6 裸体
「あのう……起きてますか、それとも、死んでますか」
かすかな呼び声に青年は意識を取り戻した。心配そうに声をかけるその声の主は、まだぼんやりとして青年には誰だかはっきりとせぬ。重い瞼、開こうと力を込める。
「お兄ちゃん……もう、お兄ちゃん!」
青年のことをそう呼ぶ人物は極めて限られているが、誰だろう。だんだんと慣れてきた目、ゆっくりと開いたら、青年の顔を覗き込む者の顔が確認できる。
「お兄ちゃんってば、起きて!」
「……」
徐々に焦点の定まる視界の先には、青年の顔を心配そうに覗く、父親の顔がある。
「もう、お兄ちゃんこんなところで寝たら風邪ひいちゃうわ。お兄ちゃんが風邪なんかひいちゃったりしたら私、泣いちゃうかも」
「嫌な目覚めだ……」
「そうか……練習が足りなかったな」
「そういう問題じゃないです。というか何なの今の」
「今朝のお前と柊の絡みを元に、アレンジを試みた」
「覚えてなくていいものを」
風はもう凪いで、耳の痛みもいつの間にか消えていて、桜の花びらも、雄々しく舞っていたのがまるで嘘のように、桜の木の周りに並べて布かれたように綺麗な円になって落ちていた。
「何があったのかは知らんが、庭で寝る奴は初めて見た」
「何でもない。気にしないでくれ」
「旅の疲れがまだ取れてないのかもしれんなぁ。風呂、沸いているからいまのうちに入ってこい」
父はそう言うと、さっ、と門の方へ踵を返した。
「何処に行くんだ」
「別件がまだ残っているからな」
「大事な用って、本当だったのか」
「何言ってんだ、当たり前だろう。榧とのデートは後日にお預けさ」
「そう、ま、気つけて」
父は目を見開き、驚いた顔をしたあと、ゆっくりと背を向け軸の通っていないような体を左右に揺らしながら長い階段をすとん、すとん、と下っていった。
青年は風呂に入ることにした。着なれた寝巻用のジャージ上下を鷲掴み、風呂場へと向かった。
体をすすいだ後、勢いよく浴槽に身を投下する。
充分に体が温まったあと湯から上がり、軽くシャワーを浴びて脱衣所へ出た。開け放した風呂の小窓から、湯煙が龍のようにうねりながら外に吸い込まれていった。その湯煙を神経が散乱した頭と共にノボセ眼で追いながら体を拭いた。
まだ体は火照っていたが風呂場の外は寒いので湯冷めするといけないと思い、すぐに着替えに手を伸ばした。そして、冬の嵐のような悲劇が我が身に舞い込む。
ジャージを手に取った瞬間、あらぬことに気が付いた。
青年は下着を自室に置いたままにしていたのだ。
自らの浅慮のために柊を泣かせてしまった昨夜の事を思い出し、断固たる決意でジャージを持ってきたのはいいものの、ここで肝心な下着を忘れるとはなんたる失態だろう。しかし、どのように悔やんでもやはり今回も下着が出てくることなどありえず、青年はあきらめて全裸のまま自分の部屋まで下着を取りに行くことにした。
――とっ、とっ、とっ、とっ――
足音はしだいに大きくなり、予感は急に現実味を帯びてくる。
――ドドドドドドドド!――
凄まじい勢いのままドリフトでコーナリングをきめて、またしても柊が、生まれたての姿から十八年経ったままの青年の目の前に現れた。青年はすばやく運命を受け入れ、さわやかな笑みを浮かべ、来るべき時へ向けて体制を整える。もしかすると昨日の事で柊には免疫ができているかもしれない。そう信じたい。このまま順調に過ぎ去ってほしい。
しかし小鬼にはそんな青年の願いなど届くはずもないのである。柊はいつもの通り、腕をぶんぶん振りながら闘牛のごとく青年の方へ猛進してきた。互いの目が合い、笑みが交差する。何もかもが順調かと思われる。
