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大地への帰還  作者: 桐生真之
19/56

榧 2

「榧、起きているか」

「はい、起きています」

「眠れないのかい」

「……先ほど床についたばかりですから……」

「……それもそうか……」

「相変わらず、お優しいのですね。ご心配なさらずとも、私は、平気……ですから」

「いいか……雑音など気にする必要はない」

「……私は、惨めでしょうか」

「そんなわけあるか。お前は惨めなんかではない。お前がどんな人間なのかは、俺がよく知っているよ」

「なぜ、このような醜い私を……貴方はこんなにも愛してくれるのでしょう……なぜ……」

「お前は美人ではないが、小さくて可愛げがある。動物を愛でる気持ちは、お前も持っているだろう」

「……傷、つきました……」

「嘘さ、お前は美しい……特に、近頃は」

「ぽっ」

「うれしいかい」

「うふ……子の産めない私など、女でも男でもなければ、人間の価値さえもないのでしょうに」

「お前は女で、俺の妻なんだ。そのように自らを卑下することなどない」

「でも、もう、この五年」

「榧」

「お前がお前自信を卑下するということは、お前を選んだ俺をも卑下するということだ」

「あっ……」

 貴方が笑うと、私の手は大きな温もりに包まれました。それだけで私は、

「……」

「出会った頃は、こう手を握っただけでも、気を失っていたな。赤くなって、汗をかいて、目が虚ろになって、愛らしかった」

「もはや、あのころとは違う、幼き頃の熱病などではないのです。今ではもうこの身も心も、ただただ、貴方と共にあり、全ては貴方のもの……一心同体なのですから」

「互いの呼び名を決めたのもその頃だった」

「はい……そうでした」

「あの頃とかわらず、顔は幼いままなのだが」

 貴方は私を深く触りました。

「……それは……貴方のせい、です……」

 弥生の月光を頬に受けた貴方は、一段と凛々しく、優しい顔をしていました。貴方の存在だけが私の救いであり、私が生きてゆく勇気そのものだったのです。

「子を産めないのにも関わらず、こんな私を、愛してくれる貴方の優しさがとても愛おしかったのです」

「それはお前が、愛されるべき者だからさ」

「……こんな、男でもなければ、女の役目も果たせない私に、優しくしてくださる貴方の愛に、怯えていたこともあったのです……」

「……」

「でも、今はただ、誠実に貴方の愛にこたえることが、私にできることの全てだと心得ています。私は少しだけ、強くなりました。ほんの、ほんの少しだけ」

「ああ、知っている。お前は少し、強くなった」

「はい、ですから、愛して下さい。愛させて下さい。そうでないと私の存在価値など虚無に等しくなってしまいます」

「愛するさ。強く、強く、優しく」

「あは、貴方が相手なら私は千年の恋が出来そうです。もう、結婚してしまいましたけれど」

「ははは、結婚しても恋心はあるさ。してやろうじゃないか恋を、千年でも」

 貴方は私の髪を長い指に絡ませて撫でて遊んで、私が羞恥で顔を赤く染めるほど楽しんでいるようでした。私は恥ずかしさのあまり貴方がそうする間は目を閉じているばかりで、何処を触られているかも分からぬほど、貴方は私の髪を玩具のように弄ぶので、私は漏れ出しそうになる声を必死で堪えることで精一杯で、ただ、遠くで虫たちの鈴の音が聞こえ、私の近くに貴方の熱い吐息が感じられるばかりで、私はぐったりしながら薄目を開け、月明かりだけを頼りに貴方の顔をぼやけ眼に映しまし、鷹の様に鋭い貴方の目は、今宵の月の様に優しく細められ、その優しい目に倣うように、私も笑みを返したのです。その様な夜が、五年も続いていました。

 何も変わらず、何も起こらず、ただ世界は淡々と美しく回ってゆくだけで、私は幸せでした。日々ふたりは愛を深め、それだけの日々が続きました。変わったことといえば、ふたりの笑い方が似てきた、ということだけ。

 あれは冬の寒い日でした。

 鼠色の空から牡丹雪が桜の花びらのようにつらつらと流れては舞い落ちてゆく様を、ただ眺めていました。

 私は少しだけ散歩しようと立ち上がりました。貴方の膝枕で、いつのまにかうとうとしていた私は、目をこすり背伸びをしました。なんのことでもなく、ただ屋敷の周りを一回りして帰ってこようと思っていたのです。

