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大地への帰還  作者: 桐生真之
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7 愉悦

 青年はじんじんと痛む頬をさすりながら自室へ戻り下着を履いた。一息ついてもなお痛みの尽きぬ掌底の痕は、青年を復讐への想いに駆り立てた。青年は下着を脱ぎ捨て衣装ケースに打ちやり、とある決心をした。これから妹への復讐を果たし、この時をもって、青年と妹の戦いに終止符を打つべきなのだと。物心ついた時から繰り広げられてきた醜い争いをやめさせるため、最上の一撃を柊に御見舞いしようと心に決めたのだった。

 作戦を思いつくまでにそう時間は必要なかった。青年は柊の部屋へ忍び込んで、とある細工を施した。仕掛けの不足なき出来を見ると恍惚とならずにはいられなかった。この妙なる復讐劇によって、妹は兄である自分との力の差を思い知り、金輪際、つまらぬ悪戯なぞしてくることはないだろう。青年は期待に胸を震わせながら、柊のいる居間へと向かう。妹の細い肩が小刻みに揺れていた。青年は声をかけた。

「先程はすまなかった。寝間着を持ってきたのはいいのだが、肝心の下着を忘れてしまって。わざとではないんだ。断じてわざとでは」

 柊は幼い頃から抜けぬ癖である指しゃぶりをしながら、蝋の膜を張ったような濁った瞳をテレビの画面に向けていた、が、そのテレビに映っていたのは砂嵐ばかりであった。

「自閉している……」

「え」

 柊は驚いて、青年を見た。

 ふたりの視線が交差し、柊のそれは一見、赤子の産毛のようにやわく頼りない一筋だったが、実質は冷たい針金で出来ているのだと悟らせた。

 瞳は闇の深淵へ沈んだ澱のように濁っていた。

 緊張が圧縮される。

 瞳が急速に色を取り戻し、曇った瞳が濡れ始め、灰色のくすみは洗い流されたと思えば、「ぎゃああああ!」だの「ヘンタイ!」だの「うわああああ!」だの何だのと舌を噛み噛み、絶叫のように連呼する。

「鎮まれ、鎮まりたまえ」

「ふう……」と一息ついた妹、鎮まったと思いきや、深々と息吸って、岩をも穿つような視線で青年を睨んで。

「これはこれは……あなたは。高咲……変態・露出狂・痴漢・ストリッパー・黒い羊・パリサイ・カリオストロ・自虐ナルシ・ナボコフ」と速射砲のように罵詈雑言を並べた。

「自虐ナルシ……?」

「夢遊病・サイコパス・サド野郎・正樹さんじゃありませんか」と天井に叫んだ。

「ミドルネームに悪意詰めすぎだろ」

「お兄ちゃんなんか」

「まだあるの」

「病院に行って保険証忘れろ。ツーリング中にエンストして雨降れ。サッカーのクラスマッチでオウンゴールして皆にやじられろ。水泳の授業後に水着を廊下に落とせ。ホクロをイボと間違えてイボコロリしてしまえ。振ろうと思っていた彼女に振られてしまえ。高橋君と高咲君を間違われて先生に怒られろ。シチューに人参の本体じゃなくて剥いた皮入れてしまえ。人参の本体を三角コーナーに捨てて皮を調理してしまえ。飛行機が離陸する瞬間に究極にもよおしてしまえ。バナナの皮でこけてしまえ。ニンニク食べた直後に会議になれ。制服を冬服に変更する時期にひとりだけまだ夏服で登校しろ。自分の彼女のこと影でひそひそ不細工って言われろ。サビキ釣りで根がかりしろ。カラオケでお兄ちゃんが歌うときだけマイクキーンてなれ。フリーキックで空振りしてこけてしまえ。助けた亀に拉致されろ。好きな女の子が突然ゴミみたいな男と付き合いだしてしまえ」延々と呪咀を吐き捨てられた。

「……息継ぎをしていない」

「私はあるものを酸素のかわりに血中のヘモグロビンに乗せて脳まで運ばせた」

「なんぞ」

「窒素」

「嘘つけ!」

「私は窒素に希望を見出した。灯台下暗し。いまは自分自身の体内に金の鉱脈を掘り当てた気分」

「何を言っとるんだね」

「ご存知の通り、空気の主成分は窒素。その窒素を有効活用したかった。私は空気中に含まれる微量の酸素を使うよりも、もっと大量に摂取できる窒素を効率的に体内で使用し、酸素の代用に成功した。いまはとても良い気分」

「もうあかんやんこの子」

「ええ、嘘なの。実は私が合唱部でエースでキャプテンで元生徒会長でカリスマでランニングと腹筋を日課としている世にも稀な(ハイ)スペックガールだから。ドギモを抜かれるほどのスーパーギャルだから。ちなみに肺スペックとハイスペックは生粋の東京生まれヒップホップ育ちもビックリの言葉の綾なのだから」

「なるほどだから君はドープなライムを吐き出す乙女なわけね。わけわかるかい」

「この肺スペックにより、私の肺活量はお兄ちゃんの時々する眼鏡と違ってダテではない。だから長い無呼吸状態でも苦痛でないことが保障されている」

「いや俺の眼鏡はダテじゃないから。本物だから」

「ぽっ」

「褒めてないから」

「そうなの?」

「というか、さっきから嘘もたいがいにしなさい」

「許してね、お兄ちゃん。もうすぐエイプリルフールだから肩慣らしをしてみたの。コンディションを整えておかなければ、急にピッチを上げてしまえば調子が狂ってしまうから。それに私は近年エイプリルフールの日に嘘をついていなかったからまだまだストックがあるの。いまはそのストックを使っただけ。許してね」

