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『どうして陸はそんなこともできないの? お友達をご覧なさい。できてないのはあなただけよ?』
俺の母親は、昔からそんな叱り方をする。
『お兄ちゃんが陸の年にはもうできてたのに』
『まあ、ヒロキ君はちゃんとできて偉いわね。それに比べて陸は、ハァ』
失敗すると、できる兄貴や友達を引き合いに出し、できない俺へ不良品を見るような目を向けてくる。
小さかった俺は、叱られる度に泣いていた。
「きっとぼくはできそこないなんだ」って。
叱られたくなかった。
だから俺は、やりたいことがあっても我慢する子供になった。
何もしなければ叱られることもないから。
そんな俺に母親は、「陸って引っ込み思案ね」と笑った。
中学に入ると、不良がおとなしい俺に目をつけ、いじめられるようになった。
それがクラスで問題になり、母親が学校に呼び出された。
話が終わり職員室を出ると、先に出ていた母親が携帯で誰かと話していた。
「こんなことお兄ちゃんはなかったのに、どうしてあの子だけ……」
俺は、疲れた顔で話している母親のそばへ行き、
「か、母さん」
今日はごめんなさい、と謝ろうとしたら、
「……やっぱり二人目を産んだのは失敗だったわ」
「っ!」
世界が壊れた。
次の日俺は、教室に入るなり不良に襲いかかり教師に止められるまで殴りつづけた。
以来、みんな俺を危険人物扱いする。
母親は、例の如く不良品のように俺を見る。
でも、どうでもよかった。
俺は、出来損ないで失敗作の不良品。
もう全部どうでもいい。
……
中学三年の六月。
一学期の中間試験の結果が下の下になり、それを見かねた母親が勝手に俺を塾に入れた。
塾は、火曜と木曜。
「十八時四十五分に塾のバスが公園入り口前にくるからね」
そう母親に教えられて家を出たが、行くつもりはない。
どうでもいい。
成績も自分のこともどうでもいい。
何もかも興味がない。
母親の言っていた公園を素通りしようとしたら、公園の入り口に同い年くらいのやつが一人立っていた。
俯き加減にスマホを見ている。
塾に行くやつだろう。
隣の大野北中学の体操服姿。
色は赤だから、俺と同じ三年。
ショートカットで華奢な体。
横顔は、目が大きくてまつ毛が長い。
女……か?
「アハハハッ!」
いきなり笑い出した。
高い声。
やっぱり女か。
「ハハハ……あ」
目がパチリと合う。
「君のこと笑ったわけじゃないよ?」
「わかってるよ」
スマホを見て笑ってた。
「あ、もしかして君も塾? 僕、三崎翼。よろしく」
一人称が『僕』。
「お前男?」
「え?」
「パッと見、女かと思った」
って、女と間違えられて嬉しいやついないよな。
言ってから気づいたが、
「アハ、ありがと」
喜んでいた。
「僕、中身は女子だから嬉しいな」
「中身?」
「体は男子だけど、心は女子なんだ。LGBTQのG」
ゲイ。
「え、マジで?」
「こんなことウソ言わないって。僕と同中のやつに聞いていいよ? 学校でもぶっちゃけてるし」
「ふ〜ん」
本当にいるんだな、そういうやつ。
「怯えないで。獲って食べたりしないから」
「いや、怯えてねぇけど」
「そう? アハハハ」
よく笑うやつ。
「へ〜」
三崎がまじまじと俺を見る。
「何だよ?」
「カミングアウトするとさ、だいたいみんな引くか逃げるか変に気を遣うんだけど、君って変わらないね」
「お前のことなんてどうでもいいよ」
興味ない。
「ひどーい。アハハハッ」
言葉とは裏腹に笑ってる。
「君って人に馴れない野良犬みたいだね」
こいつ言い返してきやがった。
でも例えが妙にハマった。
野良犬呼ばわりされたのにおかしくて、笑いそうになった口元を手で隠した。
俺の反応を見た三崎が興味ありげな視線を向けてくる。
「君、なんて名前?」
「高山陸」
「バス待ちはここね。バスが来たら思いっきり手を振って、アピールして止めるんだよ」
「んなことしなくても止まるだろ」