「どこへ行くのかい」

「お散歩に、行ってまいります」

「気をつけて」

「はい」

貴方の胸に顔をうずめて、それから接吻を交わして部屋を出ました。憎らしいほど、貴方の温もりは居心地が良く、私は接吻を交わしている最中、このままこの場所に留まっていたいと現れる想いを頭から消し去るのに難儀しました。貴方はいつでも私をゆりかごのように包み込むのでした。このまま貴方揺籠の中に納まったままであったなら……納まっていたままのほうがよかったのかと、今でも考えてしまいます。

廊下に出ると、着物を重ねているのにもかかわらず、冬の空気は、私の肌を締め付けるほどに冷たく、奥歯に力が入りました。

 春には隣に晴れ着の少女が似合う庭の木々も、薄く枯れ果てつまらない色に変わっていました。しかし、それが私には、とても愛おしく見えたものですから、しばらくその冬の木々を静観していました。  

 知れずと涙が出てきました。

 冬の風に打たれながら枯葉を散らす木々に、私は自身の姿を見たような気が致しました。葉のひとつひとつが鏡を見るよりも私の本当を映しているようにさえ思えたのです。

ただ私はとても大きなものに救われていました。私には貴方という場所があった。それを思えばこそ、涙が出るのでした。しかし季節が変わっても、私は木々のように花や実をつけることはありません。

景色は見えず、うずくまり、顔を覆いました。暗い感情が湧いてきました。悪夢だったのでしょうか。見たくないものまで頭の中を駆け巡り、それはさらに私を暗黒の世界に引きずりこもうとするのです。

私は恵まれていて、外の世界では、どれほどの人間が苦しみ、どれほどの人間が理不尽な運命の内に死にゆくのか、それを思えば私の苦しみなど些細なものでしょうが、私に降りかかるこの苦しみは、重い現実として、私を襲うものでしかありません。

 私はその場所にただ蹲って、寒さに打たれていました。私は貴方の事をすぐにでも呼んでしまいたい思いに駆られましたけれど、私は、貴方の愛が純粋であればあるほど、貴方の愛を私のみすぼらしさを埋めるために使いたくはなかったのです。それも、貴方ならきっとわかってくれるはず、と思っていたものですから、ついに言う日を逃したまま、今に至っているのです。

 木枯らしに打たれて、涙を流していますと、私の足先に何かが触れたように感じました。

紙が一枚……私の足元に落ちているのが、ちょうど見えました。

風が吹いて、紙は意思を持っているかのように私の足に張り付いてきました。今でさえ、この時の私のとった行動をとがめることなどできません。足に張り付いた紙を手に取るなど、自然な行為なのですから。

それは恋文でした。紙に恋煩いのあれこれを綴るのは、現代では廃れたかもしれずともこの時には未だそれが普通で、その紙ははっきりと私の目の前に存在していたのです。

紙はしつこく私の足元に貼り付いて離れなかったのでこれは何かあるかも知れぬと、それを読んでみることにしたのでした。

恋文の内容は、私の口からお告げするには相当難を要するもので、と言いますのも、何をかくそう、その恋文は、その内容もさることながら、その宛先までもが、私の気持ちを害すに値するもので。

その恋文の宛ては私の夫、愛すべきものである貴方にあてられたものだったのです。

私は眩暈に襲われました。

 このような事態に陥った場合、普通ならば、様々にめぐらせる物語があって、夫の行動に不審な点はなかったかと、何かと細かく冷酷に分析するのでしょうが、私はそれをしませんでした。

 こんなに愛しているのだからと言って、自分の行為を相手に伝えても、それはとても利己的な欲望であって、相手にとったらただの濡れた十二単の布のように重いものなのです。

 その恋文には、私の夫のお役名と、ただ、何度も、愛しています、と書いて、他に句を添えているばかりでした。

 背筋がぞっとしました。蛇蝎の群れが背中で這いまわったような、大きなものに浸食されてしまいそうになるほどに、それは衝撃的でした。

 その恋文から溢れだすものは狂気でした。

 こんなものはこの世から消してしまった方がいい、私はそれを焼却すべく懐にしまい込んで、持ち帰ろうと思っていました。

「どう、なされたのですか……」

 背後から、温度を感じさせない声色が聞こえました。長らく会っていませんが、私はこの方はここに来た時から苦手なのでした。温もりがなく、それでいて冷徹でもない、そんな、生の温度を感じられぬこの方の事が、何やら触れてはならぬ物のように感じられて、私は畏怖を覚えるのです。

