してる、と声にせずに唇の動きだけで送信した。

「…………ッッ」

 少女は撃たれたように驚いて、喜悦の極地へと誘われた。少女に読唇術があるわけではないが、それでもふたりの間で交わされる共通言語めいたテレパシーがあったのか、少女は顔を赤くして含羞の笑みをもらしながらその場から逃げるように校舎へ入った。

 近道かもしれない――――人を知るには適した方法だと思っていた。理解のための支配だった。しかし何かが違うことを彼は戸惑いの中に感じていた。支配によって共感が生まれることはなかった。

 その夜、同じ布団に包まりながら青年は稔に背を向けて横になっていた。次々に訪れる強烈な衝動を、つたない理性で必死に抑えた。下腹部に溜まった熱量から、痛みで気を逸らせた。青年は毒虫に毒を盛られた芋虫のように体を小さく折り曲げて震えていた。右腕に歯を立てた。右腕から血が流れるほどに。少しでも衝動を小出しにして発散させたかった。そうでないと、稔を傷つけてしまうから。

 青年は布団を出て流しで腕を洗った。夜の冷気が火照った内部をやさしく癒した。そして部屋に戻った青年は、溜息をつくことになる。稔が目を覚まして布団の上に座っていたのだった。青年を待っていたという風に。

「起きちゃったか」

「うん、ちょっと眠れなくて」

「ずっと起きてたんだ……」

「まーくん、大丈夫? 苦しんでたみたいだけど……」

「ああ、ちょっとあばらが痛くて、久しぶりにね」

「いまは大丈夫なの?」

「そうだね、なんとかね。ありがとう、大丈夫だから心配ないよ。寝よ」

「でも」

「ん?」

 稔は青年の右腕を指差した。暗闇でも腕から流れ出す血液は突出して見えた。影のせいか、赤より黒く。

「ああ、これね。これで気を紛らわせていたから。でもたいしたことはないんだ。すぐに治るものだから」

「でも、血、止まらないね」

 青年は諦めの顔をした。

「稔……」

「なに?」

 自然に、

「舐めて」

「……血を?」

「うん」

 少女は微笑んだ。

「いいよ」

 少女は青年の腕に舌を這わせた。

「汚くないかな?」

「ううん、汚いなんてありえないよ。おいしいよ」

「本当に?」

「嬉しいの。まーくんの一部をもらったような気がして。これでもっと、ひとつになれたかな?」

「なれたと思うよ。昨日よりも、今日のほうが……」

 稔は蜜を舐めるように恍惚として、恭しく青年の腕を口に含んだ。やさしい舌の運びで血液を絡めとる様子は少女の従順そのものであった。青年は少女の頭を絶えず撫でていた。

 しばらくすると血は止まった。無論、自然治癒によるものであった。

 衝動はおさまったが、隠れて姿を現すときを虎視眈々と待っているようであった。

 その日から青年は稔とあまり目を合わせなくなった。この事態はある程度予測できていたことであった。対峙すべくして対峙することになった試練なのだ。稔に危険が迫っていた。その原因が、稔の美的成長によるものだとは、少女自身は気付くはずもなかった。

「俺は……こうなることを望んでいたのか?」

 焦燥は彼を待ってくれはしなかった。自制心は疲労とともに削れてしまってきていた。

「もう時間はなさそうだ……」

 決断の時は迫っていた。

「俺は、彼女が好きということなのだろう……」

 稔の成長は青年が望んだものだったが、彼女は青年の想像を越え始めてしまっていた。これが青年の労力の賜物であるのだから、皮肉なことである。

 もし人が、自らの手で美味い料理を作り上げたらどうするだろう。

(そんなの、答えるまでもない……)

 悪夢は青年を蝕み続け、この頃すでに引き戻れない重傷へと陥っていた。

「ああ……稔が欲しい!」

 青年の慟哭には幾許かの恍惚が含まれていた。

「稔が……食べたい……」

 美しいものを手に入れたい。壊すことで支配欲を満たすことができることは知っていた。青年は元来、自らを欠如した人間だと認識していた。

 人間を知るために少女に近づいたのだ。人間を知るためには、人間関係の渦中にいながら客観的な視点を保全することこそが命であった。

 自らが作り上げた深淵に飲み込まれんとしていたことに青年は気がついた。青年はこのときになって初めて、自分が丹精込めて作っていたのは揺りかごではなく墓であったことを知った。しかしそれが怖いのではなかった。

