第7話『きらいだ……おまえたちなんて』
それは初めて聞く言葉で、私は思わず美月ちゃんに聞き返してしまった。
「ゆりえーぎょー?」
「そう。百合営業。ひかりとリーダーがやってる奴だよ。私とやろう!」
「ちょっと、待ってー? よく分からないんだけどぉ」
「え? いや、ひかりがリーダーといつもやってる奴だって」
「ふぇ?」
「ちょいちょい。美月、美月。ひかりがやってるのは天然だから。営業とかじゃないんだよ」
「そうなの!? マジか! なら悪い事言ったなぁ。ごめん。ひかり。忘れて」
「ううん。別にいいけど。その百合営業っていうのをやると、みんなは喜ぶの?」
「間違いなくね! そして私の人気も上がる!」
「そうなんだぁ。うん。じゃあやろうか」
「え!? 良いの!? ひかり!」
「うん。美月ちゃんなら良いよぉー」
「まさか、沙也加一筋だと思っていたが、美月も良いのか」
「美月ちゃんも。というかスターレインのみんななら、誰でも私はダイジョーブ。触られても嫌じゃないよ」
「ひかり……!」
不意に由香里ちゃんに抱きしめられる。
それが何だかくすぐったくて、私はもぞもぞと動きながら、恥ずかしいよーと訴えるのだった。
幸せな日々だ。
楽しくて、嬉しくて、温かい。そんな毎日だ。
あれからモデルの仕事も、沙也加ちゃんが一緒に居てくれるお陰で嫌な事は殆どない。
怖いことがあっても、辛い事があっても、沙也加ちゃんが手を握ってくれて、私はどこでも安心する事が出来た。
ただ、一つだけ怖い事があるとすれば、沙也加ちゃんが何処かへ消えてしまうかもしれないという事だろうか。
この手の温もりが消えるのが、怖い。
前は一人でも大丈夫だったのに、弱くなったものだ。
でもそれが不快ではなく、心地よく感じる程度には、今の自分を気に入っていた。
でも、そんな穏やかな日々にも終わりは来る。
ひとみちゃん達と別れなきゃいけなかった時の様に。桃花さん達が辞めてしまった時の様に。
怖い物はいつも、唐突にやってくるのだ。
そう。その嵐の名前は『夢咲陽菜』さんと言った。
今までに見た事がない程の輝きを持っている子で、正直沙也加ちゃんよりもその輝きは強い様に見える。
でも夢咲さんが入ってから数日経って気づいたのだけれど、何故か私たちに強い敵意を抱いている様だった。
その理由は分からない。
でも夢咲さんは何も無しに、人を嫌う様には見えないし。
もしかしたら、私がまた何かしてしまったかもしれないと思い、ちゃんと話をしてみる事にした。
そして、レッスンを終えて帰ろうとしている夢咲さんを呼び止めて、会議室に誘ったのだった。
「夢咲さん。陽菜さん? 陽菜ちゃん。どう呼べば良いかな」
「陽菜ちゃんで良いですよ。古宮さん」
「それなら私もひかりで良いよ」
「ではひかりさんって呼びますね」
「うん。分かったよー」
「で? また。お兄ちゃんもお呼びしますか?」
「……? なんで?」
「え?」
「え?」
何故か私と陽菜ちゃんは互いに見つめ合いつつ首を傾げた。
陽菜ちゃんと話をするのに、何故陽菜ちゃんのお兄ちゃんを呼ぶ必要があるのか。サッパリ分からない。
と、そこまで考えて、私はアッと気づいたことがあった。
「そ、そうだよね。まだ知り合ったばっかりの人と二人きりは嫌だよね。どうぞ、呼んでください!」
「あ、いや、そういう事じゃなくて。私に用があるって事ですか?」
「え? うん。そうだけど。言ってなかったっけ。ごめんね。陽菜ちゃんにお話があるんだ」
「あー。いえ。言ってました。ごめんなさい。私が勘違いして。本当にごめんなさい!」
「ううん。大丈夫だよー。私の言い方が良くなかったよね。私こそ、ごめんなさい」
