稔
青春であるはずの春も、彼は虚ろであった。彼は自分のことを不安なのだと思い込んでいた。しかし彼が抱いていたのは不安とは別種のものであった。不安というものを、何かを選んでしまわなければならないのに何をしてもうまくいかないように感じてしまう心理状態と定義するなら、彼は不安ではなく虚ろだった。彼は迷い悩んでいたのではない。考えるのを恐れて思考停止に陥ったのでもない。彼には結論があり、結論に対して諦め、絶望しかけていたのだった。どうしようもないことなので、なるべく考えないようにしていた。でも、うまく振り切れるわけでもない。
彼の熱の籠らぬ涙は造花の徒花に等しく、現実的な感情のうねりが欠失し、無味乾燥たるもので、涙を流せども泣きはせぬ自身を、彼は時に異星人と対峙するような奇妙な精神で眺めるのだった。
というと冷血な人種なのかもしれないと思われがちだが、彼は、他人の眼前で涙など流したことがないとか、無感情にみえるとか、何を考えているかわからないといったような人間には見られていなかった。彼は友人との会話では感情の発露を見せることもあるし、共感しているように見せたり相手を褒めたりするのが上手だった。世話好きで、イイ人だと思われていた。多くの場合が演技だったけれど、その方が楽なのだった。
他人から好感を持ってもらうためには共感が重要であり、これさえ理解していればローリスクハイリターンで良き人間関係を築けると彼は知っていた。多くの人間は正しさを求めるより共感を求めている。そして、本当に人から人気があるのは頭のいい人間でも顔の良い人間でもない。大抵の人間は明るくて面白いバカが好きなのだ。学校という集団生活の場ではそういったイメージ、キャラクターが特に有効となった。しかしそういった表面的な処世術など彼の心の解決にはあまり効果を示さなかった。ピエロの楽屋など見たい彼ではなかったし、見せたくもなかった。
彼は世界を無意味なもののように感じていた。ある一定の妥協を伴い主観的真理を規定すれば解決に向かうかもしれぬ問題ではあったが、如何に定めるべきかわかりかねていた。誰とも共感できず諦めの苦笑をその顔に張り付けた彼は、自身のことを欠陥品のように感じる。人の心がわからず、多くの人間が当たり前のように吹聴する心の有用性と機能性を、彼は生まれてこのかた一度たりとも実感したことがない。その強い認識が、自身には重篤な欠失があることを自覚させていた。あばら骨が痛む度に、彼は何度もその空白を認識させられてきたのである。
心が欲しかった。心は、呼吸するようにいつのまにか当たり前に人々が所有するものであるが、彼は心というものを秘められた財宝のようなものだと思っていた。誰よりも心を欲していたが、得ることができぬ故に、誰よりも心を憎んでいた。
端的に表せば、彼は人間性の獲得を望んでいたのである。
己の稚拙な精神の出来に嫌気が差してきていた頃、彼はあることを思いついていた。その思いつきは彼の深淵に降りる光となった。彼は、他者を介して心の解明に踏み切ることに決めたのである。
心は他者との関わりのうえに萌芽する倫理のようなものであると考えていたから、心を得るためには他者が必要だとするのは当然の結末であった。
天稟の才か、表面上は他人に取り入ることの出来る彼には多くの友人がいたが、それは彼の演技によって得たものでしかなく、もちろん密接な関係ではなかった、少なくとも彼はそう感じていた。
彼は深いコミュニケーションを望んでいた。他者を切望していた。しかし、他者と深く繋がるための知識も、又、何処まで行けば良いのか、又、どれほど進めば良いのかの線引きも、解らなかった。
目的は分かっている。心を知り、人間を知ること。だが、最終地点がわからなかった。だから終わりのことは考えないようにした。ただこのときは手段の模索が重要であった。方法がわからないため、心理学の書籍を読み漁ることはやった。そのうえで、人間の思考を操る術を心得た。しかしそれは彼が常日頃行っている人に取り入り扇動する方法と同じ理論であった。彼は自然と人を引き付け人を動かす力を身に付け養っていたのである。
相手を見つけることは簡単だった。計画を始めて校内を巡回すると、すぐに実験対象は発見できた。一目見て決めていた。彼女は完璧であると言えた。隙や弱点が無ければ完璧であるけれど、つまらない。だが彼女には、心をくすぐる魅力的な悲劇性があった。そういう意味で、彼女は完璧だった。
彼女はあまりにも絵になる、かわいそうな女の子、だった。
背は高くも低くもないが痩せていて、死にかけの雄の蟷螂のようであった。生気に乏しく、彼女の周辺は重く澱んでいた。表情が失せ、瞳は白昼夢を見つめるように凝り固まってはいたが、花よ、蝶よ、の夢を見ているのではなく、汚物の流れる川底の澱を見つめているように濁っていた。顔の皮が白く薄く、目の下が黒ずんでいて、何日も飲まず食わず寝ず、を繰り返し拷問された末に腐りながら死んだ野兎を思わせた。どう整えても荒れ野のようになってしまう髪の毛の、撫で肩の、猫背の、紙やすりのように乾いた唇の、ひとりとして友達がいないばかりか教師からも相手にされない、隣のクラスの、女生徒であった。
この子を介して、少なくとも一時的な癒しか、望めるならば完全なる治癒効果を得たかった。愛玩物としてしか人を愛せぬ己をどうにか打開したい思いで一杯であった。
形だけでも体験したい、人の心を。
家族ではだめだと彼は考えた。家族では予め精神的な関係が形成されているし、家族には家族の理がある。シンプルな人間関係を一から形成するためにはノイズが多すぎるのである。よって、彼は完全な他者となり得る彼女を選んだ。
彼女のように友人のいない孤立しがちな人間であれば、もし何らかのトラブルがあっても、噂になりにくいという思惑があった。孤独で、心に大きな問題を持つ彼女は、完璧な材料と言えた。
始めて彼女に接触した日、逢着は容易に済ませることが出来た。ある日の昼休み、彼女の行動パターンを知悉していた彼は、時折彼女が訪れる理科室に予め出向いていた。
机上にぽつねんと存在する漆黒の顕微鏡だけが突出して見受けられるが、これはこの部屋のなかでは異質なものであると容易に確信できた。
顕微鏡にプレパラートが二枚挟み込まれていること、その席の椅子が出たままになっていること、さらには顕微鏡の左隣にノートと鉛筆が置かれているのが、誰かが四限目終了後から青年がここに来る以前まで顕微鏡を使用していたことを暗示していた。
青年は接眼レンズに視線を差し入れた。レンズの中、彼の視界全てを占めたもの、それは花火のような固形物だった。
「なんだ、これは」
背後でドアノブを回す音と、ドアが軋る音が聞こえた。
「あ……」