 支配するつもりだった青年が、少女の深淵に嵌り始めていた。縛られた心は変形して痛む。纏足で歪んだ足のように。青年は稔に縛られ始めていた。それを度々心地よいと思えてしまうことは恐ろしかった。

 しばらくして、獣はとうとう少女に恋をした。数々の戯れを送って、遅かったが、恋をしていた。

 獣が獲物に恋をする。青年が少女を芯から大切に思い始めたのは、精神科医が患者に転移をおこしてしまう――ひとりの人間としての愛情を持ってしまう――のと同類の作用と言えた。

(実験のつもり……だったんだけどな)

 しかしこれで良いのかもしれぬと思えるときもあった。しかし青年には無理な話であった。怪物に人間は愛せない。青年はそのことを十全に理解していた。

 夜の自室で、青年は稔に会って初めて少女に慟哭を見せた。少女は青年のあまりの変貌に動揺を隠せずにいた。

 青年は思わず叫んだ。

「稔! 君が欲しい! 君が欲しい! 君が欲しいんだ! …………ああああ……ああ……」

 少女の腕をやさしく掌に包み、やさしく歯を立てた。

「……うう……ううう……」

 犬歯が少女の健康な白い肌に残酷に食い込む。

「あつッ……」

 少女が小さな叫びをあげる。赤子に乳房を噛まれたときにあげる母の叫びの。少女は眉の間に深い溝を作ったが、表情は慈愛と悲しみと恍惚の綯交ぜになった形をしていた。

「苦しいよ……なんでこんなに……君を失いたくないのに」

 少女には青年の苦しみが点でわからなかった。どれだけ苦しんでいるか予想はできても、なぜ苦しんでいるかわかるはずもない。少女は改めて己の無力さを知って泣いた。

「ごめんね……これくらいのことしかできなくて……ごめんね……」

「ううん……僕の方こそ……突然、ごめん……稔、愛してるよ。本当に、愛してる……」

「うん、ありがとう……ありがとう……私も、愛してる……」

 衝動はもう止められそうになかった。

(稔を……殺したい……)

 殺さないつもりだった。他者性を見出すことができたら、そして共感することができたら、しかし他者の作り方を青年は誤り続けた。

 餌付けして、人を理解できるのか実験をして、大切にしたくなって、衝動的に奪いたくなって、大切にしたくて、愛し合って、発作に襲われて。

 彼女の健全を守るためには、自分の身から遠ざけるしか道はない。

 その日は休日であった。昼時、青年と少女は街の周辺を歩いていた。道を選ばず不規則に、穏やかな日を浴びながら歩き続けていた。帰路の階段に差し掛かるかといったところで、青年はゆるやかな口調で声をかけた。

「ねえ、稔……」

「なに、正樹君」

「君はいま幸せ?」

「ううん」

「そっか……僕には不満かな?」

「違うの、いまどころか、親から虐待を受けていた過去まで、正樹君のおかげで幸せに思えるの」

「えっ?」

「あの苦しい灰色の日々も、正樹君と出会ってこうして幸せでいられる日々の前触れだったんだって思ったら、過去も幸せないい思い出になりました」

「いまが、過去を変えたというの?」

「考え方の上での問題だけれどね。もちろん、過去にあった現象が変わることはない。でも、私の認識はいまの感情によって過去の印象をまた別のものに変えたの。だから昔も幸せに変わった。そして、……未来のことはわからないけれど、これかも幸せだって、確信があるの、希望があるの。その希望は、正樹君、あなた」

 少女の目じりから歓喜の雫が零れた。

(なんて可愛い顔で泣くんだ……その髪、その瞳、その頬、その肩、その胸、やわらかな腕、腹部、両足、臀部、恥部、内臓、骨、血液、血管にいたる全て…………君の全てを、咀嚼したい)

 青年の下腹部は明確な意思を持って屹立していた。しかし嵐のような心象に鞭を打って宥めた。僅かに残った理性と、元来の冷血がそれを可能にさせた。

 青年は震える手を強く握り、深呼吸をして震えを止めた。脳が明瞭に思考し始めたのがわかった。そして言葉を紡いだ。

「幸せになるということは、悲しみの種を育てるということだと、僕はよく考えるんだ。全ては最後には奪われてしまうんだって。全ては元いた場所に還るんだって。…………僕がいなくなったときに、稔はどこに帰るんだい」

