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処刑された公爵令嬢、どうやら一年前からやり直せるらしい。

掲載日:2026/05/21

 冷たい雨が、容赦なくわたくしの体を打ち据えていた。



「見苦しいぞ、リゼット。最後まで誇り高い淑女を演じていたようだが、とうとう化けの皮が剥がれたな。新たに貴様が隠蔽したものが露わになったぞ!」



 見下ろすような冷たい声。

 固く縛られたわたくしの前に立っていたのは、婚約者であり、この国の王太子であるアルフレッド殿下だった。



 彼の手には、王族の予算を横領したという『偽造された裏帳簿』が握られている。

 そして彼の腕の中には、勝ち誇ったようにわたくしを見下ろす男爵令嬢の姿があった。



「わたくしは……やっておりません……!その帳簿は、殿下がご自身の浪費を隠すために……っ」


「黙れ!貴様のような悪逆非道な女の言い逃れなど、誰が信じるというのだ!」



 アルフレッド殿下の怒声が、広場に響き渡る。

 集まった民衆からは、わたくしを罵る石や泥が投げつけられていた。



「この期に及んで僕に罪をなすりつけようとは。先日行った婚約破棄だけでは足りぬようだな。お前のような女は、死をもってその罪を贖うがいい!」



(どうして……?わたくしはただ、貴方様をお支えするために、必死に泥を被ってきたのに……!)



 殿下が男爵令嬢と遊び呆けている間、彼から押し付けられた学園の膨大な課題をこなし、殿下が夜会などで作った莫大な借金の隠蔽と帳尻合わせに徹夜で格闘したのはわたくしだ。

 男爵令嬢に贈られた宝石のツケも、実家の資産を削ってまで補填してあげたというのに。


 それなのに彼は、自分の横領が国王陛下にバレそうになると、すべてをわたくしのせいにして罪をでっち上げたのだ。それからわたくしは婚約破棄され地下牢に幽閉された。

 さらには、わたくしを庇おうと奔走してくれたお父様やお母様をも「反逆者の身内」として捕らえ、公爵家を没落へと追いやったのだ。



「さあ、執行しろ!!」



 殿下の無情な声と共に、処刑人が大剣を振り上げる。



(許さない……。絶対に、許さない……!!)



 視界が、真っ暗に反転した。

 冷たい刃が首に触れた、その瞬間――。










「はっ……!!あ、あああっ……!!」


 弾かれたように上半身を起こす。

 全身が汗でぐっしょりと濡れていた。


「お嬢様!?いかがなさいましたか、ひどいうなされようでしたが……」


 すぐそばから聞こえたのは、わたくしが処刑の前に暇を出して実家に帰したはずの、専属侍女の声だった。


「……え?」


 わたくしは震える手で、自分の首元に触れる。

 繋がっている。血も出ていない。首を落とされた時の、あの焼け付くような痛みもない。


 周囲を見渡せば、そこは見慣れた公爵邸の、わたくしの私室だった。


「今日……今日は、何年の、何月何日……!?」

「えっ?……星暦の二二四年、五月の三日ですが……」


 侍女の言葉に、わたくしは息を呑んだ。

 五月。それは、あの忌まわしい断罪と処刑が行われる、ちょうど『一年前』の日付だった。



(時を……遡ったの……?)



 夢ではない。

 あの氷のように冷たい雨の感覚も、首を落とされる瞬間の絶望も、魂に深く刻み込まれている。


 わたくしはゆっくりとベッドから降り、姿見の前に立った。

 そこに映っているのは、やつれて牢屋に繋がれていたわたくしではない。薄汚れていない、艶やかな銀糸の髪を持つ、十七歳のわたくしの姿があった。

 そう、学園の卒業を一年後に控えた、あの頃の。



「……ふふっ」



 自然と、乾いた笑いが込み上げてくる。



「あはは……っ、ああ、神様。わたくしに、もう一度やり直す機会を与えてくださったのですね」



 震えていた手が、次第に固く握り締められていく。

 瞳の奥に、暗く冷たい炎が灯るのを感じた。



(アルフレッド殿下。わたくしはもう、貴方様の愚かな尻拭いはいたしません)