「知ってた? アハハハ」
俺をおちょくろうとしたな。と思ったが、
「あ、バスがきた。おーい!」
三崎は、本当に手を振ってアピールして止めた。
変なやつ。
……
結局、塾に行くことにした。
理由は、三崎翼。
三崎は、ユニークで変なやつだった。
少し興味が湧いた。
あくまで少し。
……
塾の日。
バスの停留所に行くと三崎がいた。
スマホを見てる。
通い始めてひと月経つが、いつも三崎は俺より先に来ていた。
「あ。高山」
足音で気づき、スマホから顔を上げた。
「これ見てよ」
スマホ画面を見せてくる。
女子高生のダンス動画。
「可愛いよね? 僕も撮ってSNSにあげよっかな」
真似して踊り出した。
笑顔でステップを踏んでる。
「お前っていつも楽しそうだよな」
「だって楽しいもん」
足を高く上げる。
体柔らかい。
「お前、本当に中身が女子なの?」
「そうだよ?」
「そういう人ってさ、もっとおとなしくてコソコソしてるもんなんじゃねぇの?」
「うわっ、偏見〜」
大きくジャンプ。
髪がふわりと跳ねる。
「そんなの楽しくないからしないよ」
着地。
「ゲイが人生を楽しんじゃいけないなんてことないでしょ?」
最後に決めポーズ。
近くで見てたばあちゃんが拍手をすると、翼が舞台役者みたいに頭を下げた。
こいつ、自由だなって思った。
羨ましいなって。
「ねぇ、このダンスどう? あげたらバズるかな?」
「ん。まぁ、お前可愛いからバズるんじゃねぇの?」
「え、僕のこと可愛いって思ってたの?」
「あ」
口が滑った。
「そっか〜。高山って僕のことそんな目で見てたのか〜」
ニヤつくな。
「もしかして、僕とお付き合いしたいとか?」
「はあ?」
「さては、それで僕に近づいたな?」
指を銃にして俺をさす。
アホか。
いきなり何言い出すんだ。
「高山って見た目いい感じだし、僕は付き合ってあげてもいいけど?」
上から目線。
良い女気取りか。
「あのな、いくら可愛くても男となんて」
「なんて、そんなつもりじゃないよね。てゆーか、男と付き合うなんてそんなことできないよね。わかってるって。冗談冗談、アハハハ」
「……何?」
『どうして陸はそんなこともできないの?』
母親の言葉が思い出される。
反抗心が湧いてくる。
「できるよ。付き合おうぜ」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「え」
三崎が目を丸くして驚く。
「本気で言ってる?」
「お前が言い出したんだろ。三崎、俺と付き合おうぜ」
「えっと……」
三崎は、戸惑った表情の後、
「うん、付き合おっか」
いつもの笑顔で頷いた。
頬が少し赤くなっていた。
……
翼と付き合うことになった。
とはいえ、だ。
特に恋人っぽいことはしなかった。
そりゃそうだ。
翼は、男が恋愛対象でも、俺はノーマルなんだから。
それでも。
翼と過ごす時間は、嫌いではなかった。
……
夏休みに入った。
家で漫画を読んでいると、翼からライン。
『勉強しよ』
勉強なんてまったくやる気がしないので断ろう……と思ったけど、
『とりあえずウチくれば?』
……
『もうすぐ着く』
ときたので家を出ると、曲がり角から翼が自転車で現れた。
ゆったりめの白いシャツに赤いチェック柄のパンツとサスペンダー、頭にはカンカン帽。
少年って感じ。
キッと家の前でブレーキ。
「わざわざありがとう、陸」
「暑い。チャリガレージに止めてこい。早く入ろう」
ということでさっさと家に入ると、
「陸、お友達?」
母親が出てきた。
いちいち。
鬱陶しいんだよ。
「初めまして、三崎翼っていいます」
「陸の母親の高山京香です。まあ、女の子のお友達なんて」
大仰に驚く。
「アハハ。僕、男なんです」
翼が明るく笑って返した。
「え? あらやだ、ごめんなさい私ったら」
「いいんです。陸も間違えてたし。ね?」
「翼、こっち」
スルーした。
母親とは喋る気もしない。
「陸、後でお菓子持っていくわね。飲み物は何がいい?」
