第二章 釜蓋城の落日
2018年6月30日、イコモスは「長崎、天草の潜伏キリシタン関連遺産」を世界遺産として正式に登録しました。当初、日本側から「キリスト教の教会群とその関連遺産」として、内実に深い意味を持たせることなしに申請したが、根本的に視点を換えるよう見直しを求められた。それは「島原・天草の乱」の舞台となった原城跡を中心とする民衆の反乱と、密かに二百数十年の間信仰を守り抜いた精神を貴び、かつ浮かび上がらせることを促すものだった。関係各藩領主の生殺与奪を伴う教徒弾圧と江戸幕府による武力介入と幾多の悲劇を重視するものだった。単なるキリスト教の布教と浸透としてだけでなく、支配者の過酷な抑圧と殉教を伴う信者の不屈な抵抗を見逃さなかったのである。どちらかと言えば『負の文化遺産』の方にシフトしたのである。
2017年8月から長崎県諫早市多良見町伊木力の『千々石ミゲルの墓』の発掘が、末裔や墓守りの子孫の見守る中で執り行われた。ロザリオの数珠玉や西欧から持ち帰ったマリアのメダイが副葬品の中に燦然と輝いていた。発掘直後の科学的考察で大きな石墓の下の遺骨は妻のものと思われ、ミゲル本人のものは隣の未掘箇所にあるらしい。
以前からミゲルの最期に関わる推理で、私に限らず誰もが不思議に感じている墓石に銘記された日付の近寄りが不自然に思われた。妻の死没が寛永9年12月12日(1633年1月21日)で、ミゲル本人と思われる戒名の下には2日後の12月14日(同年1月23日)と刻まれ、1日を挟んで逝去したと記されている。ここに何らかの事情と切羽詰まった背景があるのではと推察されることだ。その上、西暦での同年11月22日に渡欧仲間の中浦ジュリアン神父が穴釣りの拷問の上で殉教している。長い潜伏布教の果てに捕えられ、獄門に繋がれたのがその10か月前(同年1月22日頃)ととある書物に記されている。まさしく千々石夫妻の命日の中日にピッタリ合致していて、全く関係が無いとは言えないことである。(大石一久著『千々石ミゲルの墓石発見』を参照)
イエズス会の側では、脱会者である千々石ミゲルを〝棄教者〟とレッテルを貼って疎んじるあまり、最後まで教えを守り殉教した中浦ジュリアンとの関係を切り離したかったのだろう。ジュリアンの動向や殉死の経緯は詳細に残されているがミゲルは無視された。日本の為政者の側からすると、表向きでは棄教して堂々と『日蓮宗信者』と称してはばからない、千々石清左衛門を邪宗門信者の咎で処罰することはできない。あくまでも政治的失策として死を押し付け、闇からやみへと葬り去ろうとした。双方が千々石ミゲルの死を無視する姿勢を貫いた。それ故に記録が一切残されなかったのであろうと推し量られる。一方、生活苦の中にあった民衆、百姓、憤懣遣るかたない下級武士の心中はどうだったろうか。ミゲル夫妻とジュリアン神父の死から4年後の1637年12月11日、広範囲に及ぶ爆発的な日本史上最大の民衆反乱、「島原・天草の乱」が起きた。不服従を貫いたジュリアンと棄教を装ったと思われるミゲルの死後に、クルスを首から下げた天草四郎と名乗る若者を首謀者に人々が蜂起したのは歴史的な恩讐だろう。事実と見紛うかのようにその乱後、西欧では『天草四郎は千々石ミゲルの息子である』との噂が広まった。
歴史とは営々とつながる人々の生きざまの織物である。
