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大地への帰還  作者: 桐生真之
15/56

F 動揺

「哀傷の唄を口ずさむ

 石女の母の礬水紙は

 春泥となりし遠い夢

 愛しき人との逢着も

 東雲待つ間に笛の音に飛び散る

 幾重にも悲しみを湛えて

 苦しみは輪廻の如くその生白い首筋に舞い戻る

 大地にもなれず月にもなれぬ

 お前の生き様は虚無そのもの

 痛みを受けるのみの傍観者

 時は一続きにあらず廻るのみ

 苦しむことが償いというならば

 お前はすでに刑を果たしているだろう

 ああ、母なるものよ

 お前は悲し」

 

 

 多くの夢は手足が生えて歩み出し、翼が生えて宙を舞う。イカロスの夢の如く。それは積もり積もった憎悪とて同じ事。憎悪も、人に向かって飛翔する。

 殺しを終えて主人のもとへ帰ってくれば、隷属的な男の上で、女が主となる形の交合。

「こいつが女だったらお前もこいつで楽しめただろうにねえ」と女は男に言った。

「私は男でも女でも構いやしませんが」と男は女に言った。

「そうかい。ならやってしまってもいい。こんな屑をくったってなんの楽しみもないとは思うがね」

 青年は見知らぬ男の上で連続的に跳ねる恋人に向けて呪詛を吐いた。

「……うんざりだよ、お前には」主従の構図が、揺らいだ。

「俺が憐れかどうかはお前が決めることではない。犠牲者のふりばかりして。人が死ぬのを楽しみたいなら自分が死ね。苦しみを知っているかだと。痛みがわかるかだと。痛みなどわからん。お前の痛みなどわからんさ。わかるのはお前が何を考えているのか。感情の共有などできるか。苦しいと思うのなら戦場へ行け。苦しいなんて言っていられなくなる。お前はただ俺を否定するのが好きなだけだ。俺が主体性を持つことをよしと思っていないだけだ。俺を支配するために」

 青年の態度の豹変に、女と男はその面に明確なる動揺の色を浮かべ、しばし言葉を逸し、口先から微弱、渇いて掠れた息を漏らし続けていた。恒常性を保ちながら連動していた彼女らは接続を断ち切らぬままに青年の挙動へ瞳を凝固させている。その顔に浮かぶものは恐怖であった。

「よく聞け。お前は俺のことを悪魔だの怪物だのと言った。そうかもしれない。確かに俺は心に黒いものを飼っている。だが俺は、人間以外の何物でもない」

 口上を述べ立てて青年、猛禽の類と見紛うほどの鋭き爪を、上膊に置き、己が肉を引裂いた。

「お前たちは俺たちのような人間がいることを知っているはずだ。ほら、見てみろ」

 筋組織の細かに張り巡らされた鋼鉄の鞭のようだった硬い腕から、鮮血がしぶいて眉宇の造形の秀抜なる青年の面に散るのだから、痘痕のようでなく、女郎が手遊びに紅差したようで、危うげで艶な。

「お前たちと同じのような赤い血が俺にも脈々と流れているだろう。見えるか。これが証拠だ。俺もお前たちと同じ、肉体と心という不条理なものに振り回される哀れな生き物だ」

 己の身体を傷つけるという非本能的な行為であるが、本能から遠い場所に身を置いた彼には、この行動は多面的な特性を持った上でのひとつの姿に過ぎない。自由意志を侵された青年であるから、理解し難い行動を起こすまで精神が追い込まれていたと考えるしかなかろう、とそんなことを青年は思い巡らす、それもひどく客観的に思うのである。

 青年は女の下で硬直している男の顔を踏みつけ、女の首を絞め、手足を捩りながら力を加える。

「なぜなんだ、なぜなんだ、なぜ苦しむばかりなのに、それでも生きなければならない」

 男の顔面が力に耐えかね、変形した後、それすらも受けかね、青年の踏みつける力のままに潰れた。断末魔すら発せぬ時の短さに、男の体は殺されたこともわからぬのか、静止したまま永遠を約束されたに見えたが、ここは生命と輪廻の狂えし高楼である、男の死体は瞬時に腐乱しはじめ、蒸気を立てて消え去った。儚さなどひとかけらも残さず。

 青年の手に首をつかまれどうにか抗じようともがく女、声すら出せぬ憐れな様で、青年の双眸をねめつけた。女の赤い瞳の色を憤怒の劫火とするなら、青年の暗い瞳は哀情の鬼火である。