(貴方様がわたくしにすべての罪を着せて殺し、愛する家族まで奪ったように。今度はわたくしが、貴方様を絶対に逃がさない)



 声高に叫んで彼を責め立てる必要などない。

 わたくしには、この公爵令嬢としての立場と、これから起こる『未来の記憶』があるのだから。




―・―・―




 それから数ヶ月。

 わたくしは、アルフレッド殿下から押し付けられていた課題の代行や、個人的な借金の補填を「体調不良」と「資金不足」を理由にキッパリと辞めた。


 そして、お父様であるアルジェント公爵に「アルフレッド殿下の浪費と横領は目に余ります。このままでは我が家まで巻き添えになりますわ」と、未来の記憶から得た不審な金の流れを指摘して直訴し、公爵家の全面的な協力と支援を取り付けた。



 その上で、連日のようにお茶会を開いていた。



「まあ、リゼット様。このお茶菓子、とても美味しいですわね」

「お口に合って嬉しいですわ、伯爵夫人。……そういえば、ご令息が出資なされているという新事業、少し気掛かりな噂を耳にしましてよ」



 わたくしは扇で口元を()()ながら、優雅に微笑んだ。



「気掛かりな噂、とは?」

「ええ。その事業の元締め、裏で隣国の密輸組織と繋がっているとか。もし公になれば、出資者もただでは済まないかと……」

「なっ……!すぐに主人に確認させますわ!リゼット様、教えていただき本当にありがとうございます!」



 またある時は、南部の領地を持つ侯爵夫人に向かって囁く。



「今年の夏は、少し雨が多くなりそうですわね。南部の川は氾濫しやすいと聞きますから、今のうちに堤防の補強をされた方がよろしいかもしれませんわ」

「まあ。確かに、備えあれば憂いなしですわね」



 わたくしが未来の記憶を頼りに流した情報は、すべて的中した。

 密輸組織は数日後に王室近衛隊に摘発され、伯爵家は間一髪で巻き添えを逃れた。

 南部の川は記録的な豪雨で氾濫しかけたが、事前の補強工事のおかげで被害は最小限で済んだ。



 結果として、たった数ヶ月で、王宮の有力貴族たちはこぞって『リゼットの助言』を求めるようになった。



「リゼット様と公爵閣下のおかげで我が家は救われました!」

「我が派閥は、今後ともアルジェント公爵家を全力で支持いたしますぞ!」



(ふふっ。これで、王宮の主要な貴族たちは、ある程度『わたくしたちの派閥』に取り込めましたわ)



 自室のソファに腰掛けながら、わたくしは紅茶を一口啜る。

 アルフレッド殿下の周りには今頃、彼と一緒に甘い汁を吸おうとする、欲深くて無能な取り巻きしか残っていないはずだ。



 しかし、これだけではまだ足りない。



「王太子という『絶対的な身分』がある限り、殿下を引きずり下ろすのは難しいわね……」



 どれだけ外堀を埋めても、王家の血筋という盾は厄介だ。

 彼を廃嫡に追い込むには、彼に代わる『新たな王位継承者』の神輿を用意しなければならない。



「……そういえば、いらっしゃったわね。もう一人の、王族が」



 わたくしは、社交界に顔を出さない一人の王子のことを思い出していた。

 国王陛下の第二子でありながら、病弱を理由に学園すら休学し、離宮でひっそりと暮らしている第二王子、ルイス殿下。



(そういえば、ずっと昔……幼い頃の夜会で、彼と一度だけ言葉を交わしたことがあったかしら。庭の隅に一人でいらした彼に、温かいお茶を勧めたような……記憶は曖昧だけれど)



(とにかく、大人しくて自己主張のない王子。……アルフレッド殿下から逃げるための隠れ蓑としては、これ以上ないほど好都合なお方だわ)



