9、話をしよう
八代から指定された場所は、バーからそれほど遠くない高級ホテルだった。
到着すると秋斗は受付人の案内によって個室のラウンジへと案内される。個室なのは恐らく、誰にも話を聞かれないようにする為の、八代なりの配慮なのだろう。
案内された個室は静寂さに包まれていた。
厚いカーペットが足音を吸い込み、外の喧騒は完全に切り離されている。重厚感のあるインテリアが並ぶ中、テーブルの上には控えめな照明が柔らかな光を落としていた。
その光が八代の端正な顔を薄く照らし、まるで彼の表情に陰影を与えているかのように思える。普段の余裕ある雰囲気とは異なり、今の八代からは静かな威圧感が漂っていた。
秋斗が踏み入れた際にはすでに、八代は既に椅子に腰を落つかせて待っていた。その姿は完璧に整えられたスーツに包まれ、まるで彫刻のような静謐さを纏っている。
普段のバーでの気さくな雰囲気とはまるで違い、周囲の空気まで冷たく張り詰めているようだった。
「こんばんは。どうぞ、おかけください」
八代は静かにそう言い、秋斗を椅子へと促す。
声には抑揚がなく、目も笑ってはいない。秋斗は少し息を飲みながらも向かいの席に腰を下ろした。
この場に至るまで、秋斗はずっと考えていた。八代に出会ったあの夜のこと、次第に惹かれていった日々、そして今日の会議室での邂逅――八代が副社長であることが明らかになった瞬間。それぞれの場面が頭の中で何度もループし、心をざわつかせている。
(いつも見ていた八代と、いま目の前にいる八代は本当に同じ人間なのか?)
そう疑いたくなるほど今の八代は冷たく、遠い存在に思えた。
秋斗は意を決して口を開く。
「…今日の件、偶然ではない…ですよね?」
八代の反応を探るように目を向けると、一切の表情を動かさずに冷ややかに答えた。
「……、何のことでしょうか?」
落ち着き払った声で返され、秋斗は一瞬言葉に詰まる。
(何で、こんなにも冷たいんだよ……いつも見てる八代は、もっと……)
秋斗の胸には、苛立ちと悲しみが入り混じる。だが、その感情をぶつける術がわからない。八代の冷徹な態度が、すべてを拒絶しているように感じられるからだ。
「……で、ではあなたが副社長だなんて、どうして今まで黙っていたんですか?俺たちが話していた時、言おうと思えばいつでも言えたはずでしょう」
少し語気を強めて言葉を放つ。
その声には、自分でも抑えきれない感情がにじみ出ていた。だが、八代はその言葉を受けてもなお、冷静だった。
「そうだとしても、それを言う必要はありますか?私たちの関係において、仕事上の立場は本質的な問題ではないはずです」
「本質的じゃない?でも、それが原因で、今日の会議で俺がどれだけ動揺したか、あなたには分からないのか?」
秋斗の声が少し震える。その震えが感情の揺れを示しているかのようだった。
「動揺したのは、あなた自身の問題です。私は何も求めてはいません。私に責任を求めるのは筋違いではありませんか?」
八代の声には、わずかな怒りも哀れみも感じられない。ただ冷静で無機質な響きが返ってくるだけだった。
今、秋斗は目の前の八代がどれほど冷たい人間なのかを痛感していた。だが、それでも秋斗の心の中では、今まで築いてきた二人の関係性が確かに存在していたはずだという想いが残っている。
「じゃあ、初めて出会ったあの夜のことも、全部嘘だったってことですか?」
勇気を振り絞って放った言葉。自分の声が思った以上に震えていることに気づき、秋斗は少しだけ歯を食いしばった。
秋斗が問いかけたのは八代の態度ではなく、心だった。
あの夜、酒を片手に交わした言葉の数々――どこか影を宿したその瞳が見せた一瞬の優しさ――それがすべて偽りだったとしたら、自分が抱いてきた信頼や想いは何だったのだろう。
「……偽名を使用していた事や営業部署内で働いていると、そう嘘をついてしまったのは申し訳ありません。ですが、私たちはそれぞれの立場を超えられる関係ではありません。それが現実です」
その一言で、秋斗の胸の奥に冷たい刃が突き刺さったような痛みが走る。
(立場……?それがそんなに重要なのか?)
秋斗は拳を握りしめた。怒りと悲しみが混じり合い、自分の中で収拾がつかなくなっていく。
「……それが、あなたの答えなんですか?」
喉が詰まりそうになるのをこらえながら、秋斗は問いかける。だが、八代は答えない。ただただ静かに秋斗を見つめている。
(どうして……どうしてそんな冷たい目で俺を見るんだ。俺たちは確かに……)
秋斗は何度も頭の中で繰り返すが、目の前の八代の態度がさらに深い絶望へと追い込んでいく。
「…………」
「…………」
沈黙が流れる中、八代が静かに立ち上がった。
「…もう、これ以上話しても無意味ですね。夜遅いのにも関わらず、わざわざ来て頂きありがとうございました」
そう言い残し八代は席を立つ。そして、八代が出て行くのに扉に手をかけようとした。その姿を見た瞬間、秋斗は急いで立ち上がり、行かないでくれ!そう祈るように声を張り上げた。
「待ってください!」
その声に八代の足が止まり、振り返る。
その目には一瞬だけ影が差した――まるで何かを言いかけるような、それでも躊躇するような気配だった。 だが、その影はすぐに掻き消え、冷たく無表情な仮面が戻る。
「他になにかありますか?」
秋斗の心は揺れ動いていた。今すべてを吐き出すべきなのか、それともここで引き下がるべきなのか。
(こんな形で終わらせたくない。でも、これ以上追い詰めても……)
秋斗の中で八代に対する想いと、現実の冷酷さがせめぎ合っていた。
だが、次第に秋斗は自分の拳を握り締める力を少しだけ緩める。
そして、口から出た言葉は想像以上に弱々しいものだった。
「……いえ、ありません。引き止めてしまい、すみませんでした」
静かに呟かれたその言葉に、八代の瞳がわずかに動いたように見えた。だが、それはすぐに元の表情に戻り、何も言わずに再び背を向ける。
秋斗はその背中をただ見送るしかなかった……。
ラウンジの静寂の中、八代の足音が遠ざかるたびに、心にはぽっかりと穴が開いていくようだった。
(結局、俺たちは……これが限界だったのかもしれない)
はぁ、とため息をつきながら目の前の現実を受け入れるように、自分に言い聞かせる。
だが、心の奥底では、まだ諦めきれない何かが燻っているのを、ひそかに感じていた。