「いえ……なんでも……」

 私はこの方と目を合わせることができないのです。この時もただ、彼女の襟元で視点を留まらせているので精一杯でした。

「なにを、していたのです」

「本当になにも……」

「なにを……隠しているのですか」

「……」

「なにを、拾ったのですか」

「……」

「なにを、しようとしているのですか」

「……」

「なにを……」

「……」

「私にはわかるのですよ、貴女が何を隠そうとも……見えてしまうのです」 

「貴女が見たいのは……これなのでしょう」

 私は懐から恋文を出して、その女に手渡しました。私よりも頭二つほど背の高い女は、紙を手に取ると、聖母のような笑顔を形づくりました。しかし、それはただ、顔の筋肉の形を変えただけの、とても記号的で、笑みと呼ぶものとは、別の種の不可解さを感じさせました。

「こんな場所では冷えるでしょう。私の部屋でお話ししませんか」

 彼女の言う事には逆らえない気がしました。心の縁で誰かが行くなと呼んでいる気がいたしましたが、私はその女の威光に乗らざるをえなかったのです。

「ここが私の部屋にございます、どうぞお入り下さいませ」

「ええ、ありがとう」

「少し窮屈な部屋ですが、火鉢を置いていれば早く暖まるので、お外よりは幾分かましかと……ふふふふ」

 私たちふたりは狭い部屋で、火鉢の暖かさに向かい、びゅうびゅうと吹きつける木枯らし遠く耳にして、ゆらりと流れる時を無言で過ごしていました。寂としても凪いでなどおらず、この部屋には女の気が張りつめられているようで、私は神経が摩耗していくかのような疲労を感じ、眠気すら覚えるまでになっていました。

 女は静寂に滑り込むように話し始めました。この声の調子には、幾度も諳んじられた末に磨かれたけれども、それ故に生気をすり減らした作り物の薄ら寒さがありました。

「こう寒くては外に出て景色を眺めるということも、陽光にあたって恵みを受けることもなかなかできなくなってしまいますね」

「はい……寒いのは好きではありません」

「動物たちも眠り、木々もつまらなくなってしまいました」

「ええ……」

「早く春が来ないか待ち遠しい。貴女様もそう思われますでしょ」

「はい、春が待ち遠しいものです」

「血が温かくなりますもの」

「はぁ、血が……」

「手先足先が寒くって、ほら、こう寒いとなかなか自由が利かなくなるでしょう」

「ええ、困ったものです。貴女、名は何と言うの」

「名など特に決められてはいませんけれど。今は、凛と」

「ええ、こちらこそ」

「しかし、この名も大した意味はなくって、これまで幾度かも名をかえて、今では指で数えることもできなくなりましたし、それに名など必要のないようなものですから、関心がなくて、呼ばれることもほとんどなくて、いま自分が何という名なのかも忘れてしまう事があるくらい」

「役職で呼ばれるのが常ですから、特別なことではございませんよ。そういえば失礼なことに、私、名を告げていないのでした。こちらが聞いたのですから、先に言うべきなのに」

「お気になさらずに。この場はゆったりと楽しむ場なのですから。それで、貴女は……」

「榧、と呼ばれています。けれど、ほとんど夫婦の間で呼ばれているにすぎない名でありますから、私の噂話をする時に使っても、皆わからないでしょうから、使えたものではありませんよ」

「尊い貴女様の流言など、恐ろしくって、口が裂けてもできるものではありませぬ。お天道様に罰せられましょう。うふふふふ」

 空を掴むような会話でした。

 私はこの女がここに私を連れてきたわけを、話をしながら考えておりましたが、この会話からは真相を読みとれず、煙に巻かれているような感じがいたしました。違和感の糸を手繰り寄せようとするも、全く手ごたえが無かったものですから、私はそろそろここを出ようかと、切り出し方を考えておりました。

 この女と出会ったころは、目を伏せざるをえぬほどに苦手でありましたが、話してみると、ただ穏やかで、よく話す人でした。

 この女は、五年前に会った時から、この屋敷にずっと仕えている身なのでしょうが、この五年の間に、私は一度も顔を合わせたことはなかったので、今この状況こそが不自然極まりない状況なのですが、当時の私はそんな事は忘れてしまっていたのです。

 このとき、私の全神経を向ける先は貴方のみであって、その他は、ほとんど、どうでもいいことと片づけられてしまっていたからです。私は、貴方を愛し、貴方から愛されることによって、その自信から、余計な強さを持ち始めていたのです。本当は強くなどありもしないのに、私は勘違いしていました。愚かな娘でした。

 話に耳を傾けるのも億劫になってきていたので、心の隅に止めていた一つの事を話題にしようと思い始めていました。聞かなければいいものなのに。

 このことを話題に出した時から、私の運命は音を立てて崩れていくことになったのです。いまでも後悔します。少しだけでも考えてみればわかったことを。しかし、いまになって悔やんでみても、何も意味をなさないなどと知ってはいるのですが、これも人間の性ですから、私はいまになっても、いつになっても悔やみ続けるのです。きっとこれも、私に課せられた呪いなのです。そう分かりきるしか道はないのです。

