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そして、私たちは秋を知る

 



 彼と眺めていた空に同じものは一つもなかった。空には幾つもの姿があった。

 一面が青に染まっているとき、飛行機が横切っていくとき、飛行機雲ができるとき、様々な形をした雲が浮かんでいるとき、数羽の鳥が飛んでいくとき。

 そして、また新たな空が生まれ始めて、徐々に自分の胸を高鳴らせた。



「ねぇ、あなたは天使の時間を知ってる?」

「天使の時間?」

「今がその時間だよ。この空が見えるときが天使の時間なの」


 窓の外に広がる空は、澄んだ青色に柔らかな橙色が加わり始めていた。

 散らばった白い雲が夕日に照らされている。




「小さい頃にね、すごく綺麗な空を見たの」


 まだ空は青を残して、橙色がどんどんその青と混ざり合っていく。一つの分厚い雲の塊が散り始めて、いろんな見た目をしたその雲たちを夕日が照らし始める。その雲たちの小さな隙間から光が突き抜けて、その光はまるで天にかかる梯子のようだった。


「何年か経って、美術館でとある絵画を見たとき、『あの晴れた日の夕方の時間は、天使の時間だったんだ』って気づいたの」


 窓の外に広がる空は、今にも白い羽根が降ってきそうだった。窓という額縁に入った絵画のようだった。


「あなたとこの空を見てみたいって思ってた」

「叶ったね」

「うん、叶った」




 隣に座っている彼の横顔を見る。

 その空を眺めている彼の目から幾つもの涙が溢れて、落ちていった。まるで過去を空に広げたように、彼は窓の外に見える空から目を離さなかった。

 彼の目から最後の一粒が落ちた。


「僕は……、君と一緒に秋という季節を過ごして、今まで巡ってきた季節の美しさを知ったんだ。四季を知った。春が待ち遠しくなるのも、夏が世話しなく過ぎていくのも、秋がたまらなく愛しくなるのも、冬がどうしようもなく悲しくなるのも」


 彼が私を見る。私も彼を見る。


「そうか……、あのとき君と見た空は、大きくなった君にとってこの空は、天使の時間になったんだね」


 空は恐ろしい速さでその姿を変えていく。天使の時間はもう終わっていた。空は橙色の一色だけで塗られている。

 彼は立ち上がって、私に手を差し伸べる。



「行こうか」


 握った彼の手は少し冷たかった。

 部屋に差し込む夕日の光は徐々に弱まりつつある。それでも、淡いその光に照らされ続ける彼を見て、私はとても懐かしい気持ちになった。

 なぜ彼が私の夢に何度も現れたのか、私はこのときやっとわかった。










 遠くの空には黒色が押し寄せていた。外を吹く風は冷たくて鋭かった。

 彼はコートと赤いマフラーを風で揺らしながら私の隣を歩く。洋館はもう見えなくなっていた。



 いつものバス停が見えてきて、元の場所に戻ってきたんだと知る。洋館まで向かう道のりは、歩いていくにはひどく長かったことを思い出す。

 もし、またあの洋館に行くことがあったら、今度はバスに乗って行ってみよう。また違う景色が見れるかもしれない。

 けれど、そんなことを考えてみたのはいいものの、結局自分は歩いていくだろうなと思った。


 空の色が変わるのはあっという間で、天上にはもう月と星が見え始めていた。

 隣を歩いていた彼が歩みを止める。

 彼から一歩離れた場所で私も立ち止まる。

 



「聞かないままでいいのかい?どうして僕が秋にしか会えないのか」


 向き合った彼の髪が風で揺れるたびに、少し目にかかった前髪の隙間から見える目が綺麗だった。

 光を纏わずにいるその瞳が少しだけ揺れていた。



「……迷ってた。ずっと。けど、"それ"を知ってしまったら、あなたのすべてを知ってしまう気がして、なんだかとても、とても悲しくなったの。知らないままの方が、見えないままの方がいいような気がしたの」


 予想していなかった強く冷たい風で、道に並んだ木々が幹から揺れる。風に連れていかれるように枝から離れた葉たちが飛んでいった。




「秋が消えたら、君はどうする?」


 等間隔に並んだ街灯が強く光を放っていた。

 もう一度歩みを始めた彼を見つめ、その隣を歩く。散らばった葉が少しでも飛んでいかないように強く踏みしめた。

 どうか、遠くの方に見える落ち葉たちが、まだこの切りつけるような風に飛ばされないことを願った。

 

「私は、私はずっとここにいる。秋が消えてしまっても、もう二度と秋が戻ってこなくても、ここに秋があったことを感じていたい。この世界に秋があったことをずっと覚えていたい」


 風が吹くたびに落ち葉が増える。光に照らされないと落ち葉の色がわからないほど暗くなった。

 自分の横を風に吹かれて飛んでいく落ち葉たちを止めることはできなかった。自分だけが置いていかれるようだった。そうして欲しかったのかもしれない。


 秋が消えるまであと少しだった。

 




「ねぇ、あなたにお願いしてもいいかな?」


 今度は私が立ち止まる。

 先ほど向き合ったときよりも遠い距離で彼が立ち止まって、私の方を見た。互いが吐く息の白い輪郭だけが鮮明に見えた。

 彼は微笑んで、頬に小さなくぼみを作りながら「いいよ」と言った。

 泣かないと決めていたのに、切れた線から零れていく自分の涙を私は止められなかった。視界がぼやけて、頬を流れていく涙が落ちて地面を濡らした。


 

「もし、もしまた秋が始まったら、そのときはまた私に秋の始まりを教えて。何年も、何十年も先になるかもしれない。それでも私に、私に秋を知らせに来て。また秋が始まるその日にあなたと再会できるなんて、そんな幸せなことはないから」



 小さく彼は頷いて、片方の目から一粒だけ涙を流しながら言葉を紡いだ。その言葉は白く形を持ち始めた息に包まれていた。




「僕を、秋を忘れないで」


 街を彩るすべての光が、夜になったこの世界でその輝きを大きく拡げる。次の季節が冷たい風とともに主張を始めた。

 彼は初めて会ったときと同じように彼女を見ていた。彼女も彼を見ていた。そのときが来るまで、互いが繋がれた線を切ることはなかった。


 彷徨っていた寒さが道を決める。

 二人の間を一枚の葉が通り過ぎていく。

 彼女の視界に映っていた彼を、宙を舞う一枚の葉が隠す。その葉は、二人の繋がりを切った。

 大きく、冷たく、強い風が吹いた。

 

 秋が、秋が消える。







「秋の始まりに、またね」


 彼が最後に零していった言葉は、白く残った息とともに風に吹かれていった。

 強く吹いた風で目を閉じた彼女が、開いた視界に彼の姿を映すことはできなかった。

 彼はもう目の前にはいなかった。



 彼女は秋の最期を知った。

 彼女の吐いた息は白く、その姿を現していた。

 生まれたばかりの冬が、彼女の目の前に広がっていた。

 

                     






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