日本の歴史の中でも、古代、近世、現代の各々の歴史的転換点には、革命的な反乱がおきている。その背景として政治的な側面が色濃いが、内実では経済、宗教、芸術など社会文化的にも広範囲に影響を及ぼしそれぞれが複合的に絡んでいる。そうでなければ名も無き下層大衆の決起を促す状況に至らないからである。物部や蘇我、藤原の各氏族の貴族成り上がり、信長の天下布武、坂本龍馬の薩長連合など、総じて年表には表舞台に立った、政治的人格ばかりが自己主張している。その背後には民衆のうねりのような沸き立つような鬱屈した労苦や息遣いがあり、命を虫けらのごとくに捨てられていく虚しさがある。
歴史の上で勝敗は不定にして盛者必衰は必定である。ただ弱者、敗者を虐げ、強者、盛者におもねる輩は何時の世にもいるし、彼らの私利私欲のために庶民の犠牲は多大なものとなる。この不条理なる人間社会の仕組みに翻弄されないためには、一握りの心ない人たちの手から抜け出て大衆の側にアプローチし、汎人類的立場から本質に迫り喝破する眼を構築することでしか出口が見えない。自ずと反乱の系譜から歴史を見直すことが必要となり、それでこそ本質的な意義を見出すことができる。
それ故に私の視点もその考え方に基づくことが必要だと思った。洋の東西を超えて往時の日本と世界の置かれた、グローバルに進む地殻変動のごとき歴史のうねりの中で捉えねばと考えた。科学技術の進歩や文芸復興、大航海機運が人々に大きな影響を与えた。四大発明(火薬、羅針盤、紙、印刷技術)をバックに急速に生活環境の改善が進み圧倒的な変化をもたらした。特に千々石ミゲルの生涯を語るに十字軍の大敗北とルネッサンス、エンリケ航海王子とバスコ・ダ・ガマの喜望峰をかすめる東インド航路発見は見逃せない。
加えてグーテンベルグが発明した印刷機の日本への持ち込みは、天正遣欧少年使節団の12名の大きな使命の一つだった。西欧では物珍しさと同じ宗門という身近さで大歓迎され、西欧各地に書物として出版され絵画にも描かれ、日本人初の洋行が今も歴史的快挙として遺されていることである。魏志倭人伝に卑弥呼の名が書かれてその実在感があるように、彼らの様子がシスティーナ礼拝堂に描かれていたり、各地の図書博物館に所蔵されているから、その成果が現代の我々の心に届くのである。それら数百冊にも及ぶ資料に比べて、日本に戻ってからのミゲルらの行状の記録が余りにも少ない。憶測にフィクションまで加わり、近年でも数十冊の小説や紀行記として発刊されている。これらとの格闘が私の筆を遅らせ、取っかかりの勇気をしばしば萎えさせた。
2022年3月6日? 保 利 進
1 釜蓋城の攻防
肥前南部、島原は活火山である雲仙岳が創り上げた半島で成っている。俯瞰して見ればその地形は、鶏の足か龍の爪に譬えられるだろう。そもそも中央構造帯で連なる瀬戸内海から伊予、豊後、肥後、肥前長崎は各地に優良な温泉が湧出する火山ベルトであり、マントルを含む山並みが沈降して出来たリアス式海岸である。入江と岬と湾が連なる海岸線は極度に湾曲し、山や丘陵に一気にせり上がっている。背後に急峻の火山性の山並みを配していることで、他所にない独特で風光明媚な景色を形成している。であるが故に水稲作付けのできる田畑は狭隘で、しかも湧出する地下水に頼らざるを得ず水耕に不向きである。水田の広がる隣国佐賀への侵略と領有は、米穀が代用貨幣である時代では、止むを得ない最後の手だった。土地改良や倹約を重ねてやっと蓄えた兵力で、先代の領地奪還を目論むが常に反撃にあい、しばしば自領まで侵略される始末だった。
