10、わずかな変化
あの日から数日が経過した。秋斗の頭の中では、未だに八代の冷徹な表情と言葉がこびりついていて離れない。
あの時のやり取りは夢のようであり、同時に悪夢のようでもあったのだ。あの冷たい瞳と眼差しがどこか心の奥底に触れてくるような感覚。
仕事に集中しようとすればするほど、八代の姿が心にちらついてしまう。
そんなある日のこと。
今日も電話のコール音や同僚たちの賑やかな声が聞こえる。自分がやらなければいけない仕事をこなしていると、営業部のフロア内に課長の声が響いた。
「片桐、すまない。少しいいだろうか?」
秋斗は仕事で使用している書類から目を離し、顔を上げてから返事を返す。
「はい!すぐに伺います」
課長の席に向かうと、そこにはすでに後輩の相沢が来ていた。相沢と顔を合わせ、軽く微笑む。
呼び出しの件で彼だけがいるということは、もしかしてだが八代グループへと持ち込んだ企画のことだろうか。課長の表情を見る限り、暗い顔や深刻そうな表情はしていない。悪い話ではなさそうだ。
「実はな、片桐と相沢が協力して、八代グループへと持ち込んだ企画提案のことなんだが…。なんと、正式に通ったぞ!」
「本当ですか?!」
「よかった!」
八代グループへの企画提案は、営業部の未来を左右する重要なものであり、秋斗自身のキャリアにとっても大きな意味を持つものだった。
「修正した企画の中身やお前たちのプレゼンが効いたんだろうなぁ。特に相沢が用意したプレゼン用のスライドが、説得力を持たせる役割を果たしたと評価されている。お前たち、本当に良い仕事をしたな!」
秋斗は相沢に視線を向け、互いに安堵の笑みを浮かべる。彼の努力が企画成功の一翼を担ったことが素直に嬉しかった。
そして、満足気な笑みを浮かべながら課長は話を続ける。
「特に八代副社長からは直に感謝の言葉を頂いたぞ」
「……っ」
嬉しさに浸かれていたのもほんの少しの間。八代というその名前を聞いた瞬間、秋斗の心の中がざわついた。
(八代……)
秋斗は思わず拳を握りしめた。ホテルでのラウンジで会った取りの後、お互いに会うことも無く、何も連絡がないままの日々が過ぎていた。
秋斗は最低でも八代と遭遇する確率が高いであろう、バーは今でも通い続けている。だが、通う中で一つだけ変えたことがあった。
それは、バーに通う日だ。いつもであれば決まった曜日に訪れることが多いのだが、今は何となく曜日をバラけさせて通っている。今は会ってしまえば気まずいし、何を話したらいいのかが分からない。
もしかしたら、八代の方はもう通ってはいないのかもしれないが、万が一のことを考えて行動していた。
課長から発せられた八代の名前を聞いて最後に会った日のことを思い返す。
しかし、こうして改めてみると仕事の場での八代の影響力をこうも再び感じることになるとは思いもしなかった。
「片桐。相沢と一緒に詳細な進行スケジュールをまとめてくれ。八代グループと直接詰める部分も多いだろうからな。頼んだぞっ」
「はい、承知しました」
課長の指示に応じながら、秋斗の胸には複雑な感情が渦巻いていた。再び八代と向き合う機会が訪れることが、正直どこか怖くもあり、しかし同時に嬉しかった。
その日の午後は秋斗と相沢は企画の具体的な調整に入った。自社の会議室に籠り、資料を広げながら相沢が熱心に話を進める。
「これ、本当に通ったんですね!片桐先輩がリードしてくれたおかげですよ」
「いいや、そんなことないよ。相沢もよく頑張った」
秋斗は努めて冷静を装いながら答えたが、心の中では気が気でなかった。この仕事を通じて、再び八代と会うことが避けられない現実に直面していたからだ。
(また会ったときに、八代はどういう顔をするんだろう。あの時の冷たい表情のままなのかな。それとも、少しは…――)
答えの出ない問いが秋斗の胸を支配する。けれど、その想像の先に浮かぶ八代の姿に、なぜか胸が高鳴る自分がいることを自覚していた。
✳✳✳
そして数日後、再び八代グループへと向かう日がやってきた。秋斗は緊張を隠しきれないまま、先方の会議室に通された。
中に入ると数分の待機を挟み、いつもお世話になっている責任者と共に、相変わらず金の髪が眩しいと思えるくらいの輝きを放つ男――八代夏希が姿を現した。
完璧に整えられたスーツ姿の八代は、変わらず隙の無い雰囲気をしている。
しかし、その瞳の奥には一瞬、どこか迷いのような感情が揺れた気がした。
秋斗は胸の中に生まれたざわつきを抑えられず、ぎゅっと拳を握りしめる。
その姿を見るたびに、八代夏希という人間の奥深さを垣間見たような気がして――戸惑いと共に、なぜか心が騒ぐのだった。
だが、いつまでもそうして座っている場合ではない。相沢と共に急いで席から立ち上がり、挨拶を行う。
「ご無沙汰しております。西園寺グループの片桐と相沢です。本日はよろしくお願いいたします」
秋斗は挨拶を述べながら八代と視線を交わす。その瞬間、ほんの一瞬だが、その冷徹な瞳の奥に微かな揺らぎを感じた気がした。
「こちらこそご無沙汰しております、片桐さん、相沢さん。本日もお二人のプレゼンを楽しみにしています」
「………」
その声は冷静でありながらも、言葉の端々には微妙な感情が混じっているように感じられる。秋斗はその言葉にどう反応するべきか迷った。
(この場で何を言うべきだ?どう向き合えばいい?)