「違うんです! 本当にひかりさんは悪くなくて、その、私、芸能界に来てからお兄ちゃんの事ばっかり聞かれてて、それでまたなのかなー。って警戒しちゃって。その、ごめんなさい!」
「そっか。陽菜ちゃんのお兄ちゃんって有名な人なんだね。それじゃしょうがないよね」
「えっと、立花光佑って言うんですけど。ひかりさんは知らないですか?」
「んー。立花光佑さん。んー。どこかで聞いたことあるような気がするんだけど。ごめんね。知らないや」
「あ、いえ。知らないのなら。全然。えっと、それで、話って何でしょうか」
「あー。その、そのね」
時間を置いたからか、少し話をして親しみを覚えたからか。先ほどまで聞こうと意気込んでいた言葉が口から出てこなかった。
いつもの悪い癖だ。
でも、このまま話せずに終わりじゃ意味がない。
頑張る。頑張るぞー。
「あの。何で陽菜ちゃんは私たちの事、嫌ってるのかな?」
「……」
陽菜ちゃんに考えていた言葉を投げた瞬間、陽菜ちゃんの顔から表情が抜け落ちた様に見えた。
まったくの無表情だ。
でも、怒りは見えない。
見える感情は戸惑いだろうか。
「何故。そう思ったんですか?」
「えっと、理由を言うのは難しいんだけど。何となく、そんな感じがしたの」
「何となく……ですか。ヒナもまだまだ甘いですね。それで? どうします?」
「どうって事は無いんだけど。もし、私が何か悪い事をしていたら、謝ろうかなって思って」
両手で指を擦り合わせながら、伺う様に陽菜ちゃんを見ると、彼女は一瞬先ほどよりも驚いた表情を浮かべると、次の瞬間には穏やかな笑顔を浮かべた。
その笑顔は私よりも年上に見えて、何だか不思議な気持ちになる。
「あぁ、まったく。残念です。もっと速くひかりさんがデビューしていたら……なんて。どの道、ひかりさんはアイドルだから変わらないですね」
「陽菜ちゃん……? じゃないよね?」
「いいえ。私はヒナですよ。間違いなく」
「そっか」
何だか別の人に見えたのだけど、気のせいだったらしい。
そして、そんな事を気にしている場合じゃないと、また話を戻そうとした。
しかし。
「ひかりさんの言いたいことは分かりました。これからは気を付けますね」
「いいの?」
「えぇ。別に私は喧嘩をしに来た訳じゃないですし。私にも私の目的がありますから」
「そっか。ありがとうね」
「別にお礼を言われる様な事はないですよ。それに、私はいずれこのグループを抜けて一人でトップアイドルになります。星々のどんな輝きにも負けない。一等星に! だからどうせ今だけの付き合いですよ」
「うん。分かったよ。頑張ってね。応援してる」
「えぇー? 応援って。ひかりさんは悔しくないんですか!? 貴女の大切なアイドルグループを踏み台にするって言ってるんですよ。意味分かってますか?」
「うん。分かってるよ。でも、陽菜ちゃんはスターレインに何かをする訳じゃないんでしょ? なら良いと思う」
「そ、そうですか。なんか珍しい人ですね」
「そうかなぁ」
「そうですよ」
「そっかぁ」
「はい。とっても変な人です」
私は何だかおかしくてクスクスと笑ってしまった。
陽菜ちゃんも私を見ながら同じく笑っていて、それもおかしくてまた笑ってしまう。
それから私は陽菜ちゃんと連絡先を交換して別れた。
迎えに来たお兄さんは初めて会った時からずっと変わらず、帽子を深く被っていてよく顔は見えなかったけど、雰囲気は優しそうな人に見えた。
そして陽菜ちゃんに接する仕草も優しいお兄ちゃんって感じだった。
これなら陽菜ちゃんがお兄ちゃんに甘えるのも分かる気がする。
私にはお兄ちゃんが居なかったから、本当のところは分からないのだけれど。
それでも。
