11 逢瀬
風が消え、虫たちの鈴の音が遠くさやかに聞こえるばかり。春だというのに寒さが肌に辛くあたる、布団で肩を覆わなければ寝ても己の身の震えに起こされる。手先足先のよく冷える母はどうしているのだろうかと気になっていた。
月明かりが白地の壁面を淡く照らし、撮りつづけた鳥類、昆虫、空、の壁掛けの写真を模糊と映し出す、しかし寂寥な部屋の印象は変わらないもの。溜息を促した。
ぼんやりと夢の続きを考えていると、陶器を釘で引掻き回したような、高すぎる煩い音が耳に抜けた。轟音ではなかったが近くで聞けば厭味な音だろうということは推測できた。しばらく音は続いていた。故意に何かを伝えているようにも思えた。
恰も意思を持ったものが誰かを呼んでいるようである。音は、父親の書斎の前で聞いたものと種類が一致している。その音に呼ばれているという直感に貫かれる。
丑三つ時、誰も起きてなどいないはずの時間帯。起床を頑なに拒否する体に鞭打って布団から這い出る。張り詰めた空気の中ではドアノブを捻る音でさえもが屋敷中に響くようだ。ドアを開けると大蛇の通路・奈落への近道のような暗黒の廊がその身を横たえ、暗々とした途方もなさ故たちまちのうち、吸い込まれそうになるのを両の足に重心かけてすっくと立ち、歩めば間断なしに鳴り続ける音が闇に紛れて久しく、沈黙に飲み込まれて知らぬうちに迷い込まされているのかどうなのか……と奈落の底に転がり落ちて、カチ割れた頭で呆然と苦悩をたらたらと連ね続ける、とそうなる前に音の源は思いがけぬ場所に見つかった。青年は、母の部屋の前に立たされていた。果たして自らの足で床を踏みならして辿り着いたのだろうかとまず疑問に思うが空中を飛んできたわけでもあるまい、もちろん己が両足を互いに前後しての到達なわけであるが実感というものがまるでない。だけれどこんなこと日常茶飯事であったしいまはそれよりも答えがある。自分はこの猫に呼ばれ導かれたのだと青年は思うわけであるが、思ったのは猫がバシバシと母の部屋へと続く壁を叩いていたから。その叩き具合が恰も後ろ脚で立って前足で手を合わせて念じているようにも見えるのだ。これは偶然か、あるいは。
どれだけの確率でこの逢着が作り上げられたのか考えるだけで気が遠くなる。悠久とも思える自然淘汰と輪廻の時を経て成されたことであるのは分かってはいるがそれが如何なるものであったのか、そして意味は。この猫なる種族が歩んできた歴史に彼は思い馳せる。
猫の系譜を深く遡るとそのつながりは凡そ六千万年前に生息していた中型肉食獣のミアキスにまで至り、これが概ねの特性を保持したまま進化した種族が猫である。我々が日々関わっているイエネコの祖先であるリビアヤマネコは十三万年以上も太古の昔から生息していた。人と共に暮らす猫が現れだしたのは、最古のものではキプロス島のシロウロカンボ遺跡の墓から人間と共に埋葬されていた猫の遺体が見つかり、約九千年前から人類と猫が深いつながりを持っていたことが示唆されている。
古代エジプトにおいては紀元前三千年ごろから猫はライオンの代わりとして崇拝されバプティスという受胎の女神はもっとも崇められた神のひとつであり、それはもちろん猫であった。又、この地域で猫が死ねばミイラにされていたことから、古代エジプト人が猫を飼い、崇拝していたと判断できる。
平安時代――八百八十九年〈寛平元年〉宇多天皇の日記『寛平御記』二月六日の記述曰く、宇多天皇が父の光孝より譲られた黒猫を飼っていたとのことで、これが日本で猫が愛玩動物として飼われ始めた時期を記す最古の証である。これより古来、日本には多種多様な猫に纏わる民話伝承が生まれている。昔から日本では、猫は齢五十を超えると猫股なる猫魔に変わり、尾が分かれ霊能力を身につけると言われる。これは猫が老化すると背の皮が尾のように垂れ、よって尾が二つあるように見ることが元になっているのであるが、歳を取れば現世と異界とを横行する魔獣となり人語を解すのみならず自由に使いこなし山姥のふりして人の肉を食らうという伝承や、故に猫は魔物であるとする思想は古くから多くの文化で見られる。
いまでも死者の棺や布団の上、又は枕元に刃物を置く風習があり、これは猫が死者の上を通らないためのもので、死者を地獄に引き込む化け猫である火車から死者の魂を守るためのものである。火車というのは野辺送りの列などを襲って骸を奪いに来る妖怪であり、その正体は猫であることが多いとされる。火車が猫であるというのは猫が現世と異界と自由に行き来できると信じられていたからであろう。
猫は死臭に敏感で死体に近寄りやすく、猫はキツネほどではないが人に憑く。
猫はその特性が人間の若い娘や老婆に似ていることから人間は親近感を得たのではないだろうか。
ちなみに日本にも黒猫に前を横切られるのは不吉とすることがあるが元は米国から伝わった迷信でありむしろ英国ではこれは幸運の印であるとする。とつらつらと考える。
この猫の面立ちは冬の風のようだった。沈黙を守り続けるこの個体は、笑うこともせず人語を発することもない代わりに、いやらしく顔をゆるませることもなくヘドロのような言葉も吐かない。チェスの名手が最後の一手を決めるような慎重さで置かれた目鼻がその誠実さのあまりに冷たく感じられる。彼女は高貴であって、この世界のどこかの果てしなく厳しく寒い夜の象徴のごとく、青年には思えた。彼女、あるいはこの白銀の有機体は意志を持っていたのだ。冷血な狩人の機械的な面差しの下には極寒の嵐が吹き荒んでいることを知っていた。しかし実質的には、青年にとってはこれも記号に過ぎなかった。
芸を覚えぬからとて猫が犬より知能が劣っているという解釈があることを青年は遺憾に思うばかり、この知的な動物はその独立的な習性故、人の支配下に甘んじないのであり、従わず共感せぬことは知能が低いことにはならないと彼は思う。
言語として実るまえの思考の種が砂のように青年へと流れた。外部からの交信であった。猫がこの扉を開けてくれと語っている。青年は母の部屋へ侵入した。猫もそれについてきた。
部屋に入るや華やぐ香り、この甘い安穏な、春の酩酊に沈ませ凪ぐのは、まぎれもない聖母の香である。この部屋の主は夫の部屋にいるのであるが、それでも残り香が生きている。
着物箪笥が列を成して畳の上に腰を据えている。他には化粧台があるくらいでさっぱりしたもの、畳の表面には塵ひとつ許されていないくらいの。焦燥と寂しさを覚えるほどに健全な室内である。母には一抹の隙さえないことが青年には知れた。
夜目が利いてきた青年であったがこの暗さでは気づきようもなかったか、親指の先に何かがこつと当たった。調べてみると畳の合わせ目が微妙に隆起していた。
化粧台の引き出しからマッチと蝋燭を取りだして明かりをつけると、畳の隆起を眺めている猫がいた。
前足でチョイと叩いて、ここを開けろと言っている。青年は畳の端を摘まんで持ち上げた。
青年が見たものは一段と黒い闇であった。開け放たれた闇が大口を開けて青年を飲み込まんとしている。異世界への通路の如くの。
深淵に飲み込まれる。恐怖がこの目の前の底なしの沼から迫ってくるのだ。
虚無が広がっている、ただそれが怖い……いやそれよりも懐かしい。暗闇は母胎の元型であり虚無であると共に万物の源であり、入口は膣であり命の飛び出す扉であった。原点回帰。数々の夢想の帰結があの闇のなかには確固としてあるような気がした。たとえそこが屍の降り積もる奈落であってもそこに花を植え踊る誰かがいるならば、そこは決して地獄ではない。しかしそれは又別の話で。
青年は強く踏みとどまった。この暗闇に落ちてしまえば、長年かけてかき集めてきた自我が圧殺されるような気がしたのである。
この中に引きずり込まれたらおしまいだと青年は思った。たったひとつ助かる方法があるとすれば、それは魔物になることである。しかしそこには青年はもういない。吐き気を催しかけた青年は、蝋燭で恐る恐る深淵を照らした。広さにして一畳分、深さにして約三尺の空間があり、空間よりも二まわりほど小さな箱がそこに鎮座していた。深緑で重ね塗りされた箱の縁を金の留め具が頑丈に守っている。鍵はあるが、かけられてはいないようだ。
開けてみると中から、便箋・古書・玉・その他奇妙な面などが見つかった。母の思い出の品であるのかどうか。
気のひける行為であったが手にとって調べてみようと思い立った青年よりも先、猫が箱の中身を漁り始め、封筒を口にはさんで飛び出した。
猫の口に挟まれた封筒を取ろうとすると抵抗するどころかこの猫は素直に顎をゆるめて青年の掌に恭しく置いた。
家族に対して覗き癖のある青年ではなかったが、青年は運命に突き動かされるように封筒の紐を解いた。溶けるようだった。紐はシルクのようにほぐれた。
封筒の中には、写真が一枚。古い写真である。
赤子と母の、親子の写真であった。どちらも知らない人間だったが、写真のふたりが他人同士ではないことはたやすく知れた。生物学的には女と赤子であるが、赤子を抱く女の顔は母性故の笑みであった。腕に抱かれた赤子は揺りかごで見せるような笑みで安らいでいた。幸福なのだろうと青年は思った。果たして自分にもこのように幸福なときがあったのだろうか?