「その、貴方の懐にしまわれている紙、お心当たりがあるのですか」

「……………………………」

「あ、のう」

「……やっぱり、貴女のことは嫌いだわ!」

 長い沈黙の末、激昂のままに発せられた女の甲高い声が、部屋中に響きました。部屋全体が震えるほど、大声をあげて憤慨する女の顔は、憎悪に染まっていきました。女は息を荒げながら、焦点の合わぬ眼をして、よたよたと奥の襖の方まで歩いていったのでした。

 呆気に取られ、しばらく状況を上手く把握できずにいました。自分が言われたことよりも、尋常でない女の姿に圧倒されていたのです。命の危機を思いました。

 そして、そういう時の私は、体を硬直させ、なにもできずにいるのです。

 早く気がついておけばよかったのです。女が五年間姿を現さなかったことや、恋文のこと、それが早くにわかっていれば、こんな惨事を避けられた可能性も有ったのかもしれません。いいえ、きっと、私が何をしてもしなくても、この女が、私を負の運命にたたき落とすことは、変わらずにいたのかもしれません。それはまさしく怨念でしたから。

 私の運命は、怨念に突き動かされていくのです。

 女は爪で襖をぼろぼろに引き裂くと、中から半畳ほどの大きさのある箱を十も取り出して床に投げつけました。女は箱を軽々と持ち上げるどころか、片手で鷲掴みにして、穴があくほどの強烈な力で指を食いこませて、軽々と投げたのです。

「……ゆびが、まがっ、て……」 

 女の指が、見るに堪えぬものになっていました。爪は剥げ、血まみれに。骨はこわれて、不規則な形に曲げられていました。腕も不思議にぶらぶらと揺れていたので、肩も外れたのだと思いました。

「指、指、指……貴女は、私の心配ではなく、自身の心配をしたほうがよろしいのではなくって。こんなもの、新しい血があれば簡単に治ってしまうの。嗚呼、滑稽、滑稽、とても滑稽だわ。私は貴女が嫌いでしょうがない……」

 私は固まり、ただ震えていました。

「貴女、恐いの、この私が、恐いのかしら。アハ、でもね。貴女の方が、よっぽど恐ろしいわ。紙の一切れ分の罪もないようなきれいな顔をして、愛されることが当たり前のような姿をして、とても幸せそうで、酷く醜い。何故……何故、貴女なんかが……あの方の妻に選ばれたのかしら……ねえ、品の欠けた顔立ち、鈍感で、無神経で、愛される理由など微塵も無いくせにぃ……石女の穀潰しのくせに……貴女の自害、失踪を願っている人がどれだけいることか。

 私は、幾度か、貴女を許そうと思ったの。でも、貴女はぬくぬくとあの方の愛を貪りつくすだけの虫けら、何も生み出さない怠惰な畜生だった。貴女にも何もないの、何もね。ただの動く人形なの。人ではないの。

 それに比べて、ほら、私のこの愛を見てみなさい。これも、これも……これも、この箱も……全てあの方に当てたもの。あの方と出会ってから幾星霜……書き続けてきた恋文なの……今でも絶えず、私の愛は泉のように無限に湧いて、大きく育っている……貴方も見て、ねえ、この万にも満ちた、私の愛の奔流を……ほら、ほら……」

 女は床を這い、手足をばたつかせ、仰向けになってもまだ手足を振り乱して、血の涎を垂らしながら、笑っているのかもがいているのかわからぬほどに狂っていました。床は紙で埋め尽くされて、女が暴れるほどに紙は千切れ、部屋中に舞って行きました。散った血のせいで、女の周りは深く染まっていました。紙に付いた血は、赤から、やがて、黒に転じていきました。

 私は気が動転していましたから、その場からどうやって逃げてきたのか分かりません。恐怖に震えながら、逃げ回ったのだと思います。女の姿は消え、私は自分の部屋の前に立っていました。私は貴方の顔を見るべく、急いて戸を開きました。

 貴方の姿はそこにはなく、床に置手紙が。

『わたしはもう、だめなのだ』と、それだけ。この世の終わりが訪れたようにまで思われて、卒倒しかけました。絶望の底に叩き付けられた思いがしました。しかし、倒れそうになる私を大きな手が包みました。長くて細くて優しい手は、私の肌が触れなれたものでした。顔を包まれて視界を失ったかわり、闇の中で貴方を感じたのです。

