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三年目(ニ)







「君は、どうして僕が『秋にしか会えない人間』なのか聞かないよね」


 そう言葉を零れ落とした彼の視線は、大きな大きなイチョウの木に向けられていた。何度も冷たく鋭い風が吹いているのに、温かな血色の良い肌だった。

 私のぎこちなく冷たい手で触れたら、その温かさを奪ってしまうかもしれないと思って、伸ばしかけた手を彼と私の間にできた微妙な距離に戻した。


「聞いてほしいの?」

「いや、ごめん。ヤなこと言ったね」

「……私の方こそ、ごめん」




 初めて会ったときからできるだけ避けていた。この話をした時の彼の声が曇って聞こえて、儚くつかめない表情をしていたから聞かずにいようと決めた。

 それでも、どうして秋しか会えないのか、秋が終わって冬、春、夏を過ごすたびに考えていた。この桜の下を彼と歩けたら、この海を彼と見れたら、この雪を彼と楽しめたら。


 秋が終わる、彼と別れるそのとき、彼と話したかったことが溢れてきて、けれど、全部話せたと思う気持ちもある。曖昧で、どうしようもなく未完全。

 すべての季節が秋になって、季節の始まりと終わりが無くなってしまえばいいのに。

 強く張られた線がプツンと音を立てて切れて、溜まりに溜まっていたものが溢れ出して止まらなくなった。

 彼は私の方を見ていない。お互い、ただ真っ直ぐに、数えられるほどの葉しか残していない大きな大きなイチョウの木を見ていた。木から数枚の葉が地面に落ちた。







「秋は、あと数年で一度消えてしまう」


 返す言葉が見つからなくて、見つけられなくて、ただ聞き流すことしかできなかった。

 彼の小さな真実の独り言だということにしておきたかった。「噓だと言って」とか、「悲しいこと言わないで」とか、そんな言葉を言えるほど、私の心は前に向いていなかった。動き回って、自分の両手では止められなかった。



 消えていく秋に、彼は何を思うのだろう。何を感じるのだろう。大好きな秋が消えてしまっても、彼は私の夢に現れてくれるだろうか。

 私の頬には、流れ落ちていった涙の跡ができていた。

 それ以上何も言わなかった彼は、立ち上がって夜空を見る。私も立って、彼と同じ空を見る。北極星が天上にいて、そばにいるオリオン座がひどくくっきりと見えた。寒さが増していくごとにその輝きをより強く放つ星たちが、あと一歩まで来ている冬を知らせる。


「送るよ」


 彼の手は想像していたよりも冷たかった。それでも、繋がれた手はどんどん暖かくなって、彼と会うときは手袋がいらないかなと思った。







 道に並んでいる木は、今にも風で飛んでいきそうな葉を数枚つけて、窮屈に揺れ合っていた葉たちで隠れていた細く長い枝を露わにしていた。遠くの方に見える木々も同じで、冬に必ず見る景色なのに、色のないその道を今はどうしても視界に入れたくなかった。


 彼に視線を向ける。隣を歩く彼は、耳の先を赤くしていた。真剣な顔にも見えたし、感情を掴ませないような顔にも見えた。


「どうかした?」

「耳が赤くなってるから寒いのかなって」

「少しだけね」


 自分の首に巻いていた赤いマフラーをほどく。


「君が寒くなるよ?」

「私の家に着くまではあなたが巻いておいて」


 巻かれた赤いマフラーに触れて、彼が微笑みながら「ありがとう」と言う。

 細められた目と、微笑んだときにできる頬のくぼみが彼らしいなと思った。ときどき吹く風で、彼がいつも着ているロングコートの襟が立ったり裾が揺れたりした。

 彼の隣を歩くたびに湧き上がる感情がもうなくなってしまうと思うとまた涙が溢れてきそうだった。彼を通り過ぎていく風が、私には強く打ちつけられているようだった。




 等間隔に並ぶ街灯がそれぞれ決められた広さでスポットライトのように地面を輝かせていた。

 彼がその街灯の下を通ったとき、頭の先から腰までが照らされて、前へ進もうとする右足の踵にもその光が当たった。もう一生見れない後ろ姿だろうと思った。

 もう一生、こんなにも大きく消えそうもない名残惜しさを感じることはないだろうと思った。




「着いたよ」


 彼の足が止まる。私の方を向いた彼に会わせて繋がれていた手が離れる。最後にほんの少しだけ擦れた人差し指が冷たかった。


「ねぇ、秋が消えてしまうのは何年後なのか正確にわかるの?」


 数拍あって、彼が濃く白い輪郭を持った息を吐く。


「まだ正確に何年後かはわからない。けど、長くはない。君が想像しているよりも短いとは思う」

「……そうなんだ」


 彼の言葉で聞きたいことがたくさんある。話したいことがたくさんある。私の目で見たい彼がたくさんいる。知りたい彼がたくさんいる。


「新しいお願い、してもいいかな?」


 少し遠くを見ていた彼が私に視線を戻す。少し上がった口角に「いいよ」とも「だめ」とも言わない彼の表情が、初めて彼にお願いをしたときと同じように真っ直ぐ私を見て、私の言葉を待っていた。


「最後の年は――、秋という季節がある最期の年は、秋の最期(おわり)だけ告げに来て」


 彼女を映している瞳に含まれた切なさと、儚さと、愛おしさが、彼の心のすべてだった。


「うん。そうするよ」





 冷たくて大きな風だった。

 私たち二人を包むような風と一緒に、一つになった影が分裂してそれぞれの影が生まれる。二人の間に広がっていく光の隙間を一枚の葉が舞い落ちていく。落ちていく葉を捕らえた視界が一瞬真っ暗になる。

 瞼が開かれて見えた世界は、街灯のせいでほんの少し眩しかった。


 彼はもういなかった。

 お互いが一つずつ暖かさを残して、一人残された私は消えた頬の涙の痕にもう一度涙を流した。

 夜は長く、深く、沈んでいくように明けていく。

 吐いた息はもう白くなっていて、その姿を見せていた。

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