振り向けば、少女が佇立していた。彼女は朽ちた人形の如く、退廃と悠久の権現のようだった。霊鬼のような少女の像が青年の脳裡に張り付いた。
朽木稔。
彼女こそが、青年の求めていた少女である。
震える瞳。其処には濁った空洞があった。青年は空洞に向けて話しかけた。
「これ、花粉だよね」
一度たりとも言葉を交わしたことのない男子生徒が相手、しかも少女は見るからに内気であるから、返答に時間差があるとは予感していたが、そうではなく、言葉は反射的に返された。ただ、銃口をこめかみに当てられたように恐れと強迫観念に突き動かされて苦し紛れに出した、言葉にすらならぬ言葉であったが。
「え――あ……は、はい」
ゲル状の白い物体が付着したペトリ皿を左手につまんで、気まずそうとも眠そうとも取れる表情をしている。反応が鈍く表情が乏しいが、雑多な情報が排除されているということで、思考が読みとりづらいわけではない。彼女の視線の動かし方――目を合わせるか合わせないか。合わせるのであればどのような頻度で、どのような風に合わせるのか――や人間と対面する時の間の取り方や体を傾ける時の正中線からずれる角度、応答は拒絶的なものか肯定的なものかそれとも何の興味も示さないか、返答の種類、語彙、反応速度、彼女の容姿、表情に刻まれた生活の軌跡と思考の傾向などから彼女が如何なる人間なのか大体の判断はつく。
泣いたのか、目と鼻が赤くなっている。
「君が見ていたの?」
少女は青年の視線から逃げるように顕微鏡を覗き込んだ。細い喉元と耳朶が赤い。彼女は挙動不審そのものであった。それこそが彼が彼女を選んだ理由であったが。
「それ、見て楽しいの」
「必要……ですから」
「観賞するのなら、花粉じゃなくて花の方が良いんじゃない?」
「これが花粉だって、なんでわかったんですか?」
「だって、それは君と僕の共通の敵でしょ?」
「……えっ?」
「僕も花粉症」
虚偽の報告である。花粉症になんぞなったことがない。
「そう、ですか……え、でも、何で私も花粉症だってわかるんです?」
「目と鼻が赤くなっているのは涙と鼻水が出たからで、眠たそうなのは薬を飲んだから、それに君は花粉を見ていた。だから、なんとなく花粉症だろうなって。……皿に入っているのはヨーグルトだよね」
「え……は、はいっ」
彼女は人の話に注意しているのかそうでないのか判断しかねる種類の人間であった。彼女は常に対人関係において反応が鈍かった。彼女と世界の狭間には、部厚いガラスが張られているように青年には感じられた。拒絶しているのではない。交易の必要のない心のシステムを設置しているのだ。
「それで花粉を殺すつもり? ヨーグルトを食べたら花粉症に効くって言うけど、でもヨーグルトの体質改善効果で間接的に花粉症が治るのと、ヨーグルトの成分が花粉を死滅させるから症状がやわらぐのと、どちらだろう」
「……それは、考えたこともなかったです」
と言いながらプレパラートを手に取り、顕微鏡を片付け始める。口数の少ない彼女にとって、密室で誰かと対になって会話をするというのは可也の重労働であった。それも、同い年で、性を問わず人気者の異性が相手とあらば、その心理的圧力は相当なもので、彼女を急速に疲弊させた。心に向き過ぎた神経が、末端の力加減を麻痺させて指先に力が滞る。人差し指と親指に保護されていたプレパラートが指の束縛から解放され、地面に落下した。砕けたガラスの破片が飛び散る。青年と稔は鈴の音を聞いた。青年はその音を天啓のように思った。
「あああ……ああああ」
悠々と、煌めくガラスの破片を眺める青年に反し、稔は明らかに取り乱していた。
「ああ……いけない……なんてことを」
彼女のうろたえは尋常ではなく、そこにはプレパラートを破壊したという事実以上の強迫観念が潜んでいると青年は見抜いた。四つん這いになってガラスの破片を処理しようとする稔であったが、震える手では思うように清掃することが出来ず、
「あっ……あれっ?」
と小さく言うと、人差し指の先端から微量の血液を垂れ流していた。
(やると思った……この子、見てられない……)
「動かないで」
青年が声をかけると稔はびくりと体を硬直させて手を止めた。青年は彼女を抱き起そうとしたが、触れるべきではないと思い直し抱き起すのをやめた。大切なのは刺激しすぎないこと、仲間だということを印象付けること、焦らないこと。
(そう……こういう子に対して、始めのうちの身体接触は厳禁だ。あと、さっきの声のかけ方はまずかった。慎重にならなければ)
「まあまあ、大丈夫だから焦らないで。掃除は僕がやっておくから、君は椅子に座ってゆっくりしていてよ」
笑みを向けて稔に言う。
「……はい、ごめんなさい」
(意外と言うことは聞くのか……逆らえないだけか?)
「謝らなくていいよ。ちょっと座って待っていて」
そう言って彼はドア向こうの理科準備室から救急箱を持ってきた。項垂れる少女の隣に座って、救急箱から応急手当て用の道具を取りだす。
「はい、怪我したところ見せて」
手を差し出す稔であったが、青年と目を合わせることはない。この時、彼女は怯えていたが、これは他人に対して無頓着な彼女が他者を意識した証拠でもあった。正樹は稔の心的な守護領域に踏み込みつつあった。しかしすぐに踏破などしない。弱い酸でじわじわと薄皮を溶かし、仕舞いには痛覚も壊して麻痺させてしまうよう、互いの境界線を徐々に曖昧にしなければならない。
今は昼休み。廊下側とグラウンド側、ガラス越しに思春期の少年少女の喧騒が響いている。しかし密室のふたりは、洋菓子の上の人形のように冷たく静かであった。微弱な震えを湛えながら静止している稔よりも、小春日和の小河のような流れる手つきで彼女に触れないように介抱する青年よりも、オキシドールのつんとした匂いのほうが存在感に溢れていた。ふたりは音楽と薬品の香りを楽しむための景色に過ぎないのだった。
「どう、痛いかな。沁みたりはする?」
「う、ん……わかんない……」
彼女は自分の心中をさらけ出したくないが為に、身体感覚の不明を訴えたのではなかった。彼女は本当に何も分からなかったのである。痛みを測る物差しがない。なにが痛いのか、どのような刺激に対して心地よいと感じるのか、知らないのだった。
ここで、通常の論理では理解のし得ないことが起きる。これはまこと何らかの心理作用があったとしか言い訳が付かないことであった。それは、今まで彼女に指一本触れなかった青年が彼女の手首を掴んで、
「じゃあ、これはどう?」
と言いながら、オキシドールを含んだ脱脂綿を傷口に当てた瞬間だった。
「いたっ」
彼女が痛みを感じたのだ。霊的な何かの仕業としか説明のつかないことであった。稔自身、表面意識では気付かずとも、このときすでに青年に対して諒解していた。
「ごめん、痛かったかな……でもね、おかしなことを言うかもしれないけど、それが普通の反応なんだよ。