「わたしはもう、だめなのだ、お前無くしては」道化た貴方の声でした。私にとって最も優しく暖かな。

安心すると涙が流れました。顔に被さる両手を解き、体を反転させると、貴方は私の頭を更に深い優しさといたわりを持って撫でました。

「泣くほど嬉しいのかい。そうか、よし、よし。俺はどこにも行かないよ、榧、ずっとお前のそばにいる」

 貴方の胸を叩いて、泣きました。

 足の震えは少し残っていましたが、やっと安心できました。しかし、再び目を閉じた闇の中、あの女の言葉が恐怖と共に胸に上りました。それは、私の身に危険が迫るかもしれないという予感ではなく、貴方を失うかもしれないという予感からくる恐怖。貴方を失いたくない。

 貴方との絆の証が欲しかったのです。いつか失ってしまうかもしれない貴方の形見、残り香、面影を。思い出だけではない、形あるものを。

 貴方との愛の形を築きたいと強く思った私の口から出たのは、溜りにたまり続けた絶望の言葉。二千の夜を持っても成しえなかったもの。分かりやすいふたりの愛の形として、この目で確認できるもの。

 それは、私がどうやっても得ることができないもの。

 「……こどもが、産みたいです……」

 得ることができないとわかっていながらも、私は形あるものに縋らなくてはいけないほどに追い詰められていました。そんな事を言ってしまった私は、どれほど貴方を困らせたのでしょうか。わかっていながらも、止めることができませんでした。

 私は子供でした。子が子を産むなぞ、滑稽な悲劇かもしれません。

 貴方の胸の中に顔を埋めて私は泣きました。赤子のようにひとしきり泣いた後、私は貴方の胸の中で意識を失い、そのまま眠りにつきました。

 それからの私は、産むという事に強く執着しはじめたのです。この日の事は今も尚、鮮明に覚えています。今でも忘れられないのです。呪いのように思い出されては、毎晩のように夢の中で繰り返されるのですから。

 それから、二月後のことでした。

 あのような事があったにも関わらず、しばらくあの女の姿を見なくなりました。それでも私の脳裏では、あの日の事が悪夢として蘇り、うなされる日々が続きました。

 貴方はそんな私をとても心配してくれていました。

 夜中に涙を流していると言われたこともありました。

 しかし、私はそんな状態になっているのも関わらず、決してあの日の事、あの女の事は、口が裂けても言えぬのでした。私だけの問題ではないことこそが、最大の恐怖なのでした。来るべき時は迫っていました。

 春というにはまだ早いものの、曇りきりだった天が鮮明さを取り戻し、春の気配を匂わせる、移り変わりの季節。

その日は、満月でした。満月の日は人を狂暴にさせると言いますが、狂暴になったのは人ならざるものでした。

花の蕾が地に落ちる音が闇に満ちました。

 出会ってからどんなに月日が経とうとも、私の魂は、狂恋を感じておりました。顔を見るたびに愛おしく、胸が締め付けられ、高なれどもそれは苦しく、切なく、顔は熱く火照り、肌に触れられるならば、魂は遠くへ飛び立つのです。私は貴方の見るものを見、貴方の読むものを読み、貴方の聞くものを聞き、貴方の信じるものを信じ、貴方の言葉を歌の旋律とし、貴方の行くところを行き、貴方のとの人生を生きるのです。例え貴方がそうするなと言っても。前に私がそういうことを言いうと、貴方は「それは楽しいことなのか」と仰いました。ええ、とても魅力的なことだと思っています。好きでしたから。依存だったのかもしれません。しかし、それを確認する術はありません。なぜなら、私の目の前には貴方しかいなかったのですから。他の誰かと比べることなど愚の骨頂なのです。