「お兄ちゃんおかえり」
「よう、ただいま」
柊は笑みのまま、青年の目の前を風を切って走り去る。
問題は無さそうだ。考えすぎていた自分を滑稽に思う。妹などこんなものだ。心配せずとも子供は勝手に育っていくものなのだ。それはあっけに取られるほど急速で。寂しい気もするが、今日の柊は、もはや昨日の柊ではなかったのだ。青年の胸は幾許かの安堵に包まれた。しかし、無垢な子供だった妹が、大人への階段を確実に上がっていってしまったのを目の当たりにして、なぜだか、これは少しばかり胸の痛む出来事となった。しかし、青年は、そんな妹の成長を快く受け入れてやらねばなるまい。巣立つ子を優しく見守る母鳥の心境にも似た、天空からの視線で、青年はだんだんと小さくなる愛しい妹の背中を眺めた。そう表現したが、現実的にはそれは誰のどこからの視線だろうか。単なる兄弟愛か。それとも父性的な心理に基づく感慨か。
柊の小さい背中が見える。それは今の時点ではまだ誰が見ても少女のそれであるが、やがて直線は曲線へと変わり、いわゆる成熟を果たす。曲線を描くだけでそれは男を魅了してしまうことだろう。しかし柊はまだそれを駆使するには至らない。才能はあっても、完成されてはいない。顔を見れば誰でも分かる。細かい基準はひとりひとり多少違えど、柊の「つくり」はいわゆる一般的なその境界線から外れることはない。例え妹を性の対象として見ることができぬ実の兄のフィルターを通してみても。柊の顔は数年もすればひとつの到達点へと辿り着くだろう。それは美という誰もが憧れてやまない信仰の対象。この国では特に美しいものはもてはやされる。それは宛ら狂気の沙汰。存在自体が崇高な物の様にして、恰もその人間自体が優れた存在であるようにして。美しいということはそれだけ得なことなのだ。人々がそうなることを有りとしているから。
青年の妹はいずれ途轍もない濃艶な物体へと進化を遂げる。遠くへ行ってしまう。
その先にはあの人が見える。あの人と同じ人種へと成ってしまうのだろうなこの少女は。だがそれも良い。誰が咎めようか。美しくなろうとする者を誰が咎める。
青年はまだ柊を見つめていた。廊下を抜けて居間まで走り抜けていくだろう柊を、青年は完全に安心して見届けていた。懐疑などすでに粉塵一粒程も持っていなかった。しかしその安心に保障など無いことを青年は忘れていた。僅かに安堵して得た希望は、強靭な現実の前には薄い張りぼてと化す。
青年のささいな願いは叶わず、柊はバレリーナ並みのクイックターンをひょいときめ、もといた道を疾走してきた。涙に潤んだ目の先には明らかに青年の姿が定まっている。
「びええええええ!」
「……あれ?」
「変態! 変態! 変態! 変態!」
「計算とちがう!」
「へえんたあああい! ぽわぎゃあああああああ!」
サンドペーパーで顔面を磨かれた日本猿のような泣き声と共に、柊は青年の方へ突進してきた。赤くなった目角からは大粒の涙が滴り落ちている。その姿が目に入った次の瞬間には、すでに視界は柊の顔で埋められていた。超近距離大画面。
そして頬は再び張られるのであった。
青年はその衝撃と足がまだ湿っていたせいで、まさにスッテンコロリンという具合で、芸術的なほどに綺麗に転倒してしまうのだった。目の前で桜の花びらが散り乱れる。
「ティガーッ!」
虎的に泣き叫んで(咆哮して)柊が走り去った。
呆け天を向く目線を地面と平行に戻す。柊が涙を流しながら居間の方へ一目散に駆けて行くのが見えた。彼女にとって青年の裸体は悲劇の原材料でしかなかったらしい。