無感の暗闇は人を切迫した気持ちにさせる。人はひとりでは生きてはいけない。爬虫類や虫なんかのように個体で生きられるように設計されていないから、孤独でいると歯車が狂ってきちゃうんだ。外界との接触はときに強い痛みを伴うから、それを回避するために内側だけを向いて無感になりたくなってしまうけれど、それで成立してしまうほど人間は完全ではないんだよ。
だから君が痛みを見せてくれたのは良い兆候なんだ。君はきっと、もっと良くなることが出来る。
外に行っても内に行っても、辛いばかりだよね。内側に進むにはもっと強くならなきゃだめだ。でもそんなこと普通の人間には無理だね。ひとりで完結できる人間がいるとしたらそれは人ではない何かだろうさ。
そんなことよりも簡単に安心できる方法がある。外側に揺籠を見つけることだよ。安心できる場所、君を煩わせることのない場所を見つけるんだ。それは気兼ねなく接することのできる他者だよ。仲間とも言えるかもしれない。
だから、その第一歩として、勝手かもしれないけど、君が反応を示してくれたことは嬉しいよ」
稔は青年の言葉に眼を丸くしていたが、この不思議な青年の言葉には悪気がなく、どこか説得力があり、稔は気を悪くすることがなかった故、彼女はゆるゆると首肯していた。
「……その、通りだと思う」
「そう思うの」
「もしかして……」
「うん」
「あなたは……魔法使いか何かですか?」
「魔法使いかもね。それよりも、悪魔のほうがあっているかも?」
と天使の笑みで言うのだった。
「うふ」
稔はささやかな笑みを漏らした。しかし、すぐに鉄面皮に戻っていた。彼女は正樹に全てを許してはいけなかったし、許すべきではないと意識していた。彼女は自身の精神的な脆さも自覚していたため、完全に心を許してしまうのは後に傷になるばかりだと思い、彼に踏みこむのを控えた。これは彼女が培ってきた防衛反応であった。そしてそれを崩して行くことこそが、正樹の最初の問題であるのだった。
そして、突如として冷静になった稔から、棘のある言葉が打ち出された。
「私はまだ、あなたのことを信じたわけじゃありませんから……」
なかなか雨の降ってこない黒雲のように曖昧とした少女の、強固な輪郭が形成されて表出した言葉であったが、これは彼女にとっては命がけの発言であった。その彼女の怯えに隠された威圧を汲み取り、
「うん、疑っていいよ」
彼は屈託なく笑った。
「……か……からかっているんですか」
とは言ったものの、その笑みが稔には清らかな心を持つ男の、裸の感情表現のように思いなされた。
「からかっているように見えるなら、この目を顕微鏡でよく覗いてみよう。本当のことがわかるかもしれないよ」
しかし、正樹が屈託なく笑った理由は全く別のものであった。稔は再び、顔を隠しながら笑った。
「……くふっ」
人は、かつて疑いをかけていた相手を一旦受け入れてしまえば、その後は特別に信頼するようになる可能性が高い。そのことを正樹は熟知していたのである。もちろん笑みはその自信から来る笑みに他ならぬものであった。
彼は、本当は本人も気付かぬうちに怯えているのに、他者に対して無感動を保持する稔という少女こそが、最も他者からの感情的な温もりを欲している人種だということを知っていた。そしてそのような相手に対する方法も知っていた。
(知能の高い方ではないから、知的なアプローチはいらない。物や名声に拘る人種でもなさそうだ……。彼女みたいな子には、愛と思いやりで迫れば良い。家族のような存在と思わせるんだ。愛の必要性を語り、温かく、無条件で認めてあげることが重要だ)
良心的に思えるような発想も一部あったが、彼には人の悲しみや怒りなんてものが決して解らなかった。彼はただ、こうすればこう返せばいいと、パターンとして人間と交流してきたのである。それは本を読んで文字を口にするようでもあり、数学の問題を公式に乗せて解くような単純な作業であった。特に友との交流はドアノブをひねるように造作ないことだった。
人を動かすのは簡単だった。己の主張を堂々と唱え、共感を錯覚させれば良かった。しかし本音など言ったことがない。彼はいつも天使の仮面を被って生きているのだった。そしてその下には虚ろに哀しむ悪魔の面が張り付いていたのである。
感情というものが破綻している彼であるが、それであるからこそ、心ある人間の表情を模写することには優れていた。自身の心の色やフィルターというものが育っていないため、版画を磨るように他者の表情をコピーすれば良く、このときもそうやって学習した親しみのある怒りの表し方を真似た。
「もーっ、笑いたければ思いっ切り笑えばいいのさ。そしたらもっと可愛いのに、君は」
稔の眉根に色濃く影が挟まる。
「可愛いだなんて。私って暗くて、おばけみたいなのに……」
彼女は、彼が擬態していることには気付いていない。
「何言ってるの。君、綺麗だから」
彼は言った。純朴な表情を形作りながら。
本当に、汚れた彼女は綺麗だった。彼は美しいものには目がなかったが、その反面、美というものは単純で、つきつめてしまえば果ての見つかってしまうつまらぬものだとも思っていたから、何処まで行っても終わりのない醜悪なものの複雑性と多様性は彼にとって好奇心を煽るものであった。似たような心理作用から、彼は多様性を極めた昆虫たちを好んでいた。ときに醜く、ときに綺麗な彼等は、全てが彼にとって美しかった。そう考えると、美しさも醜さも同じように思いなされた。そして多様性を増やしつつある人間の誰ともコンタクトできぬ自身を、憂いていた。
又、彼の美的感覚とは別に、客観的に、彼は自分がいかに優れた容姿をしているか知っていた。自惚れではない。優れた容姿が実社会においてどれほど有益に働くかを彼は知っていただけなのである。
稔は正樹に打ちのめされた。自己評価が低く、びくびくしていて、人を信頼する経験と能力がない彼女でも、しかし正樹の完璧な言葉は信頼していた。
最短距離で其処まで辿りついたようであったが、朽木稔という少女の壁は本来途方もなく厚く、決して容易に踏破できるものではなかった。計算外のことであった。高咲正樹という少年でなければ無理であったかもしれない。彼の美しい顔と完璧な偽りの笑みと完璧な偽りの優しさと、その日の彼女の気分と、体の調子と、又はいくつかの偶然とが重なり、やっとのことで漕ぎ着けた最短距離である。
それから彼は薄皮を一枚ずつ被せるように稔の心を操作していった。それは呪いのようでもあった。言葉で他者を操る行為。呪は言葉で心を縛るものである。
愛の爆弾、賛美のシャワー、甘言の嵐を、正樹は稔の心に浴びせ続けた。甘く飲みやすいが、強い酒を強制的に飲ませているようなものである。
