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大地への帰還  作者: 桐生真之
21/56

榧 3

 恐怖と安堵の狭間は、快楽に酷似していました。

 私はあなたの背中にしがみ付きながら、牡丹に乗って、揺られていました。逃げて、逃げて、逃げ続けました。後ろを振り向く勇気も、あなたのそばでは出せました。鬼女の姿を背に、その方を振り向くと、鬼女の姿はどこにも見当たらず、遠くにぽつんと、暖炉の火ように揺らめく魔性の火が、屋敷を飲み込んでいるのが見えました。

 私たちは足を止めて、焼き払われ崩壊してゆく屋敷の最期を呆然と見届けました。

「榧、いまからどうしたい」

「いまから……」

「親のもとへ一度会いに行きたいと思うか?」

「父上と母上の許へは帰れません……。こんな親不孝者の顔など見てはくれないでしょう」

 私は、親が私に会いたくないだろうという理由で、帰郷を拒みましたが、本当は、私自身が両親に会うことを拒んでいたのです。恐かったのです。十五年間、一族の未来を繋ぐ者として、あなたの許嫁として育てられ、子を産むために嫁がされた、でも私はその希望に応えることができず、ただ己の無力をさらすことしかできなかった。そんな私は、父にも母にも、会わせる顔が無かったのでした。

「そう思うか……ならば、少し旅に出ようか」

「はいっ」

帰るところもなく、行くべきところもない。私はただあなたと一緒であればどこでもよかったのです。だから、あなたのいるところであれば、惨劇の中だろうが、希望の光が無い場所だろうが、そこが安住の地へと変わるのです。

 私はあなたの背中を抱きしめました。広い背中は、とても居心地がよかった。  

 何もかもをなくしても、あなただけは無くしたくない、そう思ってまた、強く抱きしめました。

あなたは燃える屋敷を見つめ、私の髪を撫でていました。

「一体、奴らは何者なのでしょうか」

 たくましい声が馬の蹄を鳴らす音とともに、近づいてきました。勇ましく立派な男へと成長を遂げた寛仁の姿が有りました。彼は、私がこの屋敷に輿入れに来た翌年、この屋敷に来たのでした。

 その他にも幾人か縁の深い者たちがこの屋敷に来てくれました。

 目の前の寛仁は、私たちが共に遊んでいた少年時代とは別人の、兵に成り遂げていました。昔のような甘さは消え、その背中に漂う風格は、麒麟のごとく豪勇なものでした。

「何者でもいいさ。多くの人間が死んだ。この数では、恨みを晴らすことなどできまい。それに俺たちにはもう、することも、行くところもないさ。お前たちはお前たちの好きなように余生を楽しむがいい。妻を娶り、幸せに暮らせ。俺はもう、一族の頭でも何でもないさ」

「私は何があってもあなたの下に就く者であり、あなたは私の上に立つ者です。他の何者でもありません。私もあなた方と共に生きてゆきます。それが私どもに与えられた使命だと思っております」

「出会ったころはただの鵯っ子だと思っていたが、今では朱雀になったなあ。どこへでも飛び立ってしまえばいいものを」

「寛仁、あなた……そんなに立派に強くなって……。私と遊んでいた頃とはもう、別人になってしまわれたのですね……見違えますね、寛仁」

「……姫君」

「なんでしょう」

「私は五年前、姫君の輿入れの時、姫君が危険な目に会っていたのに、なにもできなかった。私は、自分の力のなさを、呪いました。だから、それから強くなろうと決めました」

「そうだったのですか……私がこんなに弱いものですから、それは相当強くならなくてはいけなかったでしょう。苦労をさせました……。私はいつも、誰かの世話にならなくてはいけないのですねぇ……。そして、それに気が付けずにいました。愚かな娘です。そんな者のために……」

 唇が震え、涙が溢れだしそうになるのを、唇を噛んで必死に押えました。あなたは無言で、ただ優しく、私の頭に手を置いていました。

「そのようなこと……。姫君は、私共が命に代えてでも守るべき、お人なのです。あなたを守るため、若様にご恩を返すため、私たちはあの日から強くなろうと決めたのです。ここに生き残った者のほとんどが、そうやって強くなろうと決めて、強くなった者たちです。ですから、あなたは私共の命の恩人でもあるのです。どうか、ご自分を卑下なさらないで下さい」