 わたくしはすぐにペンを取り、ルイス殿下に宛てたお茶会の招待状をしたため始めたのだった。






 数日後。わたくしは王宮の片隅にある、静かな離宮を訪れていた。


「……アルジェント公爵令嬢からお茶会に誘われるなど、思ってもみなかったよ」


 温室にある休憩所で出迎えてくれたのは、国王陛下の第二子であるルイス殿下だった。

 艶やかな黒髪に、深い夜空のような青い瞳。

 社交界には一切顔を出さず、「病弱で気弱な王子」と噂されていた彼だが、目の前に座るその姿からは、不思議と芯の強さのようなものが感じられた。



「突然の無礼な訪問をお許しくださいませ、ルイス殿下。本日は、他でもないご相談がございまして」

「ご相談……僕に?」

「ええ。単刀直入に申し上げますわ。わたくしを、貴方様の婚約者としてお迎えいただけないでしょうか」


 わたくしの突拍子もない言葉に、ルイス殿下は微かに目を丸くした。



「わたくしは現在、アルフレッド王太子殿下の婚約者という立場におります。しかし、殿下はわたくしではなく、別の令嬢に心を奪われておいでです。殿下にとってわたくしは邪魔な存在。このままでは、いずれわたくしは(いわ)れのない罪を着せられ、排除されるでしょう」

「……」

「ですから、アルフレッド殿下から逃げるための『正当な理由』が必要なのです。わたくしを保護していただけるのであれば……その見返りとして、我がアルジェント公爵家の総力を挙げ、ルイス殿下を次期国王の座へと押し上げますわ」



 息を呑むような静寂が、温室に降りた。

 王太子を廃嫡し、第二王子を玉座にすげ替えるという、どこからみても反逆の提案にしかみえない。

 王家に対する反逆だと怒り出すか、それとも恐れ多いと怯えて逃げ出すか。わたくしが扇の下で緊張しながら彼の反応を待っていると――。



「……本当に、僕でいいのかい?」



「え……?」



「君のような素晴らしい令嬢が、僕を選んでくれるなんて。……わかった。君がそう望むなら、僕は喜んで君の手を取ろう」



 ルイス殿下は、まるでずっとこの時を待っていたかのように、とても穏やかで優しい微笑みを浮かべたのだった。



(……あっさりと承諾してくださったわ。ご自身の立場をよく理解されている、賢いお方なのね)



 こうして、わたくしたちの秘密の協力関係は幕を開けた。






 それからのルイス殿下の働きは、わたくしの想像を遥かに超えるものだった。


 ある日のこと。

 アルフレッド殿下が男爵令嬢に買い与えている宝石の資金源を探るため、わたくしが密かに調査の手配をしようとしていた時のことだ。


「リゼット嬢。探しているのは、これではないかな」

「……え?」


 夜会を抜け出したバルコニーで、合流したルイス殿下がそっと一冊の帳簿を差し出してきた。

 それは、アルフレッド殿下が国庫の予算を不正に流用している決定的な証拠となる、アルフレッド殿下の私室の奥深く、隠し金庫に厳重に保管されていた裏帳簿だったのだ。


「ルイス殿下!?これ、アルフレッド殿下の私室の隠し金庫にしまわれていたはずでは……どうやって手に入れたのですか!?」

「少し、僕の個人的な伝手を使ってね。君が『最近の兄上の金の流れが不自然だ』と言っていたから、早めに押さえておいた方がいいと思って」


 わたくしは目を見開いた。

 ほんの少し懸念を口にしただけで、わたくしの意図を正確に読み取り、いつの間にか重要な証拠を奪ってくるなんて。



(……なんて見事な手腕かしら。このお方、病弱や無能というのは、アルフレッド殿下の派閥から警戒されないための『仮の姿』だったのかしら)