1562年の佐賀の小城での戦いは、有馬義直が父の口車に乗って始めたものだった。一方的な命令に背けず、やむ無く大友、松浦、大村の応援を頼み、総じて2万を優に超える軍勢を揃えて強国、佐賀の龍造寺に攻め入った。緒戦から少数精鋭の敵陣営の抵抗によって敗色を濃くしてしまう。退くにひけずに2年にわたって戦闘が続けられた。次第しだいに有馬の側の疲弊が進み、窮地から脱するために頼ったのが南蛮貿易であり、宣教師らの助言に基づく経済的立て直しだった。それは又イエズス会の布教地域拡大路線と相まって、山口や平戸を追われた司祭らが、有馬を活動拠点とすることにつながった。義直の父、義貞が島原半島南端の口之津港を開放して、ルイス・デ・アルメイダ修道士らに布教許可を与えると、港の間近に教会堂が建設され、家臣らの家族を中心に数百人が一度に受洗した。やっとのことで治政の立て直しに着手したものの、龍造寺隆信の佐賀勢力はますます昂まり、その脅威は果てることがなかった。
隠居した先々代の晴純(仙巌)の築いた日野江城に有馬本家継嗣の長男義貞が控え、次男の純忠には正室の実家である大村を継がせて、残る兄弟らは平戸の松浦や天草の志岐へ養子入りさせた。支配領域拡大のためである。残る三男の淡路守直員には雲仙岳の中腹に山城を築かせて守らせた。当面の敵である龍造寺の根城、佐嘉城から攻め入る道を塞ぐような位置に、戦の時に急ごしらえする出城のような城を築いた。名目上は分家としてではあるが、有馬に攻め入られた際に一時でも時間稼ぎをし、敗色濃ければ火をかけて退却するという捨て石のような城だった。それが窯蓋城である。どう考えても三男直員は間尺に合わない任務を背負わされてしまった。多分晴純は直員が一番武芸に優れていると見込んでのことだったろう。それは1566年に亡くなる時に仙巌の遺した構想だった。立派な天守閣や巨大な二の丸、三の丸は必要なかった。あくまで戦場常在の出城の体であった。
1569年の築城時は龍造寺も大友宗麟との戦闘の最中で、千々石家にいささかだが安穏の日々が続いていた。前年に妻の忍が身重の体になっていた。長年待ち望んだ愛児を授かっていて、その年に生まれたのが千々石紀員、後のミゲル清左衛門である。生死の儘ならない戦国の世のこと、その3年ほど前になるが、先々の不安解消のために、家系継承と精鋭の指揮役の頼みとして母方筋と縁続きの大村家重臣から養子を迎え入れていた。30歳寸前の城主に跡継ぎがなかなか生まれなかったからである。親戚筋も気を揉んでいて、元服して間もない若武者を迎え入れていた。初代淡路守直員の戦死後に2代目直員を名乗り、大和守の官位を得て釜蓋城を守る澄籌である。ミゲルにすれば義理の兄に当たる人物である。澄籌を迎えて3年後に実子を得たのである。
「釜蓋城は先年に身罷られた先代お屋形様の言い付けで、築かれたもん。あくまで龍造寺からの攻撃に備えるためや。さらば攻め入らるる度にお忍には命懸けの苦労ばかりさせるやに思う。兄弟ん中では一番厳しか勤めば負わされとーばってん、許してつかわせ」
「何ば申さるる、お屋形様。忍は心得とりまする。わい様には武功ばあげるんも大事じゃっどん、御身大切にもお考えあらせや。こん子んためにも」
と、忍は紀員の顔を覗き込むたびに、直員に対して訴えるような言葉を返した。
築城したばかりで座敷は、まだ畳表の香りも生々しく青々としている。御簾の外では家老の木戸高九郎が、微笑ましそうに眺めながら相好を崩している。