古い写真には瑞々しい幸せが溢れているが、青年はそれよりもとあることに驚いていた。写真に写るこの見知らぬ女の顔には、鏡に映った青年の顔の特徴が俄かに滲んでいるのだ。この身元不明の女の正体をもちろん彼は知らない。親戚にしてもこのような人間がいるとは話に聞いたことがない。
と暫し思案していると猫が箱をがさがさとやりだした。畳に飛び上がると古書を口に挟んで青年の膝にすりよった、胡坐の内腿に古書を置いて、膝をカリカリと掻いて読めと催促している。陰極と陽極のように本をめくる指は紙に溶け惹かれあい触れ合いぬくもりが交わる。
これは母の日記に違いないと青年は考えた。母が日記を付けていることは知っており、母がいかなる筆跡で文字を書くのかも知っていた。豊潤な才を思わせる麗筆である。文字とは単なる記号の配列であるが、この母の流麗な筆は絵であり芸術の品であった。母は、美しい字を書いたのだ。
しかし古風で達筆な故に解読するには難解にすぎ、彼にしてみれば美しい徒花である。草書のくずしが巧みであるが、平安の頃に生きた人か専門の学者でなければ読むこともかなわぬのではなかろうかの書であった。が、見ればみるほど目も絢な、水のせせらぎに任せて書かれたような女手の達筆が、行儀良く紙面に並んで巧緻に彩る。分かるのは、ただこの文がひらがなを多用した女性的な文体であるということだけであった。
青年は筆跡から筆者の性質を写し取ろうと考えて、文字をよく眺めた。文字からははっきりと手先の器用さが覗える。精神の豊かさも伝わる。字間から心のゆとりが、はらいから落ち着きが、留めや跳ねからは決断に秀でた精神的充実が見て取れる。字の上手さと知性に重大な因果関係はないのだろうと思う青年であるが、思い込みだろうか、この秀逸な筆跡からは知性が滲み出ているようだった。それと優しい心も。
対して青年は字が上手いとは言えず又それを自覚していたから、美しい文字を書くことに憧れていた。
とたん青年は火鉢を上から覗きこんだような、息苦しくも優しい火照りが頬を撫でたことに気が付いた。そして不明瞭な熱は不明瞭な衝動を誘引していた。それに気がついた時には青年はすでに帳面に鼻先をくっつけていた。そして深く吸っていた。匂いもろとも筆者の性質を己の中に取り込みたかったのかもしれない。嬉しかった。土の匂いに似た棘のないまろやかな書物の匂いだった。青年の心を癒してしまう和みの香気を、いつまでもこの鼻腔に漂わせていたいと青年は思った。
そして次に、青年は文字が羅列された帳面に唇を当てた。嗅覚だけに喜びを独り占めさせておくのはいけないと体中が叫ぶからか、火照った頬がそうしなければ熱は冷めぬと誑かすからか、又は聖なるものへの畏怖の念のもとにか、まるで欧米男児が淑女の片手を取ってするように、青年はその唇を帳面に充がったのだった。すると熱が冷めた。神聖な心持ちであった。青年は日記を床に置き、後ろにだらりと手をつき、ため息を空中に散布させた。鈍化した精神状態で、妖艶に揺れる蝋燭の炎を見ていた。しばらくすると、すでに猫が姿を消していることに気がついた。
丑三つ時、ふと我に返ると虚しさが胸を駆け巡る。部屋を元の通りにして、廊下へ歩み出た。寝てしまおうかと思ったが、そこへ。どこからか。
――――ちりん。
ああ、どこからか。
――――ちりん。
風鈴のような高い音が鳴る。鳴る音につられて縁側に出た。この家屋よりも月の下の庭のほうが明るいのはご愛敬で。
流砂のようにきらめく銀糸の光線が滑り込む縁側にて、姉が座す、それが幻想めいている。
あの、新しい姉。
冷たき肌に熱き瞳の、心の芯に処女性を宿した麗しき妖花の、細い肩が悲しく揺れている。
(嗚呼、欲しい――これほど欲しいと焦がれたことが、いや、焦がれて良いのだと思えることが、これまであったかどうか…………)
保護欲と破壊欲が鬩ぎ合いを引き起こす。
青年は、かつて己が犯した失敗を繰り返すかの瀬戸際にいた、が、一つの確信があり、
(大丈夫……今回は成功する)と思っていた。根拠は、あった。
愛でる、とはよく言ったもの、その音の通り、目で見ることだと思う青年、美しい花は見ているから美しく、むやみに触れては壊れて優雅を逸するのだと心を戒める。
月は半月、偃月の光が人の内面を半分だけでも浮き彫りしてくれたら良いのだけれど、と思うのは夢見がちな青年でも度がすぎるというものか、未だその実態をよく知らぬ姉の背後に佇みながら青年は後ろ姿を見たまま、如何に話しかけるべきか考えていた。すぐにそれも、ただただ姉の姿態を眺めるだけに変わったが。
高咲正樹は美しいものが好きだった。
なかでも女性の長い黒髪は、その神聖さと相俟って一際彼の中で輝き、彼にとって重要な位置を占めていた。それは原初の枯渇のように自分を魅了してやまないのだと彼は確信していた。
姉の――果たして姉だけだったろうか――黒髪の美しさを想う。
神代の頃より、あの世とこの世の世を問わず、この国の女性の黒髪は綺麗だった。巫女の女たちの髪は必ず素直な黒髪の長髪であった。髪には魔力が宿るとされ、髪の長さと比して魔力も強まるとされていたのである。神々に仕える巫女として髪を伸ばすのは必定であった。平安貴族の女たちは、長い黒髪であるほど美しいとされた。このように古来黒髪の長髪は美と神性の象徴だったのである。
磨墨の素直な髪を背に流し、鶴の頸椎のようにしなやかな腰まわりで間断なしに光に揺らしている媛なのが、高咲桜である。
縁側にひとりでいる姉は小さく座して頼りなく、魑魅魍魎の跋扈する魔処にでも迷い込んだ子兎のように儚いのに、天から吊り下げられた月の光を浴びている彼女はまことギリシアの女神ヘラの寵愛を受けた聖鳥のごとく優雅にも見えた。
やさしく熟れた乳房が、寝巻の内側できつそうに張っている。子供らしい作りの寝巻は、彼女には少し小さいようであった。彼女は成長を果たしたのだ。それも﨟長け、とてつもなく美しいものとして。
処女性の美質を一点に集めたような麗しき乳白の目の端から真珠のごとき涙が転がり落ちて、朱に染まった頬を伝い、美の女神アフロディテにそっと撫でられたような頤に降りて散った。
彼女は家族となり、姉となった。
幼き頃の彼女にあった美の種子は、いつ薄く硬い殻を破って萌芽を果たしたのだろうか。青年はそのときを見そびれた。なぜ自分がその世紀の変わり目にも勝る重大なひとときに同席していなかったのかと信じられぬ思いすらした。
(ああ、なんだろう)
薔薇の花弁を薄く切って置いたような唇があえかに引き結ばれる。彼女がふり向いて笑んだのだ、微か。意味も無く?
繊手の細い指がグラスを掲げているのが艶冶なのと、震える膝を双乳の前で抱いているのが赤子をあやしているようで、慈悲深い菩薩のような母性を示しているのが、矛盾した魅力を垣間見せ、背徳感を抱かせる。
(君は、誰なんだ)
倒錯した美に焦がれる。
青年は、姉の目前にてひとり瞠目する。
(触れてみたい……)
この焦燥は、どこからくるものか。
ただの憧憬か、あるいは。
深緑の畳なわる、鞣したような艶な髪が、鴉の濡れ羽のように蠱惑的で視線は自然と導かれる。
優雅な羽を慎ましく折りたたんだ胡蝶の羽ような黒髪の姉は美しくも、吹けば飛んでしまう羽毛のように儚く見えた。
滔々と濾過させた純正の美酒に口付けたように、鼻腔に圧倒的な甘い芳香がふわりと薫り、青年は酒精を喉に流し込んだように酩酊しかけ、この青年の瞳を眩ませる少女が見せた夢から、苦労して我に返る。
彼女の乳白の素肌に触れて、その下層を流れる清冽な血潮の水勢と脈動と体温のうねりを体感するのは、バベルの塔を建てて神の怒りを買うような禁忌のごとくで、強い畏れを呼び起こす。それはイブを創出させるためにあばら骨の一部を抜き取られたアダムのように、青年は昔から自分のことを何処か足りない人間だと思っていたという心的要因に帰結するのであったが、まことその限りで、彼はその自身の心性の欠如を本能的に知っていたのである。
鶴が渇いた咽喉を潤すために冷たい川面に口先を付けるように、飢渇した心を満たしたい青年は決断の時を迫られていた。彼女は泣いていた。泣いている姉に対しどういったことができるのか。
理解はすさまじく急速に浮かび上がり案へと帰結する。自分はこの姉の真相を知りたいのであるが、まず先に現状の絡まりをひとつひとつ着実にほどいてゆかなければならぬ。不思議と迷いはなく、絶望に行き当たり諦念にまで沈みいくまでには幾許もなかろう、という姉の隣に腰を落とす。ありとあらゆるこれから先のことを想定していた。無言で座す、これは始めから決めていたことであった。彼には姉の背中が悲しみに総毛立つハリネズミのように見えた。言葉をかけるとしたら、慎重に進めなければならぬ。浮雲が草木の目を盗んで地に影を落とすような密やかさで、振り子が端まで振られ逆に揺られるまでの静止の一瞬を突くような、絶妙な拍子で、青年は姉の隣に滑りこんでいた。それは優しくも無情の間であった。
情の波をちりぢりに乱している姉であったが、側に青年の薄荷のごとき青の匂いを感ずると淵に落ち込んだ暗い心が平常近くの水面下まで浮上した。上がった先には、月光に浸食された新しい弟の横顔があった。思いもよらぬ青年の出現に桜は粒の涙を流し、鼻を啜っては俯いたのであるが、言語にしうる想いが凝って流れた涙ではない。彼女にも理解しえぬなんらかの心理的な動きがあったのか、これは自ら戸惑うほど突然の涙であった。惑星の裏側での蝶の羽ばたきひとつが因となり今ここで嵐が起こっているかのような予想しがたい出来事であるが、心が泣いたのだと桜はそれだけは悟った。
このような単純な数字の加減で測れぬものがあるとは分かっていたのかどうかの彼女ではあるにしろ、自己の頭脳によって制御できぬ内面があることは知っている。桜は泣かぬことを諦めた。ただ、この青年の出現が嬉しかったのかもしれぬと己に尋ねた。
風向きが変わると青年の薄荷の華やいでいたのは届かぬので桜は隣にいたあの青年がどこかへ消えてしまったものかと不安になった。不安は顔に表われていた。己の精神がこの青年のまえでは何らの枷もなく表出してしまうことに桜は戸惑っていた。抉じ開けられたのか。それは違った。父親以外を相手に表したことのない心が、自分から這い出ようとしているのである。では這い出たらその先は。単純明快なる直情的な女である、その先は、触れてしまわぬわけはない。しかしそれはほぼ初対面の弟となった男相手、恥ずかしさが邪魔をした。
とこのようなことを考えてはいたものの、不図、己がここにいるわけを思い出すと再び奈落の底へ突き落とされた。
桜は絶望を眉宇に浮かべて青年を見た。青年は桜の視線に気が付いていないといったばかりに一点を見つめている。桜の木を眺めているのである。桜は青年の顔から目をそらした。すると、ふいなことに、この青年、姉の指に手を置いた。桜は驚いた。視線が合って、青年が微笑する。
完璧な間だと言えた。
「新しい生活は、やっぱり不安?」
首を左右に振って、桜は弁解する。鼻先が赤く、赤い目じりから涙が砂粒のように転がり落ちた。言葉で応える。気持はとうに張り裂けてしまいそうであった。
青年はわざと的を外し、姉に問いの否定をさせることで滑らかな会話の糸口を得ることに成功した。相手の心理を見抜いてはいないと印象付けて安心させるための故意の間違いである。
「……大丈夫」
「遠慮することはない。何でも言って良い」
透き通った目で慈悲深く青年は微笑む。桜は急所を撃たれたように目を見開き、青年の横顔を見た。心の水位が決壊点にまで迫っていることを悟り、抗うが、決壊は止められるものではなかった。桜はただしゃくりあげて泣いた。「……お父さん……お父さんが」
