A 悪夢
【主な登場人物】
◇青年(高咲 正樹:たかさき まさき)
主人公。高咲家の長男。眉目秀麗。女みたいな顔をしていると言われる。長らく悪夢に悩まされ、暴力の衝動に囚われる。生き物は皆、紙のようなものだと思う。
◇桜
長女。電波的な謎の発言が多い。長身の美女。
◇あけび
次女。 日常の中で軽妙なやり取りを交わす少女。
青年にわずかな安らぎを与える存在。本の虫。
◇柊
三女。バタ臭い顔をしている。よく暴れている。
◇榧
青年の母。青年の運命を狂わせ続ける原点。40歳を過ぎているはずだが、現実離れして幼く見える。いつも着物を着ている。その罪と愛は、世代を超えて青年を縛り続ける。
◇柳
青年の父。作家を生業としている。掴みどころのない軽薄さがある。いつも着物を着ている。
◇鬼の女
緋色の着物で、切れ長の目をした鬼の女。現実世界にも表れ、正樹を悪夢に誘う。敵のようでもあるが味方のようでもある。
◇朽木 稔
青年の元恋人にして、因縁の相手。親からの虐待を受け憔悴しきっていたが、正樹に助けられたことで正樹を愛するようになる。よく正樹を見ている。
【鬼子母神――きしもじん・きしもしん】
訶梨帝母、訶利底、青色鬼、大薬叉女とも呼ばれる。印度の鬼神、般闍迦の妻で、凡そ一万人の子の母でありながら人間の子を食らう悪鬼であったために、釈迦は彼女が寵愛していた末子を隠し、子を失う親の苦しみを諭して仏教に帰依させた。爾来、改心した鬼子母神は護法善神へと転じ、子供と安産の守り神となり、人間の子供の代わりに柘榴の実を食すようになった。
尚、柘榴の実は種が多く詰まっていることから多産や豊穣の象徴とされ、又、人の肉に似た味がすると言われる。
仰臥はいつも死者を想起させた。
「……………………………………」
波打つ如く、冷たい大地が蠢いている。
死者として大地へ溶けていかんとするひとりの青年が、血を吐くように鈍い呻きを漏らしていた。地獄であげる産声にふさわしい醜い響きの。
渇いた唇はもしや臍帯と繋がっているかもしれぬと青年は考えたことがあった。もともとこの臍帯なんぞ母の胎盤とではなしに自らの口と接続していて、そのまま俺は生まれてきたのだろう、と、そのような益体なきことをぼんやりと。
幻と現の重なるこの折に一体、我が身はどちらに属しているのだろうと思惟を始めた青年は、荒廃の地にて死者のごとく恍惚として横たわる、背に覚えるはたおやめの鬢のやわらかな、なのに半身を傾ければ突刺す簪のような草の感触が、懐かしくありながらどこか他人行儀でもあった。
紅い雪が胞子のように中空にたゆたっているのがどうにも幻想めいており、この薔薇の花のような雪にこのまま埋もれるのならば死んで花葬で華々しい、ならば深い眠りに落ちてしまおうか、と思うのは青年がおかしいのか、それともこのふざけた景観がさせるのか。
(そうだ)
半醒半睡、瞼の降りたまま、手先に触れるのは滑らかな、ひとつひとつ細く蝟集した草の束。大気が身を揺らして地表を撫でた微風が鼻先にこそばゆい。雨に濡れた草の匂いが懐かしいのに同じだけ悲しく虚しく切なく。
(血が、雪になっているのか)
深い霧の向こうの空は血のように赤いが夕焼けなどではない。神々が殺し合い流した血と涙が下界まで垂れ流れてきたような紅。天地の境に掛かっているのはぼろぼろの天蓋のようにそこかしこに散らばる黒い雲。
周辺の状況を見て青年は、ようやく諒解に至る。
「また来たのか」
とんとひとつ大きく胸打つのは、焦燥か期待か絶望の表れか。映写機のフィルムが入れ替わるようにこちらでの覚醒を果たした青年、膝立てて、仰臥したままの体勢を改め、直立する。
武者ぶるいか恐怖に戦いているからか、いかに力を込めまいとしても指先の力が凝って、ぎりぎりと拳を握るのが抑えられず、爪の間からいまにもじんわりと血が浮き出てきそうなほどで、力が漲り、米神の上で独楽が回転しているように熱が通り、だんだんと血が全身に行渡り、今日も主の言い付けを実行せねばならぬと心中、呟くのだった。
酸のきつい湿地は靴裏を溶かしていくが気にもせず歩み出すと霧の向こうに炎の揺らめきのように透かし見えたのは深山幽谷の湿地の底に現出した黒の、壁、壁、壁。
視界の左右の末端から末端まで使っても入りきらぬこの景観にもしかし所々窓があって、その上から鉄格子が被さっており、近づくと暴風のなかの舞う塵の如き霧が四散し、その奥が透過して見え、物体の全容が明らかになる。果たしてここを一周するのに何日かかるだろうかと途方になるくらいの茫洋とした森のような黒々とした建物がある。