無視。
「陸? ねえ?」
「翼、行くぞ」
「あ、うん。お邪魔します」
翼が律儀に頭を下げた。
「はい、ごゆっくり。翼君は、ちゃんとご挨拶ができて偉いわね。それに比べて陸は。もう」
また。
それしか言えないのかあんたは。
苛立ちを隠さず階段をダンッダンッと踏み鳴らし、二階へ上がって部屋に入った。
「お母さんとケンカ中?」
聞いてくる翼にただ首を左右に振った
「適当にそのへん座れよ。何のゲームする?」
「は? 勉強って言ったじゃない」
絨毯に座り、トートバッグから勉強道具を出して丸テーブルに並べていく。
「正気かよ」
「受験生なんだし、何もおかしくないでしょ。ほら、陸も」
テーブルをポンポンとたたく。
「わかったよ」
勉強してるやつの横でゲームとかアホなガキみたいだ。
仕方なく俺も夏休みの宿題を広げた。
……
十五分くらいで集中が切れた。
テーブルに肘をついて休憩。
翼がシャーペンを走らせる。
髪が細くてサラサラ。
伏せぎみの長いまつ毛が影を落としてる。
マジで可愛い顔だよな、こいつって。
「ん? 何?」
視線に気づいた翼が顔を上げた。
「別に」
見てたのがなんとなく恥ずかしくて、ゴロンと後ろに寝転んだ。
「ねぇ、陸」
「ん〜?」
微妙に眠い。
「僕たちって恋人だよね?」
「あ〜、だな」
そういやそうだった。
「恋人が部屋で二人きりだと何するのかな?」
「そりゃあ、イチャイチャするんじゃねぇの?」
「そう。イチャイチャ?」
「ああ。キスとか?」
「キスとか」
「俺らもするか?」
なんてな。
「……」
翼が静かにペンを置く。
四つん這いにこっちへきた。
その体勢のまま俺の顔を覗くように上から見つめる。
「何?」
聞いたが答えずに長いまつ毛を伏せて顔を近づけ俺に唇を重ねた。
静かな部屋。
クーラーの音。
翼の息遣い。
翼が離れる。
「僕、初めてキスした……」
まぶたと唇を薄く開いた甘い顔で見下ろす。
「お、お、お前」
「陸も初めてだった?」
「ち、違ぇし!」
いろいろ言おうとしたけど、ギャーギャー喚くとキスに慣れてないってバレる。
「ち、ちょっと便所」
落ち着いたフリをして立ち上がり、部屋を出た。
廊下で息を整える。
マジでキスとか、ふざけやがって。
男同士なのに。
「でも……」
気持ち悪いとかはなかった。
あいつ、顔が可愛いから。
だと思う。
だって俺そっちの気はないし。
……
八月の頭。
今日は祭りの日。
「一緒に行こ」と翼に誘われ、神社の鳥居前で待ち合わせ。
しばらくして、
「お待たせ」
とやってきた翼が着ていたのは、女物の浴衣だった。
黄白色の生地に赤いあやめの柄。
藍色と草色の縞模様の帯を締め、手にはえんじ色の信玄袋。
頭には三連コスモスの髪飾り。
唇にはおとなしめの赤リップ。
もう完全に女じゃねぇか。
「どう?」
ポーズを取って聞いてくる。
「ああ、似合ってる」
「やった」
喜んでる。
マジで可愛いんだが。
言わないけど。
「行こ」
翼が俺の手を引く。
自然と手を繋いできたが、
「いやいやいや」
解いた。
「え〜」
翼がブーたれた。
……
二人で屋台を賑やかして回る。
「美味し〜」
翼は、リンゴ飴を食べていた。
屋台といえばこれらしい。
「陸も。はい、あ〜ん」
リンゴ飴を俺の口元に持ってくる。
この大勢いる前であ〜ん、て。
「いや、いい」
「間接キス〜」
「な、何言ってんだ!」
とやっていると、
「三崎じゃね?」
「あ、マジだ」
すれ違った男二人が振り返った。
「戸叶に奥田」
翼の知り合い。「北中のやつだよ」と俺に教えてくれる。
「何してんの、お前?」
戸叶とやらが聞いてくる。
「見ての通り、遊んでるんだよ」
翼がいつもの明るい調子で答えた。
「そうじゃなくて、その浴衣女のだろ?」
「だね」
「ふ〜ん……」
翼の浴衣姿をジロジロと見る。
「さすがオカマ野郎」
「ブハッ」
戸叶が言うと奥田が吹き出した。
何だその言い方は、とカチンときたが、
「アハハハ」
翼も一緒に笑っていた。
腹立たないのか?