父の死を嘆いていることが容易に知れていた。青年は桜が話し出すのを待った。しばらくしてようやく落ち着いた。
「桜」と心の扉を軽く叩くような問いかけである。
「ごめん……こんなつもりじゃなかったんだ。もっとちゃんとしているつもりだった。いやなところを見せてしまった」
「いいや、いろいろあるんだろうと思っていたから……だから……」
(泣き顔が見られて嬉しい、なんて言うのはよそう)
「突然女の子が他人の家に転がり込んでくるなら、問題のひとつやふたつ抱えているのが普通さ」
青年は姉の指を包んで言った。性的なニュアンスはなかったけれど、温かいものでもなかった。ただ体温は伝わるから、小さな津波のまえに身を投げ出しているような冷たさを味わう行為だとは彼女には理解できなかった。
「君は誰? 父親が言っていたことは本当?」
桜は力なく告げた。
「私のお父さんが死んで、その友達だった柳お父さんが私を引き取ることになったのは本当だ。柳お父さんが言ったことは真実だ。私のお父さんは、去年の末に他界したよ。突然のことだった……いまでも信じられない」
「そうか……君がこの高咲家の人間を家族と認められるようになるかはわからないけど、誰かがそばにいるのはいいことだ。過去を清算してほしいなんて言う人も、忘れてくれなんて言う人もいない。ここで自由にしていればいいさ」
「ありが、とう……」
「お父さんや桜の話をしてくれないか」
青年は姉と向き合って言った。
彼女はいままでの暮らしを振り返る。
「私は……私は………………」
眸は過去の栄華を映すが、それはフィルムに焼きつけられるほどの刹那のうちに涙に濡れた。桜はまたしゃくりあげながら泣いた。
「私はいままでずっとお父さんとふたりで生きていたんだ……ずっと一緒だったんだ。会いたいよ! 会いたい! お父さんに会いたい……」
何も言っても無駄なことは分かっていた。絶望的な悲しみの前に言葉は無力であることを彼は悟っていた。
「なんであんなに良い人が死ななきゃならないんだ……おかしいじゃないか。世の中には死んだほうがマシと思えるような悪い奴だってたくさんいるじゃないか。それなのになんで、なんで……なんでお父さんが死ななくちゃならないんだ」
己の残酷性を隠さぬあまりにも正直な心境の吐露に青年は虚を突かれた、が、今の状況と彼女の動揺を考えれば、やむなしことかと納得。
青年にもわからない、天寿を全うすべき善良な人間がなぜ早く死ななければならないのか。この世界を動かすものは物理のみなのかと思いたくなる。
「私はお父さんで、お父さんは私だった。私のお父さんも柳お父さんのように文筆業家だった。ふたりは私が生まれた頃から仲が良くて、私も柳お父さんとは昔から家族のようなものだった。もちろん榧お母さんとも」
「知らなかったよ。両親と君たちにそんな繋がりがあったなんて」
「それもそう。いろいろあったんだ。本当に色んなことが。難しい問題だったからここに来るまでたくさん悩んだ」
「……全部、話してくれないか。知っていること。どういうことなのか」
「私を産んだ人は、私を産んですぐにどこかへ失踪したんだ。それから、私が十歳くらいの頃だっただろうか……その人は殺されたらしい。十七歳のときにお父さんから聞いたんだ。私は産まれてからずっとお父さんと暮らしていた。どこに行くにもふたりだった。お父さんの仕事の都合で海外で暮らさなきゃならなかったけれど、もちろんついて行った。でも、父さんと暮らし始める前、少しだけお父さんと離れ離れになった時期があったんだ。まだすごく小さかった。殆ど聞いた話だけど断片的に覚えてる。私を産んだ女が姿を消して、お父さんは心神喪失状態だった。生きていくことすらままならないほど呆然自失して、私を育てていくことなんてできそうにもなかった。天涯孤独だったお父さんを助けてくれる身内なんていない。親しい人間も皆無だったみたいだ。そんな弱ったお父さんが赤ん坊の私と共に生きていくのは無謀だった。だから、お父さんは私を施設に預けた。赤ちゃんポスト……この地域は設置に寛容だから、私はそこに入れられた。それから私は個人的に榧お母さんと柳お父さんに引き取られ、高咲家の娘として過ごしていた。お前が産まれる一年も前のこと。私を施設に預けて数ヵ月後、私を施設に預けたはずのお父さんが施設に飛び込んできた。お父さんはまたちゃんと生きようと思ったんだ。お父さんは私を引き取って、再び私とお父さんふたりの新しい生活が始まった。けれど、高咲家のお父さんお母さんとはそれからもずっと交流が続いていた。柳お父さんとも友達になって、私を育てていく決心もついて、お父さんには生きる希望が生まれたんだ。それからは、ずっとふたりだった。いつものように高咲のお父さんたちとは会っていたけれど、海外に行ってからは本当にふたりだった。お父さんはいつも私に強くなれと言っていた。強く生きろと。そんなお父さんが一月前に交通事故で死んだんだ。あんなに元気だった人が死んでしまうなんて信じられない。死の気配なんてどこにもなかった。約束なんてなにもなかったんだ。なんの約束も!」
壁一枚隔てた場所から死を認識することに慣れたこの時代に生きる彼女らにとって、死の現実味は希薄なものであった。死と接していないわけではないにしろ、それは遠い三人称の世界のみにあるものだと思っていた。ある種それは、エンターテイメント性を帯びていたこともあった。
少なくとも、桜という姉の認識では。
「人の死なんて身の回りにあるはずがないと思っていた。本当は誰にでも起こりうるって頭ではわかっていたはずだけれど実際に起こると違うんだ。何が何だかわからない。……神様が命を掬っていったんだ。お父さんを奪われて、私の目の前から世界が消えたみたいなんだ。もうなにもない。生きてなんかいたくない。もう嫌だ……」
言語化できぬ感情の機微に胸を掻き毟られる。
残酷な運命にさらされ悲嘆に暮れるその姿が美しい。彼女には涙が良く似合う。その可哀相でいじらしい、その姿が、青年に、抱きしめたい、と思わせる。
「未だにお父さんが死んだなんて信じられない。始めは私は泣かなかった。あまりにも信じられなくて。でもだんだんとお父さんの死が現実的になって、徐々に私は苦しくなった。でも、世界にはもっと悲しい目にあっているのに泣かない人がいるんだって思うと、なんだか……」
(ああ、本当に、すごく、綺麗だ……)
美しい日本女性の黒髪は限りなく黒に近い青であり、鴉の濡れ羽のようであると言われてきたが、この妖艶なる姉の黒髪は鴉の濡れ羽と混じろうとも目についてしまうほど一際黒いのではないかと思われた。
青年は桜の黒髪を撫でながら、耳半分で要点を掻い摘んで聞いていた。青年はとある類の映像を思い起こしていた。
脳裏に貯蓄していた映像を表情として顔に当てはめる。映像で見た、葬儀に参列する遺族の顔を思い出し、その表情を真似た。絵になる憂いの顔であった。そして青年はどこかで聞いたような台詞を諳んじた。
「桜、人の感情は相対的なものじゃない。他の誰かと比べられないものだ。君の悲しみは君だけのものだ。世の中にはまだ辛い思いをしている人がいるなんて、そんなことは思わなくていい」
青年の、和音の如き色彩の思惑の根を割って、その内部に巣食う黒い一筋の欲求をこの姉が見分けることなどできるわけもない。
(幸福も不幸も一時の揺れ動きに過ぎないけれど、喪失の事実は永遠に続くもの。その苦痛がいつか退屈へと揺れ動き風化することを)願うしかないと切に思う。
どれだけの夜を越えればこの悲しみが癒されるのだろう。肉親と死に別れた彼女の喪失の悲しみは、時の流れに溶け薄れたとしても事実として思い出すたびに胸に迫る。夜を越え季節を越え年月を経ても、最愛の人間を亡くしたという現実は、輪廻転生を繰り返しても纏わりついて離れぬ呪いのように、これからの彼女を縛る。
「ふたりでも、幸せだったんだ。でももう、幸せになんてなれない」
「この年にして幸せを諦めるのはいささか早すぎるとは思うが。桜は綺麗だからいくらでも幸せはつかめるよ」
「ありがとう。嬉しい……けど。私は自分の幸福にだけ眼を向けて誰かの不幸から眼を背けることは出来ない。幸せになれる人は非情だと思うから」
「その理屈だと俺はすぐにでも幸せになれそうだ」
「あはっ」と笑って「正樹は優しいよ。とても幸せにはなれない」
青年のことを優しいと言ったのは思い込みではなく希望だった。
青年は一つまみの寂寥を鼻梁に潜め、視線を暗やみに落した。
桜は、含羞の笑みを差し向けた。絶望を見つめていながらも人はまだ生きて行ける、そこに生きる意志と活力があれば。
桜は青年の肩に頭を預けながら腕を伸ばして肴を手に取ると、それを口に持って行ってしゅるしゅると咀嚼した。それを見て青年は笑った。
「な、なんだ……?」
夜の影に生える青年の白い首筋の下から桜が見上げて言ったのが、咎めの調子と羞恥の調子の重奏だったから、
「その才能は大事にしておくべきだ。どんなときでも食べられるのは生きる力を生み出すことに秀でているということだからね」
青年は優しく見下ろして囁いた。率直な青年の声に皮肉な色は介在していなかった。
隣人の不幸を尻目に幸福になるのは残酷な人間と言っておきながら、遠くの戦争より近くの飯が大事な桜は矛盾しているだろうかの問いはあるが、しかし、彼女は自己の矛盾を理解している。それは厭世的な諦めを通り越した、強く生きるための気概である。世界の残酷性に対抗しうるものがあるとすれば、それは自己に内包した残酷性でしかない。生きることは戦うこと。高咲桜は生きるために強い自己愛を得た、他者に注ぐことを前提とした。
強い自己愛を持つ桜が、青年には羨ましく思えた。
現在、父の死を越えきれぬ一面を持ってはいるが、父の生前は自立的な強い人間であった。父とふたりで暮らし、父を愛してはいたが依存していたわけではない。
青年がこの姉を受け入れたのは、青年が彼女の凛とした性質と内部にわだかまる弱くて柔軟でときに鋭く黒い熱を嗅ぎとったからだった。
「私はまだお父さんが死んだなんて信じられない。まだどこかで生きているような気がする。人が死ぬことを他界というけれど、本当にそんな感じなんだ。別の世界に行ってしまったようで、見えないだけでどこかにいるみたいなんだ。亡くなるのとは違う。亡くなるというのは人がいなくなって、存在が根本から消えてしまうような気がするんだ。でも他界は、他の世界へ行ってしまっただけで、その人は別の世界で暮らし続ける。別のどこかへ行ってしまっただけだと思えるんだ。……遠い場所ではないかもしれない! もしかしたら私達と同じ場所にいるのかもしれない。私たちがいる世界の、裏側のようなところ。でもちゃんそこにいる。私たちが知らなくて気がつかないだけでそこにはいる。まだそんな感覚なんだ。死んだなんてとても信じられないんだ……」
なるほどと聞いて思い出すのは、さくら、さくら、いつまでまっても来ぬ人と死んだ人とは同じこと。なら、死んだ人は、どこかにいていつまでたっても来ぬ人と同じだな、くらいのもので。
彼の表情は変わらなかった。だがしなければならないことのいくつかは理解していた。
「まだお父さんの死は受け入れられないよね。そんなの当然のことだよ。ただ、君のお父さんの肉体は滅びたかもしれないが、君のお父さんの存在は確実に生きている。なぜなら、今でも君を泣かせ、思い悩ませ、不安にさせ、悲しませ、君をここまで運ぶ原因となっている。人間は人という生き物同士が影響し合って人間になるんだ。君の父は今でも君に影響を与え、僕や家族、又その他の様々な人にも影響を与えている。そしてこの影響はこれから永遠に連鎖を起こし、現実の様々な場所に関わっていくんだ。その影響力は肉体を持つ者となんら変わらないんだよ。そして、主に君の脳内と現実世界で、君の父さんも変化していくんだよ。まるで肉体を持つ人間のようにね。君も君の父さんに影響を与えることができるんだよ。
