第2話『下を向いて生きていこう。』
家を出た時とは違い、暑い日差しの中でも軽い足取りでチケットに書かれた建物へ向かっていた私は、二十分ほどで問題の場所へと到着した。
普段なら絶対に入らないであろうその場所は何だか暗そうで、何かあれば崩れてしまいそうな所だった。
しかし、進まなければ得られるものは何もない。
私は意気揚々と地下一階へと向かおうとして……。
「あー。ごめんねー。まだ入場時間じゃないから、少し待っててねー」
追い出されてしまった。
よくよく確認してみれば、時間はまだ二時間以上あり、まだ開場すらしていなかったのだ。
恥ずかしい。
浮かれて大分恥ずかしい失敗をしてしまった。
もう一度あのスタッフさんに会ってしまったら、きっと羞恥心から逃げ出してしまうだろうと思う。
しかし、私には重大な使命があるのだ。
あの男の子の忘れ物を届けるという大事な使命が……。
「あー! 綾の手提げ袋!」
「ぇ?」
折れそうになる心を何とか立て直そうと気合を入れていた私に、どこからか小さな女の子の声が響いた。
その声のした方を見れば、小さく可愛らしい女の子がこちらに向かって駆けてくるところだった。
少女の目を見れば、目標は私が持っているあの男の子の手提げ袋に向かっている。
いや、これは私を助けてくれた男の子の物で。と言おうとして、しかし相変わらず私の口は仕事をしない。
何ら言葉が発せられることは無かった。
そして、私のすぐ傍にきた少女が私と男の子の手提げ袋をジッと見つめる。
言葉は無いが、口にしなくても速く返せと言っているのはよく分かった。
自分よりも小さな子に怯えているのを情けなく思いながらも、説明しようとするが、相変わらず口は何ら行動を起こさなかった。
無言の私と、私をジッと見つめる少女。
さながら地獄の様な構図だが、神は私を見捨てなかった。
遠くからあの男の子が駆け寄ってきたのだ。
きっと手提げ袋の所有権を主張するのだろう。
そうなれば、真なる落とし主を知っている私は、男の子に手提げ袋を渡してハッピーエンドである。
そんな風に考えて、男の子の動向を見守っていた私だったが、事態は思わぬ方向に向けて走り出した。
「綾。駄目だろう。急に走り出しちゃ」
「だって。綾の手提げ袋見つけたんだもん」
「だとしてもだ。危ないだろう?」
「はぁーい。ごめんなさい。お兄ちゃん」
なんと! この突然現れた女の子は、あの男の子の妹さんだったのだ。
そう言われればなんか似ている気がする。
よく分からないけど。
「あぁ、その手提げ袋拾ってくれたんですね。ありがとうございます。って、君はさっきの……てことは、あそこで落としてたんだね。ごめんね。わざわざ届けてくれたんだ」
「ぁ、ぃゃ、その、はぃ」
「そっか。ありがとう。何かお礼しないとだね」
「ぃゃ、その、はぃ」
まともに返事をする事も出来ず、視線を左右にさ迷わせたまま、前髪カーテン越しに何とか会話を成立させる。
いや、成立していないかもしれない。
でも、それでも、男の子は嫌な顔一つせず、笑っていた。
そして私が手提げ袋を拾ったという事を理解した男の子の妹さんは不意に私の手を握ると愛らしい笑顔を浮かべて、お礼を言ってくれた。
あぁ……。
私は今、生きていて良かったとようやく思えます。
ありがとう。神様。
今まで私はずっとドブ川の様な人間しか世界には居ないと思い込んでいました。
後は辛うじて人間やってる私や両親の様な人間だけかと。
でも、こんな……天使の様な人たちが居たんですね。
あぁ、生きてて良かった。
世界はまだこんなにも綺麗なんだと、感動に震えていた私は、ふと、また一人大分ゆっくりと走ってくる人の姿を捉えた。
「あ、綾ちゃん。光佑君。二人、とも。走るの、早い、ですねぇ」
息も絶え絶えになりながら、私たちの前に現れたのは男の子によく似た女の人だった。