「お前、その格好はキモいって」
「キモいはお前言い過……ホンマや! アハハハッ」
二人の笑えない漫才。
なのに翼は笑ってる。
俺は笑えない。
むしろムカつく。
「お前、三崎のダチ? こいつオカマって知ってんの?」
戸叶が俺に話を振る。
「知ってるよ」
「男なのに男が好きとか意味わかんねぇよな」
「ほっとけ」
「え、何その態度? あ、もしかして……」
口端を嫌らしく吊り上げる。
「お前も男の失敗作のオカマだな?」
「っ!」
『二人目を産んだのは失敗だったわ』
完全に切れた。
「オラッ!」
ニヤけてる戸叶の顔面に拳を叩き込んだ。
「ブハッ」
戸叶が仰向けに倒れた。
「ブチ殺してやる!」
「ち、ちょっと陸!」
さらに殴ろうとしたら翼に止められた。
「何しやがる!」
「うがっ!?」
そこを横から奥田に殴られた。
「テメェよくも!」
立ち上がった戸叶からも反撃。
俺もやり返して大げんかになった。
ケンカは、青年団の人たちが止めに来るまでつづいた。
……
神社の奥まったところにあるベンチ。
俺を捕まえようとする青年団の大人たちから逃げてここへ来た。
人気がなく祭りの喧騒が遠い。
「はい」
翼が俺の頬にペットボトルを当てた。
俺は今、翼に膝枕をされていた。
いいって言ったのに。
ペットボトルが腫れた頬にジンと沁みる。
「それで、どうして突然戸叶を殴ったの?」
「はあ!?」
「急に大声出さないでよ。ビックリするでしょ」
こっちがビックリしたわ。
「あいつらが翼のこと馬鹿にしてたからに決まって……イテテ」
切れた口の中が痛い。
「そうだったの? なんだ。ありがとう、陸。僕てっきり二人に恨みでもあるのかと思った」
あんなやつら知らねぇ。
「お前、何で怒らないんだ? あれだけ好き放題言われて何で笑ってんだよ?」
「え? だって面白いじゃない」
「どこがだよ」
「あいつらああやって人をイジるのが面白いと思ってるんだよ。馬鹿で笑えるよね〜、アハハハ」
馬鹿で?
