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大地への帰還  作者: 桐生真之
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9 残像

 誰かが青年の部屋をノックした。誰だろうか。その誰かは、ドアノブを捻って入室しようとしている。青年が鍵をかけていたため、入ってこれずにいる。

「お兄ちゃん、ご飯できちゃうから集まってー」

 のんびり、童謡でも歌うかの如くの口調である。

 青年は立ち上がり部屋の明かりを点け、ドアを開けた。

「ご飯ですよー」

 青年の顔を見上げる妹の広い額で、光っている物がある。銀色の髪飾りである。細く伸びた二本の刃の先は尖り、怪しく鈍い光を放っていた。鋏の形状を模した髪留めだった。

「あけび、台所にも居間にもいなかったが、どこにいたんだ。自分の部屋かい」

「お父さんの書斎でご本を読んでいたの」

「いつもながら、よくあんなところに入ろうと思うね。どんよりとして、でも張りつめて、胸が苦しくならないかい。子供のいる場所じゃあない」

「そうかなぁ。わかんない」

 妹は首を傾げて微笑んだ。この少女の内に染みついた仕草は母の姿を喚起させ、青年は目を背けた。

 湯上り直後のためか妹は常の甘い菓子の香りよりも石鹸の匂いをさせた。青年は匂いの違いをきっかけに、多種の異質さに気が付いたのか、ふと妹の顔を見た。何故なのか、石鹸の香りと混ざったこの娘の甘い香りが鼻先を撫でた折、青年はこの妹が今までとは別の人間に変わってしまったのではないかという妄執のような疑念と胸騒ぎに襲われた。

 甘い香りは、乳児のような乳臭さでなく、食虫植物が纏うような、陶酔を促すような危険性を帯びていた。

 青年は妹の顔を注視して、違和感の正体を探る。目の前の娘を見ては訝る青年、怪訝そうな顔を隠そうともしない。

 少女は大きな目をさらに丸くして青年の顔を見つめていた。小さな頭蓋を、花の蕾を逆さにして被せたような髪が包み、無垢を絵に描いたような丸い両目の中心から視線を下に滑らせると、小さな鼻と小さな口が、ちょん、と行儀良く付いているのが窺える。つるん、と、むき玉子のような肌で包まれた頬は、ピンク色で、赤子のように瑞々しい。どう見ても、顔だけは、いつもと変わらぬ、幼く無垢なあけびのままである。

 外見だけではわからぬ妹の変化に戸惑う。こういった変化に気づくのは得意だったはず。妹の変化を確かめるというよりも、己の調子の変化を確かめたかった。

質問によって、妹に変化が見られたら自分はいつもの調子であるが、妹に変化がなければ自分はいつもとは調子が違うことになる。で、誰かに恋したか、とでも聞こうと思った。でもやめた。

 やめて、ただ「ここに何をしに来たんだっけ」と問うばかり。

「もうすぐご飯の準備ができるから来てって、お母さんが」との妹の応えに、「そうだった。うん、すぐに行く」と返し、ふたりして暗い廊下を歩きだした。あかね色に染まっていた空は夜の影にくすんで日中の面影は失せていた。歌とピアノの旋律も神隠しのように消え、ふたりの歩みで床が鈍く鳴るばかり。

 居間に着いたが、しかし、食卓を見ても何もない。

 台所から母と柊の声がしたので、ふたりして台所へ向かった。母の背に声かける。

「手伝おうか、何か」

 振り向きざまに目じりさげ、華やぐ応答。

「ありがとうございます。もう少しで終わりますから」

 母の隣、手伝う柊の姿がある。作業を止めてこちらを振り向く立ち姿、花弁が八方に散れる如く顔を顰めたのは、その網膜に青年をおさめたからで、すう、と僅か、息すって、胸はりつめさせて姿勢を固めた。

「また私を虐めるの」

 舌の上で転がしたくなる麗らかなる妙音、活発な次女にしては落ちついた声だった。

「露出狂が何の用なの、また脱ぎに来たの」

「俺は露出狂ではない」

「露出狂だよ、露出狂じゃないなら何だって言うの」

「ただの軽装主義者さ」

「なんちゅう世迷い言をおっしゃるか」

「まあまあ、我ら兄妹。仲良くしようぜ。いままで色々あったが、どんな時でも仲直りしてきたじゃないか」

「なんですと」

「あれはお前がまだまだ幼い頃。お前が裸で道を歩いていたときだった……」

「そんな場面一度たりともないわ! 私史上如何なる時間においてもなかったわ、そしてこれからもないわ!」

「ん、なかったかね」

「なんてこと、あなたみたいなものはもう人ではない」

「ならなんだって言うんだ。悪魔とでも言いたいのか」

「決まっているじゃない」と言って、「ゴミクズ界・無節操動物・無節操動物亜門・変態網・軟派目・真ゴミ野郎亜目・鼻の下のばし目・チャラ上科・チャラ科・ゲス属・ゲス種・高咲正樹。それが、あなたでございますです、お兄ちゃん」と付け足した。