すべての人間の記憶……脳神経から消え去って、第二の死を迎えても、まだ現実に影響を与えていることなんて多々あるだろうさ。それに、何かの理由で誰かが君の父を知れば、また君の父は誰かに影響を与える。人は、第二の死を迎えてさえも、いつでも復活の時を待っているんだよ」
「肉体はないけど、存在はしているの?」
「そうだよ。君はサンタクロースを信じる?」
「いきなりなんだ。サンタは、いるって思いたい……」
「いいね、僕と似たような答えだ。サンタはいるかいないか、誰でも一度は考えたことがあると思う。そして成長するにつれていないと思う派が多くなるだろう。
これは僕の考えだが、サンタがいないと思う理由は、見た人がいないから、聖ニコラスという過去の人物だから、プレゼントを置いているのは親だから、など大抵こんなところだ。
反対に、いる理由を考えると、過去にいたから、プレゼントを置く親がサンタそのものである、だとか、親にプレゼントを置かせるという行動をとらせるミーム(模倣子)自体がサンタであるということ。このミームというものは、実体はないけど存在はしているんだ。概念とも言える。常識、文化、共通概念などを言う。人から人へ肉体の形質を伝えるのがジーン(遺伝子)なら、ミームは人から人へ伝わる情報、風習、文化、文明、常識、などを言う。例えば日本人が挨拶のときお辞儀するのもミームだし、年越しそばを食べたりするのもミームだ。それからもうひとつの理由は、サンタという概念を知った瞬間にサンタはその人物の脳神経の中に存在している。など、いないとする理由も、いるとする理由も似ていて、共通する部分さえある。
だから、僕にはサンタがいることもいないことも証明できない。だから僕の結論は、いるかいないかわからないけどいると思った方が楽しい、ということ。これは僕の考えだから、異論を唱えるのは自由だ。
いないかもしれないけど、いると思って楽しんだ方が楽しいから、嬉しいから、なんだか安心するから、大切だと思うから、人はサンタクロースを忘れない。サンタクロースには肉体はないかもしれない。でも、肉体を持つ僕なんかよりも、それはもう圧倒的に巨大な影響力を持っている。おそらくいま世界中でアンケートを取ったら、この国の一番偉い人より、サンタクロースの知名度の方が高いだろう。知名度だけじゃない。サンタが影響して生み出した富、幸福、様々な面でサンタクロースの方が上だろう。肉体はないのに。これってサンタは肉体を持っている人間よりも存在感があるってことになるよね。それでも、サンタクロースが存在しないってのは、ちょっと無理があるようにさえ思える。だから存在というのは、肉体のあるなしはあまり関係ないんじゃないかな。そもそも人間は情報を受けて情報を発信する媒介に過ぎないと思うし。肉体を持っていようがなかろうが、ミームのひとつであることはできると思う。だから安心して。君のお父さんの存在は消えていない。むしろ、消したくても消えない。人の歴史がある限りね」
「……驚いた。そんなこと考えたこともなかった。なんだか、私の世界が変わった気がするよ。ありがとう。正樹はすごいな」
「それならよかった。
お父さんの荷物や写真がどこかにあるかな。この家に持ってきていないなら持ってくるといい。大事にするんだ」
(桜は、父の死によって父を深く知ることになるだろう)
「うん、そうする」
青年はグラスの残りをあおった。
「あっ」
桜が小さく叫ぶも、青年が手を引いたものだから、息をとめた。
「……さぁ、君は、少し飲みすぎたみたいだ。晩酌はここらへんでお開きにして眠りにつこう」
「あ……」
「一人じゃ眠れないなんてことは」
「…………」
「無理か……誰かにいてほしいよね」
「……うん、ごめん。慣れるまで……今日だけ」
桜の部屋は極めて西洋的な精神の家具の配置であった。机が部屋の中心にあり、椅子は机より壁側に位置している。桜は部屋の中心に臍を向けて机に向かうのである。
部屋の配置と主の性格に多少の因果関係は見いだせるであろう、青年は桜が精神的に独立的であることを、もしくは独立的になろうとしていることを知った。
同じ寝具に横たわり、同じ毛布を被り、同じ空気を共有するふたりはぼそぼそと話す。
「どんな悲しみも時間が風化してくれる。桜のために泣くことはできないが、一緒にいることは出来る。出来ることは限られているが、頼ってくれたらいい」
「……うん……うん」
「家には、早く慣れるといいね」
青年は微笑んだ。
「慣れるだろうか……私、人と付き合うのが、あまり得意じゃないんだ。ずっとお父さんについて世界を転々としていたから、友達はあまりいない。同世代の女の子がどんな話をするのかなんてよくわからない。ずっとふたりだったから。…………お父さんは……私の……半身だったんだ。だから……ふつうの家族がどんな風に生活するのかよくわからないし、母親や兄弟の有り方もよくわからない。私たちは独りぼっちで、無知だったから」
そう言って、桜は涙を零した。悲しみを絞り出すように、青年の腕にしがみ付きながら涙を溢したのだ。彼女は青年に対しては心を開いていたが、その理由は青年にはわかりかねた。
「孤立は必ずしも悪いことじゃないと思う」
「そう言ってくれると気が楽だ、けど……ダメなんだ、お父さんは私に、ひとりでも生きていけるように強くなれって言っていた。それって、お父さんはひとりが辛いことだって示していたようにも思えたんだけど」
「そうかもね。寂しかったりするかもしれないという代償はあるのだろうけど、代わりにいくらか人より多く自由を得られるかもしれない。これは魅力的ではある」
「お父さんは私をあまり叱ったりしない人だったからそういう意味でも私は自由だったかもしれない。躾けられないかわりに、自分のことは自分で考えて、自分で自分を教育するという道を与えられていたから。お父さんは、私をひとりの人間として尊敬し、愛してくれた。思い出すとダメだ……ああ……」
自分では気付いているのだろうか、躾とは字の通り、身を美しくすることである。とすると彼女は十分に躾けられている。この姉は自分で自分を躾けたのだろう。そんな彼女の自制心すら機能しなくなっている、人の心を削りとる大きな悲しみを前にして、彼女は未だ繊細に過ぎた。彼女は誰かにすがらなければ崩れてしまうだろう、と青年は確信していた。
「私のなかで未だ父さんの死が信じられない」
彼女はいずれ語るだろう。父の死、あれほど悲しかったことは他にはないと。
「死んでしまうなんていや。認めたくない。でも、忘れることもできない。嫌なんだ。忘れることのできる薄情な人間になるのも、ずっとこのまま辛いのも、嫌……嫌だ……」そして「このまま生きていても、何もない……誠実に生きても、頑張って生きても、死んでしまえば意味がない。お父さんが死んでそのことに気づいてしまった。さっき正樹が言ってくれたようなこと、まだ思えない……」と漏らした。
この吐露に対して青年の答は完結を窮めて「まだ思えなくていいんだよ。それから……死んでも良いんだ」といって、続けざま「生きなきゃいけない、人は自ら死を選んではいけない、選ぶべきではない、選ぶ権利すらない、と定めてしまっているのは、社会的な共同幻想に過ぎない。命を粗末にしてはならない、何故なら生きたくても死んでしまう人に対して失礼だからだ、という人もいるけれど、自ら死を選ぶ人間からすると、他人のために生きているわけではないから知ったことではない。そう言ってしまえばそれまでなんだ。社会的には許容できなくてもね。
自ら死を選ぶ人間は周りの人たちのことを考えていない自己中心的な人間だと言われることがあるけれど、それは大きな間違いで、自殺するような精神状態の人間は、思考力・自制心が機能不全に陥り、視野狭窄のまま暴走し、他人のことなど考えられなくなっている。それほど追い詰められているということだ。だから、僕は君が自殺したいのであれば止めない。君の意思を尊重しよう」とつらつら述べるも本心としては、姉の女体が肉と化したその後にじっくり眺めてさらに犯して食べて楽しみたいものだ、と夢想していたからだった。しかしそのような青年の企みなど感づきもせぬこの娘は、地獄にて天使に遭遇したような心境に達し安堵していた。
「そうか……いつでも死ねるんだ。そう思うと安心するな。
不思議なことだ。死んでも良いんだって思ったら、少し楽になった」
青年は、ふふ、と笑い。
「死にたくなったら、いつでもいい、早めに、遠慮しないで言うんだ」
「……えっ」
「優しくしてあげるから」
肉を切り裂かれた桜の姿を想像すると呆けたように青年は言ったが、ひとりごとなのか姉の言い分に返答したのかの判断は微妙な所だった。
ごまかすように優しい声で話していた。
「あのね、面白い話があるんだ。脳には嫌なことは忘れる機能があって、そのおかげで人は世界認識を自分にとって都合の良いものに変えることがある。事実と異なるとらえ方をしたり、記憶をかえたりして。認識したことを脳内で改変することによって。これは、まさかとは思うかもしれないけれど人ならついやってしまうことらしいんだ。世界は自分の心が写し出す心象風景。絵だって同じ。なぜそんなことを人間がするのかというと、精神のバランスを保つためだったりするからなんだ。だから忘れるという行為も、時には肯定的にとらえられても良いんだ。そうしないと人は心を保てないこともある。ああ……今の君に言っても混乱させてしまうだけかもしれないね。ごめん、くだらない話だったかな」
「いいや、興味深いよ。心の健全を保つために脳が自分を騙すこともあるって?」
「ああ、視覚と記憶の関係って融通のきくものなんだ。視覚には時間の概念がないから切り取られた時間があっても脳は気が付かないことがある。人間にとって見る世界というのはコマ送りのパラパラ漫画のようなもので、そこに新しいカットを入れる作業は日常的に行われていることなんだ。全て都合の良いように脳は仕事してくれるわけじゃないけれどね。良い思い出だけ詰め込まれた脳なら自分がほしいくらいだからね」
と言いながら、とあることを考えていた、自分なら、こんなに彼女のように感情的に他人に向かって己の内面を吐露することはないだろうと。誰かに言ってどうにかなる問題ならまず悩むことはなく、人に言ってどうにもならない問題なら悩むことすら出来ぬのであろう。答えは強制的に決定される。青年には桜の行為は無意味と思われた。
「お父さんのことは忘れたくない。でもいつか悲しみは忘れられるのか? ……今は忘れられそうにないけど」
「こういってはなんだけど……悲しみもまた人にとっては大切なものなんだ。悲しみを知る心を持つ人は人にやさしくできる。君が悲しんだり笑ったり怒ったり喜んだりできるのは、心があって、生きているからなんだ。悲しむことができる心があることに感謝しなきゃいけない。人の心を持って、時々自分なりの幸福というか、喜びを味わったりして、また辛いことも覚えておくんだ。でも桜、僕は君に人生を幸せかそうでないかなんかで決めて欲しくはない。君が幸福になるのは歓迎するけれど、君が君を不幸だと思っていたとしても自分の人生がダメだなんて思わないでほしい。楽しいにこしたことはないが、人生はそんな価値基準では計れないほど複雑で壮大で尊いものなんだから」
(単純でしょうもないかもしれないけど)
「まだ、そこまでは思えない。思えそうにないよ……」
「いいんだ、いまはそれで。ここにいて皆と過ごせば、いずれ癒える」