「お前、そんな風に見てたの?」
「それ以外にどう見るの?」
こいつ、けっこう黒いな。
いや、会った時からこんなもんだったか。
「陸は、まともに聞いちゃったんだね。嫌な言葉なんて聞き流せばいいんだよ。聞き流すコツはね、『こいつ馬鹿だな〜』って相手を見下すの。そうすると、怒りより憐れみが勝るから」
ニッコリ白い歯を見せた。
「プッ」
「え、何で笑うの?」
「お前、可愛い顔で腹黒いこと言うから、ククク」
「へへ、可愛いって言われちゃった」
そこだけ取るのかよ。
それがおかしくてまた笑った。
「笑って聞き流せば、か」
ふと、母親に言われつづけてきた言葉を思い出した。
さっきのも聞き流せなかった。
時折リンクしてしまう。
「どうかした?」
「ん? あ〜……」
俺の恥ずかしい部分。
人に話したことなんてない。
でも、不思議と翼には聞いてもらいたいかもしれない。
「俺の母親さ、昔から、『みんなできるのに、どうして陸はできないの?』って叱り方する人でさ。子供の俺はいつもまともに受け止めて、俺は出来損ないなんだって自分を貶めて泣いてさ」
自分を形作った言葉。
「あげくに、『産んだの失敗だったわ』なんて言ってるの聞いて、傷ついて、やさぐれて。俺ってガキだよな。ま、笑ってくれ」
ハハハ、と笑って流そうとしたが、
「……」
膝枕越しに、翼の体が震えていた。
「翼?」
「……陸のお母さん、ひどい」
俺の頬にポタリと滴が落ちた。
翼の涙。
「それって、『そんなこと』じゃないよ」
翼が俺の上で泣いている。
「『そんなこと』なんかじゃない。陸を傷つけたお母さんはひどい」
「そう、かな?」
「そうだよ。辛いね、陸」
翼が俺の頭を抱え込んだ。
「陸は、出来損ないなんかじゃないよ」
「そう、思うか?」
「うん。生まれてきてくれてありがとう」
「そう……」
ガキって笑われなかった。
一緒に怒ってくれた。
俺を肯定してくれた。
どうしてだ?
俺まで涙が溢れてきた。
泣き顔見られたくない。
「う〜、もう。せっかく可愛くしてきたのに〜」
翼が顔を上げ、ハンカチを目元に当てる。
その隙に俺も顔をゴシゴシこすって涙を拭った。
小さく安堵の息を吐き出して、もう一度翼の顔を見上げたその時、
ドンッ
と花火が上がった。
翼の顔が花火に照らされる。
涙に濡れてる瞳がキラキラ輝いてる。
「わあ! 綺麗だね、陸!」
「……確かに、綺麗だ」
これは何だろう?
よくわからない感情が芽生えていた。
……
夏休みも終盤。
プールで遊んだ帰り道。
移動店舗のクレープ屋を発見。
翼に手を引かれて店に行き、二人分購入した。
俺は、シンプルにチョコバナナ。
翼は、よく巻けたなってくらいのトッピングたっぷりなクレープを嬉しそうに頬張っている。
微笑ましい。と同時に切ないような苦しいようなものが胸の中にある。
あの祭りの日以来ずっとだ。
これは一体何なんだ。
「夏休みももうすぐ終わりだね〜」
クレープを食べながら、翼が遠く入道雲を眺めた。
「翼は、夏休みいっぱいで塾やめるんだよな?」
「うん。これからは、家庭教師の先生にお願いしてるから」
「高校、どこ狙ってるんだ?」
「霞野高校だよ」
「げ」
マジか。
県内一の進学校じゃねぇか。
翼の成績なら受かるだろうけど。
「陸も一緒に行こうよ。霞野」
「無茶言うなよ」
俺には到底無理。
「行けるって。陸は、勉強ができないんじゃなくてしてこなかっただけだから、集中して取り組めば……ケホッ、ケホッケホッ」
突然咳き込む翼。
背中をさする。
「おい、大丈夫か?」
「ケホッ、ケホッ、う、うん、大じょ……」
「ん? なんかお前、声が」
「!」
翼が背中をビクリと跳ねさせる。
クレープが手から落ちた。
「あ〜あ〜、何やってんだよ。俺の食うか?」
翼の口に持っていく。
しかし翼は、怯えるみたいにあわてて俺から離れた。
「翼?」
首をひねる俺をよそに、翼は、スマホを取り出して画面に指を走らせる。
俺のスマホが鳴る。
見ると翼からのラインで、『先に帰る』。
「え? 翼?」
と顔を上げると、翼はもう走り出していた。
どうしたんだ、あいつ?
……
ここ数日、翼の顔を見ていない。
今年の夏休みは、ほぼ毎日会ってたから変な感じだ。
ラインのやり取りはしてる。
でも、遊ぼうと送ると用事があるばかり。
まるで俺を避けているみたいに。
俺、何か変なことしたっけか?