 一回目の人生では、離宮に引きこもる彼のことなど気にも留めなかった。

 まさかこれほどまでに聡明で、恐ろしいほどの行動力を持つ方が隠れていたとは。アルフレッド殿下よりもルイス殿下の方が本当に次期国王に相応しいのかもしれないわね。



「ありがとうございます、ルイス殿下。これで、あの愚かな王太子を完全に追い詰めることができますわ」

「どういたしまして。……君の憂いが少しでも晴れるなら、僕は何だってするよ」



 ルイス殿下は、どこか眩しいものを見るような、優しく熱を帯びた瞳でわたくしを見つめていた。

 その視線に、どうしてだか少しだけ胸がドクンと跳ねたけれど……わたくしは気を引き締めて、受け取った裏帳簿を固く握りしめた。




―・―・―




 そして、季節は巡り3月を迎えた頃。

 王立学園の卒業パーティーの日がやってきた。


 わたくしが代行や借金の尻拭いを放り出したこの数ヶ月間で、アルフレッド殿下の評判は地に落ちていた。

 彼が提出する書類は穴だらけで、王家の領地は赤字続き。おまけに男爵令嬢にうつつを抜かして国庫の金を湯水のように使っていることは、もはや王宮の公然の秘密となっていた。ただ、当の本人は男爵令嬢に夢中で気づいていないけれど。


 本来ならば数ヶ月で完全に破滅していたはずだが、わたくしたちはあえて、彼がギリギリ王太子の座を保てるように裏から手を回し『泳がせて』おいたのだ。すべては、国中の貴族が集まるこの卒業パーティーの舞台で、最も無残に彼を引きずり下ろすために。



 そして、己の愚かさに気づかないアルフレッド殿下は、ついに一回目の人生と同じ『愚行』に出たのだ。



「皆の者、静まれ!!」



 華やかな音楽が止まり、静まり返った大広間。

 アルフレッド殿下が、あの男爵令嬢の肩を抱き寄せながら、大声でわたくしを指差した。



「セリア・フォン・アルジェント!貴様のような悪逆非道な女との婚約は、今この瞬間をもって破棄する!」



 大広間が、水を打ったように静まり返る。

 わたくしはゆっくりと進み出ると、優雅に扇を広げた。



「婚約破棄、でございますか。……それは一体、どのような理由でしょうか?」

「とぼけるな!お前がこの愛らしい男爵令嬢を虐め抜いたことは明白だ!さらには、己の権力を笠に着て王家の予算を横領したことも調べがついて……」

「お言葉ですが、アルフレッド殿下」



 わたくしは、彼が最後まで言い切る前に、冷ややかにその言葉を遮った。



「その『横領』のお話、よろしければもう少し詳しくお聞かせ願えませんか?」

「なっ……!き、貴様、この僕に向かって……!」

「わたくしは、ご自身の浪費を隠すために、必死に『偽造された裏帳簿』を作ろうとしていた方を知っておりますのよ。ねえ、殿下?」



 わたくしが扇をパチンと閉じると、アルフレッド殿下の顔からスッと血の気が引いた。



「そ、それは……っ!」

「さあ、茶番はこれくらいにいたしましょう」



 わたくしが振り返ると、群衆が割れ、そこから一人の青年が進み出てきた。

 漆黒の礼服に身を包んだ、ルイス殿下だった。その手には、わたくしたちが集めた『本物の横領の証拠書類』が握られている。



「ル、ルイス……!?お前、なぜこんな表舞台に……!」

「兄上。あなたが男爵令嬢に買い与えた宝石の領収書、そして国庫から不正に引き出した資金の流れ、すべてここに記録されています」



 ルイス殿下の静かでよく通る声が、広間に響き渡った。



「アルフレッド王太子殿下。あなたを、国家に対する重大な横領および反逆の罪で、告発いたします」



 その瞬間。

 会場にいた有力貴族たちは、誰一人として王太子を庇おうとはせず、氷のように冷たい視線を彼へと向けたのだった。



「な、何を馬鹿なことを……!僕は王太子だぞ!偽の証拠をでっち上げおって!」


 アルフレッド殿下は顔を真っ赤にして叫び、周囲の貴族たちを見渡した。


「偽の証拠……?兄上、見苦しいですよ。実はこの帳簿、数日前にすでに父上へ提出し、専門家による厳しい鑑定を終えているのです。今この場で突きつけたのは、大勢の貴族の前であなたの罪を明白にするためです」