「うん、いつか……いつになるのかわからないけど」
「いつかね……きっと。君よりも年下の僕が言うのは説得力などないかもしれないけどね」
桜のなかでわだかまった黒い熱が霧散して冷却されたのを青年は悟った。彼の笑みは、渡り鳥を飲み込む、海面に浮かぶ黒い重油のように桜の心を浸した。
「……ごめんね。色んなことを話して、混乱するよね」と言い、青年は黙った。
「いや、いいの」
はじめから、ふたりが心を通わすために多くの言葉はいらなかった。だから彼は何も言わずに、泣いている桜の頭を撫でた。
この少女はパトスに生きる美しい人であった。青年はこの姉の外見を気に入り、性質も面白い、と少し思った。
ここで桜は、これから多々語ることになる彼女なりの思想の断片を語った。
「今は悲しいかもしれないけど、本当に愛しているなら、会わなくても強くいられる。死人も、遠くに行って連絡がつかない人も同じだと、そう思えるくらいに……私は強くなりたい」
桜は泣き出した。そうだね、とだけ優さのようなものを込めて青年は言った。青年にはもう人を相手に話してるといった感覚はなかった。
「ごめんね……優しい人に、嘆き散らしたかったんだ」
この日、弟となった青年は、新しい姉が寝るまで見守り続けた。それは分析のように体温のかけた所業であったにも関わらず、たいそう姉を安心させた。波の感じられない泥沼のような青年の心が心地よかったのか、どうか。
…………霞の立つような静けさに姉の寝息が紛れて久しい、青年は妹のように横たわるこの姉が寝静まるのを待ちながら、任務を終えたら、さて、自分も日課を果たすべく眠りについて、と段取りしたが、
――――おや、寝てしまうの。
声が。
――――これからだと言うのに。
するのだ。
――――もったいない。
どこからともなく、中空を伝うというより、脳髄へ直に戯れているのか、距離方向ともに感覚が掴めぬ。四方八方、声が鳴るのはどこからか、青年には分かりかねる、がしかし、ひやり、と首筋から頬にかけて冷たいのが触れた。それも人の指先の感触で。
つい、と縁側で飲み干した泡盛が効いたのではない、心地よく浮かれた酒の酔いではなく、胸が悪いというより総身そのものに枷をはめられているようでただただ、ただただ重く。疲れているのか眠気か、脳に紗幕を張られているようで、鈍重で自在に動かぬ、目が霞む、耳が上手く聞こえぬ、呂律が回らぬ。
…………気が付けば廊の只中に佇立していた自分を見出すばかりで、姉を寝かしつけてこれから自分も寝ようかと決めていたさっきまでの自分の姿はもしや、幻であったのかどうか、それよりもこの状態が嘘で夢で幻か。
廊と綴ったが暗闇で、見ただけでは、青年にはここが現に自分の住まいの内なのかは断じることはできないのだが、それもそのはず、月が隠れてしまうなら、光の射さぬ暗闇なぞは、洞窟だろうと原野だろうと家屋だろうと母胎だろうと、同じ黒の空間に打ちやられたことに変わりはない。
ただ、鼻孔に霞む匂いが、夜闇の静寂を、ギシリ、と鳴る床の軋みが、足裏の木の柔らかく冷ややかな質が、ここが住み続けた我が家の内部なのだと知らせてくれる。
「はい、こっちこっち――――」
薄く透かしてぼやけたのが、婀娜に袖振り手招いて、手招いたのに遠ざかるのが、厭らしいというか曲者というか。口元は紅で艶冶なつくりなのに消え去るような薄さの白い影が浮いて、千鳥足の青年を導いて、奈落に引き摺り込むのか、そうではない……前触れなしに、ハッ、と消えた、風に撫でつけられた煙かという早さで。
そして不図、見上げる。
無意識で庭に下ろされた揚句、裸足でつんと顎だけ反らして上向く、すると絵のように漂う月が視界の全容を埋めていたのが、現実感がなくふざけている。隕石孔は見れば見るほどに痘痕の顔か腐れた果実か蝟集した虫に見えて仕方なく、
「でも、あれは……兎ではない……どうしても兎には見えない……僕には、月が兎に、見えたことがない。なんでなんだ……混乱するじゃないか……ああ、また変わる……次は……ああっ……」
月面の模様が痘痕を餌にされ虫にかみ殺されたような人の死に顔に変わる。月に浮かぶは兎ではなく、人の顔――柘榴を割って、表裏を逆さにかえして、実をあらわにして、拉げさせたような、人の。
柘榴の果実の如し紋様の一々が細かに揺らいだかと思えば、またも、群生し蝟集した虫の姿へと変遷する。地球上で最も個体数の多い甲虫であった。
「ああ……そうだ……」
霞み声で虚ろに。
「生まれ変われたら、あの虫がいい……」
視線は月面を漂うばかりで。
「同種内で食い違い続ける人々よりも、どんなに増え続けても上手くやっている君たちのほうが利口だ……仲間想いの、優しい種だ。僕には君たちがそう見える。僕には君たちが、とても美しく見える」
神代の頃、人の敵は疫病や災害や獣のような外敵であった。しかし規格外の大災害を除いてそれらの殆どを文明の利器によって圧殺せしめた現代におき表面化した人類の敵は、人の内部を起源に生まれたものだ。確かに、太古から人は同種内での争いを続けてきた。だが災害の脅威が太古よりも少なくなった分、別の脅威が深刻さを増している。人は人を見すぎている、と彼は思うのである。
「ああ、ああ、ああ、はやく孤島に住まなきゃ……」
虚空に喘いだ。彼はしっかりと虚空をとらえ、【それ】を見つめていた。ある時から感じ続けてきた、それは、巨大で極彩色で四次元に伸び続け、どこにでもないようでどこにでもあるものだった。それを見るたびに、青年は嘔吐感を催した。
「孤島に住んで人間をやめるか、このまま巨大なあいつに浸食されて自己を失うか……たぶん、それでもいいんだ……僕は……自覚もなしに、困ることさえできないのかもしれない……なのに、なぜだ……恐怖を感じているのは……なんなんだ……この吐き気は…………」
足元の側から、カサリ、と耳に障ったのがあった。見ると、幽かに明滅を繰り返しながらも素早く蠢く小さな虫である。硬い羽に月を映して光線を跳ねかえらせている、蜚蠊であった。
この種は凡そ三億年もの太古から地上に棲み、その生命力の高さから尚繁栄し続けているが、新参者の人類からは決定的に忌み嫌うべき害虫として扱われ、殺害の対象となる運命にある。
青年にとってこの扁平の虫は痛ましかった。たまらなくかわいそうで、自分とよく似ているから、見ると辛くなる。
近くの石を拾って、高速で動く体に落として、その上から踏んで潰した。自分が主人公ならば、ハツカネズミの辿る運命を知った瞬間にそのハツカネズミを殺すだろうと決めていた。
物心ついてからずっと罰を与えて欲しいと思っていたが、どこにもなかったようである。そしてそれが気休めであるのみで、無意味であるとも知っている。罪深いこの身は、生きる資格がないと思いながらも。
「どこを見ているんだい、こっちだって、さっきから言っているじゃないか――――」
手が引かれるのか、声に惹かれるというのか、足元が定まらぬまま春泥を踏みならしているような心許無さを覚えながらも危機感は遠く、心地よささえ覚えて、導かれるままに深い闇へと誘われる。そこが幼少から遊びなれた森だというのに心踊らないのは怖気の淵に落ちたからか、それすらも感じぬほどに麻痺しているからかどうか。
しかし、あばらが、じくりと痛む。痛みを抱えて青年は濃紺の帳の降りた森へと進み入る。水飴のようにねっとりと身を包んで心地よい影は羊水か。葉末に通う囁きは子守唄か。この森は母胎であった。それも死んでいるのではない、息吹いて、瑞々しく青年を包む。
女の声に誘われてここまで来た青年であったがいつのまにか女の姿は消え去って、後には青年の急いた息遣いだけが木魂する森となっていた。何処で拾っていたのか本人も気づかぬうちに両の手で丸太の如き樹木の枝を硬く握りしめていたこの青年は、敵陣に乗り込んだ武将のように取り囲む森の木を相手に見立ててばらばらと打っていた。内部から噴出する感情の爆発を青年は老廃物のように吐きだし、その度に枝で木々を乱れ打つが発露した感情は火山の如くで、せき止めようにも湧き出して、湧き出して仕方ない。あらゆる思考を振り切って心の赴くままにふるまうことは快楽に直結するための奇行であったが、これが社会的な動物としての人間世界でのことならば、誰にだって咎められるだろう。しかしてそれをわかっていない青年ではなく、この青年はいつも己の真相を隠遁して生活し、日々暴力の火種を内に保全してぢりぢりと燃やし続けていた。それがある種の覚醒によって爆発したと言えよう。
思考は楽なはず。胸は熱い。なのに、どこか心は重い薙刀を振るう兵のように大ぶりにばちばちとやっていた青年だったが、重い心のせいあってか頭の隅ではどこか冷静だった。
だから、木の根に片足をつっかけたとき、おや、と気づいた。が、遅かった、ぐしゃりと音がして、手をつく暇もなく顔から地へおちたのだと青年は自らを見出した、そのいたたまれなさたるや。先刻までのように酔いに引き摺られ麻痺していたならよかったのだろう、自らの身体の感覚を鋭敏にとらえられるようになったのだから、キリリと軋るあばらの痛みも、地に打ちつけた頬の痛みも、目の渋みも、酩酊による胸のむかつきも十全に、神経に届くのだから恐ろしい。痛みと気持ち悪さに耐えかねて、逃避するごとくに青年は大地へ嘔吐した。粘性の高い吐瀉物であった。
地面に崩れた身を立て直そうと、よじ登るように近くの木の幹に手をかけて立った。胃の内容物を吐きだしたばかりで息を整えたくそのままにしていると、明らかに、そう、明らかに、誰かが肩に手を置いた。
慈しむようではなく、それは揶揄するような触れかたであった。害する獲物を見つけた者が、宣戦布告のために相手の頬をあえて優しく撫でるような。
青年は危機感を覚え、体制を固める。
「なに、お前さん、すじばって、あたしたちは、そんな仲じゃ、ないだろうに――――」
幹に額をこすりつけるようにやっとのことで立ったが、足が棒になる葉のついた枝になる、風にさらわれる如く不甲斐無く、寄りかかりながら肩で息をする。
生唾、飲み込んでみたが更に込上げるものがあった、青年は口の端から粘性の極めて低いさらさらの唾液を零した。高い熱に溶け切った蝋のような純正の体液が大地に混ざる。
疲労が蓄積していた。
「精神を落ち着かせたいんだ。どこかへ消えろ」
焦燥が怒気に、怒気が殺気に、殺気が冷気に。
「失せろ」
七大天使のひとりであるカマエルを殺害したモーセに劣らぬ激怒のしようだったが、頭はひどく冷静だった。
体は熱いが額から垂れる脂汗が妙に冷えて、青年はその冷たさを酷く鋭敏に知覚した。この冷たい汗は青年の根底に流れる凍った血の原液のようだった。冷静さを取り戻してよく考えた。
見えているものを全てとするなら、主観的に観測しうる現象が現実である。しかしこの場合はどうだろう、このようなことは現実的と言えるのか。振り払った手がふわり――女の体をすり抜けたとあっては。
(なんだって?)
歓迎できる状況ではないようだ。
「嗚呼、それにしても、顔色が悪い。顔色が悪いというより、悪い顔だ。今にでも人を殺しそうな――いや、今し方誰かを殺してきた、そんな顔……」
目前の奇怪な現象に目が眩んだ。
黒髪をたらりと垂らした美しいのが、緋縮緬の裾を口元でゆらゆら。和装の美人が深林幽暗の地に出現することが、それでもう随分な招かれざるべきことであるのに、女が大地に足を付けず、宙にその身を漂わせているのだから、ここは魔境か地獄か、どちらにしても異界であろう。
(何だ……これは)
大地の恩恵をあえて受けぬこの女は、死者の国からの遣いのように、生気のない笑みで唇を釣り上げた。
危機的状況にはかえって氷のように冷静になる彼はこの不可思議な状況を推察する。
(何が起こっている?)