 私は生き残った皆の顔を見渡しました。皆が深く頷いていました。涙を流している者もいました。私は、ひとりひとりの想いをしっかりと受け止めるために、皆の目を見ました。

 おふざけが大好きですが、憎めない人柄の、澱。いつも穏やかで、周りを和ませる雅楽。冷静沈着で、騎兵隊の頭脳と言われる勘解由。そして実直な、力持ちの岳智。

 兵たちが、涙を流していました。

 女たちは、男たちが操る馬に、それぞれ乗っていました。男たちと共に行動できなかった者は、皆死んでしまいました。

 残った者はみな、私と気心知れた者たちでした。

 私が初めてここに来た時に、大庭で出会った鈴。大広間で初めて話しかけてくれた、みどり。それから最年長の、みんなから母様と呼ばれている夏野。いつも美麗を心得、誰もが憧れる眉目秀麗な人、慍葉。気さくで、誰にでも好かれる世志乃。みんな私によくしてくれた人たちばかりでした。

「みなさん……」

 知れずと涙が出てきました。住む場所すらなくしてしまっても、自分を慕ってくれる人々は無くしてはいけない。私はこの時、そんな簡単なことを、こんな状況になってやっと思い知らされました。自分自身の盲目さを恥じたと共に、感謝の気持ちが溢れてきました。私には、この人たちに対してやれることは、なにもない。だからこそ感謝の気持ちだけでも伝えなくてはならないのでした。

 私は彼らとは対等になれないかもしれない。もし、その日が来るのなら、私にも生きていてよかったと、思うことができるのかもしれない。私がこの人たちにできることが見つかるまで、もし見つかっても、決してこの感謝を忘れてはいけないと、心に深く刻み込みました。

「みなさん……ありがとうございます……」

 涙が止まりませんでした。木枯らしが頬を撫で、涙の粒は渦を巻く枯葉と混じって、宙に消えてなくなりました。

 月が私たちをみていまいた。

 私はあなたの背中で涙を流し続けました。こんな情けない自分の姿など、見せられるものではないのに、もうその時はその溢れだす嗚咽を止めることなどできずにいました。

 どんな暗闇の中に、どんなちっぽけな自分が放り出されても、誰かはそばにいてくれる。それだけで、生きていく勇気にかわる。この状況になって初めて、私がいかに恵まれていたかを知ることになったのです。

 誰かがいれば、きっと大丈夫。

 しかし、それからしばらく私はひとりで生きていくことになりました。

 いつもそばには誰かがいました。一番そばにはあなたがいました。

 でも私はひとりでした。誰が悪いということではありません。私はひとりで戦わなくてはいけなかったのですから。

 そういう運命に囚われていたのです。

 炎はすでに屋敷の大部分を灰にして弱くなり始めていました。

「しかし、なぜこのようなことが……」

 岳智が訝しげに言いました。

「知りたいか」とあなたは言いました。

「知っておられるのですか」

「……あまり言いたくはないが。隠しても仕方がない」

 全員があなたの口元に視線を集中させました。皆があなたの言葉を重々しい空気の中待っていました。

「五、六年前に鬼やもののけの類が町の外れに現れて、民や動物を襲ったことがあっただろう」

「その後、若様が全滅させたと聞きましたが……。まさか」

「その時は全滅させたと思っていた。しかし、瀕死の状態だった鬼が復活し、俺に復讐しに来たようだ。民に呪をかけて操って」

「そんな……」

「裏庭で鬼に会った。真相を聞きだして殺しておいた」

「ま、まさか」

「これが全てだ……すまない。……すべて俺の責任だ……」

 あなたは、嘘をつきました。私を救うための嘘をつき、責任を自分の一点に引き受けたのでした。本当は、私のために皆が死んだのに。私は最後まで真相を皆に語ることができませんでした。自分が可愛かったのです。愛している者を、ただ盾にして隠れていたのです。呪われても仕方がない、矮小な魂の持主だったのです。

「俺のようなものが主であっていいわけがない。こんな者にいつまでも就いていては人生の無駄だ。恨むなり、切るなり、なんなりと好きにするがいい。そしてどこへでも行くがいいだろう」