「危険防止のためトイレは必ず保護者同伴でご試用ください」

「ノーモア人権破壊」

「はあ、もうやめにしないか。悪かった。謝りたいんだ」

 穏やかに、和やかに、厳かに、狡猾に、企みを巡らす。

「お兄ちゃんが謝罪に来るなんてありえない。あなたは変態を誇っている。だからあなたは謝らない」

「いいかい、言葉は刃よりも融通が利かない。一度でも出してしまえば取り返しがつかない。だからそんなありえもしないことを思いつきで言葉にしてはいけないよ」

 歩み出す。

「美辞麗句の餌を撒き、丸々肥らせて、食べるのよ。あなたは」

「さっきはどうかしていたのさ。申し訳なかった」

 にやけそうになる頬に冷水を浴びせ静める。

「……本当なの」

 疑惑と期待、背反する感情の狭間で揺れているのが表情から見て取れる。

「もうあんなひどいことしないから、仲直りしてくれないか?」

 技の選択。それは好みによって決定される。

「誓って。仏教聖典に、バイブルに、コーランに、ヴェーダ聖典に、誓って」

 御生憎様、青年は基督教徒でも仏教徒でもイスラム教徒でもヒンドゥー教徒でもない。よって、誓うこともない。

「誓う。俺は間違いに気付いたんだ」

 餌をばら撒き、食らいつくのを待つ。間合いを詰める。仕掛けるにはまだ早いだろう。逃げられなくなる距離まで詰め寄るのだ。

「嬉しい」

 甘い。柊は俯いて、泣き顔を見られまいと両手で顔を隠す。天秤はこちらに傾いた。

妹は安易に理想を求めたようだ。決めた。鯖折りだ。良かったですね、数秒後には極楽浄土かヘブンか知らんが、遠い所へフライアウェイです、柊さん。

「ごめんな、もうあんなひどいことはしないから」

 殺気を宥める。ここでばれてはいままでの過程が水の泡。

「優しいお兄ちゃんにまた戻ってくれるの」

 柊は顔を上げる。目、鼻、紅くなっている。泣いている。

「ああ」

 笑み。

「お兄ちゃん」

「いつまでも優しいお兄ちゃんのままでいさせてくれるかい」

「私、優しいお兄ちゃんが大好き」

 泣き笑いのような顔をしている。

「俺もお前のことが大好きさ」

「お兄ちゃん」

 両腕を伸ばす。あと一歩で間合いだった。しかし。

 違和感。敏感な嗅覚は異臭を探知する。タマネギの刺激臭。

 違和感。鋭敏な洞察力で異常を認識する。偽りの泣き顔。

 歩みを止める。青年が気付いたことに柊が気付いた。

「貴様!」

「ちぃ、ばれたか」

 柊の目が変わる。鋭い猛禽類の目。

「だがもう遅い!」

 間合いに入る。打撃を予想してか柊は防御態勢をとる。

「莫迦め!」

 両腕で柊の胴を締め上げる。しかし、青年の両腕は柊の体に触れもしなかった。幻影をすり抜けた。

「す、すり抜けちゃう?」

「残像なのでした」

「物理現象を超越している!」

 背後に柊の気配。振り向いて敵を片手で薙ぐ。しかし空振り。

「そちらも残像です」

「世界の法則カムバック!」

「ふふふ、捕まえられないでしょう。どう戦う?」

「ふん、くだらん。どんな技にも弱点がある。どんな人間にも弱点があるようにね」

「強がりを言って、何も無いくせに」

「強がりではない。俺が勝つのかそれともお前が負けるのか、とても楽しみだぜ」

「どっちにしろ同じ結果じゃない!」

「フハハハハ! もう一度残像を出してみろ」

「後悔しないことね!」

 柊が残像を出した。青年は、残像に抱きついてセクハラをしたのである。

「フハハハハ! これでお前の精神はズタズタだ!」

「やめれ!」

 首に手刀の衝撃。

「ゆ、油断した……で、でも、ぜ、ぜんぜんきかないもんね!」

「足プルプルやないか」

「くっそおおお!」

「悪は、滅びた」

 霞んだ網膜に、隠していたタマネギを俎板に置く柊の姿が映し出される。

「タマネギで涙を……」

「ふう、タマネギとあけびお姉ちゃんに教わったバリツがなければ私がやられていたわ。でも」

「でも…………?」

「強くなってもあなたを助けられない…………」

「なにを言っている…………」

「……まさき……………」

 朦朧とする意識の中、微かなる囁きを聞いた。

「……さつき……」

 声はだんだんと大きくなったが、また遠くにかすんだ。

「…………かや…………」

 空間は言語を分解し、音の成分はノイズと混ざり合う。

 音の波は掻き消え、やがて世界は揺らめく闇へ。


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