「なっ……!?」


 絶句するアルフレッド殿下が助けを求めるように周囲を見渡すが、貴族たちは誰一人として目を合わせようとはしない。


「おい、お前たち!こいつらは国に反逆しようとしている狂人だ!すぐに近衛兵を呼んで捕らえろ!」



 しかし、誰も動かない。

 それどころか、この数ヶ月間でお父様と共に助言を与え、恩を売っていた有力貴族たちは、一斉にアルフレッド殿下に冷ややかな軽蔑の視線を向けていた。



「……その通りですぞ、アルフレッド殿下。実に見苦しい」



 重々しい声と共に進み出たのは、宰相閣下だった。

 その後ろには、武装した近衛騎士団が控えている。



「先ほど、国王陛下より直々の勅命が下りました。ルイス殿下より提出された裏帳簿は『本物』であると確認され、陛下は大変お怒りです。アルフレッド殿下の王太子としての身分を直ちに剥奪し、地下牢への投獄を命じられました」

「なっ……!?父上が、僕を!?」

「そして、殿下を唆し、国庫の金を不当に引き出させたそこの男爵令嬢にも、同罪が適用されます」



「えっ……?わ、私……!?」



 勝ち誇っていた男爵令嬢の顔が、一瞬にして真っ青に染まる。


「そ、そんな……嫌です!私は何も知りません!殿下が勝手に貢いできただけで……!」

「貴様っ、僕を裏切る気か!お前が欲しいと言ったから金を用意したのだろうが!」


 つい先ほどまで愛を囁き合っていた二人が、今や醜く責任を擦り付け合っている。

 わたくしは扇の下で、そっと冷ややかな息を吐いた。


「連れて行け!」


 宰相閣下の号令で、近衛騎士たちが二人を取り押さえる。


「離せ!僕は王太子だぞ!リゼットぉぉぉっ!!」


 無様に泣き叫びながら引きずられていく、かつての婚約者。

 わたくしにすべての罪を着せ、冷たい雨の中で笑っていた彼の姿はもうない。

 一回目の人生でわたくしたち家族が味わった絶望を、今度は彼自身が、その身で味わうことになったのだ。



―・―・―



 それから数日後。

 王宮は瞬く間に浄化され、アルフレッドは王位継承権を完全に剥奪されたのち、魔獣が蔓延る極寒の辺境領へ生涯幽閉されることとなった。あの男爵令嬢も共に送られたという。


 そして今夜、王宮では『新たな王太子』の誕生を祝う夜会が開かれていた。

 わたくしは、騒がしい広間を抜け出し、夜風を浴びるために静かなバルコニーへと出ていた。


「――リゼット嬢」


 背後から、穏やかな声がかけられる。

 振り返ると、漆黒の礼服に身を包んだ新たな王太子、ルイス殿下が微笑みながら立っていた。



「ルイス殿下。この度の立太子(りったいし)、誠におめでとうございます」

「ありがとう。でも、すべては君のおかげだよ。君がアルジェント公爵家の力を貸してくれなければ、僕は今も離宮で息を潜めるだけの存在だった」


 夜風に黒髪を揺らしながら、彼はわたくしの隣に並び立つ。


「とんでもございませんわ。わたくしが少し情報を流しただけで、殿下がすべて先回りして的確に証拠を押さえてくださった。殿下のような聡明なお方と手を結べたこと、心より感謝しておりますのよ」


 わたくしは心からの賛辞を贈った。

 彼が病弱という噂を隠れ蓑にして、裏でどれほどの情報網を築き、才能を磨いていたのか。そうでなければ、あんなにも見事な連携が取れるはずがないのだから。


 しかし、ルイス殿下は少しだけ困ったように微笑み、夜空の月を見上げた。



「……僕の才能なんかじゃないさ」

「え?」

「君の計画が、とても素晴らしかったからだよ。……これでようやく、君は『あの冷たい地下牢』で凍えずに済むんだね」




 ――その言葉に、わたくしはピタリと動きを止めた。



「……ルイス、殿下?」



 背筋に、ゾクッとするような違和感が走る。

 地下牢?凍えずに済む?