客観的には耳が痒くなるようなロマンチズムに則った妄言・妖言も、面と向かって明言されたら、その全てが未だ恋を知らぬ少女にとっては嬉しい言葉で、徐々に少女は酩酊してしまう。高咲正樹は、朽木稔の琴線を弾いた。どんな音でも鳴らせるように。どんな曲でも奏でられるように。
自我というものを強制的に抑制される環境で育った彼女は、正樹を拒否できなかった。稔は自分の心の動きを自発的なものだと信じ込んでいた。主体制を保持しながら、能動的な心の動きで、彼を好いているのだと。
しかし、人間はみな外部の状況に反応して行動選択をしているという思想があるように、自分の判断で行動しているわけではないとも言える。彼女もその枠から外れぬ者である。彼女は高咲正樹という詐欺師に操作されていたに過ぎない。
他人が心配したり気遣ってくれると、同情を引いて思い通りに相手を動かそうとしたり、無関心を装って出鼻をくじいたりして、意中の相手の心を縛る人間がいる。所謂、飴と鞭の作用。だが、正樹はそんな手間のかかることをする必要がなかった。
寧ろ鞭など必要ない。与えるのは飴ばかりで良い。彼女の見る世界が鞭ばかりであることを、彼は知っていたのだ。
飴ばかり与える彼は、少女にとって神のような存在であった。それは後年も変わることなく、彼女の信仰対象となっていたことで証明されるが、それは当然のこと、彼が自覚的にさせたことであり、神に帰依させるように正樹に依存させたのだった。
稔は欲望と心の平安を満たしてもらうかわり、客観的な思考能力と自主的な行動力を正樹に引き渡していく。
彼は稔を優しく支配していった。それはやはりオブラートを一枚ずつ貼っていくのに似た作業である。自分の病んだ自我の統合性を保全するために他者の精神活動を恣意的に破壊したのだ。
(人間の心理を知りたいと思った。だから近付いた。彼女を選択したわけは昼休みにひとりで理科室にいるような子は人間関係が希薄なために、こちら側に帰属させやすいと判断したからだ。あらかじめ単独で動いているこの客体。他のコミュニティーに属した子を引っ張ってくるよりも容易だと思ったんだ)
世間知らずは騙しやすい。そんな観念によく似ていた。
数日経って、彼らの関係は随分と円滑なものになっていた。稔は、正樹のことを大分信頼しつつあった。しかし彼女の傷が根治し、満たされているわけではない。気分の高揚も瞬間的なもので、安定してはいなかった。
それでも彼は、ひたすら聞き役になったり、ひたすら受け入れたりしていた。彼は予め、ひたすら無茶をされてもひたすら受け入れることに決めていた。途中、何回か檻から脱走されるかもしれないが、それでも探して追いかけようと思っていた。話をさせているときは、何の口も挟まないで聞いているだけの時もあった。彼は稔にとっての鏡になれば良かったのである。
魅了し、信頼させ、心を開かせ、欠点を告白させ、彼女を許し、救い、安心させ、そして支配する。
悩みを打ち明けるような会話も、彼等の間では日常的に交わされるものとなっていた。
「私が悪いの。私が産まれたから、駄目な子だからいけないの」
「本当にそう思っているの?」
「うん」
「本当にそう思うのなら……自信を持って言える筈だ。なのに君は泣いている。信じているなら笑うはずだよね」
「……えっ?」
「心は、嘘をつけない。心で嘘をつけたら、狂人さ。それは壊れている人さ。だから君は正常な人間だよ。ましてや駄目な人間なんかじゃない」
稔は項垂れながら聞いている。なだらかな肩が小刻みに揺れていた。
「僕の前では嘘なんかつかなくて良いんだ。……君は嘘が下手だからね。無駄な労力を使わなくても僕はそのままの君を全部受け止めるから」
この稔という子は幸運な子ではないように正樹には思えた。しかしアテナの神殿でポセイドンに強姦され、聖地を汚した罪でアテナに罰せられ、ペルセウスに殺されるメデュウサの無念を思うと、それほど可哀想ではないとも思う。神々でさえその有様なのだから、より愚かな人類などさらに救いようがない。しかし愚かだからこそ愛しい。
頃合いであった。彼は稔を操り切ることに決めた。その大きなきっかけとしてやらなければならないことがあった。
「父親から虐待を受けていれば男性を嫌悪し男性に怯えるようになる可能性がある、母親から虐待を受けていれば女性を嫌悪し女性に怯えるようになる可能性がある、という具合に、まあ、恐怖症という形で直接的に虐待に関わってはいない別の対象に嫌悪や恐怖を示すこともあるが、大抵は嫌悪や怯えの対象を見れば君がどのような人間から虐待を受けているか解るかも、と考えていたんだ。もちろん加虐者は両親だけではなく、兄弟姉妹や親戚や祖父母や両親の愛人、又は親族ではないその他という全ての人間が考えられる。しかし君の性格から推測すると、おそらく君の家族は両親と君の三人暮らしで、近所付き合いの希薄な閉鎖的な家庭だ」
(おそらく父親はアルコール依存者で、母親も始めは文句を言っていたが暴力を振るわれ始めてからは何も言わなくなった。しらふになると優しいから許してしまいさらに何も言えなくなる。子供が大きくなると父親は子供に暴力を振い妻には振わなくなったため、母は娘を盾にした。恐いから全て黙認。とまあ、こんなシナリオだろうな。典型的な。うん、こんな感じだろう)
後になって、稔の家庭の状態は正樹の予想と完全に一致していたことがわかった。
「な、なんでそんなことわかるの?」
「やっぱり。当たってたんだね」
「魔法なの?」
「はは、魔法じゃないよ。パターンがあるんだ。どういう環境ではどういう人間が生まれやすいっていう法則みたいなものが。それで全てがわかるわけでもないし決して全ての人間が当てはまるわけではないけど、君はちょっと典型的すぎて、ま、それはいいとして、両親には愛人らしき人物もいないとくれば、答えは簡単、君は両親のどちらからも虐待を受けている。君は男性教諭と対峙する際にはとても緊張していて怯えているように見える。名前を呼ばれるだけでビクビクしている。以前の僕との関係のように、男子生徒とは目を合わせることすらできないね。女性教諭を見るときには汚い物でも見るような目をしているときがある。それなのに話しかけられたらやはり母親という恐怖の影が見えるからか萎縮してしまう。それに君は大人子供関係無く女性のことを全く信用していない節がある。話しているのを見ればわかるよ。プラスチックで作ったみたいな笑い方をしているよ。もっとうまくやらなきゃだめだ、って思っているかもしれないけど、そんなことじゃ意味がない、薄い張りぼてを建てたって台風には敵わないさ、君は根本的な治療を必要としているんだ。おそらく君は主に父親から虐待を受け、母親からはネグレクトのような十分に子育てされない状態、いわゆる学校に満足に通わせてもらえなかったり、病院に行かせてもらえなかったり、満足に食事を与えてもらえなかったり――これは君の昼食の様子を見ればわかる。あんなに焦燥した状態で大量に食事する人は女の子ではなかなかいないからね。ま、あと、父親の虐待を黙認されている、というような環境にいるんじゃないかな。君は両親のどちらからも虐待を受けている。顔に殴打の跡はないから虐待の痕跡が発見されにくいが、君はいつも水泳の授業は休む、ってまあ、これを休むのにはまた別の理由があるんだろうけれど、君は身体検査さえもすっぽかしてしまうね。体を見せられないから。学校で検査を受けずに後日ひとりで、殴打の跡が薄くなったときに病院で提出用の書類を作るんだ。ネグレクトしているのに書類を作らせて学校側に深く入り込ませないようにする用意周到さがあるなんて本当に頂けないや。最低の親だね。そんなことに金と頭が回るなら君を仕合わせにすることにそれらを使うべきだとは思わないか?」