この建物、館の重厚な造りは棺を連想させる。
「お帰りなさい。とつぜんどこかへいってしまうのだから慌てたわ。連れて来るの、苦労したのよ」
背後から女の声がしたが、振り向くまでもなくそれが厭なものだと思い出される。
「しつこいな。またお前か」
「あら、こわい。でも、いいわ。入口はこっち、さぁ、早くお入りなさい。そうしないと溶けてしまうから」
切れ長の艶な目の、緋色の衣でめかしこんだ女の手招きに向かって、追いついて、抜き去ると【死宮牢】と平素の通りに扉の上に掘られている文字に眼が向くのだから気が滅入った。
「ようこそいらっしゃい、ここはあなたの楽園よ」
扉に手かけて、開いた青年が見たのは闇だった。怪物と戦うものは自らも怪物とならぬよう気をつけなければならない、深淵を覗きこむとき、深淵もこちらを見つめているのだ、と綴ったのは、かの哲人フリードリヒ・ニーチェであったが、大口を開けて待ち構える闇の深淵に飲まれんとする青年は、自ら進んで溶け入る如く、原点回帰かくあるべしの神妙なる歩調であるから心配する気もなくなるというものか。きりきりとあばらが痛むほどに重たい闇がのしかかり、輪郭を曖昧にされた空間に我を忘れそうになる。目が慣れてきたのか、ぼんやりと明りがついていることもわからぬくらい朦朧の淵に意識が飛んでいるのか判然とはせぬものの、暗いなりにも何とか見えるようになってきた。体がこの建造物に馴染んできたのか、赤肌に塩を擦りこまれたように全身がひりついて焼け爛れたように痛むも、ふわふわと覚束なかった五感の、あらゆる器官がどうやら起き上がってきたようで、建物の内部の様が肌に伝わってくれば、熱帯雨林のようにじめついているのが肌膚に暑く纏わりつく、それからどうやら鼻も聞いてきたようで、獣の腸と腐れた虫を煮詰めたような、酷い腐乱臭が漂っているのがわかり、するとさらに頭が起きたのか、眼も大分利いてきて、脳髄をぐちゃぐちゃにかき混ぜてぶちまけたようなゼラチン状の汚物が壁全域にこびりついているのが視界に浮かび、どこからともなく伝わる、点、点、と床に滴る音が注意を払わずとも耳に入る。周囲の状況を測るのに気を向けていると、どこからか汗の匂いがするではないか。旅の疲れに鞭打って、匂いのあとをよたよた足でひた追った。
眩暈を連れて追っていく、と、この地の底の牢獄か化物屋敷かという魔処の奥から、人の声がした。
春泥のようにぬらぬらとした汚物に足を取られぬように踏みつけながら階下に降りれば、細長い廊下に沿って空の牢獄が連なっており、その廊下の奥に、人らしい影がぽつぽつ、三つ四つ見えるばかりで、他に客らしい客はいない。上階のように臓物を撒き散らしたような様子ではなく、黒々と固く引きしまり、冷たい鉱物のような床や壁の、長々とした廊下である。遠くで密談している声は、腹の虫の如くの厭らしい響きで、まともな人間ならば嫌悪感に浸され近寄ろうという気持ちなど起きることはなかろう、定めし匹夫共の卑猥なる言葉の応酬に他ならぬものであったろうけれども、青年は朦朧とする意識と刺されるように走るあばらの激痛とに耐え耐えしながら、声のするほうへ赴いていった。
男たちひとりひとりの声の判別と会話の内容が把握できるくらいの近い距離で足を止めると、仲間のひとりをきっかけに男たちが気付いたようだった。
「誰だ……」
見れば、四人の男たちが輪になって廊の冷たい床に座している、そのひとりが矢を射るような目つきで話しかけたが、しかし己の体のことで精いっぱいの青年は男の思惑を表情から汲み取る余裕などない始末である。
「名前はない。そもそもここでは名を付することに意味はない」
「なにわけのわからないことを」
「それより、お前たちはどうしてここにいる……なぜこんな場所から出て行こうとしない」
殺気と警戒から一変、にやにや顔の嘲弄に打って変わったのは、青年の問いを受けたからであるが、冷笑を受けても青年は痛みと焦燥に支配されるままであった。
「そういえば俺は聞いたことがある。ここには女みたいな顔した化物がいるとな」
「こいつがそれだっていうのか」
「違いないだろう。ここにいることがまずその証拠だ」
男たちが次々に言葉を交わした。
「質問に答えるつもりはないのか」
と言う青年にひとりの男が答えた。
「俺たちはいつのまにかここにいたのさ。理由は不明だ」
これまでどれほど聞いたことか、返答は明確なものであっても、青年にとっては何の答にもならぬことで「そうか、ならば次の質問だ。赤い着物を着た女を知らないか」と落胆の声を爪先に落としながらやっとのことでつぶやくが、彼自身、ひとりごとのつもり、といった感じにぼそりとやった、が、