「我にもしもん事あるときは、今、諫早に陣屋ば置きよー澄籌ば押し立てて、紀員が元服するまでは耐えてくれ。とにかく城持ち大名としてん面目ば保ち、有馬一族の繁栄のために力ば尽くしてくれっぞな」
戦に出かける度に口酸っぱく語る直員に忍は辟易としていた。何が何でも生き続けてもらいたい夫の最期の頼みなど聞きたくもない。悲劇的で残酷なものであり、嘘でもいいから泰然とした安心を抱かせるものであって欲しかった。それに先代や今の屋形にも少し不満があった。大村家庶子の貴明を佐賀の武雄城の後藤家当主へ追い出した上で、次男純忠を跡継ぎに無理やり送り込んだ先代仙巖(直純)への不満がある。分家として城を建ててやるのだからと、いかにも三男直員を大切に考えているかのような口ぶりだった。雲仙岳の中腹に建てた孤城に、たった30人余りの家来を付けて守らせる。現在の屋形、義直のぞんざいな扱いにも憤懣遣る方なかった。
(何で直員様だけが危ない目に遭わねばならぬのか。兄弟がそれぞれに負担を分け合い、力を合わせられることが一番大事じゃないか。兄弟ばらばらでは一たび領地の奪い合いが始まると、やがてお互いが敵味方に分かれるではないか)
その危惧は何もお忍の取り越し苦労などではなく、現実に平戸と大村が南蛮貿易で争ったり、武雄の後藤貴明を巡っては大村と千々石が彼我で殺し合い、龍造寺と戦うにあたってはそれぞれの共通の敵なのに、順々に龍造寺の麾下に収まる度に敵味方同士で争い合うことになった。領主自らが幾ら頑張っても、取り巻きの家臣の中から不平不満が出て、時を経ると収拾がつかなくなる。
雲仙岳中腹の高台にある釜蓋城へは街道がただ一筋あるだけである。佐賀から伊佐早湾を回って有馬へ通ずる道である。島原半島の首根っこにあるこの高台は有馬を守るための要衝である。普賢岳の裏の東側を通る山道は、狭隘な道が続くので、日野江城に攻め入るにはどうしても表の西側、千々石道を通るしかない。まさに佐賀から伊佐早を抜け島原へ入るための近道である。日野江城へ攻め込む龍造寺を数日間、いや数時間でも足止めさせる、捨て石のような城でしかなかった。当時の有馬の軍勢ではたった30人ほどの給人兵や常駐兵を置くことができなかった。それほどに有馬は疲弊していたのだろう。それぐらいが関の山だった。
釜蓋城の西側は海と山に挟まれていて、狭いけれども千々石の領地が広がっている。真昼には千々石湾の穏やかな波頭に陽光が跳ね返り、湾が凪ている朝夕は家々の食支度の煙が棚引いていて、城からの眺望は取り分けて素晴らしい。紀員が生まれた秋の収穫期も過ぎ、長く続いていた穏やかな日々はあっと言う間に去り、その半年後に龍造寺の攻撃が再び開始された。1570年の3月のことである。
有馬氏などが7年前に小城の戦いに2万を越える大軍を送り込んで敗北してからというもの、ますます「肥前の熊」龍造寺隆信の権勢が強くなり、佐賀南部の有馬氏が治めていた支配地域は風前の灯となっていた。平戸の松浦も大村の純忠も内憂を抱えていて、思うように味方はしてくれない。加えて龍造寺が大友宗麟とも内通していて、島津、大友、龍造寺の三国時代の鼎立が九州支配が固定している節もある。本来平戸の松浦氏も武雄の後藤氏も彼杵の大村氏にも共通敵の筈で同盟を組める相手だが、共同して龍造寺に対決できる下地がなかった。