「いいえ」

 声の先には、涙で濡れた目を真っ直ぐにあなたに向ける、一番年上の夏野の姿がありました。その優しい声は心の底からにじみ出た、温かい声でした。

「あなた様があの時に鬼を退治して下さらなければ、私たちはもうこの世にはおりませぬ。それに私たちどころか、民まですべて消えてしまっていたでしょう。もしかしたら、この世に人間はいなくなっていたのかもしれません。死んでいったものには悪いですが、これくらいで済ませることができたのです。あなたは、私どもの命の恩人なのです。それに、行くあてもなくなってしまいました。こんな年増女を引き取ってくれる所など、どこにもございません」

「夏野……」

 あなたは驚きの表情を浮かべ、脱力気味に夏野の名前を呟きました。その声は、一番近くにいた私には、わずかにだけ震えていたのがわかりました。

「何処にでも行ってしまえなどと言わずに。どうか、私共も、最後まで御一緒させて下さいませ」

 夏野は、瞳を涙で潤ませ、首をかしげながら笑みを浮かべました。母の笑みでした。それもそのはず、この夏野は、あなたの乳母だったのです。幼い頃に母を亡くしたあなたの唯一の母代りだったと聞きました。

 その夏野の言葉に賛同するように、皆同じようにゆっくりと首を縦に振りました。

「好きにするがいい」

 そう投げ放つように言って、あなたは皆から顔を背けました。その目の端にはうっすらと光るものが見えていました。

「旅に出るぞ、用意はいいか?」

 とまたぶっきらぼうに言いました。

「はいっ」

 皆の返事が一斉に返ってきました。

 牡丹の背中がまた大きく揺れ始めました。私たちは何かに押されるように、進みだしたのです。乾いた風が、皆の涙を拭きました。

「柳さん、暗くて涙が皆に見えなくて良かったですね」

「榧……ばれてしまったか」

「はいっ」

「お前も泣いていたな。あれだけ泣けば、皆にもばれているだろう」

「あうっ……」

「悪いことではないさ」

 あなたは全てに気付いていました。あの女に私が恨まれていたこと、あなたは知らないところで戦っていたのでしょう。守ってくれていたのでしょう。いつ現れるかわからぬ敵からこんな私を。

「柳さん……あなた、私をかばって、嘘をついてくれましたね」

「何の事だ?」

「あの女は私を怨んで、私を殺すために襲ってきたのに、あなたは鬼があなたを怨み、復讐しに来たと言いました」

「どちらもかわらぬ。俺とお前は一心同体だ。そんなことどうだっていいのさ。それに、愛憎は紙一重と言うだろう。愛は、時に狂気となる。あの女の心の中に、俺を想うあまり、俺に対する憎しみが生まれたと考えられなくもないだろう?」

「でもあの女は確かに、私を怨んでいました……」

「榧、逃げよう。あいつのいないところまで。遠くへ」

「……」

「俺たちが永遠に安心して、何も恐れることなく、争うことなく、着の身着の儘で生きてゆける、そんなところを見つけよう」

「はい」

 それからしばらく、悪夢を見続けることになりますが、この時はまだ、そんなこと気付けずにいました。

 住む場所も、名誉も失った私たちは、旅を始めました。馬に乗って、南へ進んでいきました。静かな地を求めて進みだしたのでした。

 野を越え、山を越えました。

 当然食べるものなどありませんでした。

 しかし、何処にいようと何をしようと、私たちは生きなければなりませんでした。

 空腹になれば山菜を取り、食べました。それで足りなければ、犬を殺し、鹿を殺し、猪を殺し、ウサギを殺し、猫を殺し、虫を殺し、焼いて食べました。嫌だと言うこともできずに、ただ食べるしかありませんでした。

 死にゆく物を見て、私は何らあの女と変わらない種の生き物だと知らされました。自分だけが綺麗な生き物だと、胡坐をかいていました。

 初めて生きることの厳しさを、身を持って感じました。私は初めて生きることに必死になったのでした。

 生きるためには何かの命を奪わなくてはいけないのです。

 放った矢に射止められたモノたちの目は、死にゆく寸前まで、まだ生きたいのだと必死に訴えていました。そんな動物たちの思いも虚しく、私たちは刀で獲物の命を絶ち、食べ物にかえなければいけなかったのです。