 他の誰かがいたこともなければ、貴方以外を好きになったこともないのですから、貴方のそばにいたこと自体が依存だったとしても、わかるはずがないのです。

 貴方しかいなかったのですから。

 本当に貴方しかいなかったのですから。

 凛とした目で私を見つめる貴方を前にして、私は羞恥で火照る顔を隠そうと袖で顔を覆っていました。すると貴方は枕元にあった刀を手に取りました。

「榧、外へ出る準備を」

「えっ」

「しっ、……何かがおかしい。急いで」

 言われるがまま、素早く乱れを直し、それから貴方のことを見つめました。刀と矢を手に取って、目を閉じて静かに息をして、何かを調べている様子でした。

「あの、……どうなされたのですか」

「榧、大切なものを持て」

 私は貴方の手を強く握り、その瞳を強く見つめました。

「ありません……貴方以外には何も」

「よし、いい子だ。褒美に熱い接吻をあげたいのだが、今は逃げるぞ、そら」

 私は言葉のとおりにすばやく支度をし、貴方の体にしがみつきました。

「貴様ら! 何者だ!」

 突然、叫びと怒鳴り声と共に、危機を知らせる笛の音が、屋敷内に響きました。辺りは騒然としだしました。

「榧、行くぞ」

「は、はいっ」

 ふたりは手をつないで、扉を開けました。それからの光景は、まるで陽炎のようにゆらゆらと映りました。

 貴方と私が部屋を出た後、廊下の端から農民の格好をした男が、目を赤く光らせ涎を垂らしながら襲いかかってきました。

 狂ったように呪詛を繰り返している農民の格好をした男を、貴方は刀の裏を使って薙ぎ払いました。反対側から襲いかかって来た男にも同じように薙ぎ払うと私に呟くように言いました。

「殺してはいけないのだったな」

「……覚えていらっしゃったのですね。しかし、この者たちは……?」

 直視するに絶えぬ光景でした。目の前で倒れた人々が青虫のようにもがいていました。

ふたりの男たちは、床に這いつくばりながら何度も介錯を訴え続けました。

「…………」

「何かこの方たちを救う方法は無いのですか……」

 貴方は一呼吸おいて、ぽつりと言いました。それは絶望という意味にもよく似た、私の心をばらばらに引き裂く言葉でした。

「あの時と同じ呪だ」

 息を呑み、喉を締め付けられたように感じ、どうしても言葉が出なくなってしまいました。五年も前の日の別の恐ろしい出来事が、脳裏を過りました。貴方と私が出会った日のことです。残酷にも、私はこのふたりの男の運命を知っていました。

「どうすることも……できないのですね……」

 どうすることもできず、私はただ俯くだけ。

 地獄の断末魔の後、ふたりは溶けて、黒い骨になりました。この鬼哭はいまでも私の耳に張り付いています。

「だれが、だれがこんな事を……柳さん……」

「誰なのだ……見当もつかない」

「……ああ……」

「悲しいものだ」

 炎が屋敷を包み込んでいました。月下にてこの屋敷だけが緋色に染まり、まるで夕焼けのなかにいるようでした。目の前ではどんどん人が死んでいく、阿鼻叫喚の地獄絵図、悪夢のような光景でした。この時代においては走り方など武術をする者くらいしか知らなかったものですから、足手まといになってしまう私は貴方に負われ、貴方の背で揺れながら色々なものを見ました。

 刀で切り合う、屋敷の者と、町人たち。人が藻屑か人魚ならば、命尽きれば泡沫の夢のように消えることができるのに、転がり落ちるはごろごろと、肉の塊となった人の体ばかりで、どれもこれもが無口な形だけの物になっていて、凄惨な光景の一部と成り果てていたのです。涙などだす余裕すらありませんでした。

 胸が苦しくとも、貴方の身を離すものかと、精一杯に力を込めていました。

「榧、何も見るな。目を閉じて」

「……はい……」

 私は瞼をきつく閉じた暗い世界の中で貴方の強い背中を感じ、赤子のように貴方を頼りにしていました。この屋敷内で安心を得ることができるのは貴方の傍だけで、貴方がいなければ、私の命などなかったのでしょう。

「裏庭に出るぞ。牡丹がいる、そこから逃げる。裏庭の方角からは火は見えていない。まだ安全なはずだ!」

「はい!」

 貴方は私を負いながら、走って裏庭に出ました。この裏庭は、初めて屋敷に来た時に立ち寄って、貴方に助けられた場所でした。遠くで悲鳴と怒号が木霊し、暗い空の下、屋敷だけが赤く染まっていながら、しかし裏庭だけがまるで、別世界のように、虚無の匂いに包まれていました。

 風なく、希望なく、いるのは、貴方と私、そして、遠くに見える人らしい、いくつかの影。そのひとつに、私はあの女の姿を見ました。私は貴方の背中から降りました。

「あぁら、また、あったのね」

 私の姿に気が付いた女は、私に向かって声をかけました。

恋敵のはずなのに、憎しみを込めているはずなのに、その声には少しの親しみが含まれているようにも匂われました。彼女の憎しみによって繋がれた縁がそう感じさせたのでしょうか。

女は手に、端女の体を掴んでいました。端女は既に顔面蒼白となって、閉じるだけの力もないのか死んだ魚のごとく目を見開き、肺か気管を潰されているのか言葉か叫びかわからぬ低い音を漏らしていました。女の口の周りにはべたりと血がこびりつき、端女の首元には歯の跡が赤々と付けられていました。