「……なんで、なんでそんなこと、聞くの?」

「君は良くやってくれた」

「正樹君……どうしたのかな? 何を、言っているのかわからないよ」

 少女は笑おうと努力したが、笑顔は痛々しく引き攣っていた。

「君はもうひとりで生きていける」

「えっ……」

「別れよう。もう僕たちは、一緒にいるべきじゃない」

「ま、……正樹君?」

「要は済んだんだ。だいぶ人のことがわかったよ。自分のことも」

「…………………………」

「僕は人を健全に愛すことができない」

「う、嘘……だよね?」

「そうだよ全部、嘘だったよ。君を好きだと思ったことなんて一度もない」

「うそっ、うそよ! そんなの信じたくない、信じない!」

「……」

「そ、そんな……」

「終わりが来たんだ。全ては終わったんだよ。ここは最果て、僕たちの進むべき道はもうないんだ」

「そんなぁ……冗談なんでしょ?」

「…………」

「嘘だって、言ってよぉ……」

「――――」

「そ、そんなの……」

「もう、終わりにしよう」

「な、なんで? 私の悪いところがあったら言って! お願い! 何でもするから! ダメな所は全部なおすから! 正樹君が喜ぶことなら何でもする! どんなことだってするわ!」

「もうこれっきりだ」

「正樹君は私がまともじゃなくて弱い子だったから私を救ってくれたのでしょ? 私はまだまともじゃないよっ、弱いよ! 正樹君がいなかったら、私はもう……」

「そういう反応も、ある意味健全なんだ。僕にはそういう感情の一切が欠落している。人間を人間だとも思わない。思えない。思える筈がない。君がこのショックで自殺したとしても、僕は何とも思わない」

「正樹くぅん……冗談がきついよぉ……どうしちゃったの? 機嫌が悪いの? それなら今日は、いっぱいご奉仕するから……ねっ?」

「稔……僕は君と恋愛しているんじゃない。君は僕にとっては娼婦も同然だよ。娼婦と恋愛はしない。君は都合のいいペットで、穴に過ぎなかった。もう飽きたよ」

 過去のギリシアでは男女の恋愛というものはなかった。交わるのは娼婦とだけで、結婚は子孫を残すための契約的なものであり、恋愛は美少年との間にのみ成されうるものであった。

「美しいものは素晴らしいよ。自分の欠如したものを美は持っているんだ。美しいものに人が惹かれるのは、人はその中に完全なものを見るからだよ。君は綺麗になった。僕は綺麗なものを見るのが好きなんだ。でも近くにいるとどうしても触れたくなる。美しい花も触れてしまえば痛んで枯れてしまう。僕は人を知るための実験台として君を選んだのに、君を好きになりかけてしまった。いや、いつのまにかもう好きになっていたのかもしれない。でも、君の深淵に嵌ることは許されない。客観的な判断は絶対的なものだ。僕が冷静になれなければ、君は命を落とすから」

「どういう、ことなの?」

「僕はね、美しいものが側にいると、殺したくてたまらなくなるんだよ……」

 少女が息を詰まらせた。そしてその場で嘔吐した。青年の目が肉食獣のそれに変わっていたからである。怪物の目に見つめられると人間はすくみあがってしまう。他者を奪い取り害する殺人者の目はいつも対象に向けられ貪欲に輝いている。その目に稔は肉食の悪魔を見た。人のものではない。人とは違う、悪魔の顔だった。

「君を食べてしまいたいという衝動を抑えられなくなる前に、ここを去るんだ。そして二度と僕の目の前に姿を現さない方がいい。君は、美しくなりすぎたんだ。そんなに美味しそうになったら……食べたくなっちゃうじゃないか」

「……あ、あああ、ああ……ああああ…………」

「そんなことしてこないだろうけれど、誰かに仕返しを頼もうったって、君は友達がいないどころか知り合いすら少ないことはすでに知っている。そういうことを知りつくしたうえで、僕は君を選んだんだ。まあ君は仕返しなんてしてこないだろうけど。そうなるように手懐けて、操作したのだから。もしも家族に手を出そうとしても、うちには番犬が何百匹もいる。森の外で襲って来ても、おそらく家族を打ち取ることはできない。あれでみんなしっかりしてるんだ。そもそも、家族を殺されても僕は何も傷つかないけれどね。僕を殺そうとするならもちろんなんらかの手段で君を処理する。だからもう二度と僕の前に現れないでほしいんだ」