 青年の口唇が別れの台詞を呟いた、その、玉響に、

「――――ッ」

 青年の脳髄は、握れと命じる。末梢神経群へと伝達された信号により、腕の筋組織は急激な収縮を遂げ、青年の手は、女の首を――――ねじ切った。

 酸欠により青くなった顔を繋いでいたのは血に染まった赤い首。その血の色に負けぬ赤さの口腔から、温かな血が、こぽり、と垂れて、

「――――ああ」

 ああ、悲しみ笑う、妖の花、その艶姿。

 と、頬を膨らませる女の生首が、ドッ、と血を吐いた。吐かれた血は青年の面一面を染めた。

 青年は急に我に返り、女の魂を吸うように接吻した。これは青年と女の別れの儀式でもあった。

「ああ、可哀想、可哀想。なんで、なんで……」

 青年は泣きながら、恋人の頭部を胸に抱きしめた。

「痛かったでしょう、痛かったでしょう……」

「もういいわ」

 胸に抱きしめた女の頭が、もぞもぞと蠢いた。

「あなたは、どこかへお行きなさい」

 青年が女の生首を持ち上げて、見ると、微かに言葉を話している。その目つきが、哀しい目つきが、全てを諦めた母に似て、

「私はもう、疲れたから」

 先刻までの憤怒に燃える瞳はどこへいったのか、哀の色に染め抜かれた女の瞳。

 青年が言葉をかけようとしたそのおり、女の白髪が蛇のようにうねり、滝の落ちる速さで伸び出した。女の頭部を種とした植物の発生のごときは、まこと草木の成長そのもので、青年の手を離れ轟々と音を立てながら植物は伸び続け、頭部を覆い尽くし、転がっていた肢体を養分として貪り尽くし、急激に成長を果たし、巨樹としてその身を立てるに至った。

「……なっ、なんだ……これは」

 と驚嘆の声を上げるも束の間、天井一面に両手を広げるように繁栄していた樹の、葉という葉が、端の方からだんだんと砂のように枯れては落ちて、それが木の皮にも芯にも伝わって、早々と、音を立てて崩れ去った。粉となりし樹は風に散って消え失せた。その儚さをただひとり青年は見つめていた。涙で頬を濡らして。

 …………局部的に生理的嫌悪を失くした人間の存在を否定できない。淡々と死体にメスを入れる解剖学者がいるように。患者の性器を目にしても何の感慨も示さない産婦人科の医者も同じである。彼らは仕事のために訓練によってかそうしているうちにか、拒否反応やら生理的反応を檻に閉じ込めることに成功した。ならばそのような心理的作用によって死や殺人に対し抵抗を覚えない精神構造を持った人間もいる可能性もあり、実際、兵士に課される訓練はそれを目的としているところもある。人間の皮膚を切り裂き血と臓物を浴びてもなお勇猛果敢に殺人を繰り返すことが出来るように心を麻痺させ、そのような兵士は優秀であるとされ、帰還を果たせば英雄として讃えられる。

 彼も殺した数だけ湛えられ、殺した数だけ喜んだ。又、殺し方も重要な項目であり、殺人の方法が残酷であればあるほど、女からの報酬は大きなものとなっていた。

 青年は、館を徘徊して人を殺しているうちに、青色の男に出会った。

 青い男と色々話して意気投合、殺人倶楽部なるものを結成し、殺人三昧である。彼らは人間を食したりして悠々自適に過ごしていた。

 人を殺める方法は凝り、楽しみ方も多岐に渡り、全ての情熱と快楽は人殺しというひとつの目的にのみ向かう。ふたりは飽くことがなかった。それもそのはず、決して満たされることがなかったのだから。

「煩悩の数だけ人を殺す。人間が除夜の鐘の代わりさ」

 若い女の頭蓋にドリルで穴を開け、酸を流し込み、奴隷にした。頭蓋の穴から陰茎を突っ込んだ。少女は操り人形のように四肢を無秩序に放りだして一度大きく痙攣し、身罷ることと相成った。

 又、若い美男子の喉を切り裂いて、苦しみ喘ぎ死にゆくのを見ながら菊蕾を掘り散らすことは青年に至極の快楽を与えた。

 少女を殺すのに心は痛まないか、と青色の男から聞かれたことがあったが我は非差別主義者であるといった理由でその問いに対する否定的な回答を寄越した。それを聞いて青色の男は偉く感心していた。