「エイプリルフールの嘘をストックするシステムとかないから」

「これもよりよい明日のため。この世界には常に来る時に向けて万全の状態を保っていたい者たちがいることをよく知っておいてほしかったの」

 静かに瞼を閉じ深く息を吸い、徐に瞼を開き、少女は言った。

「それが、乙女」

「もうお前の発言聞かなくていいかな」

「……はぁ……はぁ……」

 今更、肩で息をし始めた。

「さて、いったいどこから突っ込めばよいのか」

「やめておいたほうがいい。身がもたない」

 皮肉屋なつもりの微笑を投げて、匂いたつほど臭くわざとらしい流し目に籠められた稚拙な綾。

「元気やねえ」

「我が合唱部は体育会系なものでね。元気が取り柄なの」

「そりゃぁ、難儀な」

「本当にね、軟口蓋を開かないとやっていけないんだよこのやろう! 拡張させなきゃいけないんだぞ! おい! わかっているのか! ちなみに言っておくがケツの穴の話をしているんじゃな……あ、しまった!」

「卑猥、ダメ、ゼッタイ」

 掌底ともとれる青年の平手打ちが炸裂した。

「ぴい! いたい!」

「乙女とあろうものがなんと卑猥な!」

「すみません、すみません!」

「恥を知りなさい」

「何と言っていいやら……調教していただいてありがとうございました」

「調教じゃない! 説教をしようとしていたんだ! そしてもうしたくない」

「くっそっ! 説教してくれよ、しなさいよ!」

 柊は中指を突き立てた。

「ファック・ユーだよ!」

 青年は尻を突き出して言ってやった。

「ファック・ミー!」

 尻を向けたまま柊の顔に向かって飛びかかり、尻を顔に激突させた。

「い、いだい!」

 叫んで、青年の攻めに限界を迎えた妹は、涙をまき散らしながら母のいる台所へ走って行った。夕食の準備をしている母の膝にしがみ付き、薄く塩分を含んだ射干玉の瞳でこちらを蔑視している。

「逃げるでない」

「やめて来ないで!」

「さて、問題です。あなたが怒らせたのは金の変質者か銀の変質者か、それとも普通の変質者か、さあどれでしょう」

「どれでもいいわい! お母さん、お兄ちゃん私をいじめます」

 敵意を内包し青年を見つめる。血の色に淡く染まり始める眼球。眉根に生まれた渓谷。噛みしめた奥歯のために盛り上がった顳顬。荒く上下に刻まれる横隔膜。玩具は、敵意に濡れていた。けれど悪意を表するには憎しみが足りぬようで、本当に嫌われてはいないようだと悟る。

「あら、どうしたの、柊ちゃん」

 振り向いたのは聖母の笑み。その微笑は青年の心を少し洗うものだ。

「お兄ちゃんがまた裸を見せてきたの! もうひどいの!」

 母が包丁を置き青年のほうを向く。

「ジャージはちゃんと持ってきたのだけれど肝心なパンツを忘れてしまってね。決してわざとではない。だから許せや! このアホンダラァ!」

「ゆるさなぁい!」

「諦めろ。お前にはこの変態から逃れるという選択肢は無いんだ。ちょうど子が親を選べないようにね!」

「うるさい! そんな理屈あるかい!」

 この妹はいつまで兄に盾突くのか、それを思うと再び柊に対しての義憤が逆流してきていた。地獄の血の池が沸騰している様が目に浮かぶ。怒りを発散させ、且つ柊の悪戯に終止符を打たせる必要があった。その為に青年は秘技を用意してきたのだった。

 青年は静かに笑った。それは勝利を確信した勇者の笑みであった。戦闘の最中、勝利を確信し、精神的な壁を乗り越えることができた者だけが持つことのできる優雅な笑みである。それはある種、トランス状態に入っていることを指す。変性意識(Altered states)や天啓などと言われる多幸感で、これを体験した人間は無限の可能性を体内から感じ取ることができるという。

「うわ、お兄ちゃんが笑っているわ。変態のように」

「変態いうな。俺は変態ではない。ただ頭がおかしいだけだ」

「とか言って今回もパンツ脱ぐんでしょ! わかってるよ!」

 この子は自ら引き金を引いてしまった、と青年は悟った。

「ちゃんとパンツは穿いているわい! 見てみい!」

 高咲正樹という弾丸が、外気に触れた。

「やめてよ変態お兄ちゃん!」

(ジ・エンドですから)

「誰が変態じゃー!」

 青年は怒りにまかせてジャージを下ろした。ちゃんと下着を穿いていることを皆に証明するために。青年はこの瞬間、長かった戦いに終止符を打ったのだ。それも、完全勝利という形で。

 なぜなら青年はちゃんとパンツを穿いていたからだ。そう、柊のパンツを。

「おぎゃああああ! 私のぱんつうううああああうわああああっ!」

「見たか敗者よ! 気持ち悪すぎてぐうの音も出ないだろう(自分が)!」

 当然だがビンタが飛んできた。

 目の前には、またしても巨大竜巻が通ったあとの荒野の映像が流れていた。しかし青年は優越感に満たされていた。長い戦いに勝利し、完全に兄と妹の力の差をわからせたのだという充実感に全身を愛撫され、青年は再び自然と笑みを零すのであった。

 だんだんと遠くなる足音が、視線を向けずとも柊がすでに青年の近くにいないことを伝える。全裸よりも醜い有様のまま仰向けになり、幻影のように漂う黄昏を視界に映し出す。

 これでもはや柊は青年に悪さをしてくることはなくなるだろう。それ相応の必殺技を、青年は柊に御見舞してやったのだった。優越感は最高潮に達していた。


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