 いつも当然のように運ばれてくる食事の中に、こんなにも生き物の魂が込められていたなど、思いもしませんでした。

 男の方たちは、それを始めから分っていたので、抵抗のなく振舞っていました。しかし私はしばらくの間は、まだそのショックになれることができませんでした。

 食べなければ死んでしまうことはわかっていました。頑なに食することを拒む、聞きわけのない子供でもなかった。私が食べなければ、皆が心配することはわかっていました。だから私は、食べました。涙を流しながら、食べました。

 しかし、その私の姿を見て、さらに今まで私に食べられてきた命たちは思ったでしょう。

 何をいまさら泣いている、と。

 いままで何も考えずに、何の思いもなしに、ただ当たり前のように感謝もなく無感情に命を貪ってきた愚か者が、今さら何を泣くことがあるか。そう、焼かれた肉塊を食べていながら、声が脳裏に響き渡りました。

 しかしそれが当然のことなのでした。それも初めて分かりました。命あるものは、他の命を滅ぼし、食さなくてはその命を続けることはできないのです。

 住むところが無ければ、村に行き泊めてもらったりもしましたが、村人はすぐに私たちの身なりや立ち振る舞いや言葉づかいが自分たちと違うのを不審に思い、私たちがどういう人間であったかを見抜きました。それからは、よそよそしくなるどころか、私たちにおびえる者も出てきたので、私たちはその場に長居することもできなくなり、また住む場所を探すはめになりました。

 このことでの教訓を得て、私たちは山菜や肉を売って、地味な着物を買うことにしました。しかし、どの村でもどう演じても私たちの身分はすぐにばれ、村にはいられなくなりました。このままここにいてほしいと言ってくれる方々もいましたが、私たちはもっともっと、遠くへ逃げなくてはいけませんでした。なぜなら私はまだあの女の夢を見ていたからです。

 あの女が、私たちの部屋の隅でじっとあなたを見ている夢、朝も昼も夜も、私たちはずっと見られていたのです。それに、恋文を何枚も何枚も書いている夢、何度も何度も書いた恋文を読んでいる夢、あなたの絵を何度も描いている夢。

 毎晩恐怖が迫ってきました。私たちは、四六時中、全てを見られていたのです。

 悪夢が消えるまで逃げ続けなくてはいけませんでした。

 嵐の時は洞窟へ入り、嵐を凌ぎました。そこで私たちは、コウモリや蛇などを食べて息を繋がなくてはいけませんでした。突然縄張りに押し掛けて手当たり次第に殺していく様は、あの女と同じでした。しかし、男たちに任せ、自分の手を汚さない私は、あの女より意地汚かったのかもしれません。

 そんな時も過ぎ、しばらくして私は一つのことを思うに至ったのでした。

 今までもこれからも生きるために命を奪ってゆくなら、その分、救えるかもしれない命があったとしたら、この命を持って救おうと思うようになりました。何も知らずに命を食ってきた自分への戒めでした。

 食わなくてはいけないのなら、救おうと思いました。産めないのなら、育てようと思いました。いつかはこの体が土へとかえり、多くの命と共になるまで。

 それから私は生き物を食べても泣かなくなりました。苦しみは変わりませんでしたが、感謝しなくてはならないと思うようになりました。自分に与えられた多くの命の上に自分の命が成り立っているのなら、その命の分まで一生懸命生きなくてはいけないと思ったのです。