「……いやっ……」

 女の口から、短い悲鳴が聞こえました。女の手から解放され、重力の影響をそのまま受けた端女は、地面に、どさりと叩き落とされました。

 女は貴方の顔を見ながら、次第に倒れた端女のように顔面蒼白になり、それから全身を震わせていました。

「お前は……凜……?」

 貴方は呆気に取られたまま、その驚きを口にしたのです。

「名を覚えていてくれたのです……ね」

 女の顔が途端に、不気味に明るくなりました。袖で口の血を拭うと、薄い笑みに顔を歪ませたのです。

 背筋が凍りました。美しい顔が一瞬、ふっ、と般若のように変わったのです。

「お前は確か……六年前に行方不明になったはず……」

「いいえ、私はここにいましたよ。見ていました。ずぅぅっと、貴方を見ていました」

「お前、何をしている」

 貴方は抑揚のない声で、女に対して尋問しました。

「何って、血をいただいているだけ。それだけ、でございます」

「なに?」

「それよりも、愛していました。貴方のことを、ずっと、ずっと……」

「……お前もう、人間ではないな?」

 女は薄く口元に笑みを浮かべると、それから対照的に悲しげな視線を地に落としました。暗い瞳は厚い膜が張ったようにして濁り、快活さは消え澱み、暗鬱な深淵に心を陥れるようにしていて、表情は生命の温もりを閉ざしているように冷えたものになっていました。

「ええ、人間は殺さないようにと我慢をしていたのですが、限界でした。だんだんと人間の部分が薄れてくるものですから、人間の血をいただかなくては鬼に完全に体を侵されてしまいます」

「だが魂も体も、もう限界と見える」

「………………」

 女はまた悲しそうな顔をするのです。あやかしの身になってさえ綺麗なのです。貴方を慕うがゆえの情の涙が、もともと美しい女の顔をよりいっそう麗しくさせるのでしょうか。

「この騒ぎ、お前の仕業か」

「ええ、そうですとも。町の者たちに、手伝ってもらいました」

「その力をどうやって身に付けた」

「鬼の血をこの体に取り入れた。それだけのこと。それより、久しぶりの会話です……とても素敵だわ……今日はなんと良い日なのでしょう」

「なぜこのようなことをした。訳を話せ」

「こうやって再び貴方様と会話するのをどれだけ夢見たでしょう。お礼として、お話させていただきましょう」

「榧……少し待て。話を聞いてここを襲った理由を知りたい。俺の背後に隠れていろ」

 貴方は小声でそう伝え、私を背後に隠しました。

 女は静かに息を吸って、しっとりと語り始めました。

「榧さん……最初は、貴女が憎いのではなかった。許嫁がいると知りながらも恋に落ちた私が悪いのです。私は、ただの人間でした。でも……」

 と言って、貴方の方を見て、

「貴方を手に入れるために鬼と手を結んだのです」

「…………」

「六年前のある日、私は貴方の許嫁であるお嬢さんに呪をかけようと深い森へ入りました。森へ入りしばらくした所で、私は後ろで何かが音を立てて倒れたのを聞きました。

それは鬼でした。両目を矢で貫かれ、瀕死の状態の。鬼は私の目の前でこう言ったのです。この力が欲しくないか、と。死にそうな声で鬼は続けました。俺はもう死んでしまうが、お前と一緒になれば俺はお前の中で生きられると。俺を体に取り込めば力が使えるようになると言いました。驚きました。私はためらうことなく受け入れました。鬼の言葉が嘘か真かどうか確かではなく、鬼が私を乗っ取ってしまうかもしれないことなどまるで考えていませんでした。私がいいと言った途端に鬼は私に融けましたが、鬼の意識は私の中に生きず、力だけが私の中に宿りました。しかし、その代償として光を失いました。この両目は開いていますが、何も映していないのです。鬼が両目を矢で射ぬかれ、視力を失っていたのと関係があるのだと思います。しかし、鬼の力なのか、視力が無くなっても、身の回りの全ての事が、容易に分かるようになりました。例えば、息遣いや、体温や、匂いで、どこに誰がいるかは、すぐに分かるのです。強い呪術も使えるようになりました。この民たちように、人や動物を操ることなどたやすいことなのです」

「その鬼は黒い布で全身を隠していたか」

「ええ、でもなぜ、そのようなことを……?」

「嘗て物の怪の類や鬼が人間の世界に来て人間や動物を食っているという噂があった。俺はそれを聞いて狩に行っていた。おそらくそいつは、俺が殺した内の一つだろう。両目をやっても生きていたか……ここら辺に来た鬼は全て俺がやった。その矢は俺の放ったものだろう」

