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大地への帰還  作者: 桐生真之
11/56

D 咆哮

「生ある者は戦き震える

 いつ生まれてきたのかわからぬお前に

 世界の全てが我が身であると

 人の知らぬ間に万物を飲みこみ吐き出す

 しかしそれでも人はお前を見つめてしまうのだ」

 

 夢現のうちにこの体たらく、覚めぎわの眠りにある青年がうかうかしているまに、はち切れんばかりの愛しさと憎しみを秘めたる恋人の、嬌声を近くに感じる。己の耳元に向けられているような、いないような、意識がはっきりとしてきたおりには、

「ああ……!」

 我が恋人の、見知らぬ男との情交を目の前に、哀切きわまり嘆きの声を荒げる。

「こんなの……こんなの嘘だ! あなたはこんなことする人じゃない!」

 男の上で上下動する小さな女、悲哀に暮れる青年は声をかけるも、女は寧ろ彼の様子を楽しんでいるようにも見える。それなのに、こんなことまで言葉まで吐く始末。

「お前が女だったら、もっと楽しめたのに」

 女の下で腰を動かす男に女は訴える。

「……なぁ、お前もそう思うだろう」

 青年に背中を向けながら男に乗り情交わす女が、青年に送った振り向きざまの流し目の、目角の先にわずかな淫靡が零れたが、それは等しく女の悲しみでもあった。

(なんで……なんであの人はこんなことを……)

 男女和合して気力を蓄えるものであるが共に生気を発散させるというよりも、このふたりの情交には一方的な関係があり、女が男の生気を吸い取っているといった構図である。性の臭み、絶えなく波のように繰り返し打ちつける音、噎せるような呼吸、だるくなるような熱、この空間を満たすもの全て、決して青年にとって不快なものではなくむしろこの女と共有するのであったら無上の喜びと快楽を青年に与えるものであった。しかしそれが我が恋人との関係の延長線上に生まれているものではないと考えるのはいかなる苦しみよりも青年の精神を奈落の底に突き落とした。

 木端微塵、放射状に砕けた青年には何も残されていず、女には青年を慈しむ様子もない。なんの因でかような状況に立ちあわされたのかと狂乱する青年、様々な思いが錯綜し、混乱する。そして陥るのは絶望、それのみである。

 自我の破壊寸前の青年であるが、彼の目前ではさらに目を疑うべき奇怪な、

「おまえは、気に食わんなぁ……」

 腐りかけた下半身を男と密着させていた女が艶な吐息をもらしたと思えば、実は飽き果てた末の溜息で、女は、突如として男を見限って、男の首を締め始めた。

 細々とした片腕だが、鋼鉄にも劣らぬ、人力を超越した怪物の強力で、男の喉仏を握りつぶす。太い首であったが、みしみしと音を立てながら変形し、女がもうひとつ力を込めればぐきりと鈍い、不細工な音を出して粉砕する始末で、悲鳴を上げることも抵抗することもあたわず、交尾後の蟷螂の雄のごとき惨めな末路。

「わかったか」

「……え」

「こうやるのさ」

「……な、なにがです」

「お前の殺し方は手緩い」

「……で、でも、私は貴女の言う通りに殺しました! 殺せば良いだけではなかったのですか……これ以上のことは……私は……っ」

「くだらん奴よ。お前なんぞ愛するものか」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」

「お前は、この世に憎しみをばら撒くために生まれて来たというのに、これじゃ、ここにやった意味がない。悪魔の子なら悪魔の子らしく、少しは貢献する意欲を見せないか」

「ごめんなさい! 次は! 次こそは!」

「汚らわしい! 触るんじゃない!」

「ごめんなさい!」

「人間を殺さなければ、おまえを愛したりはしない」

「殺します! 言うことを聞きますから……愛して下さい……」

「卑屈な子だ、私はお前みたいなひ弱な奴が大嫌いなんだよ!」

「あ……ああ……ああああ…………」

「根性のない。その腐った性根を叩き直してくれようか」

 呪詛を吐いた女であるが、何かを思いついた矢先、慈しみの権化のような菩薩の笑みを浮かべていた。女は言う。

「お前、動物が好きだったなぁ」

 青年は首肯する。

「さて」

 腐った腰で椅子に座りながら肘掛けに肘付いて、頬に拳を当てた女が、企みの微笑を浮かべたまましばらくすると、部屋の奥の藪の方から獣臭が立ちこめ、雷鳴のような地響きが轟々とし、空間を震動させ、その音を生み出す存在の規格外の大きさを思わせる。闇の塊のような藪からのそりと姿を現したそれは、岩のように大きな、魔物と見紛うほどに禍々しい、犬の頭であった。あまりにも巨大化した犬であるから、余程の気概がなければ失神すら禁じえないであろう、ともすれば失禁したあげくに転げまわって己の糞尿に足を取られて大怪我を、などという大失態に発展してしまうだろう、なれど青年、恐怖に染まるより、まるで正反対の、ぱっと明るい顔になる。

 それもそのはずで、この巨大な犬は青年の悠久の友であった。いつのころからかは覚束ないにしろ、気がつけば仲の良い間柄。立ち耳の、白い綿毛の、逞しい足腰の怪物のように巨大なこの犬は、青年の心を洗う友である。その犬がここにいるとはどういうことであろう、と思うも、