 今世では、わたくしは一度も捕まっていない。地下牢になど、一歩も足を踏み入れていない。

 わたくしが地下牢の冷たい石床で凍えていたのは、断罪されて処刑される前……『一回目の人生』での出来事だ。



「貴方、どうして……わたくしが『地下牢』にいたことを……?」



 震える声で尋ねると、ルイス殿下はゆっくりとこちらに顔を向けた。

 その夜空のような深い青の瞳には、いつもの穏やかさだけでなく、痛切なまでの悲しみと、途方もない熱情が揺らいでいた。



「……ああ。やっと、君に言える」



 ルイス殿下はわたくしの前に片膝をつき、わたくしの震える手を両手でそっと包み込んだ。



「一回目の人生の僕は、母の身分が低いからと周囲から疎まれ、権力争いを恐れて離宮でただ息を潜めて生きるだけの臆病者だった。そんな僕に、幼い頃の君だけが……迷い込んだ夜会で誰にも相手にされなかった僕に、温かいお茶と優しい言葉をかけてくれたんだ。それ以来、君はずっと僕のただ一つの光だった」

「ルイス殿下……」

「けれど、僕は力を身につけることを恐れ、君が兄から不遇な扱いを受けているのを知りながら、何一つ手を差し伸べられなかった。そしてあの日……君が処刑された冷たい雨の中で、僕は己の無力さと愚かさを心底呪った」



 彼は自嘲するように微笑み、わたくしの手に額を押し当てた。



「君を失った後、僕はせめて兄の罪を暴こうと必死に証拠を集め、あの裏帳簿の在り処を突き止めた。けれど、後ろ盾のない僕の告発は簡単にもみ消され……絶望の中で、君の後を追って毒を仰いだんだ」



「そんな……っ!」



「目を覚ました時……僕は、君が処刑される一年と少し前の過去に戻っていた。二度目の人生では、何に代えても絶対に君を救うと誓った。だから、兄や父に警戒されないよう水面下でひそかに自分の派閥を作り、いずれ僕の方から君を奪い去る準備を進めていたんだ」



 わたくしは息を呑み、絶句した。


 彼がわたくしの意図を言わずとも察し、あの厳重なアルフレッド殿下の隠し金庫から裏帳簿を盗み出せた理由。

 それは、彼が裏で才能を隠していたからなどではない。


 一回目の人生でわたくしが死んだ後、彼が血を吐くような思いで兄の罪を調べ上げ、証拠の在り処を突き止めていたからなのだ。



「わ、わたくしが契約を持ちかけた時……貴方は、どうしてわたくしに……」

「初めて会った夜会で、ずっと目で追っていた。誇り高く、誰よりも国のために尽くす君を、ずっとお慕いしていたんだ。……君が僕の離宮へ来て、僕を頼ってくれた時、計画が早まった驚きよりも、君が僕を選んでくれたことがどれほど嬉しかったか」