「い、いや……いやだ……いやだっ」

「精一杯頑張って優しい言い方をしているんだ。わかってくれないか」

「そ、そんな……わからない……どういうことなの……」

「言ったとおりだよ。君は良くやってくれた。この現実を受け入れて消化するには何年かかかるだろうが、いい勉強だと思えば良い。今度は騙されないようにするべきだ。世界が終ったわけじゃない。もっと嫌なことはこれからたくさんあるし、いいこともある。君のすべきことはなんなのか、よく考えるんだ。僕を恨みながら生きるのが良いのか、これをバネに向上するのか、それは君次第だ。君の人生だ。いままで僕に依存して自己を捨ててきた怠慢の姿勢を改めなくてはならない」

「……正樹君……」

「なに?」

「仮に、あなたが悪魔だとしても、私はあなたに神聖を見出ださずにはいられない。あなたは私の太陽なんです。私に光と温もりをくれるならば、私はその熱で焼けただれたってかまわない。あなたが望むなら私は犬にだってなんだってなる。だからっ――――」

「いつまで胎児でいるんだ!」

「…………ひッ」

 一喝すると、小さく震えた。

「眺めるだけで君の人生を生きたわけじゃないのに、なんで僕は君をわかったような気になっていたんだろう。僕とこのまま一緒にいれば、きっと破滅は訪れる。君は僕がどんな人間なのか知らないんだ。君は僕が物心ついた頃から毎日どんな夢を見ているかだって知らないだろう。そしてそれによって僕がどんな深刻な影響を受けているかも知るはずがない。そうさ、だって僕が隠しているのだから。君は僕の秘密の氷山の一角ですら知らない。……僕はね、綺麗なものを見ると殺したくなるって言ったよね。綺麗なものを永久に自分のものにしたくなる。自分で制御できないんだ。脳の奥から、命令が来るんだ。いまはどうにか抑えている。小出しにしながら消化してね。でもいつ弾けるかはわからない。最近はもう危うくなっている。君を殺すのも時間の問題だ」

「正樹君を……悪者にしたくはない……君に、逆らいたくない……でも、別れるのもいやなのっ……」

 稔は徹底して教理を守る信者のような忠実さで言う。

「元気になって自立しかけていた君は綺麗だった。でもいまは濡れた布のように重くて、煙草の火を押し付けた肌のように醜いよ。そんな人間と付き合うのは、僕はごめんだ。どちらにしろ僕たちは物理的に離れ離れにならなければならない運命だったんだ」

「…………」

「……君は愛されるべき人かもしれない。でもだからこそ衝動が来たときにそれを抑えられるか不安だ。これだけ嫌なことを君に言ったことをわかってほしい。命をなくせば何もなくなってしまう。僕を愛していた気持ちも、ね」

「もう、どうにもならないことなの?」

「僕は、人間が肉にしか見えない」

「……あのさ……もう、悪い冗談はやめてよ……笑えないからさ……ねえ」

「…………」

「……ほんとう……なの?」

「うん」

「嘘でしょ? さっきから悪戯で言っているんでしょ?」

 堂々巡りになっていた。

「――――」

「ねぇ…………」

 稔が甘い声を出した。今までの不安に満ちた震え声とは相反する声質で続ける。

「……演技なんでしょ? そういうお遊びなんでしょう? それならそうだって早く言ってよぉ……びっくりしちゃったじゃない……ねえ、どうしてほしいの? まーくんがいいなら、今日はこのままここでしちゃってもいいよ……」