果たして、己の身に何が起こっているのか。
危機的状況だろう、と彼は肌で感じとる。外界のおかしな現象、このあるべきではない認識は、患いついた己と世界の不一致による一種の病か。脳髄が症状の解析に没頭する。学びとして集積し続けた情報の点と点が結びつき、線となり円となりひとつの仮説として結実を迎えた。
網膜から脳へ伝達した光情報を処理し、視覚を生じさせる感覚器官が眼である、が、映像を生成する過程においてノイズが混じれば、外界から入手した光情報とは異なる像が脳裏に結ばれる。この誤った認識によって視覚に存在しないものが混ざることを幻視(visual hallucination)といい、錯覚の一種である。アルコールによる意識障害や神経変性疾患または脳幹病変、さらには極めて稀ではあるが統合失調症を患っていれば幻視が起こることがある。
このように存在しないものを知覚してしまう症状を幻覚(hallucination)とし、幻視以外にも、
幻聴(auditory hallucination)
幻嗅(olfactory hallucination)
幻味(gustatory hallucination)
体感幻覚(cenesthopathy)
などがあり、全て感覚情報の誤認である。
浮遊した紫煙の如き、模糊とした存在である目前の異常現象は、ゆらめいて確固とした形を持つものではないように思えども、やはり手がある足がある、目も、紅い唇も、全てがあって、全てが、人の、人のそれ。
(神経がおかしくなっているのか)
「おやおや、なにをおどろいているんだい」
(こいつは夢によく出てきた女じゃないか。俺を牢獄にぶちこんで痛めつけるやつだ。夢でいつも俺を惑わしていた)
「驚くのは無理もないが、お前はいつまでも慣れないな」
(夢と現実が混濁しているのか。こいつがこっちでも見えるようになるとは)
幻覚か霊魂かの題目はついてまわることだったが、いまは考えても憶測にとどまるばかりであろう、女の正体を考えるのは後で良い、青年は冷たい口を開いて女に話しかけてみた。
「……お前は、何だ? 霊か? 俺の狂った頭が見せる幻影か? それとも生身の女なのか? どれにしろ、まともな状態ではないようだ。霊だとしたら世界の物理が引っくり返る。幻覚ならば俺の脳と精神が厄介なことになっているはずだ。生身の女ならばそれはそれで大変だ。こんな夜の山奥にお出ましなんて」
返答は鷹揚な調子で行われた。
「さあね……それは自分で調べなさい。自分の判断を信じられるほどお前が己の正常さを信用できるのなら。私が幻覚ならば、過去と未来の現象の様々なものが信用に値しなくなってしまう。それは人間にとって怖いことさ。お前はそれに耐えられるだろうか。全てが嘘になるとして、そう疑わざるを得なくなったとして、お前はそれでも現実に価値を置くことが出来るのだろうか」
「そう言って俺をいつものように惑わすつもりだろうがそうはいかない。……とにかく、最近の幻覚症状はお前の仕業だったってことだろう」
「どうだろうね。その眼が見ているものは何が因で起こっているのか、考えたってお前にはわかりはしないことだ。それよりその痴態といったら……。嗚呼、可笑しい。原始的な武器なんか振り回してね。進歩しないねえ」
「進歩なんかするわけないだろう」
「はぁ」
「知識を増やすだけだ。紙に文字を書き込むように。俺たちはそれを成長と勘違いしているが、本質的には何も変わりはしない。人はいつになっても失敗する。同じことばかり繰り返す」
女は、くすりと漏らした。青年の発言を稚気による戯言ととったような嘲弄が、口の端に目の端に声の端に含まれる。
「気に食わない。その薄ら寒い笑いを、消してやろうか」
と青年は射るような眼光で着物の妖女を見つめた。
緋色の着物で、黒髪で、宙に浮いて、女。妖怪か鬼かとするほうが正常な判断であろうが、しかし青年は女の正体をもう意に介しなかった。考えつづけていたのはこの女を一網打尽にすることと、このようなことをするその理由。己の幻覚であるならば、女との対話によって、幻覚として女が現出する理由――己の精神的・神経的な病の根源を知りたかった。
いつも見ている不思議な夢…………あの不思議な、茫洋とした黒い建物の内部で催される殺人の饗宴を青年は思い返していた。
「これが夢にしろ現実にしろ、普通ではお目にかかれないことだ。物心ついたときから……そうだ夢の中とは言え、十年以上もお前の言いなりになって苦しめられてきたんだ。こっち側に出てきたって、もはや驚きはしない。お前の考えていることも、長年の経験でなんとなくわかってきたよ。何も考えずにお前にやられ放題だったわけではない」
「そうか、私がお前に何かを望んでいるというのか。お前の考えとやら、お聞かせ願おうか」
青年の表情、声がまるで別人のものに変わった。不気味だった。柔和に笑んだ時の青年の顔は女か蛇のように見える。
「たいしたことではないよ。君はただ昔の恋敵だった私の母を殺すために私を殺人鬼に仕立て上げたいだけなのだろう。性衝動と殺人衝動を結びつけさせ、あらゆる酷な経験によって発狂させ、いつか私が母を殺すことを願っている。なぜそんなことをするのか、なぜ自分の手で殺さずに私の手によって殺させるのか、答えは簡単だ。愛する者に殺される苦痛は、他人に殺される苦痛よりも深いからだ」
「見事な推理だが、憶測の域を出てはいない。何事も証拠がなくてはね」
「白々しいね。今にわかる。教育か催眠術か何かは知らないが、私の精神は君のせいでもう人としての正常な形を上手く保っていられなくなった。長い間蓄積し続けた衝動を抑えることは難しくなっている。自分がよくわからない。近ごろ酷く感覚が曖昧なんだ。ただ君は大変なミスを犯しているようだ」
「私が? そうは思えんがね」
「君は私の性的欲求と殺人衝動をつなげるように仕組んだ。良い作戦だ。人殺しの連中のなかには性的欲求と殺人衝動が直結する者がいる。君はどういうことかそれをよく知っていたようだ。しかし、私は違った。私は女を殺すことを夢想しながら自慰に耽るわけでもない。良い女を見つけても遊んで殺したいなんて思わない。私が人を殺したくなる時の動機はなんのことではない。単なる殺意だった。あっけないものだ。誰だって人を殺してやりたいと思ったことはあるが、それを実行に移すかうつさないかが、大きな違いでもあり、それが決定的な違いでもあるんだ。私はまだこちらでは誰も殺してはいないが、これからどうなってしまうかはわからない。さっきも言ったが、衝動を抑えるのが難しくなっている。この国の法律のおかげで抑制されているのかもしれないが、時代や国が違えば私はすでに人を殺しているだろう。もうすぐなのかもしれない。そして私は殺すこと自体をなんとも思っていない。寧ろ人間を更生し、救済できる喜びを確信している」と貫き通して。
「父親が帰ってきたら、殺してやることも出来る。君のためにね」
女の眉が逆立つ。女の表情の変わりようから、女のうろたえを見た青年は鰐のように口角を釣り上げた。彼は善意に満ちていた。
「思い煩いの種がいなくなれば、君の心も休まるだろう」
震える女になおも続ける。
「本当は、こんなことはしたくない。私は事なかれ主義で、平和主義なんだ。ただ安寧の日々を暮したいだけなのに、時に事象は大きな流れとなって予告なしに押し寄せる。今のように。だから私もね、この流れを受け流したり、対抗したり、流れに乗ったりして、動かなきゃいけない。攻撃されたら自己保全のために仕返しをするかもしれないし、逃げることもするかもしれない。そうしなければ奪われて破滅するばかりだろう。私だって生きていくために誰かを憎まなくてもすむような所へ行きたいし、たくさんの美しいものをみたい」
「……怪物を相手にするときは自分が怪物にならないように気を付けなくてならない。暗闇を見詰める時また暗闇もおまえを見詰めている。知っている言葉だろう。忘れたか。私に挑むなら私は容赦なくお前を飲み込んでやるぞ」
「おそらく脅されているのだろうけどなぜ私がそのようなことを言われているのかわからない。すまない。
ただ君の話に馬鹿正直に答えると、暗闇を歩いてきた結果が今の私なんだ。怪物に取って食われることを恐れてはいない。恐ろしいことはもっと他にあるんだ。君の正体がどれほど恐ろしいものはかわからない。でもあまりそこを気にしても私にはどうしようもない」
「そんなことを言って、恐ろしいことになっても知らないぞ」
「申し訳ないが……君の言っていることがよくわからない……すまない。私はぼんやりと、君は私のことが嫌いなのだと思っていたが……よくわからなくなってきたし、君が私にどうしてほしいのかがまずわからない。意図がまったく汲取れない。君は私を錯乱させようとしているのか? そ、それならすまなかった……君の意図を理解していなかった……私は君の気を煩わせたくないし、君が私に対してもし悪意があるなら、こちらとしても対処をしたいと思う。情報を集めなければ」
「生身の人間の分際で何が出来るというのだ」
「考えてみるしかないよ。まずは情報を集めて整理しよう。昔からどんなことでも知識を得ることは好きだったんだ」
「勉強熱心で感心だ。しかしそれで私をどうこうできるとは思わんが」
「たぶんどうにもできないし、たいしたことは知れないと思う。ただ興味があるから、考えたいんだ。知ることや考えることは楽しいものなんだ。物事を知れば知るほど嫌なものが見えてうんざりすることもあるけど。
自分のことだってそう。自分のことを知ることはときに落胆させられる。君は人間ではないようだからそこを分かってくれるかどうか分からないけれど。
しかし嫌なことばかりでもない。単純に知識を得るという行為は気持ちの良いものだよ。知識を得るという快感があるのは人間だけだと過去の偉人も言っていたくらいでね。情報を得るのは金銭を得る喜びに似ている。でも、お金よりも良いものだ。忘れない限りいくら使っても減ることはないんだ。貯めれば貯めるだけ得なんだ。知識があれば今君が私にしているように、人を操ることだってね……ああ」
と呻くように呟いて、青年は話題を変えた。反射的に眉を顰め、何かをひらめいたように、逸らしていた面を女に向けて、言った。
「例えば……ああ、そう、前から気になっていたのだが君、言葉の抑揚というか、話し方がぎこちないが、なぜなんだ。日本語に……いや、現代の言葉に慣れていないような感じを受ける。それに君の出で立ちは生娘のようだ。着物の種類や立ち振舞いかたなどを鑑みて、平安か、それ以前の人のように見える」
女の柳眉に亀裂が走った。
「……そ、そんなことまで、わかるというのか」
青年が笑みをもって出迎えたのは、女の敗北であった。
「はは、ノリがいいね。君が冗談を言えるとは思わなかったよ」
「……な、なんだと? 何を言っている?」
「え……? まさか、本当だったのかい? すまなかった、冗談のつもりだったのだが、本気にしてしまったのかい。私は適当に君に対する印象をでっち上げたていただけなんだ。本当にそうだったのかい。すまない。でも私も少しいじわるだったよ。