「さぁ……あっているかどうかはわからんが……おそらく……お前の後ろにいるのがその、赤い着物の女じゃないか」
繊手が、毒蛇のように青年の腰に巻き付き、ろう長けた玉顏の鬼が舌なめずりして、背後から青年の首に牙を差し込んだ。文字通り、突き刺された痛みに声を上げて悶える青年、首筋から血液を垂れ流しながら植物が枯れるように力を失い床に膝をついた。
「仕様がない人ね。勝手にぶらぶらされたら困るのよ。あなた、しなくちゃならないことがたくさんあるのに」
抱きしめられた胴まわりから、がぶりとやられた首元から、魂という魂を根こそぎ奪われたものかと思わるるほど、激流に飲まれる勢いで、青年の生気が消えて行く、吸い取られて行く。
背後の女から力を奪われて、
「うわぁ……ぁあ…………っ――――」
脱力どころか、死相がでるかでまいかの危ういところ。抱きしめられた両の腕を解かれると、折れた枝葉のように胸から床に崩れ落ちた。立って歩行する余力も与えられておらず、抵抗の気なんぞ意の中に有らず、後は男たちにされるがままに落ちるのみとなった。
「聞いた通りのかわいい顔だ。表情が硬いのが初心そうでなお良い。これは楽しめそうじゃないか。ほら、もっと恐がってみないか」
男のひとりが青年の内股を掴んで外側に開くのを、もうひとりが制した。
「焦るんじゃない。まだ抵抗する余力があるかもしれんだろう。まずは弱らせるんだ」
文字にするとこの言葉は自制の効いたもののようであるが、表情は嬉々として、唇は悪意の造形に吊り上り、声の調子は興奮して、呼吸の乱れによりうわずっている。
「それも面白そうだ」
どうしてこんなことになってしまったのかと悔恨の念を浮かべようにも、されるがままの青年は、服を剥がれ、生気を抜かれ、息も絶え絶えなのに喜悦に火照る男たちの感興が弥増さるにつれて、もともと四人の男と青年一人の状況、止める者はおらず、殴るも勝手、足蹴にするのも好き勝手、齧りつくのもやりたい放題、接吻も、愛撫も、凌辱も、何もかもが男たちの意のままなすがままであった。
爆ぜる寸前のたけりでいまかいまかと待ち侘びた男のひとり、殴打の雨の愛撫がまどろっこしく感じたからか、嘲笑を浴びせながら青年を囲んで足蹴にしていた三人に青年の手足を抑えつけさせ、自分は青年の汚穢の密道に間断なしに剛直を差し入れるに至る。
焼け爛れるような痛みが刃となって無尽に迸るが、獣と化した男に青年の無念も苦しみも恨みも憎悪も分かるはずはない。どれほどの声を上げたのかも分かりもせぬ、青年が叫び声を上げ続け、その度に男たちが殴り続け、それを何度か繰り返して、やっと男は青年の内部に白濁の液をぶちまけた。
しかしこれで終わるわけではない。
「次は俺の番だ」
この男は青年の顔が女のようなのにつけて、どこから見つけてきたのか、女ものの服を拾って来たようで、白の、フリルのついたドレスを、裸に血と青痣の青年に着せて、
「これは、邪魔だなぁ……」
と吐き捨てたら、懐から刃物を取りだし、青年の下半身にぎりぎりと刃を突き入れ、青年の性器を全て抉りとった。
「良い声を出すじゃないか。もっと鳴いてみてくれ」
必死に抵抗するも、神経を弱められている青年、暴れてみれども、男たちを蹴散らすこと能わず、返り討ちに遭うばかりで、性器のついていた場所から大量の血を流しながら、再び殴られ続け、仕舞いには口を塞ぐため、切り取られた己の性器を口腔にはめられる。
下半身の激痛は腹に走り、中枢神経を壊し、脳髄を焼く。
「飲むんだ」
口に入れられた己の性器を吐きだそうとするも、
「飲め、飲まなければ殺してしまうぞ」
と目の前に刃物を突き出されているものだから、
「ほら、早く」
青年は己の性器が咽喉を通るのを、遠い意識のなかで感じた。
「傑作だ。本当に飲むとはな」
そのまま男たちの嘲笑を受けながら、青年は犯され続けた。断続的に刃物で体を刺され続けた。白のドレスをまるで悪魔の象徴であるかのような赤の血で染め上げられた。辱めを受けて瀕死の青年を見下ろしながら、男は傷つけた相手に名を付けた。
「女から聞いたところお前には元々名が授けられているらしいが、もう男ではない。これからは美咲と名乗れ。よい名だろう」
男たちは肉体および精神の凌辱だけでは飽き足らずに名まで付けて、存在の観念的な凌辱までしてのける始末である。
そんなことをされながら、青年は、男たちの卑猥な笑い声のなかにひとり女の声が混じりこんでいるのを遠くに聞いていた。
「お前はずっと出られない。このままここで、飼い殺しなのさ」