私は陽菜ちゃんとお話して、スターレインに悪いことをしようとしている人じゃない事を知れた。
なら、後は時間が解決してくれるだろう。
別れてしまった人たちだって、ちゃんと連絡は取れてるし、いずれ同じグループに戻れるはずだ。
どちらにせよ、陽菜ちゃんはまたここから巣立っていくのだから、その後にまたグループを戻せばいい。
そんな風に考えていた。
それがどれだけ甘い考えか、知りもしないで。
陽菜ちゃんと話をしてから少しして、私たちスターレインは崩壊した。
その原因は陽菜ちゃんであったが、陽菜ちゃんは何も悪くない。
何一つ。
悪いのは、いつだって周りの人間だ。
それに気づかず、放置してしまった私も悪い。
こうなると分かっていたのなら、早めに対処するべきだったのだろう。
それが、ただ、ただ、悔しくてたまらない。
落ち込みそうになる気持ちを何とか前向きにしながら、美月ちゃんが見ない方が良いと言っていた掲示板という所を見に行ったが、酷い物だった。
【陽菜以外は全員駄目】
【にわかがほざいてんじゃねぇよ】
【素人目に見ても動きがなー。デビューしたての人間に追いつけないって今まで何やってたのっていう】
【口ばっかって事でしょ。そのまま引退してどうぞ】
【いや。引退させるなら古宮ひかりは残留してくれ】
【確かに。ひかりが引退されるのは困るわ】
【ひかりって、あのちっさいの?】
【そ。陽菜ちゃんよかちょい大きいくらいの子】
【いや、ちょっとじゃないだろ。一部を見ながら】
【確かに。大層立派なモン持ってるわ。引退したらビデオ業界に行って欲しい】
【そっち行くなら金払うから抱かせてくれ。一晩いくらだよ。出せるぞ】
【流石に高すぎて出せねぇだろ】
【いや古宮ひかりが抱けるなら俺はいくらでも出すが】
【古宮ひかりってレズだし、処女だろ? なら百万でもいけるんじゃねぇの?】
【流石に百万は盛り過ぎ】
【そもそも男に興味あるんか?】
【興味無くても生きてく為には必要だろ。どうせアイドルなんてやってる能無しなんだからさ。他に出来る事なんか何も無いだろ】
【あー。でも引退するんならワンチャン狙っていくかー。握手会とかもまだあるし】
【なんだなんだ? 警察案件か?】
【いやー抱き着くくらいならまだセーフだろ】
【立派な性犯罪です。ありがとうございました】
【ガタガタうるせぇな。触っただけで痴漢だセクハラだ。性犯罪だって騒ぎすぎなんだよ】
【実際その辺りの線引きは難しいからな。触んない。話さない。のが安全だぞ】
【古宮ひかりって初期の頃、加藤沙也加の追っかけやってた女だろ? チビ童顔なのに、胸と尻ばっか成長してるからよく覚えてるわ。なんか大人しそうな性格だったし。あれなら押せば行けるんじゃね?】
【今はそんな感じに見えんが】
【言うて人間そう簡単に変われるもんじゃねぇし。俺も次の握手会やってみるかー】
私はそこまで見て、手に持っていた携帯を放り出して、口を押さえながらトイレに駆け込んだ。
酷い気持ち悪さで、胃の中にあった物を吐き出しながら、何度も頭の中に蘇る記憶に押しつぶされそうになる。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
消えて欲しいと願っても、消えない。
手を握られた感触も、体を触られた感触も。何もかも。
吐くだけ吐いて、ようやく少しだけ落ち着いた体をトイレの壁に預けて、荒い呼吸を整えながら潤んだ瞳で天井を見た。
「きらいだ……おまえたちなんて」
私の大切な物を汚そうとする。壊そうとする。
汚い目で私を見て、汚そうとする。
全部。全部消えて欲しかった。
汚い物は全部。
でも、どれだけ願っても世界は何も変わらない。
変わらないのだった。
私も、世界も。