知識の話をしたのは私の嘘を信じさせるため。君の言葉のイントネーションがどうかなんて私にはわからない。着物や昔の言葉の知識もないんだ。見た目だけで君が生娘かそうでないかなんて分かるわけがないし。私は漫画の登場人物ではないから、そんな特殊技能はない。これはとんだ収穫だったよ。君は、何かに焦ってしまったんだ。準備が足りなかったと言えるかもしれない。万に一つのミスだったのかもしれない。これで私が君をどうこうできるようになったわけではないだろうが、いろいろと考える楽しみが増えたよ。ありがとう。人を動かしたいならそれなりの考えが必要だ。今の私は幸運にも、偶然が見方をしてくれたらしいが」
「な……な、な……」
女の青白い顔が更に青さを増してゆく。
「君の素性は君の反応からなんとなく推測できそうだ。普通の幽霊にここまで出来るとは思い難い。ならば霊能者か。図星って顔を見せてくれたね。その方向で考えを進めていくとして、ならばなぜそのような者が私にこのようなことをするのか。私以外の誰かに見えているとは思い難い。さっきも言ったとおりに君は私を使って母を殺してほしいのだろう。今のところ、自分では手出しはできないように見える」
「ああ……正直に言おう。私はお前に母を殺させたい。誰も殺さずに生を終えるなんて、つまらないさ」
「倫理的には、賛同しかねる」
「…………。お前は頭が良いが、人間のことをわかってはいない。自分のことも、自分の生き方さえも」
「それはそうさ。僕たちはある意味、戦う理由を知らされないまま戦場に送られる新兵と同じだと思うよ。恐ろしいことに我々のほとんどはそんな自分たちの状況に、疑問のひとつすら持っていないんだ。でもそれが普通じゃないかな」
「それだけはわかっていても、しかし自分が母を殺さないと思っている。これが落とし穴だとは思わないか」
「そこまで言ってくれる意図がわからないな。計画を遂行したいのなら僕には内緒にしておいたほうがいいことじゃないのか……まぁ、忠告ありがとう……心の片隅に止めておこう。ただ、君の願いは成就出来そうにない。もしも人を殺してしまっても、母だけは殺さない」
「さぁ、どうだか。愛憎は紙一重。お前のその言葉は残念だが、お前がだめなら他に聞いてみるまでだ」
「他……?」
「そう、あの子。自分がどう人に映っているかよく知っていて。あなたよりも上手なあの子」
「誰のことを言っている」
「ふふふ、同じ屋根の下で同じ苦しみを味わっている者がいるのに、お前はそれに気が付かない」
「……はぐらかさずに言ってみろ。誰のことだ」
「どれだけ説明してもわからんさ。種の無いところにいくら水をやったって芽は出ないということくらいわかるだろう、青年――――」
突如として酩酊に襲われた青年、謎の言葉の解答を手繰り寄せようとするも、肉体が拒否しているかのように、記憶と記憶が融合しない。すぐそこまで出かかっているというのに、手の平でつかめそうな答えは中空にて霧散する。
(何か……何か大切なことがあるのに……わからない)
「他にいるとは言ったものの、お前を苦しめたほうが楽しい。それにお前のほうが確率は高そうだ。これからもっと苦しんでもらうぞ。ああ、楽しくなる。これからはもっと楽しくなる――――」
…………いつの間にか、女は消えていた。跡形もなく。夜の森に取り残されたのは寂寞とした闇と青年の苦しげな息遣いのみだった。常ならば虫か獣かの声で騒がしい深山なのに、いまばかりは死んだように無垢である。青年は時が止まっているような錯覚に陥った。
不図、空を見上げる。
(不思議だ。これだけで安心できるなんて)
流れる雲の背後におぼろに月が見えていた。
重度の疲労を背負いながら来た道を帰る。
庭から縁側が見える。誰もいないはずのそこには気が強く気高く美しい、心を痛めた女神がいた。アフロディテが目の前に現存しているのか、強烈な憧憬を覚える。
(本当に……綺麗だ……)
しばらく眺めていたかった。しかし美しき偶像のほうから青年に呼び掛けた。
「正樹」
「まだ、起きていたんだね」
「どこいってたんだ。目が覚めたらいなくなっているし、お前の部屋にいってもいないし、心配したんだぞ」
「それはすまなかった。でも布団についてくれ。夜更かしは美容に良くないよ」
「何処に行っていたんだ? 何してたんだ? ……その格好は……」
ふたりは言葉なく打ち解けることができたのに、しばし会話が噛み合わない。
「森のなかを動けばくたびれはするさ。眠れないから散歩していただけだよ。基本的に寝付きが悪いからね、眠れない時は、たまにこうしているのさ」
「本当なのか」
「心配しなくてもここには牡丹がいる。何かあっても彼女が助けてくれるさ」
「…………」
「どうしたの。ほら、牡丹が心配しているじゃないか」
雪化粧された岩がのっそりと動いたのかと見まがうなりで、飼い犬の牡丹が桜の足元に腰を下ろした。
「嘘……じゃないのか」
「詮索屋は嫌われてしまうよ、でも、さっき僕は君に心を開くように言ったばかりだね。じゃあ僕も本当のことを言おうか」
「……うん」
「本当は、自分でもよくわからない。なぜ自分がこんなことになっているのか。裸足で外に出て、こんなにボロボロになっている理由がね。たぶんとても恐ろしい目に遭っていたような気もするけど、それがなんなのか……。あれを現実に溢れている言葉で表現すると、とたんに現実味がなくなり、胡散臭くなり、君は僕のことを気がふれたのかと思うかもしれない」
「何の話をしているんだ?」
「君は頭のおかしな人には寛容なほうかい」
「正樹……話を煙に巻こうと思っているだろう」
「まさか、その反対さ。僕はただ、自分のために互いに理解を深めたい」
「それなら、もっと直接的な言い方をしてくれ」
「君はお化けが見えるという人を信じる?」
考えるため、桜は一呼吸置こうとした。しかし問いの意味を疑問に思うよりも、素直に答えるべきだと直感した。即決し、青年の不思議な質問に答える。
「霊が存在するかしないかという話に乗ることはできないが、見えてしまった人はいるだろう。それはなんらかの錯覚でしかないのだろうけれど。例えば光の屈折の仕方によって霊のようなものが見えてしまうこともあるかもしれない。見えないものを畏怖する心を持っている人は恐れの意識の集結したものとしての錯覚をある拍子に見るかもしれない。その意識が霊という空想に引っ張られていたなら見る機会は増えるだろう。そのことに意識が向いていたら鋭敏に感じてしまうかもしれない。情報と情報の末端をつなぎ合わせて一つの現象を頭の中に生み出してしまうようなことが。その程度が大きなものであれば、それが認識のレベルまで上がれば。脳が妄想を現実として認識してしまえば、霊が出現したと判断するかもしれない」
「要するに、俺は妄想を信じる狂人か」
「……決めつけてしまうのは、楽かもしれない。狂っているということで片付けてしまえばいいから。でもそれでは解決はない。別に私は正樹が狂っているとは思わない。言ってしまえば、世の中のみんな狂っているようなものじゃないか。もしもお前が狂っているとしてもお前だけじゃない、みんな狂っているんだ。私もだ」
「枠を広げすぎだ。現実的な評価ではないよ」
「そんなことない! だから心配することなんてない。お前が狂っているかそうでないかなんて言ってしまえばたいしたことではないんだ。大事なのは周りのみんなに優しくして、一生懸命生きること、じゃないか」
「それだけ言ってくれる桜なら、自分を見失うことなんてしないでくれよ」
「私が頼みたいよ。お前が私を見失わないでくれよ。人なんて生きていれば毎日生まれ変わるじゃないか」
「生まれ変わる?」
「何かを知るとそのための回路が脳内に生まれる。ということは、脳はそれを知る前とは別物になっているとも言える。脳が変わるということは、その所有者である人間はそれを知る前とは別の人間だ。私たちは何かを知ったり経験することによって、別の自分に変わっているんだ。ならば生きることと変化するということは同義じゃないか」
「なるほど、だとしたら、何を持って、いつの自分を自分と言う?」
話が逸れ始めている、と青年はこの幸運に感謝した。
「自分と言うものは幻想で、主観的な観念でしかない。自分と断定できるものが欲しいなら、いまの自分をそのまま受け入れる。自分を定義付けるにはそうするしかない。でもそれにもたいした意味はないんだ。自分で自分のことをどう思おうが、私から見た正樹、両親から見た正樹、兄妹から見た正樹、友達から見た正樹、その他いろいろな人から見た正樹、皆違うし、でもどれも正樹なんだよ」
毎日三千億の赤血球が捨てられ、捨てられた分は新しく生産されている。秒にすると二百三十万個。人は毎瞬間生まれ変わっている。ゲーテは言った。知識を得ることは死んで生まれ変わることのようだと。知識を得ることは変質を意味する。生まれ変わり。輪廻転生を経てより高次の存在に進化することと似ている。
「そういうのなら、現在普通に起こっている現象も、霊魂のような超常現象も不安定な観測者によって観測された曖昧で、互いに相似していると言えるわけだ。結構な問題だ。見えてしまったなんて」
「そうだな、ちょっとした問題かも。反対に見えるはずのものが見えなくなってしまうことも大きな問題ではあるが」
「……」
「例えば、草木の揺れを見ていると、風の動きが見て取れる。風が触れた所が風の形になって、そよいだり、波打ったりしているのを見て、風の吹いた跡が見えたり。そういうイメージ作りは脳内が勝手にやっていることでもあると聞いたことがある。
こういった感覚を研ぎ澄ませていけば、雑踏の中で氷が溶ける音を聞き分けるような鋭敏さを持つことができるようになるかもしれない」
トランスヒューマニズム。スペキュレーション。SF。出鱈目と言われる空想科学を桜は好んだ。
「空想と言われても仕方がないかな。でも嫌いじゃないよ、そういう話は」
「ごめん……ただ、私はそういう話が好きなんだ。子供の頃を思い出してみてほしい。森の中で、小さな虫を見つけられた。大人になってしまったらなかなか気が付かないんだ。そこに虫がいるなんて。そんなふうに、大人からしたら超能力のように思えてしまうことを子供はやってのける。私たちはできたんだ。過去、こういうことを」
「カクテルパーティー効果のようなものかな? パーティー会場のような雑踏の中でも、自分の興味のある事柄や自分に関連のあること、それらを聞き分けることができる。幼い頃は今よりも昆虫を見つけることに興味が向いていたから見つけるのも難しくなかった。ということかな」
「それもあるだろう。不思議だ。見えない、聞こえない、と思いこんでは、貴重な体験を逃しているのかもしれない。感じることなど出来ないと思うのは損だとは思う」
「そうだね、ただ、見えなくてもよいものが見えてしまったときは、錯覚だとしても、認識があるぶんだけ負の感情にうったえるかもしれないけれど」
「人間の意識は頼りないものだからね。お化けが見えたからって動揺しなくていい」
(話がそれたかもしれないと思っていたが、ここでつなげてくるのか……この子は思ったより思慮深い)
「そうだね……意識は不安定で頼りないから、あらかじめいろいろなものを諦めておくほうが絶望しなくて済むかな。最大級の誤認が訪れたときに心が破滅しないように。まともに受け入れてしまえば、自我もろとも精神を放棄せずにはいられないかもしれないから」
「出来れば起こったことをそのまま受け入れられたら良いんだけど。確かにそのまま受け入れるというのが難しい。頼りにならない自分の意識に軸が欲しいなら、自分の中にもうひとつの視点を生むという選択もいい。自分以外、誰も自分のことを律してくれないなら、自分で自分を律するしかない。比較基準を内に見つけるんだ。そのために、通常の自分からは分裂した客観的な視点を得ることも一つの案になる。誰も支えてくれないから、もう一人の自分に支えてもらうしかないと思うのは自然だ」