 私が泣かなくなると、始めは肉を食べることに対して及び腰だった女性たちも食べるようになりました。

 そうやって、あの冷たい冬から季節が何度か移り変わり、春になりました。

 まだ悪夢を見ていました。

 ある日、山から抜けると、村がありました。何日か泊めてもらおうと、村に近づいていきました。

 広い水田のある、豊かな村でした。遠くに見える山の緑は美しく、静かな空気の中で鳥たちの可愛らしい歌声が響いていました。

 しかし、私は、そのあまりの静けさゆえに違和感を覚えました。

 村に入ると、嫌な予感は当たりました。

 生臭い血の匂い、よどんだ空気。

 村は、何者かに襲われたようでした。

 何軒かの家は焼き払われ、至る所に無残にも切り捨てられた人体が転がっていました。

「た……すけて……くれ……」

 蒼白い顔の男が、崩壊した家屋の下敷きにされ、血を流していました。

「生きている者がいました!」

 声を上げて、皆が集まりました。そして家屋をどけて、その男を安全な場所へ寝かせました。男の胸には深い刀傷があり、すでに息も絶え絶え話している状態でした。

「す……すまない」

「何があった!」

「今日の早朝……見知らぬ奴らに襲われた……女房も子供もみんな殺されちまった……ここは作物がよく取れるもんだから……やつら、全て奪って行っちまった……」

「……そっ、そんな……」

「奴らはどんな身なりをしていた」

 あなたは男の頭を手で支えながら言いました。

「よく覚えてねえ……いきなりだったんだ……! でも……たしか……あい……つらの……旗に……こんな模様が描いてあった……」

 男は震える手で地面を指でなぞると、絵を描き表しました。見覚えのある模様でした。なぜならそれは、私の近親の一族の家紋だったのです。その一族の中には、顔見知りの、昔から付き合いのある者もいました。

「なんてこと……」 

 溢れる悲しみと嗚咽を止めることができませんでした。

「榧、これは」

「……こ……これは……」

 寛仁も驚愕の表情を浮かべ、それから薄く涙を眼に浮かべました。

「ぜっ……たいに……ゆるさん……あいつらも……あいつらの一族も……全員……呪ってやる……呪ってやる……」

「あ……ああ……」

「……あんたたち……すまない……助けてもらったのに……もう無理みたいだ……」

「しっ、死なないでください!」

「あの世であったら……またよろしくな………村は………燃やしてくれ……」

 一筋の涙が男の頬を伝いました。その涙が地に着くとともに、男の命もこと切れました。無念そうな顔をして死んでいった男を皆で弔いました。

 男が言った、あいつらの一族、には私たちも含まれていました。その男や村人に対する申し訳なさや、やるせなさ、襲った一族に対する怒りや悲しみが同時に頭の中で暴れ出し、私はその場に膝をついて絶望しました。

 全身の血が凍り付いたように寒く、瞳は錯乱し、手は震え、胃は痙攣し、その場に手を着いた私は、嘔吐しました。

 何処へ行こうと、誰になろうと、己が誰であったという過去は消せないのでした。

 屋敷をすて、世を捨て、仲間たちと安住の地を求めて、逃げながらに旅を続けてきました。そのなかで私は、新しい毎日を重ねて、新しい運命を自分で切り開いた気になっていたのです。

 しかし、私がいままで育った場所や血縁や過去は、偽ることはできても、その事実は変わらない。本当の私が誰であるかは、変えられないのでした。

 これも呪いだったのでしょうか。

 そう思うと全てが呪いに思えてさえきました。

 暗い谷底に突き落とされた気持ちでした。奈落の底で呪いの死者たちが、仄暗い光を発しながら、血の気のない白い手で私の足を引っ張っているように感じました。

 私は呪いからも自分の運命からも逃れることはできなかったのです。

 あなたは近くの川で濡らした布で、私の口元を優しく拭ってくれました。竹の筒に水を汲んで、口を濯ぐために持って来てくれました。それから私が口を濯ぎ終わると、優しく背中を擦ってくれました。

 奈落の底でも、あなたの優しさは、あなたの愛はいつもそばにありました。

 私が泣いても、絶望しても、あなたをそばに感じられることで、絶望のなかに希望の光を見ることができたのです。本当にいつもあなたは優しくそばにいてくれました。

 本当にいつもです。

 そして、あなただけではありません。

 私には、寛仁、澱、雅楽、勘解由、岳智、それに、鈴、みどり、夏野、慍葉、世志乃、みんながいたのです。

 どんなにつらくても、奈落の底にいても、誰かが側にいてくれれば、それだけで人は生きる希望を見出すことができる。気の知れた仲間たちが側にいてくれた私はとても幸せ者だったのです。