「わ、私の親を悪く言わないで! ふたりは何も悪くないわ!」
(悪くないわ、と言う時点で本当は悪いと思っているという証拠だ)
「いいかな。君が今一番しなきゃいけないことは認識を変えることだ。君は虐待されている。本当はわかっているはずだ。そうならばその事実から目を逸らさずに見つめなくてはならない。これが一番苦しい作業かもしれないが、君を救うには、君が救われるにはその第一歩が大事なんだ」
「……あああ……ああ」
彼女は顔を覆った。
「親が可哀相かい? 昔から親、特に母親の母性は絶対的なものとされていた。信仰されていたけど、本当は母性も愛も絶対じゃないんだ。全く尊いものではないし、それらは幻想でしかないんだよ。母親が子供を産んだら母性が自然に身につくなんてことはないんだ。愛やら母性やらは、尊さを謳い文句に掲げて人を縛る悪党の資質を持っているんだ。人はこれが清く尊いものだと信じ込まされて、洗脳されて、これを絶対的で神聖不可侵のものだと定義しているんだ。詐欺じゃないか。誰が決めたんだ。あたかも始めから神様がそう定めていたかのように決められているんだ。でもどうだ、親が子を子が親を殺すんだよ、人間は。時代じゃない。時代のせいじゃない。人間は昔からずっとそんなことやってきた。そういうものなんだよ、人はね。人と言っても、親と言っても、言語を持った動物だ。社会的な動物なんだよ。家庭は聖域かい? 揺籠かい? 違うだろう。聖域を聖域と定めるのは人間だ。家庭でも神殿でもなく、聖域や揺籠はどこでもいいんだよ。そこが君にとって安らげる場所であれば。何処であったって構わない。駅のホームでも土管の中でも牢屋でも月でも海でも土の中でもどこでも良い。そこに人の有無は関係あるかもしれないし関係無いかもしれない。それは問題じゃない。ただ君が必要なのは今の家庭ではない他の場所だ。君のいまいる場所が揺籠とは違うということは君が良く分かっているはずだ。なにもおかしなことじゃない。人間は完全に常識を守ることは出来ないんだ。不可能なんだよ。親の言うことは聞くのが普通という常識と、個人の人権は守らなければならないという常識があるね。ならば親に人権を侵害された子供はどうすればいいんだ? 常識には最低最悪の矛盾があるんだよ。だから何も気にするな。君はちっともおかしくないし、逆にひどいことをいうようだけど、両親から暴力を振るわれることも、無視されることも、ゴミのように扱われることも、それらも、世界的な日常なんだ。なんにもおかしなことじゃないんだよ。でもね……それに君が反旗を翻すのも、何もおかしなことではないんだ」
「そんなことできっこない……」
(早かった……彼女は虐待を無意識に認めている)
「恐らく君はありとあらゆる種類の虐待を受けたことがあるはずだ。ネグレクト・心理的虐待・身体的虐待・性的虐待、全てだ」
「…………」
「君は人間に怯えすぎなんだ。君はもう手遅れかもしれない。君はもう治らない。でも大丈夫。安心させてあげるからさ。僕も手伝ってあげるから」
「じゃあ、何をしてくれるの? 私はどうすれば良いの?」
「そんなの簡単だよ。まずは認識。君は君自身で虐待を受けている事を認めなければならない。君がそれを認めて、そこから助かりたい、生活を改善したいと思うのが大事だからね。大切なのは助かりたいという本人の意志だ。それがないと助けられるものも助けられない。そしてそれが出来たらもうだいぶ治療は順調なんだ。虐待を受けているとちゃんと認識するために一番簡単で効果があるのは君と同じ境遇にいる他の被虐待者と会うのが良いのだけれど君はもうだいぶ心の叫びが外に出てきているから必要無いかもね」
という理由もあったが、本当は彼自身が、稔を他者と関わらせず、彼に依存させるためだった。
「相談は僕が聞くし、ロールプレイなんかもしなくてもいいと思う。君は白昼夢を見ているような仕草をするときがあるし、忘れっぽい、から」
(統合失調の可能性も考えておくべきかもしれない)
「やっぱり精神的に疲れているんだ。君はもう限界かもしれないね。でももっと治さなきゃいけないおかしい人たちは、君の両親なんだ。君の両親が最も異常なのさ。そんな人たちは普通の説得をしてもまず無理だね。手ごわそうだ。こっちが理詰めで話しても難癖付けて追い払われてしまうだろう。そういう輩には普通にやったってだめだ。だから」
「……だから?」
「報復するんだ」
稔はまだ理解していない風に、
「ほ……うふ、く?」
と幼子のように復唱したが、その返事には被虐待児特有の精神遅滞による反応の薄さが見て取れた。
「シンプルな作戦だ。虐待されたら暴れるんだよ。予め僕と君の携帯電話を繋げて音が聞こえるようにしておく。虐待されたと思ったら僕が合図を出す。君は虐待されてもまだ親を信じるか恐怖して虐待を認めたくなくなるかもしれないから、僕が君の背を押す。それからは君は自由に向かって走るだけだ。というと抽象的だが、要は家にある家具という家具を思いっ切り破壊しろということだ。火事になったり親を殺したりしなければ、どんな破壊の仕方をしてもかまわない。テレビをぶん投げて窓ガラスを割っても良いし、親の大事にしている服やら小物やらぐしゃぐしゃに破壊してみるのも良いかもしれない。あ、でも刃物は使っちゃだめね。死ぬから。とにかく君がいままで受けてきた苦痛を間接的に親にも味合わせてやるんだよ。物品がもったいないなんて間違っても思っちゃいけない。君の命の安全と心身の健康に比べたら、いや、比べられないくらい物というものは価値の無いものさ。いやそもそも生命に価値を付与するなんてことは……まあ、この話は長くなりそうだから良いとして」
と言ったが生命の価値なんぞ考えても実感したことなどない正樹である。
「あの、私、携帯電話、持っていないんだけど……」
「それなら妹のものがあるから借りておくよ」