悩んでいるうちにやってきた塾の日。
久々に翼に会えるということで、俺は少し早めに家を出た。
いつもの十八時四十五分よりも前。
なのに翼は、やっぱり俺より先に来ていた。
夕日が照らす中、物思いにぼんやりと突っ立っていた。
「よ」
肩をたたく。
翼がこちらを向いてコクリと頷いた。
何か様子が変だ。
「翼?」
「……陸」
「え」
驚いた。
声が俺の知ってる翼じゃなかった。
低い。
「この声、可愛くないね」
無理して笑顔を作る。
「僕ね、今日は、お別れを言いにきたんだ」
「は? いきなり何の冗談だよ?」
翼が首を横に振る。
「前から兆候はあったんだけど、僕声変わりしたんだ」
ああ、これって声変わりか。
「僕ね、可愛いでしょ?」
「自分で言うなよ」
「ハハハ」
翼が笑う。
「男に生まれちゃったけど、それだけは幸運だと思った。でもね」
表情が沈んだ。
「声が変わって、体つきもどんどん男になっていく。もう可愛いを維持できない。どんどん可愛いじゃなくなっていく」
翼の声が震えている。
「だから、ここまで。可愛いまま別れるの。陸に、可愛い僕だけを覚えていて欲しいから」
瞳を潤ませた。
「別れるってのは、恋人関係の解消ってことか? これからは、友達にっていう?」
「ううん。さようなら、だよ」
「そんな」
「陸はさ、僕のことどう思ってた? 恋人として」
「俺は……」
最初は、意地を張って付き合うことにした。
でも、一緒にいるうちにそれだけじゃない何かが俺の中に生まれた。
これが何か。
俺にはまだ説明できる言葉が見つかっていない。
「うん、わかってる。いいんだ。陸は、ちゃんと男の子だから」
翼が勝手に解釈する。
「いや、そうじゃなく」
「僕はね、陸」
翼が初めて話した時のように明るく笑った。
「大好きだよ」
初めて聞いた。
翼の気持ち。
大好き。
「行くね」
翼が後ろ歩きに俺から遠ざかる。
「れ、連絡する。いいよな?」
しかし翼は、泣き笑いの顔を横に振ると、
「バイバイ、陸」
背中を向けて走り出した。
「ま、待て翼!」
止まらない。
俺も、止められない。
俺の中にある感情に答えが見つかっていない。
止めても何も伝えられない。
「これは一体何だよ……」
カナカナカナ、とヒグラシが鳴く。
夏の終わりを告げていた。
……
秋、冬と。
翼のいない季節は過ぎて。
……
春。
高校の入学式の日。
「すごいわ、陸。立派よ」
母さんが俺の制服姿をカメラでパシャパシャ撮っていた。
前に試着した時もたっぷり撮ってたのに。
「まさか陸が、あの霞野高校に受かるなんて、お母さん未だに信じられないわ」
俺は、県内一の進学校、霞野高校を受験して、見事に合格していた。
夏以降の約半年。
毎日勉強していたことしか記憶にないってくらい机に齧り付いていた。
母さんは、合格を聞いて以来毎日はしゃいでいる。
ご近所さんにもさりげなく(本人はさりげないと思ってる)自慢していた。
「霞野高校に行ってる子なんて、この辺りじゃ誰もいないのよ? 陸だけなんだから。陸を産んで大正解だったわ〜」
よく言うよ。
「母さんってさ、だいぶ馬鹿だよな」
「ちょっと何よ、お母さんに向かって。親にそんな口聞く子なんて誰も」
「はいはい、誰もいないってね。それより車の送り迎えよろしく〜」
母さんの人と比べる性格は相変わらずだ。
でも、それを聞き流せるくらいには大人になった。
『陸は、出来損ないなんかじゃないよ』
それはきっと、翼のおかげ。
翼からの連絡は、別れた日を最後に途絶えた。
でも、俺の合格を喜びまくる塾の先生から、「そういや、三崎も霞野に受かったそうだ」って教えてもらった。
今日、久しぶりに翼に会いにいく。
あの日、俺の中にあった感情の答えを持って。
答えなんて大袈裟だな。
これまで経験のないことだったから、気づけなかったんだ。
「陸、車の準備できたわよ」
好きになった相手が男だったというだけの話。
さあ、翼に伝えに行こう。




