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大地への帰還  作者: 桐生真之
17/56

G 怨嗟

「項垂れた百合

 矩形に切り取られて闇を透かし見る

 四肢は冷えて竹のようになり

 歪曲部は鉄のように硬い

 体を大地に置き去りにして

 魂は天へと上り行く」

 

 

 間断なしにしくしくと引き攣るような泣き声が、森閑とした地下の野に漂っていた。すすり泣きが木魂し、音の波紋が樹木を荘厳に染め上げている。慇懃に首を垂れて女の息遣いのひとつひとつまで神経をめぐらせている木々の素顔は青年にも承知である。だからしばらく黙って、声をかけるその刹那を待っていた、待ち焦がれていた。

「何も言わないのか」

「泣いておられたので」

 青年は突き放したように応えた。言葉の端には一抹のいらだちが引っ掛かっていた。

「怒っているのか」

「怒っていますよ。あなたがまだ幻想に浸っていることに」

「幻想ではない。あの人は戻ってくる。生き返る」

 語尾を格段にあげて女は言ったが、そのような反応を示さなくても青年には女の苛立ちは理解できていた。女の意思表示は青年に怒りを示す以上の用途を越えていた。

「あなたがしている行為は、彼の死を確認するための行為なのではありませんか」

 女が獣のような声で悲鳴を上げた。口元を歪ませ涙を散らす、散らした涙が、ぽたり、女が手に持っていた髑髏に落ちた。

 心の涙腺が壊死して、涙を流すことはできても泣くことのできぬ恋人が、こうまで滝のごとしの涙を流すとは、その相手が、恨めしい。

「あの人はいつ戻ってくる」

「戻っては来ません」

 青年の冷徹を極めた物言いに女は激高した。

「お前なぞ塵で芥だ! ぶら下がっているものに啡を吐け!」

「憎しみに身を委ねないで下さい。委ねるなら愛に」

 肩に手を置く、しかし振り払われた。青年の表情に一片の変化が訪う。

「うるさい!」

 嘆きの絶叫と拒絶の咆哮の混沌が青年を鋭く打擲した。青年の柳眉が軋みで陰る。

「あの人に……会いたい」

 と嘆き呟いて、かつての愛しき人の頭蓋を抱いて接吻をした。

「私はもう、誰も愛さない。疲れた……」

 不意の言葉、動揺すべき類の。

 しかし対して、青年の相貌には笑みが生まれていた。

「何を笑っている。気色の悪い。とうとう狂ったか」

「いいえ、私は嬉しいのです」

「なんだと」

「とても良いことを聞きました。あなたから」

「何を言っている」

「あなたはいま仰いました、もう誰も愛さないと」

「そうだ」

「その言葉はかつてあなたが誰かを愛したことがあることの証です。枯れてしまったとしてもかつてのあなたの心は虚ろな砂漠ではなく水の湧き出る泉だった。枯れてしまったのなら呼び起こせばいい。どこかに水脈はあるはずです。かつてそこから滔々と湧き出た愛の源泉が」

「莫迦なこと」

「莫迦でも私は探します。あなたが忘れていたものを見つけ出すまで」

「お前には何もできん」

「あなたを喜ばせます」

「どうするのだ」

「私をかつて失った片割れだと思って下さい。結合して言葉など捨て去ってしまえば良い。言葉が消えれば呪詛も吐けなくなるでしょう。憎しみというものをあなたの心から消し去るのです。私はあなたに全てを赦していただきたい。例え罪を犯した相手を愛せないとしても、己が相手に抱く憎しみに打ち克とうとする試みが許しです。私は貴女にこれ以上傷ついたままでいて欲しくないのです」

「言うからには気構えはできているのだな」

 膝をつく。両手を胸に当てて言う。

「出来ています」

「痛みを伴うが」

「それであなたの気が済むのなら。それであなたの魂が鎮まるのなら」

「後悔するぞ」

 鍵爪で両肩を鷲掴むと、女は青年の首筋に牙を突き立てた。青年の咽喉が引き攣って、呼吸が切れる。万力で締め上げるような力で肩を掴まれ、肩の肉が強張る。そして肩の肉が裂ける。妖女は徐々に顎に力を込めて、みりみりと刃を肉にめり込ませた。ふたりの口腔に鉄の味が充満した。青年の呼吸が小刻みにぶれる。牙を離す。