 彼の手から、熱い温度が伝わってくる。

 ただの『逃げ道』として彼を利用しようとしていたわたくしを、彼は時を超えて、ただ一心に愛し、守り抜こうとしてくれていたのだ。



「……っ」



 気がつけば、わたくしの目からポロポロと涙が溢れ落ちていた。

 一回目の人生の絶望も、孤独に戦ってきた数ヶ月の緊張も、すべてが彼の手の温もりに溶けていく。



 彼がわたくしに向けた途方もない愛情に触れ、胸の奥に、かつてないほど熱く甘い感情が溢れ出していくのがわかった。

 時を遡ってまでわたくしを救ってくれたこの不器用で一途な人を、わたくしも心の底から愛しているのだと、はっきりと自覚した瞬間だった。


「リゼット。……政治的な契約ではなく、僕の生涯の伴侶として、どうかこの手を取ってはくれないだろうか」


 見上げる彼の瞳は、ひたすらに優しく、一途だった。

 わたくしは溢れる涙を拭い、彼をまっすぐに見つめ返した。

 もう、()で本心を隠す必要はない。



「……ええ。喜んで、貴方様の手を取らせていただきますわ」



 月明かりの下。

 わたくしが心からの笑顔でうなずくと、ルイス殿下は立ち上がり、わたくしを強く抱きしめた。



「リゼット……ああ、愛している。もう絶対に君を離さない」



 彼の熱い吐息が耳元を掠め、わたくしの頬を優しく包み込んだ彼の手が、そっと顎を持ち上げる。



「……っ」



 重なり合う唇から、彼がこれまでたった一人で抱え続けてきた途方もない愛情と熱が、甘く溶け込んでくる。

 ただの『逃げ道』だったはずの彼が、今ではこんなにも愛おしくてたまらない。



 離れたくなくて、わたくしもそっと彼の背中に腕を回し、その温もりを強く抱きしめ返した。




 冷たい雨の降る断罪の日々は、もう二度と訪れない。

 時を遡った二人の新しい人生は、今、この温かく甘い口づけと共に始まるのだった。







―・―・―






 リゼットが去った後のバルコニーで、僕は夜風を浴びながら、小さく息を吐いた。



「ようやく……ようやく、君に触れられた」



 彼女の体温が、指先から伝わってくる。

 僕は、彼女の知らない過去を覚えている。あの雨の日、処刑台に消えた彼女の絶望と、何もできなかった僕自身の無力さを。



 だからこそ、二度目の人生では、僕はただ彼女を救うことだけを考えた。



 離宮で引きこもっていた僕に、表立った力はない。

 君を救うために、僕はただ君の背中を追い続け、いつ君が助けを求めてもいいように、ずっと準備をしていたんだ。君の隣に並ぶ資格を得るために、僕ができることは限られていたけれど、それでも君の視界の端に居続けようと願った。



「君が兄上からどれほど冷遇されていたか……僕は、ずっと近くで見ていたから」



 君が復讐のために僕の手を取ってくれた時は、本当に驚いた。

 まさか君の方から僕を選んでくれるなんて思ってもいなかったから。



 君は僕を、単なる協力者だと思っているかもしれない。



 けれど、君と過ごすこの時間が、僕にとっては一度目の人生で叶わなかった、何にも代えがたい宝物なんだ。



「君を救えるなら、僕はどんなことだってするよ」



 夜空の下、僕は誰にも聞こえない声で呟いた。



 君が僕の想いをどう受け取るかは分からない。でも、君が僕の手を借りて笑ってくれるなら、それで十分だ。




 もう、二度と君を冷たい雨の中へは行かせない。

 君の新しい人生が、僕のそばで穏やかなものになるように。


 


 僕は、星空に向かって一心に願った。




ここまでお読みいただきありがとうございました!


タイムリープものは個人的には好きなジャンルです!今回は主人公だけでなく実は他にもタイムリープしていたという設定にしてみました。短編なので端折ってしまった箇所はありますが、テンポ感を優先して作ってみました。

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― 新着の感想 ―
第2王子良いね。 死に戻りの話でぽっと出のヒーローは萎える場合が多いけど今回の第2王子の登場こ仕方と最後の独白と好感持てました。
好きな話し 2人の途中での感情のやり取りが、もっとあると、最後 もっと、泣ける話しに 彼女の話は泣けた 最後にもっと感涙したい 彼のことが最後だけの話だから 感情移入が、、できなくて、、 とっ…
うえーん、よかったよー。 王道の展開だけど、最後にリゼットがぽろぽろ泣いたところで、やられました。 前世で死んだ時からずっと堪えててた涙だったんだね。 ルイス殿下、最後に毒を飲むまで本気でリゼットのこ…
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