8 焦燥
妹の張り手をかわせずに失神しつつあったが寸前のところで暗闇に打ち捨てられずに済んだかも、と思うのは希望であって、本当は自分が何処に居たのか厭というほど知り尽くしている青年は、輪廻転生を繰り返すように刹那の深い眠りから覚めたばかり。元来なんらかの小さなきっかけがありさえすれば意識を失いやすい彼であったから、数秒のことだとはいえ意識は自身の深層という宇宙に打ちやられ、まことそれが一呼吸するくらいの短いあいだであったから、青年の他、誰も、彼が表層としての浮世を飛び越え、意志なき異世界に隔離されていたことになぞ気が付かず、
「ひい」と目の前の、露出狂にばかり気を取られてしまうのだった。息子の過ぎた悪戯に母は白く麗しい小作りな面を青くして、そればかりか手先・足先・口先に怯えを含ませ震えているではないか。
「ん……母さん」
凪いだ箱庭に咲く花のような我が母でありながら奇怪な態度であったが、青年には母がこれほどまでに恐怖するのがわからぬ。妹の下着を着用する息子を見ての絶望がそうさせたのかの考えもあったが、それにしてもあまりにも過剰な反応ではなかったか、ああまで母を敏感にさせた理由が自らの悪戯だけのせいだとは思いなすことはできない。
「あああ……ああ、ああ」
恐怖に凝固した大きな瞳が意思とは無関係に大ぶれにぶれた母の、白い顔から血の気が引いて青色にでもなってきたように見えるほど。腰が引け、体が麻痺し、息子から逃げようと後ずさろうとするも能わず、
「どうしちゃったの」と伺う青年の言葉にも答えられる様子ではない。
「大丈夫だから。恐くないよ」と一声かけて台所から出ていった青年は、着用していた妹の下着を洗濯籠に捨てて私服に着替えて台所に舞い戻った。ぐっすりと眠っている子兎に虎の咆哮を聞かせるような、半ば放心している母の肩を強く握ってみたい嗜虐心が彼の心中に去来したが、母を壊すと二度とあばらの痛みが治まらないような気がした青年、寸鉄のように鋭い手、卵でも包めるくらいに優しく作り変えて、母の頬を撫でて抱きしめた。震えていた体が静かに弛緩していくにつれ、母の呼吸が間近に感じられる。するすると背中をさするとやっと母はその微細な神経の繋がりを取り戻した。
「ああ……ごめんなさい。なんだが私、へんで」
「あは。ごめん、ごめん。悪戯が過ぎたかなって、反省しています」
子をあやすように擦っていた母の背中を軽くぽんぽんと叩き、青年は母の体から離脱した。
「ごめんね。じゃ、部屋に戻るから」
「は、はい」
「……ごめんね」
とさらに一言、同じ言葉を付け加えて青年は母のもとを後にした。
重い闇が糖蜜のように纏わりついてくるのを振り払いながら部屋に帰った青年は焦燥したまま先刻の、母に強く触れようとした時の本能による拒絶と畏れの不思議な乱れ打ちに困惑し、広々と考え巡らせようとするもすればすれほど、最果ての荒野のような自室のこと、さらに鬱々として気がついたときには部屋の隅で頭を抱えている乞食のような己の姿を見出すのではと恐れ入って、押入れに片付けておいたパソコンを机に乗せ、スイッチを入れる始末。
動きのあるものが欲しかったがそんなものこの御時世、なかなか手に入るものではない。元来どんな夢でもよく覚えているからか眼球の裏に仮想現実を現出させること吝かではない彼は、画面の対象Aに脳裡にて生命を植え付け、果てて、このときも、白濁の飛沫を紙くずのなかに迸らせたのだった。
(ああ、まただ……)
自我の曖昧模糊とした人間であると自覚した彼であるが、特に、このようなとき自分が自分ではないように感じた。まるでこの冒涜的な行為は他の誰かに操られながらしているような気になるのだ。そしてこの行為の後には、度々自分が男なのか女なのかわからなくなることがあった。
うなだれながら聖母に背を向けて呪詛ともつかぬ悔悟の念を呟く彼の手と紙くずのなかでは死んだ精虫が濁った瞳を空に向けて頬を青ざめさせていた。しかし産み出すも殺すも全ては神の所行、このようなことで憂えていては神の哄笑を受けてしまうのではなかろうか、と思う青年は紙くずを厠に投げ捨てる。
…………ベッドに腰掛けてうつらうつらしているとぽろろんぽろろんと反響するのがあった。水枕に鈴いれて、氷と水に銀色の表面を打ちつけているような、響いているが曇った音が鳴るのは柊の部屋からで、廊の影の圧を潜りぬけて届くのだから彼女の奏でる音がいかに透徹したものかは想像し難いくらい。
下界の穢れを愁う天女が唄う哀傷歌のような旋律が耳を洗うのが快い。母の子守唄を模しているのか、聖母か天人の歌声のようでもあるが、まさしくこれは青い林檎の酸味のような萌えだすまえの特別である。
「――さて、そろそろじかんよ――」
己の瞼が開いているのか閉じているのか分からぬ青年、歌の声と闇と自身の境界線さえもはっきりとせず、寝耳に水には程遠いまどろみの誘いはどこからか、甘い刺激となって耳朶を浸す。現に眠り、幻夢にて起床せり。