 人は簡単に絶望することもできるし、簡単に希望を見出すこともできる。 

 人はとても弱くもあり、強くもある生き物なのです。

 だからどんなに絶望しても、あなたや、あなたたちという希望があったから、私はずっと生きてこられたのです。だから、あなたたちがいなかったずっと長い間は、本当に辛かった。

 あなたたちはそばにいてくれたけれど、私はひとりでした。孤独とは少し違うのかもしれません。同じ人たちとずっと共にいたのに、私はずっとひとりだと感じていました。どんなにみんなが側にいてもひとりでした。みんながいる分、苦痛だった時もありました。

 こんな事を言っていると変に思われてしまいそうですが、私にも良くわからないのです。他の人には言えない悩みでした。辛くても理解されるはずがないのです。これは呪いなのですから。

「おい! 誰かの声がするぞ!」

 いつも穏やかな雅楽が、この時は珍しく張り詰められた声をあげました。皆で声のする方へ行きました。

 声は、ひとつの家屋の方から聞こえてきました。

 皆でその家屋へ入りました。

 血生臭く淀んだこの村の空気には合わず、春の暖かい木漏れ日が冊子の間から家屋の中を照らしていました。

 その中には、温かい光に照らされた人たちがいました。

 ひとりは男で、床の上で仰向けになり腹を引き裂かれ絶命していました。そしてもうひとりは、背中を切られて絶命した女でした。そして、その女に抱き抱えられながら刀から守られ生き長らえた、声の主の、赤子でした。

「生きています! 生きていますよこの子!」

 世志乃が目を大きく見開きながら叫びました。

 赤子は私たちの姿を見ると、さらに大きく声をあげ泣き出しました。

 まだ乳飲み子程の小さな子を、母の愛が守った証でした。

 しかし、育てる者がいなくては、わずかに生き長らえることができても、それは一瞬の事でやがては死んでしまいます。あの世へ行けば、両親と再び会い、幸せに暮らせるのかもしれません。しかし、この母は自分の身を切らせてもこの赤子を守ったのです。

 この赤子に未来を与えたのです。ですから、それは繋がなくてはいけません。

 子を産めずに、一族の女の役目の果たせなかった私。

 生き物を殺し、命を奪い、今日まで生きてきた私。

 私は何かを救い、何かを育てることで、自分の罪を償えるかもしれないと思ったのです。

 ただの罪逃れだったのかもしれません。意地だったのかもしれません。

 しかし、食らった命の分も、この子の命を失わせてはいけなかったのです。

 私は心から叫びました。

「この子は私が育てます! 私がこの子の母になります!」

「榧……」

「あなたが残したこの子の命は、私が、私の命を持って、受け継ぎます。私があなたの代りになります! 私が、この子の母になりますから、どうかあなたの意志を受け継がせて下さい」

 さっきまでおろおろとうろたえていた娘からは想像もできない一言でした。言葉を放った瞬間に、私はもう赤子を抱きしめていました。

「あなたが産んだこの子は、私が立派に育てますから……どうか、安心してお眠り下さい……」

 私は、この赤子の父と母を隣どうしに寝かせ、赤子に最後の別れをさせました。

 赤子は何もわからず、死んで横たわっている母の顔を無邪気にぺちぺちと叩くと、母の胸元までよっていって、胸にかぶりつき、乳を吸い始めました。

 しかし、当然、死んだ母から乳はでませんでした。

 何も知らず健気に生きようとする赤子を見て、侘しさと悲しみに圧迫されて、心臓が破裂しそうになりました。

 私は赤子を取り上げ、自分の胸に引き寄せました。それからおもむろに自分の着物を肩から剥ぎ、赤子の口を乳首に寄せました。

 赤子は私の乳首に吸いつきました。生きようとする物の、生命の力、本能の力でした。

 この子は乳をしゃぶり、乳を飲むことでしか生きることができない。しかし、母の体から乳が出なくては、この子たちは死んでしまうのです。

「乳が……でません……」

 自分でも、そんな事は分っていました。

「榧……」

「母親なのに……私はもう、この子の母親なのに……」

 あなたは膝をつき、両手を広げ、私とこの子を強く抱き締めました。滅多に涙など流さないあなたが、目を赤くして、大量の涙を流していました。とても優しい顔でした。赤子はまだ出ない乳を吸っておりました。乳首の痛みに耐えました。私はまた大粒の涙をこぼしました。