胸の中で渦巻く想いが、次第に一つの答えを導き出そうとしていた――。
それは副社長としての八代夏希ではなく、ただの八代夏希として。いや、正確にはその心の奥に隠されたもう一人の彼、城山夏希として向き合いたい、と。
一度は拒絶をされたがもう一度話をしたい。自分でも驚くくらいにその気持ちは強かった。
そして、秋斗にとって今までの人生の中で、それも1人の人間に対してここまで大きな強い感情を抱くのは初めてのことだった。寝ても覚めても頭から離れない存在。仕事をしていても、ふとした瞬間に思い出す八代の表情。その胸の高鳴りは何を意味するのだろう。
それは、友愛なのか親愛なのか、はたまた別の何かなのか…。
だが、秋斗自身まだまだ模索中であるため、明確に言葉にすることはできない。
そんな自問自答をしている間にも、八代の冷徹な視線が秋斗の心に深く突き刺さる。
八代が何を考えているのか、今この瞬間にも分からない。だが、この場をただの形式的なやり取りで終わらせるのはどこか違うのではないか――そう思った。
今回も責任者の合図でスタートした会議は予定通りに進み、終始円滑だった。相沢が熱心に提案内容を説明し、それに対し八代も的確な質問や意見を返す。
その場の空気はプロフェッショナルとしての緊張感に包まれ、秋斗は徐々に自分を取り戻していった。
だが、時折八代が見せる微かな表情の変化が、何故だか秋斗の心を揺らした。まるで何かを言いたげな――けれども決して口にはしない、この時はそんな態度に見えたのだ。
会議が粛々と続く中、後輩の相沢は秋斗と八代の間には薄々と何か特別なものを感じ取っていた。
それは単なる勘ではなく、これまでの経緯が裏付けるのに確信に近いものがあったのだ。
始まりは、八代グループへ修正案を持参したあの日だ。途中で副社長である八代が入室してきた時の、先輩の驚いた表情は今でも忘れられない。
普段、大事な場では冷静沈着な先輩が、一瞬だけ明らかに動揺していたのだ。それはほんの少しの出来事で、先輩自身はすぐに取り繕ったつもりだろう。しかし、長い時間を共にしている相沢には、そのわずかな変化を見逃すことはできなかった。
そして今、目の前で繰り広げられる会議の中でも、相沢の違和感は増していくばかり。
先輩が発言するたびに副社長である八代の視線がわずかに先輩へと向けられる。その動きは慎重で、一見すると何の感情もないように見える。だが、他の人に向ける冷淡さとは異なり、片桐先輩に対してだけは、どこか違う気配を纏っているように思えた。
冷たい視線の奥に、わずかな暖かさ――いや、優しさすら潜んでいるように見えるのは気のせいだろうか……。
相沢は目を伏せ、心の中で小さく首を振った。
(あの副社長が片桐先輩にだけ…まさか。いや、そんなはずはない。はずだ……)
だが、その違和感が次第に確信へと変わりつつある自分に気づき、相沢はそっと深く息を吐いた。
恐らく先輩自身は気づいていないんだろうな……。と、そんなことを思いながら。
✳✳✳
昼過ぎくらいには会議が無事に終わりを迎え、書類をまとめて席を立とうとした。だが、その時誰かが近づいて来る気配がしたので動きを止めて、その方向へと身体を向けてみる。
すると、目の前には八代夏希が立っていたのだ。
八代は秋斗に話しかける直前、一瞬だけ迷いの表情を見せたが、すぐに元に戻る。
「片桐さん。申し訳ありませんが、この後お時間を頂けますか?少し、話があります」
「…っえ」
その言葉に驚きを隠せなかった。「もう一度話をしたい」そう思っていたことがこんなにも早く実現するなんて、夢にも思わなかったのだ。
それに加えて八代自ら話しかけて来た。これはこれで驚かない方がおかしいだろう。
(……いや、少し待て。そういえば今日の八代は少し違った。冷徹な雰囲気はそのままだったが、時々見せたわずかな表情の変化。目が合えば視線を少し外していたし、眉も微かに動いていた…)
今日のことを振り返ってみる。八代が姿を現した時点で既に片鱗はみえていたのだろう。
そしてこの時、秋斗は直感で今日のプレゼンの話では無く、ホテル内でのラウンジでの話だろうと予想を立てる。
「はい、大丈夫です」
返事は堂々と出来ていただろうか。
先程は驚きでいっぱいだったが、恐らくは大方予想通りで間違いないはずだ。
それに、今日は特に急ぐ要件や案件は無い。それは一緒に来ている相沢も同じだった。
正直少し緊張はするが、話したいという思いは秋斗だって同じなのだ。 断らない理由がない。
「ありがとうございます。それでは応接室へと案内いたします。それ程お時間は取らせません」
そう言って、話が終わったあと背を向けた。その背中をじっと見つめながら、秋斗は自分の鼓動が静かに早まっていくのを感じる。