「痛いか」

 応えること能わず、額に玉の汗を浮かべながら虚ろな瞳で笑む、その顔の美しさ。

「良く耐えているじゃないか。だが私の受けた痛みはこんなものではなかった」

 首に強く牙を突き立てる。先のように甘くはない。鞭がその尾を返すように一瞬で首を捩り、喉笛を食い千切る。

「ア…………くぁ――っ…………は……っ……あっ――」

 鮮血が乱れながら飛び、糸を引くように首筋から流れて地面にぽたり。もう呼吸すら自由にできず。

「感じなさい。これが私の痛み! いや違う! こんなものじゃなかった!」

「お気持ちは晴れましたか」

「晴れるものか。なにも変わるものか。いままでもこれからも変わることなくこのままずっと虚ろなまま。なにも期待しないで生きるのだ。お前にこの気持ちがわかるか」

「また私が癒して差し上げます」

「やめろ……私はもう忘れたいのだ。全て」

「水に流すことは赦しではない。罪を忘れることは美徳ではない。呆けた愚者に成り下がるおつもりでしたら私が許しません。罪はなくすことは出来ない。しかし赦すことはできる」

 転がる骸骨に目をやる。

「あなたもいつかはこうなってしまうということを魂に刻み込んでください。それまでに、あなたには幸福になってもらわなければ」

「私に隣人の不幸など意に介さない無慈悲さを持てというのか。私を捨てた人間たちのように。幸せになりたいか。なりたいなら私を捨てた人間のように屍の上に城を建ててのうのうとしていれば良い。神経の鈍った人間だけが幸福になれる」

「あなたはかつて言いました。痛みを受けろと。いつかは死ぬのだということを魂と肉体に刻めとおっしゃいました。あなたが言ったことではないですか」

「憐れむなら愛しているなら、楽にしてやれ、殺してやれとも、言っていたが」

 青年は憐憫を込めて笑む。

「あなたは……早くここを出たほうがいい」

「そして私を裁くか」

「いいえ、人が神を裁けないように、私はあなたを裁けません。……もう出ましょう」

「薄汚れた世界に出て何になる」

「あなたは人の温もりを知らなかっただけなんです。だからそんなふうになってしまったんです」

「ここがいい」

「こんなところに閉じ込められていたから、もう自分からでられなくなってしまった。あなたはここに閉じ込められたんです。そしていつしか受け入れた。でも恨みは消えず、いつも外を見て、いつも世界に呪詛を吐き続けた。でも尊敬します。私なら外を見ずに自分だけを見つめることをはじめてしまうのでしょうから」

「お前にとって浮世は浮かれる世でなく、憂く世であって暗いもの。そこに私を連れていくのか」

「例え世界が汚れていようとあなたには私が、私にはあなたがいます」

「人間を見て私は悲鳴を出す」

「悲鳴なら私が呑み込んであげます」

「お前は、自分の悲鳴を聞いたことがあるか」

「あります。覚えているのは一度だけ。この世に生を成した時」

「そうかい……」

 嘆息まじりに女が応えた。続けて青年が返す。

「私は自由が恐くて仕方がなかった。自由を殺してほしいのです。この大波の大海に泳ぎ方も知らぬまま投げ出され、さあ、どうにでもしろと言われている。気が狂いそうだ。自分が何をしてしまうかすらわからない。それが恐かった。しかしもう、私はあなたを許します」

 と言い終えて、ふつりと会話が途絶えたのが気になって、女に視線を合わせれば、顔色を赤紫色に変えて、まるで域でも詰まらせているような容態。

「外に出てどうする。殺すのか」

「いいえ、殺しません。泥の中を這い蹲ってでも生きていくんです」

「お前は母親の役割を知っているか」

「優しく包んでやったり、支えてあげることではないでしょうか」

「だからお前は腑抜けなのだ。包んでやったり支えてやったりしなくても良いようにしてやるのが母の役目だ。この腰ぬけの屑が。お前が言うような母親になって欲しかったら、さっさと人間を殺してこい。この豚め。醜いなら殺せ。辱めて殺せ。可哀想だと思うなら殺してやれ。慈悲の心があるなら生の苦しみから解き放ってやれ」

「黙れよ、売女」

 一縷の怨嗟を込めた言葉は刃と化して女を刺す。ヒッ、と呻いて息を引く、女が首元に手を当てて口を開閉、悶えて喘ぐ。首筋に浮いた血管は女の苦しみを表していた。苦痛の海に解き放たれた女、醜悪なる面を血染めのごとき赤紫に変えて、最期は目から血の涙を流してこと切れた、その呆気無き様。

 死んだ女を横たえて、踵を返して扉に向かう。

「あなたはとうとう自由の恐怖から私を救ってはくれなかった」

 捨て台詞だけ残して去った。

 この後、青年は長い廊を歩き続けて奴隷の集団に出くわした。少女を犯そうとする男たちを殺し、少女に礼を言われた。そして笑顔で青年は応え、助けた少女を犯して喰らった。

 頑張ってやってきた結果がこれだった、これ以上はない、これが最上で、これが最後の答えだった、と青年は思った。


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