10 再来
夢の終わりは現の始まり、恋しい少女に会えなくなるのがつらいのか、目に麗しき夢であればあるほど浮世に戻らざるを得ぬことが疎ましく、夢の中身ははっきりと思い出せぬのに、少女との別ればかりが口惜しく、続きを手繰り寄せたくなるばかりで、天に登った煙を掴みかけるようにあの夢を求むるが、諦めが勝って泣きそうになる。
「……う、動かない……」
「もう、手遅れさ」
「ああ、どうして……」
「やめないか、無駄だ」
「し、しかし……」
「こいつはもう助からない。良い加減に理解しないか」
「そうかもしれません……でも……」
「でも?」
「この子の形が変わってしまっても、魂が抜け落ちてしまっても、私の愛は生き続けます。……一縷の希望も残っていなくても、私はそれにかけてみるしか、すがるしかないのです……」
「復活など無理さ」
「できる限りの処置だけでも……」
「勝手にしろ……」
「はい」
「だが、これは何かね」
「何って……?」
「何だこれは、人間でも、生き物でもない」
「人工呼吸器です」
「なるほど、エラ呼吸に切り替えるというのだね」
「はい、さようでございます、あけびさん」
「それにしても、よい魚だ」
「はい、死んでいますが、新鮮なブリです」
「よかろう、では作戦に移る」
「はい」
「患者の口に酸素を送り込むんだ」
「これより、患者の口とブリを接続します」
「くっさ! やめんか!」
妹たちの悪戯の気配を読み取った青年はおもむろに起き上がったのだが、青年の説教を受ける前に妹たちはちりぢりには逃走してしまい、台所には母と青年と静寂が取り残されるのみ。佇立したふたりの隙間を埋めるように母が微笑むが、この笑みは夢で見た少女の笑みによく似ていた。
窓硝子に映った柊が、半身だけ壁に隠して、眠たそうな薄目で、左の親指を、乳を吸うようにしゃぶっているのが見えた。
夕食時には父を除いた全ての人間が食卓にその身を預けていた。生来怠け者の、家事概ねについては壊滅的な器量なのに、母の次に調理技術だけは達者なあけびが夕食の準備を手伝った。
「お腹すいたよー」とぶつくさしながらの柊の、食台を鍵盤に模して叩く指の軽快な律動が、水揚げされて未だ間もない海老の活発な尾の跳ねを思わせて食欲を掻き立てた。
腹が減ったなら夕食の支度を手伝った際にちょいと摘まんでくれば良かったものを、の呆れもあるにはあったが、この食台を指でバシリバシリの次女には、料理の手伝い以前に、近年は台所に立つことすら望んでいない。というのもこれまで幾度か覚えようと試みてはいたが柊は決定的に料理が出来なかった。それは青年にとってのある種、生きることに投げやりな彼女の態度と関係付けられた。実際の彼女の生きる力の程度なんぞ彼には定かではないにしろ、生の基礎である食事を作ることが出来ぬことの意味は大きく、料理が出来ないのは生きることに長けていないと彼は信念のように思っていた。
「おとうさんまだかなぁ」と柊に対して、生来怠け者のくせに食いもするし作りもする、美食家のあけびが呟く。卓上に両肘をつき両手に顎を乗せている。
柊は溜息をつき腹を摩った。
「皆の衆! 主がお帰りになったぜ!」
声を張り上げて父が登場した。
「さあ。さっさと飯にしようぜ」
気になることがあった。
「そのケーキは」
親父は特注としか思えないほどの特大のケーキを出前のように側頭部の高さに持ち上げている。
「正樹、今日は何の日かわかるか」
「雛祭り」
「もうちょっとひねりを」
「よいよい」
耳の日とでも言えば良かったのか。
「じゃ、あけびわかるか」
「地球上の誰かの誕生日―」
莫迦は休み休み。
「大正解」
本当にそうらしい。
「ほんまかいなー」当てたあけびも驚いたようだ。
「ということで今日はとある人物の誕生日だ。盛大に祝ってやろう」
「祝うって誰?」と柊。
「まて待て。とにかくそいつは俺たちにとって大切な人間だ。すでに」
「「「すでに?」」」
兄妹の声が重なる。母は微笑を崩さない。
その時である。