龍造寺は佐賀の東南部の藤津郡への進軍を開始した。少弐から龍造寺への権力移転の混乱に乗じて、周辺勢力が切り取った所領地がそこに広がっていた。5千もの大軍が、有馬氏が所有し支配する肥前鹿島へ押し寄せた。そこは従来佐嘉城の少弐氏支配の荘園だった。深町氏の佐賀の嬉野を攻めるのを後回しにして、遠方の有馬氏占領地が目の前の鹿島にあるのが目障りだったのだ。3年ほど前に占領した直後に築造した横造城を3千の軍勢で囲まれたのである。肥前東部から隆信が攻め入ってきた時、淡路守直員や家老木戸高九郎が操る数十の騎馬隊は、多良岳の東側海岸線を通り、250ほどの足軽兵、数十丁の種子島鉄砲隊をともなって、有馬からの派遣隊として城入りしたばかりで、常駐兵と併せても300人足らずの籠城部隊で城を守るしかなかった。遠く離れた有馬からの援軍の当てはなく、他からの追っかけ派兵も期待できなかった。もちろん利害の関係のない近辺の援軍は考えられない。有明海の岸沿いに高来から進軍してきた千々石直員の主力のみで守るしかなかった。
直員は、幼い頃から毎日を剣術や槍術の訓練に充ててきた。馬術は家老の木戸が得意なので、馬を思い通りに操縦することを中心に据えて教えられた。馬は生き物だから、拍車はあまり使わず同体になるようにして、馬の脚動リズムに合わせて身体を動かす繊細な努力を惜しまないことを習った。剣術は腕力があるわけではなく、どちらかというと器用さで相手から優位に立つ手法だった。それ故彼が得意だったのは大刀の捌きで、無理に叩っ切るという剣法は一切使わず、切先が流れるような残像を描くような、スムーズな動きを心掛けた。いわゆる円月殺法に近かった。戦闘中の一対一は想定しがたく、敵が多勢ならば隙が見えない限り素早く退くことを念頭に置いた。以前の実戦は弓と馬術が基本だったが、鉄砲が広まると密集した歩兵戦に変化していて、短期での決戦が多くなっていた。
我が方の兵数は3百人、敵は十に倍する3千人である。城門が破られたら籠城だけでの勝機は望めない。裏門から弓、鉄砲隊でまとめて一点突破、攻め下ることに決めていた。四方を囲む敵は、二重、三重は無理だから一重の包囲の陣形で、どこかに同等あるいはそれ以下の力関係が生じる一点がある筈である。偵察を綿密にすれば何とか出城を放棄して、城もろとも燃やし尽くすという戦法により、戦いの勝利だけはとりたい。
案の定、龍造寺は持久戦はとらないで一気に攻めてきた。敵陣の無勢を承知の上で、防衛戦を主眼としていない横造城の構造上の弱点を見抜いていた。隆信は、武家のプライドを示して正々堂々と正門から攻める格好を取り、矢、鉄砲の届かない、2百メートルほど手前に陣幕を張った。流石に闘将を自負するだけあり、馬養歩兵に自分の愛馬を幕脇につながせて突入に備えさせている。包囲作戦はとらずに城の前後を固める作戦だった。しかも近くの丘、裏門、表門にそれぞれ三分の一ずつ配置し、音声を高くあげ陣太鼓を鳴らしながら、丸太を束ねた突貫棒を叩き込んでいる。
「木戸殿、あれは短期と見せかけて焦らす作戦じゃばってん、様子ば見た方が良かばい。どう見てん破れそうな門ば、ただ突っついとるだけじゃろ」
「お屋形ん申さるる通り、直ぐにば攻め入ると城内で突入隊が囲まれ、殲滅され兼ねんじゃろ。適当に鉄砲隊に空砲ば撃たせ、弾も矢も無駄遣いさせんが良かばい」
この判断は直ぐに明白となるが、どちらかと言えば悪手だった。この時前面には倍する敵しかいなかった。咄嗟に敵将めがけて打って出れば意外と蜘蛛の子を散らすような戦場と出来たかも知れない。やがて戦線が膠着してどう動くのか読めなくなった。