今までお母さんの事は凄い美人だと思っていたけれど、とんでもない。
この人に比べると、まぁ、確かにちょっと整ってますね。くらいだ。
いや、でもどうだろう。お母さんに比べると凄い年下に見えるから、そのせいかもしれない。
お母さんはただオバサンなだけ。しょうがない事なんだろう。
「あら、こちらの方は」
「お兄ちゃんが落としちゃった綾の手提げ袋拾ってくれたんだよ。しかも届けてくれたの」
「そうなんですね。それは、それは。わざわざありがとうございます」
「ぁ、ぃぇ、キニシナイデクダサイ」
「そういう訳にはいきませんよ。どうかお礼をさせてください」
「ぁっ」
「お姉さん。おねがい」
「ぁっ」
「ちょうどそこに喫茶店があるし。どうかな」
「ぁっ、ぁっ……ぁっ、はぃ」
抵抗は出来なかった。
私は女の子に引っ張られるまま店の中に入り、勧められるままにいくつかのデザートと飲み物を頼んだ。
こんなに食べられる訳が無い。
訳が無いが、断れる訳も無かった。
こういう瞬間に自己主張が出来るなら、こんな人生を歩んでいないのだ。
という訳で私は喫茶店の奥の奥に座る事になった。
すぐ横には女の子。正面には女の子と男の子のお母さんだ。斜め前には男の子が座っている。
逃げられない。
私はすぐにそう察し、抵抗する事を諦めた。
そして、彼らと軽快な会話を繰り広げてゆく。
「ひかりさんって言うんですね。とても綺麗な名前ですね」
「あっ……はい」
「ひかりちゃんは五年生なんだね。綾は二年生なんだよ!」
「あっ……そうなんだ。すごいねぇ」
「ひかりさん。食べきれない分は遠慮なくいってね」
「あっ……はい」
とても軽快だった。
涙が出てくるほどに。
こんな、ただ生きているだけのゴミと笑って話をしてくれる光佑さん達はとんでもなく良い人たちで、私は思わず泣きたくなるほどだった。
生きてる事が恥ずかしくなるほどだ。
いや、でもよくよく考えれば、私以下の屑共も生きてるんだし。私も生きてて問題ないな。よし。
下を向いて生きていこう。
上ばかり見てると首が痛くなるけど、下を見る分には痛くないからね。
これは神様が自分よりも劣った愚かな生き物を見て、心安らかに過ごせよと言っているからだろうと思う。
「そういえば、ひかりさんもスターレインのライブを見に来たの?」
「あ、いや、ソレハソノ」
「そうなの!? じゃあ綾たちと一緒に行こ!? さや……お姉ちゃんが出るんだよ!」
「あっ、あっ、わ、ワカリマシタ」
私は横に座った綾ちゃんに体を揺らされながら、思わずオーケーを出してしまった。
しかし、言ってからすぐに後悔する。
だって、アイドルのライブに来るような人たちなんて気持ち悪い人たちばっかりだと思っているからだ。
無論目の前に例外は居る訳だけど。
それでも、そんな気持ち悪い人がいっぱい居る所に行きたくない。
「あ、あの、でも、私、人込みは、その苦手で」
私はスラスラと断りの言葉を言いながら、こんな良い人たちの誘いを断って大丈夫だろうかという不安にかられた。
でも、しょうがない。気持ち悪い人たちの中に行きたくないし、よくよく考えてみればアイドルになんて興味……。
「そっか。残念だな」
「えぇ、そうですね」
「あ、いえ。やっぱり行きます」
「え? いいの?」
「はい。気合があれば大抵の事は何とかなりますから」
「そう? 無理はしちゃ駄目だよ」
「はい!」
「あ。なら綾が手繋いでてあげる! これなら怖くないよ」
私は右手にそっと繋がれた小さな手の感触に震えあがった。
あぁ。
あぁ!!
救いはここにあった!!
世界は、こんなにも美しい!!
そして、私は浮かれた気持ちのまま、私が最も嫌う人間たちの集う場所へと向かう事になった。
この決断が私の人生を大きく変える事になるとは、今の私はまだ知る由もなかった。