「え? 大丈夫なの? だって妹さんってまだ、小さいんじゃない? それ、家族との連絡用でしょう? 何かあった時の」
「大丈夫、作戦は休日だから妹がひとりでいることはないし、まず小学生の次女は俺の言うことには従順だから、家にいろと言えば家にいる。だからあいつのを使えば良い」
「手懐けているのね」
「いや、特に何もしてないけど。ま、長女の方は親父にべったりだが、次女の方は俺にべったりだ。だから次女の携帯を使うさ。作戦は今度の土曜日だ。良い?」
「う……うん。でもやっぱり妹さんの携帯電話借りるのはまずいかな。壊れたら困るし……」
「そう、心配すべきなのは君自身なのにそんなこと気にかけてくれるなんて君は優しいね」
(親は糞みたいな奴らなのに良い子が育つとは、皮肉も良いところだ)
「携帯が無理なら他のやり方もある。僕が君の家を外から見張っておくっていう作戦ね。ガラスに耳を当てて、声くらいは聞こえるようにしておくよ。虐待されたと判断したら、僕が窓を軽く叩く。これが合図ね。オーケー?」
「うん……それなら良いかも。私、がんばってみる」
「でも単独行動はしてはいけない。つまり、僕がない時にひとりで暴れてはいけない。暴れ出しても父親の腕力に阻止されてもっとひどい虐待を受ける可能性があるから。殺されるかもしれない。それは最悪のパターンだ。だから、特に今日なんかだめだ。まだ認識が始まったばかりで不安定すぎるからだ。精神的に脆く弱くなっている。ということは、あまりにもやり過ぎてしまう可能性があるんだ。親を殺してしまったりね。でもそれはいけないだろう。だからちゃんと土曜日まで耐えるんだ。虐待されそうになったらどこでも良いからとにかく逃げるんだ。近くの公衆電話から僕の携帯電話に電話入れて。良いね?」
「はい……わかりました……」
「ま、期待しないでおくよ」
「え?」
「派手にやれってことさ」
そうして正樹は夏の向日葵のように快活に笑った。
恐ろしい悪魔、高咲正樹。思ってもいないことをべらべらと。心配しているだの、君の命には代えられないだの、嘘、嘘、嘘。彼はただ本などから抜粋して其れらしい台詞を口にしているに過ぎない。
「……ねえ」
「なに?」
「なんで私なんかに、こんなにしてくれるの?」
「それはね」
それは、
「君を初めて見た時――」
君の表情の乏しさや凍った瞳を観察して、
「なんとなく――」
明確に、
「僕と似てるって――」
被虐待児であると、
「思ったんだ――」
判断したから。
(短期戦だ。長期戦では、親が実家に連れていってしまうこともあるし、親戚を使う可能性もある。やるならすぐに終わらせる)
のんびりと作戦を考えながら、青年は少女の思考を操作していった。洗脳に近いが、似て非なる行為である。マインドコントロールはどこにでもあり、誰でもかかる。マインドコントロールにかかると、支配者の意のままに操られてしまう。被支配者は能動的に自己の判断で行動を決定していると思いこむが、その実、巧妙に操られてしまうのである。洗脳は強制的に威光に従わせるが、マインドコントロールは一枚一枚、薄皮を剥ぐように行われるため、気づかぬうちに内臓まで引き抜かれている。徐々に支配者の魔の手に犯されるので、回復は困難である。
「辛いことばかりかもしれないけど、僕がいれば大丈夫」
一枚。
「何も考えなくて良い」
一枚。
「子供のようになればいい」
一枚。
「君のことが大切なんだ」
又、一枚。剥ぐ、剥いでいく。
日々の密会を通じた愛の言葉の伝達によって、稔は盲目的な狂恋の情を正樹に抱いていた。
濃密なときを過ごし続けてふたりは、過ごすときの多さに比例するように絆を強めていったと言え、例えそれが共同幻想であろうと、交わす言葉と触れる手と手の温かみが稔に実感を与えていた、これは天恵であると、神からの贈り物であると。まことこの眉目秀麗なる雄弁な青年に魅了されたこの少女は聖なる魂に対するような強大なる信頼を抱いていた。彼女は青年を神格化していた。無論、彼女の信頼は、正樹が稔に対して行った印象操作の賜物であった。彼は自己を清い魂の持主であるように見せることに秀でていた。正樹の庇護のなかでは、薄暗い不安に囲まれていた世界が、光射す肯定的な箱庭に変わるのだ。両の瞳に激しく当てられた光に次第に吸い込まれ、目は暗み、周りが見えなくなっている自分に気が付かず、少女朽木稔は、彼女なりに恋をしていた。初めてのことだった。
「もう一度聞くよ。今日は撮影をするって言ったけれど、本当に大丈夫?」
「はい……大丈夫です」
「わかった。じゃ、写真を撮る前にまた少々聞くことがあるけれど、いいかな?」
「はい」
「家庭内で暴行を受けていると言ったけれど、君に痛いことをするのはお父さん? それともお母さん?」
「お父さん、です……お母さんは、何もしないの」
(……母親は何もしない、か)
「じゃ、次の質問に行くよ」
「はい」
「暴力はどうやって行われる? 例えばお父さんがお酒を飲んだ後だとか、お母さんと喧嘩した後だとか、いろいろあると思うけれど、何かパターンのようなものがあったら教えてくれないかな?」
「お、お父さんの機嫌が悪い時……。私やお母さんが側にいると叩かれたり抓られたり、蹴られたり、します……」
「機嫌が悪いのはどういう時かな?」
「……わからないです。ただ、お酒を飲んだらひどくなるの」
「ひどくなるというのは、暴力の程度がってことだね」
「はい、そうです」
「顔を殴られたりしたことはある?」
「いいえ、顔は叩かれるけど、怪我をするくらいには強く叩かれたりしません」
「では暴行は他人に見えるような顔や手足ではなく、胴体などに集中しているということだね」
「わから、ないです……」
(わかりたくないし、認めたくない、というのが本音だろう)
「機嫌が悪いのはなぜだと思う?」
「私がいる、から?」
「自分がいるせいでお父さんが怒っていると思うの?」
「そう、かもしれないです」
「その理由を聞いてもいいかな。それと、いつからそう思っているのかも」
「昔、まだ私が小さい頃。お父さんがお母さんに怒鳴っていたことがあったんです。それを隣の部屋で聞いてしまって。そのとき、お父さんは私が生まれたことを望んでいなかったんだなって知りました。それからです。今でもお母さんに、俺は産むのは反対だった、って言うん、です……」
少女は前歯を強く噛み合せて涙をこらえた。青年は何も思わなかった。温かくも冷たくもなく、静かでも騒がしくもない。鳴るとしたら機械的に通常運転を繰り返す心臓の鼓動くらいで。
「殴打や、蹴られたりすること以外で、他にされた嫌なことは?」
「…………ある、けど、言えません」
「それはなぜ?」
(理由はわかるが、あえて聞かせてもらうよ。君がどんな人間かをもっと知るために)
「恥ず、かしい……です……」