3時間を経た昼時を境に、静かだった裏門から千を越す敵が攻め入った。千々石隊は火を放ちながら、防衛線を下げつつ正門に向かった。丘から表に回った千が本隊に合流して正門を破った途端、千々石の3百人の防衛本隊の背後に迫ったことで呆気なく万事が窮した。血気に盛る中堅の家臣が、弓矢を放つ敵に捨て身の抵抗を試みるが、矢羽根が胸に刺さったままで片っ端から倒れていった。立ち往生する者までいた。
「お屋形様、最早これまでで御座る。無闇な死人は何にも生まんとよ。今は勇断ば下されたか」
と、家老の子である木戸高九郎が注進した。
「分かり申した。全軍に鎮まれん指示ばせんばい」
直ぐさま、木戸が「突撃やめい!」の合図を下し、降伏の旗を振りかざした。敗軍の将直員が最前列に投降すると、いろいろの吟味の末全軍が立ち並ばされた。
ここで戦国の不文律、武士の矜持を保つための、ある私法が発効する。横造城の明け渡しを行うために、怪我人数十を含む2百人有余の千々石兵が城外放逐される。しかし大将と次将の、つまり千々石直員と木戸高九郎の切腹が引換えのお仕置きとなる。多比良岳に陽が沈む5時過ぎに直員が、高九郎の自刃を知らされた後、自らの腹に小刀の切先を立て、この世との別離を遂げた。自刃による敗死は武士の崇高なる矜持を保つという慣例で、妻子や末裔、親族には咎など一切の責めを及ばさないこととされているからである。
父の死は千々石紀員が2歳の時のことである。未だ自我に目覚めず、乳母の世話になりながら、父の言付け通りに跡継ぎになるための特別メニューの育児を受け始めたばかりであった。武家は屋形の子に生まれると、実母とは切り離され、乳母が母替わりとなり、傍付きのお伽人が父替わりで、文武を手取り足取り教えられる。しかも忍や乳母は、父の死について口を濁すことはしなかった。自刃による最期を褒め讃えるかのように、顛末の一部始終を所憚らず話し続けた。
「お屋形は立派な最期ば遂げられた。短かやったども、武士らしか見事な一生やった」
と、事あるたびに聞かされるこの言葉は、それが龍造寺隆信への恨みとして脳裏に刻まれ、自死への得心のいかない死生観につながる、大きな消せないトラウマとして後半生を迎えることにつながった。
それと対となって語り継がれるのが、母である忍の実家の大村、三城城の城下町に残る自慢話である。それは「三城城七騎籠」と呼ばれていて、大村領では勿論、近隣の諸領でも有名な「七人の侍」が1千5百人の後藤貴明軍を撃退したという籠城戦に勝利した逸話である。
紀員が千々石から大村へ移る2か月前の、1572年7月のことである。先々代純治の好武城、先代純伊の今富城と続いた平城をより堅固なものにする必要に迫られた。特に有馬から純忠が養子に入り、庶子(側室の子)の貴明を後藤家へ弾き出したことが大きな障害を生んでいた。更にキリスト教信奉とポルトガル貿易に傾注したことで、麾下の小領主や庶家血縁領主、仏教派家来、親貴明派家臣らの間に軋轢があり、不安が領国支配に影を落としていたからである。常日頃から戦を仕掛けられ脅かされ、大上戸川沿いの富松丘陵に三城城を築城したばかりだった。後藤貴明は新城完成前に一気に攻め落とそうと図った。
鹿島の後藤氏は7百で最寄りの北側に、平戸松浦勢は海から5百で上陸し西方面に、伊佐早の西郷純堯は3百で本丸の東南方向間近に陣取った。総勢1千5百の連合軍が三城城に押し寄せ包囲したのである。籠城した武将はわずかに7人(大村純辰、朝長純盛、朝長純基、今道純近、宮原純房、藤崎純久、渡辺純綱)、残る80人足らずは純忠の家人、婦女子である。純忠は真っ先に死を覚悟したが、使用人や婦女子に偽装の旗をいっぱい立させ、大人数の気配を見せ、登ってくる敵に投石や灰を浴びせた。風向きが良く、目が眩んだところへ弓矢・銃撃を浴びせた。序盤は大村勢がよく守った。