霜立つ舌先で背なをぞろりとやられたような悪寒。思考するより速く本能で原因の感知に至る。
父の後方、丸柱の影に半身だけ隠す亡霊のような影が、儚く、薄く、佇んでいるのが、目に留まっているのかいないのか青年にはどうもわかりかねる、というのもこの女、気配が――生きている人の色味が感じられず、まるで現世と異界のあいだを渡り歩くような妖しのごとき風体だから。
が、しかし生気がなく見えるのは彼女がそれを隠していたからで、本来の彼女は薔薇かとこしえに咲く火花のような娘で、一声、「ぼんそわ」と発したら、面ざしにひらいた花が美しく、絵絹に紅を塗り付けたのかの薔薇の笑みで、曖昧な立ち姿がいまはそら、内から色濃く光りが灯ったような紅の色。
赤いものを身につけているわけではない。
が、緋色は彼女の魂の色である。
鶴の頸椎のごとくしなやかに引き締まった腰のそば、光沢の豊かな黒髪が静かに揺れて、素直に伸びた四肢は百合の茎を思わせて優美である。よく見ると左手と左肩の筋組織が右側と比較してわずかに発達して、鎖骨の下に掛かる豊かな乳房は静かに息づいている。この乳房は丸々と盛り上がり純白のワンピースのなかを狭そうに張りきっていたが、この乳房の優雅さはその形の良さと大きさの微妙な均衡の果てに成された優雅さであることが容易に知れた。細長の首は愛と美と性の象徴とも言える春の女神アフロディテの手によって植え付けられたように絶妙な斜度で肩の中心に根を降ろし、均整の保たれた眉宇は厳かな美を模しているが、野性を感じさせる荒さが意志の強さを示す黒々とした明眸に宿り、唇の薄い、桜色に彩られた口元をよく見れば艶冶な八重歯が見え隠れして、それら全てが静脈の浮き出る瑞々しい乳白の肌とのかかわりのもとに成り立っていた。しかしカメラを退くと全体的に彼女の放つ雰囲気はマダム・タッソー蝋人形館の人形たちのように儚く、嗚呼、なるほど何時ぞやの妖怪さんではないですか、と青年はかく考えた。
「誰が妖怪だって」
「心を読むな」
「そういえばお前は、私のこと父さんに妖怪って言っていたそうじゃないか。なんて奴だ、これはお仕置きが必要だな」
「そんなことはいいから、それよりなぜ君がここにいるんだ」
「そう言われてもねえ……」
「そもそも昨日の話はなんだ。妖精だとか」
女は溜息を落とす。
「あんなもの嘘に決まっているじゃないか。あんなくだらない嘘を信じていたなんて、意外と正樹にもかわいいところがあるみたいだな」
「信じてはいない」
「許してくれ。この数年間、四月一日に嘘をつくのを忘れていたから。つかなきゃいけない嘘が溜まって溜まって、ウズウズしてたんだ」
「エイプリルフールに嘘をつかなかったら翌年に持ち越されるシステムなんてないから。というか、そのネタは流行しているのか」
女、両手を上向きにかえし、肩を竦め、溜息ひとつ、とした一連の動きが西洋の趣有り。艶じゃなく、素朴な若気を姿態に――空をなぞる指先に――滲ませはしたが。
「お姉ちゃん、この間お父さんと駅前の喫茶店でお話していた人だよね」
柊が純朴な声で言った。
(そうだろうとは、思ってはいたが)
「榧。この前買ってきたの、あれあれ、あれ、あれどこにしまった」
「買ったあれですね」
笑みで応答の母、台所へ去り、戻り。と、皿を数枚、手に持っている。数枚の皿は、食台に置かれている五人の皿と種類を同じにしたもの。
「同じものを買ってきました。これでやっと全員分揃いましたね」
両親も女も椅子に座す。
「ということでね、桜は今日から我が家の一員になったから」と父が言う。
「説明不足だなぁ」と青年。
「説明と言われてもな」
「まぁ、簡単でイイから。この子たちのためにもね」と言って、横目で姉妹をちらりとした。
「そうですね柳さん。説明してしまいましょうか」
「そうだな、そのつもりだったしなー」の言葉を因に、椅子に座していれば相当なことがない限りは身を横に崩してステテン、と倒れてしまうなどありえぬはずも、猿滑りという名の木があるくらいで猿でも木から落ちる、青年と姉妹は木から落ちる猿のように椅子から転げ落ちた。が、子供らの反応を受け流し、父は腕組みして淡々、と女の身の上とこれまでの経緯を話し始めた。