「支えてもらわなくちゃいけないのが前提みたいなことを言う」
「もちろん支えてもらわなくていいのなら、それにこしたことはない。でもそうするには人は不完全すぎる」
「誰かを頼りにすればいい。簡単だ」
「誰……か。人がみな自分という深淵だけをみつめているこの世界で、こんな閉塞的な、自分で自分を隔離してしまう世の中で。人間の頼りなさは正樹もよくわかっているはずだ。絶対的な他者なんていないことと同義だ」
(言われて気づく。滑稽な自己矛盾だ。君も僕も)
「他者性を保ちながら他人を理解する力を私たちは持っていない。人間の中でも様々な世界観が生まれ、共同幻想から目覚めて、また別の幻想の中に生きている。この繰り返しだ。目覚めているというか、別々の幻想を生み出しそのなかで生き始めた。その分私たちは極端に強くなったり弱くなったりしたけど、増えすぎて互いに理解できなくなったんじゃないか」
「複雑になることと強くなることは比例しないということだ。例えば、生物の世界でも言える。生物のなかには凍土や熱水のなかでさえ生き延びることのできる種が存在する。原始的な生物の持つ強度の耐性が、人間にとっては劣悪な環境すら快適な住まいにさせる。人間にとっての敵は自分たちにとっての生活だ。その事実を知ると、進化することと弱くなることは同義なのではないかという気さえしてくる。人間は自身たちで生み出した観念やミームによって滅びようとしているのかもしれない。病原体に打ち克とうとして別の毒を生み出してしまった僕たちは、自ら生み出した多くのものに適応できずじまいだ。みんな別々の方向を向いて歩き、壁にぶつかり、勝手に転ぶ。自由なんていいものじゃないんだ」
「嫌いじゃないんだけど。好きでもないかな」
「僕もそんなところさ。好きじゃない。集団は多くの選択肢の中で個人を堕落させてきたし、そういう部分をいままでたくさん見てきた、また体験してきた。ひとりになって、自立したほうが気高く美しい。ひとりになると心が安定するんだ。それは嬉しいことではある」
「お前は私と似ている気がする。私も常に似たようなことを考えてきた。私はたまたま嫌いな集団が周囲にいたから、幼いころは痛い思いもした。思想や生活が多様化しているのに、ちょっと異質な人間がいると爪弾きに遭うのは、なんなんだろうね」
「そんなものだよ」
「そうだけど」
「孤独だったんだね」
「辛いわけじゃなかった。ひとりは好きな方だった。私はお父さんとの心の繋がりを持っていたから、二人で一つでもあり、ひとりで二つでもあった。寂しさとは無縁だった。苦にはしていなかった」
「慕っていたんだね」
「とても慕っていたよ。死んだお父さんは私をひとりの人間として尊敬し、愛してくれた。私も父もそれを望んでいたからね。私たちは対等を望んだんだ」
「人と人としての関係か」
「そう。人は八歳くらいになれば人間的な誇りも芽生えて、責任の意味も理解できる。客観的には対等ではなくても、お父さんは対等に振る舞っていてくれた。だから私はお父さんに尊敬も一体感も愛も感じていた」
「確信しているような言い方だね。実感があるのか。愛されていたという実感が。一人の人間としてか……。娘だから愛されていたんじゃないのか」
「血縁のある娘だから愛されていたと私も思ったのだが、お父さんの言葉を聞いて私はそう考えるのをやめた。お父さんは言っていた。親は子を自分の子だから愛するのか、ならば自分の子でなくなったら愛せないのか、それは偽りの愛だ、その子だから愛するんだ、私だから愛された、と。信頼するお父さんの言葉だから、そうなのだと私は意思の力で確信することにした。そう決めたんだ。私が愛されていたという感覚は曖昧なものを土台にしているのだろうけれど、私が愛されていたと定義したから、私のなかではそれでいいし、そうするしかない。お父さんとの生活の中で、育てていったものだ。これからも育ち続けて、いつか私の気持ちを証明するだろう」
「いいお父さんじゃないか。なかなかいない人だ」
「だから、そのお父さんが死んでしまったなんて、考えたくないんだ……自分の半身が消えてなくなったようなものだ……お父さんは尊敬に値する素晴らしい人だったけど、足りない部分もあった。もちろん人だから完璧なわけじゃない。だから、私たちは足りない部分を補って生きていた。それが人だと思ったから」
「異国の地で、ふたりきりだったというのも、ふたりの絆を深めた要素なんだろう」
「その通りかもしれない。仕事をしていたお父さんの職場での振る舞いはわからないけど、私はアウトサイダーのようだった。実際にそうだったと思う。未熟な子供のコミュニティーは異質なものを退けやすい。それは始めのうちで、慣れたら寛容だったけれど。始めは、みんなウイルスを攻撃する抗体のようだった。私は海外では日本人、日本では外国人のように見られた。いつでも外の人間だったんだ」
「気の毒だが、同質の集団に帰属して安心したいという意識が異質なものを排除しようとするなんてことは、どこでもあることだ。国や年齢に関係なくね」
「そう。異端者は罪人のような目で見られた。虐めの対象にされる理由なんて些細なものなんだ。でも私は解かっていた。自分の身は自分で守らなければならない。幸い二次性徴以前では、男女の腕力の差は成人以降の其れよりも絶望的な程ではないから」
(この家にはすごく強い女の子がいるんですけど)
「だから」
「うん」
「私を虐めた奴ら皆に、徹底的に復讐したよ」
一瞬、彼女の顔には昔話を恥じる含羞が生まれ、寂寥に変わった。それからすぐに中庸に戻った。砂糖と塩を混ぜて無味に戻すような無理だらけの表情の動きだったが、彼女は意思の力を借りてそれを実現させた。
「どうやって?」
「虐めっ子グループの人間が単独で行動している時を狙い、用意しておいた砂を顔にかけて、視力を失っている隙に、という感じ」
「目には目を。そういうのは好きだよ。でも、仕返しされなかった?」
「仕返しさえも出来ないように思い切りしたからその後は特に何もなかった。二次性徴が始まってしまったら腕力では抵抗できなかっただろうから、あれが女の私が暴力でいじめっ子に対抗できる最後のチャンスだった。もうあんなことはできないよ。非力な幼い子供だから致命傷にならなかっただけだし。今はもうできない。知恵も付きすぎたし、やったらただの犯罪者だ」
「確かに。それにしても御転婆な青春だねえ」
「嫌だけど仕方ないことだったんだ。そう思わないか? 私は静かに過ごしたかっただけなのに。誰だって攻撃されるのは好きじゃないし、できれば戦いたくないって人が多数派だろう。でも攻撃されたら、黙って耐えるつもりはない。そして中途半端にやり返したら復讐合戦が永遠に続くだけだ。だから豪快にやり返した。復讐しようという気も根絶やしにされるほど徹底的に。それが最も平和的なんだ。攻撃してきた相手に攻撃し返したら自分も相手と同じレベルの人間になってしまうという的外れなことをいう人がたまにいるが、私はそうは思わない。なぜなら何もしていないのに殴られる私と、殴ったから殴り返される相手、結果はふたりとも殴られているわけだが、立場や過程が大きく違う。罪のない人間を殴った奴と罪のある奴を殴り返す奴とでは雲泥の差だ。攻撃し返したら相手と同じレベルになってしまうという話は、加害者がしっかりした倫理観と共感し合えるような価値観を持ち話が分かる奴だった場合に限る。こんな暗黙の了解なんてものは内輪ネタでしかないし、そもそも倫理観のしっかりした相手ならこちらを攻撃することなんてないから、これらの理由から、やり返したら相手と同レベルになってしまうなんてのは詭弁でしかないんだ。話せばわかるよ喧嘩はだめだよ、とか言うやついるけどアホか。話がわかるやつなら最初から殴ってこないだろう」
「たしかにそれはそうおもう」
「異質な他人を見つけて気に食わなかったらちょっかいを出すから嫌いだったんだ。円滑で調和された人間関係が一番生きやすいのに。面倒くさいことをする人たちだったよ。理解できん。私を無視すればよかったのに。何がしたいんだあれは」
「世界中どこも似たようなもんだな」
「日本の場合は共同体と共同体の境は少し深いかな、とは思ったけど特に大きな違いがあったわけじゃない。似たようなものだ。だから結局私はいつも、どこにでも属していたし、どこにも属していなかったと言えるかもしれない。どちらでもよかったから。特に困ることはないし、父がいればそれでいいし、生きるために他者と接触しなくちゃいけなかったわけでもなかった。ただもしも関わりたい相手がいた場合は、時には痛みを伴っても接触するべきものだろう。相手によるが、痛みを伴う戦いもする価値があると思う。闘いのない調和なんて、それこそ絵空事のゆらゆらした頼りないものだろうし。虚偽の調和の慣れ合いだ。そんなものは調和じゃない。個性を出せば調和できないわけじゃない。みんな同じじゃないと物事は円滑ではなくなるということはない。彼らはそれをわかっていなかった。みんな同じような考えじゃなければならないと思っていたんだ。だから違う私は彼らからは排除されなければならなかった。そうしないと自分たちに不都合なのだろう。自分たちが小さいコミュニティーの主でなくなってしまうのが怖かったのかもしれない」
「どうにもならない局面というものが出てくるだろう。そんなときはどうしたんだ」
「学校の先生に私を目の敵にするのがいたから、抵抗していた。それで結局転校してしまったよ。私と彼女はもうすこしで分かりあえるところまで来ていたのに。そういうことが数回あった。大人は従順な子供を好くものだ。私は彼らの欺瞞が好きではなかった。そこを指摘したら激怒されたよ。強者の意見には素直に首肯しておくのがスマートなんだろうけれど、当時の私には出来なかった。今はもう少し利口になったと思うけど。自分の未熟さと強者のずるさに私は絶望したこともあった。死にたい思ったこともあった。だがもちろん、死なずに済んだ。死の欲望は、いまより幼く未成熟な精神を持った幼いころの私には淡いものだったから」
「さっきずっと孤独でいたというようなことを言っていたけれど、やはりクラブなどに入って誰かと仲良くなってみたりはしなかったの?」
「考えてみたことはあったんだが……」
「でも?」
「色々と仮入部してみたが、そうしているうちに帰宅部に興味が出てきたんだ。私は帰宅部になった。入部してそくキャプテンでエースだった。あんなに待遇の良い部活動は他にはなかった」と滑稽な調子で言う。
この子、ただ融通が利かなすぎてどこにも馴染めなかっただけちゃうんか――――と青年は思ったが、愛のない親切な彼はそんなことは言わない。
(まぁ、今は自覚はしているみたいだし……)
「それなら帰宅部のほうがいいや」
青年と姉は互いの共通の好きなものや嫌いなものを話し、急速に仲を深める手続きを経た。話を捻じ曲げ、上手く主題からそらしたと青年は安堵した。青年は水浴びをして軽く汗を流した。そして再びふたりは同じ部屋で睡眠した。
(……俺はまた同じようなことをしようとしているのか?)
青年は苦しみながら眠りについた。意識が途切れる手前、嫌な汗をかくことになるだろうと確信している自分に恐怖していた。眠りは、悪魔のように訪れた。