 甘え声を断ち切るように青年が呟く。

「演技だよ」

「えっ」

 ぱっと花咲くように明るくなった少女の表情が、青年の次の言葉を聞いた刹那、溶けるまえの雪花と化す。

「――演技だよ、全て。全てだ。君に近づいたのも、君に好きだと言ったのも、全てが演技で、嘘。僕は君との関係を通じて自分と他の人間のことを知りたかっただけ。君は僕のテーマに適していたから選んだだけだ。人体実験のための実験台に選んだ。君はケージの中のかわいそうなラットだった。かわいそうだなんて思ったことは一度もなかったけれど、かわいそうに見えたから。でもいま君は綺麗なカモシカとなり、どこへでも行ってしまえる。実験は失敗でもあるし成功したとも言える。よくよく考えれば、この実験は失敗するための実験であり、失敗したことで多くのことが知れた。だからある意味、成功だと言える。いま、やっと確信したんだ。僕は誰かを正常に愛することなんてできない。断言できる。僕は人を愛玩物や食べ物のように好くことしかできない。僕に人を愛せというのは、死者に歌を歌えと言うようなもの、宇宙人と愛を語らうようなものだ。小説などでは地球人と異星人が恋に落ちることがあるけれど、僕には無理なんだ。君との関係で、それがわかった」

「……………………」

「僕たちの関係は性欲を超越してはいなかった。そのことに僕も君も気が付いていなかった。肉を削げば、僕たちには何も残らない」

「……」

「君は美しくなりすぎたんだ……僕がそれを望んだのに」

 嗚呼とため息をついて青年は続けた。

「健康になった君の二の腕にずっと噛みつきたかった。君がそばに来て君の髪の匂いがすると、その甘い香りのせいで僕の頭はおかしくなる。君の唇に吸い付いて、どれほどその可愛い舌を噛み千切りたいと思ったことか。君のその白い首に噛みついて君の喘ぐ声を聴きながらどれほど君の血を吸いたいと思ったことか。僕はね、稔、人の血を飲んだらその人と繋がれると真剣に考えている異常者なんだ。異常者だとわかっているのに衝動は僕から冷静さを排除させる。わかってほしいとは思わない。僕もわからないから。ただ…………」

「…………」

 言葉を失うとはこういうことを言うのだろうと、青年は、青ざめた稔の顔を見て思った。

「どうか僕を嫌いになって。それだけが、君が救われるための道だから」

「……大切にしてくれるって、言ってくれたのにっ……」

 少女の声が鋭い波形となって青年の胸を貫いたが、粘性の高いヘドロのなかに雨粒をひとつ落としたように、波紋を生むことはなかった。

「あんなに、愛してくれたのに……」

「無償の愛を捧げることができるように見えるのは、本当はいつでも切り捨てられるということの裏返しなんだ。関係が終わることを何とも思っていないから、好きなだけ愛玩することができるのさ」

「そんな……」

 少女の眉根のあわいには、ふたりで共に過ごした時間が色濃く埋まっている。

「君にとってのいま最も危険視しなければならないのは、僕に愛されてしまうということなんだ。僕は君を傷つける、絶対に。君を大切にし続けるためには僕から君を遠ざけなければならない。これが単なる詭弁ではないということを、理解してほしい」

「そんな……もう、お別れ、なの……? どうにもならないことなの?」

 すがる少女の瞳を正面から見据えて、青年は言いきった。

「さようなら、稔。醜く愛らしい、綺麗な女の子――――」

 稔の、全ての想いを断ち切るように。

 別れの呪詛というには、あまりにも叙情味に欠けてはいたが。

 この喪失による心的作用は絶望の一色であった。彼女を失ったからではない。彼女を失っても悲しみすら見せぬ自分の乾いた心に絶望していた。ふたりの関係が破綻したというのに、心は海底における日常のように静かだった。

 それから稔は青年の前から姿を消した。青年によって更生された親の元へ帰り、転校をして新たな場所で暮らし始めた。少女は頑なだった。自立さえすれば青年が戻ってくるという夢のような妄想をし続けていた。そうやって精神を保ち続けていた。

 が、数年後のとある日――――小さく可愛い、がしかし可哀想なくらいにひどく聡い女の子に稔は呼びとめられた。顔の造形は似ても似つかぬが、どこか雰囲気があの青年を想起させる。可愛らしい顔つきとは正反対の鋭く冷たい雰囲気を少女は纏っていた。

 稔は初め、その少女がかつて共にひとつ屋根の下で過ごしたあの、間の抜けた可愛らしい女の子だとは気付かなかった。それも当然のことである、女の子は常に擬態していたのだから。

 少女と話しても稔は少女の言っていることを理解できなかった。しかし冷静になるきっかけは得ていた。数日後、暗闇に埋もれていた稔の自我は、光芒を見た。

 それからしばらくの間、彼女に記憶はなかった。

『君を想う、故に我あり』と定義して生きてきた少女の辿る、あまりに凄惨な末路であった。


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