「この犬は、好きか?」

 という女の問いで思い出した。この犬は、女から青年に与えられた獣であった。

「はい、もちろん。私の大切な友達です」

「そうか、そうか」

 巨大な白い犬は女の椅子の横に頭を降ろすと、女は犬の首を撫で出した。あまりにも犬が巨大なために犬が首を降ろしても額に手は届かない。それほど犬は大きく女は小さい。しかしこの犬と女の関係は、冥界に住まうヘルとガルムにも似て、強固な繋がりを感じさせるのであった。

「お前はこの犬を、愛しているのか?」

 女が森厳なる様子で問う。

「はい」

 女の問いに、同じく青年は静かに答える。

「ならば――その死に何を思う?」

「……は、い?」

 青年が疑問を言語化する以前に女は犬の首の皮を破り、首の内部に片手を突っ込み始めた。咆哮とも言える奇声を上げて犬は苦しみ悶える。下げていた頭を持ち上げ立ちあがり、首筋に片腕を根元まで突き入れた女を振り落とそうともがく、が、女には犬の首ふりなど何の抵抗にもならぬようである、振り落とされるばかりか、自ら突刺していた片腕を引いて、そのまま落下するかのようには見えず、ふわり、天井から糸で吊っているのだろうか、そうではない、何の仕掛けもなしの神の力で、女はその小さな体を中天に留めた。空気の流れに沿い揺れる白い布は天女のそれであるが、血の色をした両の目や、くすんだ灰色の皮や、白い髪や、骨のような腕や、鎖骨やあばらの浮き出た上体や、腐って黒く変色した脚は、魔窟を根城にする妖魔そのものである。

 妖魔の本性を露わにした女は、首の痛みに暴れ狂う犬に再び針のような腕を突き刺す。犬は大量の唾液と血を吐きだしながら苦しみ、跳ねては女を噛み殺そうとするも女はゆらりとかわしてしまい、犬は自身の頭部を壁や岩や地面にぶつけてしまうばかりでなす術なく、出血の酷さと痛みと疲れが凝って、次第に吐く息も頼りなく、足腰も素直に立たなくなる。そして、最後のときはあっけなかった。女は再び犬の首へ腕を突き入れると、犬の首から、太い、血の通る管を引きだし、噛み千切った。

 その様子を青年は涙しながら見ていた。足腰が立たず、喘ぐように鳴きながら顔を覆う、しかし肉と変わり果てる友の死に際を恐怖に竦み上がりながら見ていた。

 有用な時間をともにした親友の生命は、巨大な地響きとともに絶えていた。血まみれの醜い姿で息絶えた犬の姿は、規格外に巨大とは言え生気はなく、その神聖さは薄れて、ただの襤褸と化していた。その友人の死に悲しむ間もなく、青年は再び絶望を味わうことになる。この騒ぎを不思議に思った猫たちが周辺に集まっていた。彼らもまた青年の愛する者たちであった。女は猫たちをすかさず捕らえ、逃げる間も与えずに殺していった。生き生きとした芝生や木々や清水に満ちた楽園は、瞬時のうちに異臭と臓物に塗れた血の海になっていた。静かな森や滝や泉を背景に、ただ無機質に死骸が転がっている、この無惨な光景に、女はひとり恍惚の笑みを浮かべ振り返った。

「お前には、幸せなど与えない。よく、覚えているがいい」

 恋人の言葉を背に聞いて、青年は部屋を飛び出していた。信頼していたものからの拒絶。それは神からの拒絶にも等しい。青年が長年考え続けてきたこの概念が、いまここで形になっている。

 部屋を抜け出した青年は涙に暮れながら館の中を走り回り、下の階から、虫、魚、爬虫類、鳥、小動物、熊や大型のものから、幻の生物や罪人や普通の人間を逐一殺していったが、疲れ果てた所で男たちに捕まった。

 捕まり、女装させられ、魔力かなにか、不思議な力でも使ったのか、女の顔と体にされ、美咲と名まで付けられ、強引な辱めを受けた。

 強姦されながら腹に違和感を覚えると、彼の腹部はまるで妊娠したように膨れ上がり始めていた。その奇異な様子に男たちはさらに昂奮したのか、余計に少女と化した青年に暴行を加えた。

 必死に声を荒げながら抵抗する青年の眼の先に、不思議な光景が表れた。どこかで見たことのあるような男と、真っ赤な色をした裸の男が佇立したまま青年が襲われるのを眺めている。赤色の男の顔ももうひとりの男の顔も良く見えぬが、男の鋭い悪魔的な目だけはひどく印象的であった。

 敵かもしれないといった考えはあったがこの状況、つかめるものであれば藁でも構わぬ青年は、必死に声を上げて遠くのふたりの助けを請うた。

 しかし声なぞ届いてすらいぬといった無反応、妊婦となった青年は腹を蹴られて泣き叫ぶも、傍観したままの遠くのふたりは無感動にぼうっとしているだけで、共感も何も無く、

「やめてッ、やめてッ! やめてくださいッ! 赤ちゃんが死んじゃいますッ! お願いですからッ!」

 無慈悲に時は過ぎて行く。

「嫌だね、楽しいもん」

 腕を折られ、脚を折られ、眉目秀麗なるかんばせを壊れた骸骨のように荒らされ、やっとのことで吐いた呪詛。

「夢が……できた」

「ほう、なんだ? 言ってみろ……」

「お前たちの餓鬼を生んで……殺してやるよ」

 青年は腹を裂かれた。裂かれた腹から卵が現れ、青い胎児が生まれた。胎児は、亡骸と化した青年の体を貪り喰い、怯える男たちの首の骨を折って母の復讐を果たした。

 ふたりの男はその様をずっと見続けていた。


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