 気の合う仲間の談笑の、一つひとつが快い。一興々々、積み重ねながら戯れ合う同志の存在は、嘗て母胎をともにしたようなエンパシーまで覚えるような気持ちにさせる。

 必然、好みも似てくる。

 青年は名も知らぬ青色の男に尋ねた。この牢獄では己の名を思い出す必要も、己に名を付ける必要もない。個別の認識は求められない。

「これからどうするんだ」

 青色の男は冗談のように応えた。

「これからとは?」「これからって、これから。つまり、将来とか」「不思議なこと聞くものだ」「茶化すな。どうなんだ」「医者にでもなろうか」「なんでそんなものに」「人の肉を切り刻んで誉められるのは医者くらいだろう」「なるほど」「お前は何に」「生物学者」「理由は」「生き物のことをもっと知りたい」「さすが博愛主義者だ。万歳」「他には、何になりたいんだ。医者なんてなかなかなれない」「警官か葬儀屋だな」「ほう、理由は」「死体を犯せる。それに、葬式で泣いているのを見ると笑える」

 青色の男の、嘲弄を含んだ言葉を耳にして、青年は魔女のように笑んだ。火炙りに処されその死に際に、断末魔を飲み込んで来世での復讐を決意した末に見せる笑みの、惚け、恍惚に濡れる、その名残のような。笑みの奥、地球の自転が逆向きになっていると覚めぎわの眠りのなかで気付かされたときのような深遠なる気持ちの悪さが滲み出る。

 青年は、満足した。

 起こした火を取り囲んで大木に腰を据えながら、捕らえて炙った骨つきの、男の肉をしゃぶりながら団欒を楽しんでいる。

「お前も食うか?」

 青色の男にこう尋ねられたが、満たされていたからか青年は、丁重にこれを辞退した。

「満腹か。それとも人間は食えないなんて言うんじゃないだろうな」「まさか」「ならなぜ食わん」「持ち合わせがブラックペッパーしかないんだ。いまは塩とライムの気分だから」「グルメな奴」

 人の肉を食らうのも家畜の肉を食らうのも、互い意味合いは同じの、変ずることのない理由。肉という肉は全て食するためにある、食えるならば食するのみである、分かつことの理由なく。青色の男の申し出を断ったのも単なる満腹と味の好みに因がある。

「お」

 訪う、とは、音なう、とも書く。青年の鼓膜に誰かが訪れてさやかな音を吹きこんだような。近辺からか、ならば背後からか、またや遠くの異界からか、然して声量の乏しくはないように思えたものだったが、

「はやく――はやくおいで」

 銀鈴の音のごとし麗らかなる音を聞けば、水茎になって川底で揺れるような夢見の心地よさ、前後不覚で、何処からその妙なる音が鳴るのか判然とはせぬが脳髄が覚えている、足取りは覚束ないも心は逸る。隣の青色の友人に一言。

「呼ばれているから行ってくる」

 返答を聞く間も、造作の変化を目にする間も、惜しいのか、青年は茶屋で飲み食いするだけしてすぐに勘定を置いて出て行ってしまうように、勘定代わりに一言置いて立ち去った。

 無音の鉄壁の廊に連なるのは己の高鳴る足音ばかり。急いた息が、靄のように体に纏わりつく。まどろみが羊水によってもたらされたものと思いたいけれどもどうにも叶わぬようで、じとり、と濡れた指先で、青年は最下層のドアを引かざるを得なかったよう。

 奈落の入り口のごとき鉄壁の部屋も、満身創痍の体を優しく包むのならば母胎となる。

 青年は再び、まどろみの中枢へ。

 扉を開けると、振り落ちる光の充満に青年の瞳は圧された。それも屑星のような光りの。

 朽ちた巨樹の粒子が堆積している光景を予見していた彼は状況の相違に瞳孔を広げるに至る。目前に控えていたのは現世であるなら卒倒もの、青年の剛力に首を千切られ絶命したはずのあの女が椅子に座しているではないか。

 先刻ここに訪れたときと何の変化もなく、場面を巻き戻して再生させたのだと言われても困るが、そう言ってもらわなくては説明のつかぬこと、というのがあまりにもふざけている、女は悠々と掌に玉を乗せて翳してみせた。

「またきたのか、鬼の子よ」「はい、また来ました」「こりんやつだ」「……」「まあいい、お前は死ぬまで私の奴隷なのだから」

 女は青年を組み伏せた。首を絞める。しかし青年は女の首に噛みついて、再び女の頭部と体を切断せしめた。

 周辺にはいつのまにか犬や猫の死骸が散らばっていた。

 青年は草の上に腰を下ろす。あぐらをかき、目の前に女の生首を置いた。そして、意識を失うまで生首に向かって罵倒し続けた。時間にして五十日。現世の時間にして、二秒のことであった。

(生まれ変わったら、爬虫類か昆虫になりたい……何も考えず、淡々と生きて行きたい)

 強く思った。


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