この女は桜といって、父親は高咲柳の学友のひとりだったのだが病死したらしく、父親が他界した今、身寄りがなくなってしまう桜を高咲家に引き取ると生前から約束していたとのこと。で、悪い冗談か、桜を含めた高咲家、柳と榧と桜と青年とあけびと柊の、庭の木が十全に揃ってしまったわけである。
「うふふふふ」の母の綻ぶ笑み、につられて苦笑いの青年。
繊手の掛かる肩を細やかに上下して、笑う桜。豪快に笑う父。ぽかんと口を開け傍観していたあけびと柊もつられて笑みを漏らす。
「正樹、あけび、柊、よろしく。今日から私がみんなのお姉ちゃんだぞ」
「わぁーい! おねーちゃん!」
ふたりが声をそろえて幼子のように高く喜びを表した。妹たちが無邪気に喜ぶなら妖怪女も悪くないかもしれない。
「だから誰が妖怪だって?」
「思考を読むな」
「お姉ちゃんとして覚醒した私にとって、正樹の考えていることを読むなど容易いことだ。どうだ、お姉ちゃんパワーを感じるだろう。いまもここに溜まっているぞ」と、うそぶきながら右腕の力瘤を出してその隙に左手の箸を忍び伸ばしてひらりと肉を取った、青年の皿の。
「なにをしている……」
「何って食事だ。飯をくろうておる」
慇懃な調子に声色を変えて問うてみたら、この新しく家族の一員になった姉も、演技的に、美しい眉宇の造形を絞るように歪めてどこか中年の貴族ぶる。貴族ぶるのだが打って変って激しく、すなわち御転婆な調子にはや変わり。
「そんなに食べたいならこれでも食えい」
二、三、切れ箸で束ねて弟の口に突っこむと、突っこまれた青年、刺すように口に詰められた事実による感情的な戸惑いやうねりよりも肉が舌に落としこまれたときのとろりとした舌触りは優しく、恋人と唇で甘い情を交わしているかのような心性にさせたが……、
(生肉……)
青年の口腔に放り込まれた肉は焼かれていない、未調理の、いわゆる生肉であった。
「お前は生肉が好きだって顔をしているぞ。そら、もっと食べたいだろ。それ、それ、それ」
「またやっちゃった、桜は」
と父がぼそりと零したが青年は気にせず、
「お前も食え」
と言ってかざされた生肉をまたぺろりとやって、お礼にとばかりにこんどは自分が皿の生肉すくってがやがやと五月蠅い桜の口に入れた。目を丸くして身に起こったことの収拾に努めようとする桜であるがまさか己が生肉を食らうはめになるとは思わなかったのだろう、この上手な弟にしてやられたと思う暇もなきままにこの姉は、口に入れたものは咀嚼してしまうという小児的な反射が浮き彫りになるほど混乱したのか、肉を噛んで、美味かったのか初めこそは茂垣ながら拒否をしていたようだけれども咀嚼を繰り返すといつのまにか表情は恍惚としていた。
「まったく馬鹿なことを。食べ物でふざけるな」
と新しい姉を諌める青年であるが、桜の奇想天外なる行動からの一連の流れに母も柊も、あはは、の笑いで苦笑というのか半分は呆れ顔。父とあけびは鷹揚に笑っていた。
「幸せがもうひとつ増えたな。榧」
父は嬉しそうに言うのだった。
「はい」
幸福の声色が鼓膜に心地よい振動を伝える。
途中、父が文学賞の受賞式に出席するためにドイツに数日間滞在するとの旨を皆に伝えた。母と姉は知っていたようだが知らされていなかった他は各々で驚きを見せた。
食事は終わった。
夜、元来寝つきの悪い青年は寝具の中でいつも通りの険しい夜道を辿っていた。非日常が突然人生の前に現れてやや興奮の状態にあるのかもしれない。疲れている筈なのだがなかなか意識は崩れてくれない。食事時にはずっと叫んでいたような気がする。運動のしすぎである。桜のせいだ。
今日をもって桜、長女。青年、長男。あけび、次女。柊、三女。という構成になった。不安が無いわけではないが不思議な期待も胸の中に生まれている。目を閉じて静かに今日を振り返る。体の火照りと相対して静かな夜だった。瞼が重くなり虫の声が遠くなり青年は意識を失った。