少女の顔を照らすように青年が微笑んだ。青年の瞳には見詰めたものを吸い込む力がある、と稔は思っていた。
穢れのない聖職者のような笑みは、母性の形に返り咲く。この微笑が汚れを受け続けて腐乱を繰り返し、それでも地獄の底からふつふつと湧き出した悪意を栄養として生まれた笑みだと、少女は気づくはずもない。
「心を開いて、正直に話してごらん。大丈夫。君の心は、楽になりたがっているから。本当は、君は全てを話してしまうことを望んでいるんだ。大丈夫。僕を信じて」
少女は躊躇していた。青年はわざと大きく静かに深呼吸し、無意識に彼女に同じ行動を取らせた。
「すぅ――――はぁぁぁ…………」
出会ったときから鏡のように彼女のしぐさを真似ていた青年に、少女は無意識に共感を覚え、反対に度々、青年の何気ないしぐさを自然に真似るようになっていた。
やがて、緊張で小さくなっていた呼吸で酸欠状態だった脳に多めの酸素が行渡り、少女の心は微弱だがゆとりを得た。
「い、色々な、……嫌なところを…………触られたり、撫でられたり、します」
(クソみたいな奴だな、こいつの両親は)
青年は、生まれた殺意を刹那のまばたきの内に封じこみ、霧散させた。
(この子の父親を殺傷するという意思もあるが……)
「お母さんはどうだろう。君にはどんな態度を取っているかな」
「わかりません……ごめんなさい」
「君がお父さんに叩かれたりしているときはどうしている? さっきは、お母さんは何もしないって言っていたけど、それは直接的に暴力を振るわないということではなくて、君が暴力を振るわれているのを無視して黙認している、というようなことでいいのかな?」
「は、はい。そうです」
「そしてさっき、わからないと言ったのは、お母さんの気持がわからないということじゃないかな」
「そう、かもしれません」
「君のお母さんは、君と、君のお父さん、どちらの味方だと思う?」
「お父さんです」
(明確に答えたな……)
「それはなぜかな? お母さんはお父さんに酷いことをされているのでしょう?」
「だって、だって……我慢しなさいって」
「我慢しなきゃいけない理由は話してくれた?」
「いいえ……いつもただ我慢しろって、お父さんを悪く思うなって…………言うんです」
相槌うちながら聞いていた青年は早々と、
「ありがとう」と静かに言って、
「よく話してくれたね。嬉しい。正直、僕はここまで君が話してくれるなんて思ってなかった」
「いえ、これくらいのこと」
これくらいのこと――のなかに含まれていた、自分のような人間なんかのこと、という自己を卑下するニュアンスを、青年は盗むように分析してくみ取った。朽木稔は自己評価が低い少女であり、対して少女の言葉をくみ取っても、青年の心は頬を叩いても瞼をぴくりとも動かさぬ死者のように冷たかった。少女の苦痛が少しも流れ込んでこないのだ。膨大な知識と経験から相手の思考を読んでいるに過ぎなかった。
「証拠写真を撮ろうか。こういった虐待の痕跡は消えてしまう前にちゃんと写真にして残しておくことが大切だからね」
「うん」
青年は伝えると、少女は制服の裾を持ち上げ、白というよりはくすんだ青色の肌の一部を露出させた。前々から話して決めていた通り、暴行を受けて怪我になっている個所を撮影して虐待の証拠とするためである。使い道はもちろん報復のためであった。聖戦のための武器を研ぐ作業である。この証拠写真を撮影する室内は神聖な静寂に包まれ、外部の喧騒は遠く、遠く、度々鳴るシャッター音と強い光だけがふたりの間に訪れるものとなった、すくなくとも稔の記憶の中ではそうなっている。以前から決めていたとは言え、一部とは言え、少女は初めて同年代の男子の前で肌を露わにしているのである。
羞恥か? それもあった、確かにあったが、相手は恋してやまない神のような救世主である、恍惚が勝った。
大腿部、臀部、腰、腹部、背中、肩…………予想通り、不自然な打撲傷が多々見つかった。青白い肌に薄い墨を混ぜたように打撲の痕が覗えた。
「お父さんから暴行を受けた後、関節が痛んだりしたことはある? 骨折は?」
「そういうのは、ありませんでした」
(いままではなかったが、いつなってもおかしくないな。酒を飲んで暴行の威力が増すというのなら、暴行による重傷は十分に考えられる)
「そうか、わかった。写真は撮ったから、今日はもう帰ろうか。家の近くまで送っていくよ」
「いいんですか?」
デジタルカメラをバッグにしまって答える。
「もちろん。歩きながら話そうよ」
「……はい」
一緒に帰るか否かといった類の簡単な問答は、この青年には無駄だということを段々、少女はこれまでの青年との触れ合いの中で学習し、感じ取っていた。青年の心地よい強引さは自分を暗い此方から光射す彼方へ導くためのものであり、だから自分を安心させるのだろう――少女は自分でも気付かずに、俯いて薄く笑っていた。当然、この突然仲良くなった男子生徒と同じ空間を共有し言葉を交わすことは、暗い色に満ちた彼女の生活の中では格別の喜ばしい時間であった。一緒にいたい人と一緒にいることができる。この嬉しい状況を思うと、頬には自然と悦びの紅が灯る。
「さて、帰るか」
青年は制服のポケットに手を入れ、親指に力を込めた。ポケットの中で、カチ、と高い音が鳴った。
学校から離れるまで、好奇の色に染まる生徒の視線を何対も確認したが気にせず、青年は朗らかに会話しながら稔を家の周辺まで送り、家に帰りついた。森を抜けて家の庭に着くと鬱蒼としていた木々の密度が濃くなった。月の隕石孔が鮮明に見て取れた。
自室にこもって少女と作戦のことを考えた。
これから起こるのであろう明日以降の未来を数通り考えた後、その夜、青年は、死んだ豚が蛆に食われながら腐乱してくのを夢想した。
桃色の豚が蝿に群がられ体液を垂らしながら黒々と変色していき腐乱ガスも噴き出し切って骨も見えてきたという頃、青年は安らかに眠りについた。
明くる日――予定を明日に控えた日。金曜日である。学校は常の通りで授業が行われ生徒は授業を受ける筈であり、無論、稔も学徒の中のひとりから外れはしない。
(今日は来ないだろう)
朝のホームルームの後も稔は登校していなかった。遅れて登校してくることもあるかもしれない、念のために一限だけ授業を受けながら先のことを考え、しばらく待っても稔から連絡が来ていないことを確認すると正樹は席を立った。
体調がすぐれないことを授業担当職員に告げ保健室に颯爽と足を運び、保健室職員の目を欺いて熱っぽい顔をし、気だるさを総身に滲ませ下校の許可を得た。席を立ってから校門を抜けるまで五分もかからずに済んだ。