「そうだったのですか。運命を感じます」

「なぜ鬼など取り入れた」

 悲痛に。

「なぜって、だって……そうでもしなければ、私なんかでは、貴方を私のものにすることはできなかったから……私はただ貴方に振り向いて欲しかっただけ……その女を置いて私をお選びください! 今日も恋文を貴方のために書きました。いままで書きためた恋文はもう万をはるかに超えています……私が貴方に出会ったころから書いているものです」

「榧が日々何かに怯えていたのはお前のせいだな……」

「貴方がそう思うのであれば、そうなのかもしれません」

「貴様……」

「出会った時から、貴方には許嫁がいたことは聞きておりました。しかし、その時にはもう私は恋に落ちていました。止められない想いをただただ恋文として書き綴っていました。身分が違うだけで貴方と満足に会えない。身分が違うだけで貴方と満足にお話ができない。身分が違うだけで、貴方と恋ができない。それを身分が同じだけの小娘が貴方を奪っていった。なんてこと……許嫁なんて、何の意味もない。私の方が愛していたのに。そう思えば思うほど……その小娘が憎らしくなってどうしようもなくなった。だから鬼が力をやると言った時、何の疑いもなしにそのまま承諾したのです」

「榧が輿入れする前、榧の屋敷の周辺に現れた男はお前の刺客か」

「はい。でも刺客が間抜けだったせいで、暗殺に失敗してしまいました」

「輿入れの日に茶屋で暴れた男もお前の刺客だな、榧の屋敷の周りにいた者と、同一人物の可能性が高い」

「貴方がそう思うなら、そうなのでしょう」

「ではここで五年前に榧を襲った犬も……」

「はい」

「……なんてことを」

「愛していました……こんな姿、貴方だけには見られたくありませんでした。私の体はもう限界。鬼に支配され始めています。力は強くなるけれど私ではなくなってしまう」

 女は肩を小刻みに震わせていました。細く長い首筋には無数の血管が蛇蝎のように這っていました。濁り始めた瞳を私に向け口を鯉のようにぱくぱくと開け閉めしながら私に言いました。

「貴女、そもそも、柳様を愛しているの」

「……愛しています」

「貴女は違う。貴女はただ強い者にしがみ付いている弱者にすぎない。対等な立場でないくせに! それで愛が成立すると思ったら大間違い。あああ……なんて厚かましいのかしら……」

「違います! 私は…………」

 私の言葉が嘘か真か自分で分りさえすれば、素直に罰を受ける覚悟もできるはずなのに。

「お前さえいなければ……」

 と言った女の顔は般若に変わり、人間に戻るのを何度も繰り返しました。

「お前さえいなければ!」

「話は終わりだ。逃げるぞ、榧」

「はっ、はい」

女は不気味に笑いながら、下を向き、ひとり肩を揺らしておりました。貴方は私を背負い、馬が繋がれている場所まで走り、愛馬の牡丹に乗りました。牡丹が走りだした瞬間、喉を引き裂くような甲高い、悲鳴にも似た怒号と共に、女が宙を舞いながら、私たちの後を追ってきました。

「逃しはしない。生かしておくなどできるものか」

「榧、しっかりつかまっていろ」

 私は言われるとおり、持てる力を全て使って貴方の腰にしがみ付きました。貴女は弓矢を構え、後ろを向きながら、それを女に向けました。

「嗚呼……!」

 貴方の矢が女の胸に深く突き刺さりました。女は地面に叩きつけられ、幸福そうに笑っていました。好きな人に殺される者の顔は綺麗でした。

 女は地面に這いつくばりながら、死に際に、片手を口の前にかざし、ふう、と息を吹きかけました。その瞬間、私の目の前は、真っ黒な霧に包まれ、女の声が頭の中で鳴り響いたのでした。

「私の魂はいつか、必ずお前のところまで届く、それまでせいぜい私の呪に苦しむがいいわ」

 女の言葉が頭の中で響いた後、黒い霧は晴れました。女は静かに笑みを浮かべた後、幸せそうに死んでいきました。それは見とれるほどに美しいのでした。まるで没することこそが恍惚であるように。

「お前たち、もうここは無理だ、逃げろ!」

 生き残った者は十人程度。私たちは共に屋敷を残し、逃げて、逃げて、遠くまで逃げきりました。

 揺れる牡丹の背中の上で貴方の背中にしがみ付き、強く目を閉じていました。女の不気味な笑い声だけが、何度も耳許で囁くように、微かに鳴り響いていました。

「――許しは……しない」


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