「榧、これが、母の痛みだよ」

「はい、これが母の痛みなのですね……」

 私たちはそれから村じゅうに転がった死者を、村の神が祀ってある一番大きな屋敷に集め火葬しました。それからその火を家屋に伝え、男が言ったように村を焼きました。

 夕方になり私たちは両手をそろえて死者の成仏を祈りました。

 子を連れて村を抜けて、また各地を転々としながら南へ向かって進みました。

 しかしどんなに遠くまで逃げても、悪夢を見る日は一向に減りませんでした。

「柳さん……」

 皆が寝静まった後、交替で見張りをしているあなたに話しかけました。

「……どうした、榧」

 あなたは私が寝ていたと思ったのか、少し驚いたような顔をしたあと、私の目を真っ直ぐに見て、その目を三日月のように細めて、口元を優しく引き上げました。

「悪夢を見ます」

「まだ消えないか」

「はい、先ほども見ました。あの女の夢です」

「そうか、まだ見るのか」

「いろんなものが見えました。私たちの事があの女の目から見えていました」

「見られているとわかっていたなら、もっと見せびらかせたものを」

「うふ。でもあなたは、本当にあの女とは何もなかったのですね」

「ない」

「はい、何もありませんでした」

「だろうさ」

「でも、あの女は、毎日のようにあなた向けに恋文を書いていました。渡せなかった恋文の数は万を超えていました」

「そんな、馬鹿な」

「幾つもの箱に詰め込まれていましたから、それくらいはあったとおもいます。あの女もそう言っていました」

「榧、あの女と話したことがあるのか」

「……」

「……榧……」

「……はい、あります」

「なぜ言わなかったんだ」

「屋敷が襲われる一月ほど前に、あの女の恋文を拾ったところを見られて、部屋に呼ばれました。その時に女は突然狂い、箱を床へ投げて、恋文を部屋中に散らかしました。恐かったです。でも、私だけの問題ではなかったから、よけい柳さんには言えませんでした」

「しかし、これからは何でも言え」

「はい、すみません」

「うん……」

「あなたが鬼を狩ったところも見えました」

「かっこよかっただろう」

「はい」

「それはよかった」

 私はあなたの膝枕で、いつの間にか寝てしましました。その日はもう悪夢は見ませんでした。

 それから私たちは、村を転々としながら乳を与えてくれる人を探しました。

 人の乳が無ければ、魚や山羊のはらわたを乳首のように加工して、家畜の乳を飲ませたこともありました。家畜の乳がなければ、犬や猪の乳を飲ませたこともありました。

 そうして子を育てながら旅を続けていました。そしてまた同じような村を何度か見つけ、次の年の夏、その次の年の秋、そしてその次の年の冬に同じように赤子を拾いました。

 はじめの春に拾った子は女の子でしたから、桃、と名付けました。

 次の年の夏に拾った男の子には、皐月、と付けました。

 その次の年の秋に拾った女の子は、楓、と付けました。

 そしてその次の年の冬に拾った女の子には、雪芽、と付けました。

 そして自分が親になると決めた子に乳を与えられずに泣く日々が何度もありました。

 やはり私は人間ではないのかもと自分を責める日もありました。

 その度に、拾った四人の子供たちを私は我が子として育てることを強く決心しました。

 何としてでも、産めなくても、育てることはできる。わずかに残された意地でした。

 私が子育てに夢中になるほど、私はあの女の夢を見る回数は少なくなり、雪芽に乳がいらなくなった頃にはもう、女の夢は見なくなりました。

 霧の霞む寒い朝のことでした。

「近頃は女の夢を見なくなりました」

 私はあなたの胸に抱かれ、呟きました。

 周りを山に囲まれた辺境の地、人影もなく、静かなところでした。小さな集落を作れるほどの大きさもありました。

「では、ここに村を作ろう」

「はい」

「もう、なにもおそれることなく、みんなでひっそりと暮らそう」

 やがて私たちは皆で小さな村を作り、平和に暮らし始めました。

 しかし、悪夢の終わりこそが、本当に現実に起こる悪夢の始まりだったのです。


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