学校の周辺にある小さな茂みに待機させておいた高咲の山の犬を起こし稔のハンカチの匂いを嗅がせて彼女の体臭を覚えこませ、捜査に出向く。昨日弾き出していた考えられる限りのパターンの中から振るいにかけ、現在の状況から想定できるものを検索していく。絞り込み、十二件。その中から最も重要度の高いものからランク付けし、上位の五件から当たることに。友人に連絡を取り自転車の使用許可を得、自転車にまたがって犬を連れ周辺の探索に向かった。
(現実的に、今日出来るとしたら十件回るのが限界だ。早々に見つけなくては)
家にいるとは思えなかった。考えうる項目は多々ありはすれども、稔が学校に来ていないことや昨日のふたりの作戦の準備をしていた過程を鑑みて、彼女自身に何らかのトラブルが起こっていると考える方が自然だと思えた。
犬を連れて町内を自転車で走り周り、検索結果の三件目、犬が吠えた。
「よくやった。ほら」
餌を与えて帰るように告げると犬は凛として早々に去った。壊れて打ち捨てられた人形のような少女がいた。昼間近の日を頬に浴びているのにどこかくすみを帯びてやつれている。寝間着姿で裸足のまま、ぼろぼろなのにどこか勝者の喜びを湛えた安らかな寝息。鎮魂された神を思わせた。
近所の公園の遊具の中、人の目からは死角になるであろう城状の小さな空間に、壊された少女は横たわっていた。殴打を受けたのだろう、頬には打撲と擦過の痕が刻印の如く埋め込まれていた。
裸足ではあった、が、寝ている間に脱げたのだろうとわかった。少女の側に赤いサンダルが一対落ちていた。女の子らしい上下ひとつになった白の長そでの寝巻は逃走しているあいだか、ここで横たわっていたためか所々泥を受けて斑なっている。目は疲労の色に落ち窪み濃灰色の髪はそれぞれの束が小さな火種のようにちりぢりに乱れていた。
壊れて腐り土に溶けてゆく木製の人形のように見えるが死んだようではない。腐臭の代わりに香ったのは少女の青い汗の匂い。
雲のない日に天から熱が降りるばかりである、昼を間近に控えて気温は上昇し続けていた、少女の額には汗が薄く玉に成り始めていた。公園の水道で濡らしておいたタオルで顔を拭いてやりながら声をかけた。
少女の瞳が薄らと痙攣したかに見え、双眸に淡い光が灯った。彼女は一瞬状況の把握に困難をきたし動転しかけたが、青年の両腕に抱かれているのを知ると微笑んだ。力ない笑みであったが精神的には満たされた彼女の喜びの証である、青年は頬笑み返して一言、告げる。
「お疲れさま」と。
「戦ってきちゃった」
小さな悪戯を母に咎めてほしい子供の声で稔は正樹の柔らかな顎の下方から囁いた。正午までにはまだ遠い朝と昼のあいだの間延びした閑散とした公園の遊具のなかは胎を思わせ、優しく美しいまどろみが少女の目蓋に降りては散り、青年の心をしばし掴んだ。
(そう、そういう顔が見たいんだ)
豊かな呼吸で肺に空気を流し込み柔らかに返す。
「ダメな子だ、君は」
青年は少女の首から頬を優しく撫で上げた。青年の胸のなかで次第に弛緩していった少女は褒めて欲しいのか、
「私……たぶん……勝ったよ……」と言って笑った。
「そう」
全てを悟りきり少女の全てを肯定しきる青年の優しい物言いに、少女は世界に抱擁されているような感覚を得て打ち震えた。
上背あって、すらりとした四肢の、高貴な瞳。涼しい眉に、すっと通った鼻筋で、品良く撓う少女のような丸い唇の、雪の肌――乙女かと見まがうほどのこの中世的な美しい青年に、少女は穢れなき神の魂を見た。彼は性の枷から超越した仏神のごとく少女の心に映ったがしかしこの青年は肉体に縛られる哀れな生物であった。青年の愉悦と苦しみの一端すらもくみ取るこのできぬ少女はふたりの奇跡のような再会ゆえ喜悦に浸るばかりである。青年の正体に気付かぬことも、至極当然のことである。彼女は人間なのだから。
偶然だとしても少女はふたりの絆とこの青年の神の如き力を信じるだろう。少女は戦火からの脱出故の歓喜をここで改めて放出した。
「……勝ったんだよ……正樹くん……」
「……おめでとう。本当に……おめでとう。あとは僕に任せて」
「……あう、ごめんなさい」
「でもね」
「はい」
「僕もいなきゃ危ないから土曜日にするって言ったじゃないか」
「ごめんね……」
「いや、いいさ。切掛けを与えたのは僕だ。僕が悪い。だからとても頭にくるんだ」
「ご、ごめんなさい」
「君じゃないよ。君は悪くない。何も悪くない。悪いのは僕と君の両親だ」
「ごめんなさい……」
「謝らなくて良い。今日、君の家に行く。話を付けに行く……いいや、手段は選ばない。強制的に従わせに行く。それからのことはちゃんと考えてあるから、安心して」
「どうして、そこまでしてくれるの?」
「言わなきゃわからない?」
「……ごめん……」
「好きだからに決まってる」
彼女の驚きようは尋常ではなかった。放心というか酩酊というか目をきょろきょろとさせるばかりで目はよくうごいているのに、対して脳味噌は上手く動いてくれていないと言った様子で。それもそう、彼女は生まれて初めて人から好意を口にして告げられたのだった。
青年に感慨と言われるような心理的な動きは何もなかった。怒りも喜びもなく、全て演じて動いていた。
少女、朽木稔は昨日の青年との密談、聖戦のための作戦会議と証拠の収集を経て心に銀の膜を張ったように強くなっていた。初めてのことゆえに浮かれる部分もあったが力強い味方を得ると害虫のような父親の存在がこれまで思っていたよりも矮小なものに感じられた。謀反の準備は彼女の胸のなかでは決まっていたと言えよう、作戦決行を土曜日に控えた木曜日、酒癖の悪い父のいつもの八つ当たりが段々といやまさって、生まれて初めて稔は父の侵略に反旗を翻した。青年にあれほど強く作戦を守るようにと言われていたのにも関わらず、である。
度を越した暴行だったのだ。反発は彼女にとっても、父親の独裁的な家庭内にとっても珍しいことであるが、青年の精神的な力添えを考えると当然のことと言え、事実、青年にとっては想定内の出来事であり、寧ろこうなることを望んでそうなるように仕向けていたのであった。彼女の性格や自分の影響や家庭の機能の仕方を分析するとわからないことではなかった。稔の性格や家庭状況や行動の範囲とパターン、それと地域の状況を頭に入れておけば彼女が来そうな場所を予想することはそれほど難しいことではない。そうやって見つけた少女を、正樹は予定通りタクシーに乗せた。タクシーに乗ると気絶するように眠ってしまった稔を抱えて青年は山道を登った。岩山に住まう野生の獣の如く強靭な足腰の青年は難なく山を登り切り、我が家への到着を果たす。
彼は稔に水を飲ませてやろうとか、顔を拭ってやろうなどとは、思わなかった。普段なら、イイ人で通っている彼のことであるから、水やハンカチを出すことなど造作もないが、この時ばかりは、そんなことはもったいないことだと思った。ただ、彼女のやつれた顔を素敵だと思って、じっくりと眺めていたいのだった。