午後になったが城下の兵は一人も駆けつけず、日和見を決め込んでいた。南から攻める西郷勢の一部が城内に突入する。内通者が門を開けたのだ。ところが西郷勢の突入隊の中に富永忠重という大村家家臣が城下の給人部隊を敵陣に紛れ込ませていて、西郷陣営の大将である大渡野軍兵衛に深手を負わせた。それが大村軍の逆転の契機となり、西郷勢が散りぢりに退散したのである。城下兵の合流に勢いを得て、大村軍は西郷勢を撃退する。様子見をしていた大村軍の他の家臣たちが続々援軍として駆けつけ、形勢の不利を悟った後藤勢・松浦勢も慌てて退却を開始した。後藤貴明の全面敗北である。
この七騎籠りの勝利は結果として、大村家の様々に分裂していた家臣を結束させた。そもそも貴明の怨念から発した戦いに他の援軍は、生死を賭けるほどの気概がなかった。加えて伊佐早の西郷氏の妹は純忠の正室であり、本気で攻める積もりなどなかった。ここに戦国時代の本質が如実に現れる。血縁同士、身内で領地を奪い合い、わずかな有勢、損得を巡って協力と離反を繰り返すのである。政略結婚も領地安堵に繋がらない。この戦いに関わらなかった近隣の有馬氏が、伊佐早の西郷や大村純忠に何らかの裏面からの動きがあったのかも知れない。力関係を精査すると奇跡のように見えるが必然のようでもある。かくしてキリシタンの心で民心をまとめ、ポルトガルとの貿易で国力もつけて、大村の領国支配が安定に向かうことができた。
忍がこの経緯を見届けると心から勇気づけられ、紀員を大村の三城城下に預けることに決めた。この次は龍造寺の軍が島原の有馬へ攻めてくるという間諜からの知らせがあり、早速紀員の義兄大和守直員は迎撃の体制を固めている。釜蓋城がそんな緊迫の中にあり、母の忍は思い切って乳母に、平穏な状態にある実家のある三城城下へ連れ行くように命じたのである。
慌ただしい動きと恐怖におびえる母が、
「何ばぐずぐずしとーと。死にたかとか、あんたは。紀員にもしもん事があったら、ただじゃ済まんぞ」
と、のっぴきならない事態を察知してか、何時もとは違う言葉遣いで怒鳴り散らしている。
その瞬間に紀員の脳内の前意識に最初の記憶が刻まれ始めた。
「龍造寺」と聞いて咄嗟に怖気づき、頭の中に熊とも鬼ともつかぬ悪魔の形相が浮かび、それに襲われるような恐怖を心に感じ脳裏に刻まれた。得体の知れぬものに対して身構えながら、乳母の手に引かれそして背に負われて釜蓋城の勝手口から、東南にある地下の逃げ道を通り、湿気を帯びた石垣に開けられた穴から出た時である。一挙に記憶の連鎖が動き始めた。
気味の悪い地下道から潜り出て人家の裏へ出ると、
「奥方様の実家のある大村の三城城下へ参るる」
「さらば、千々石湾岸沿いば辿って伊佐早から大村街道へお出なされ。日暮れ前、酉の刻には着くる筈ばい。お急ぎになって、兎に角お気ばつけて」
千々石の城下を駆け下りて、潮の匂いのする風を浴びながら、見上げた秋空がすっきりと晴れ上がっていた。胎内にいるような微妙に懐かしい感覚と、これから始まる目くるめく人生の厳しさ、怖さをぞくぞくっと背筋の凍る感覚で体感していた。これが千々石紀員即ち後の洗礼名ミゲルの前意識、無意識に刻まれた重大な日の記録であり、鮮やかに人生の走馬灯が回り始めた瞬間である。
大村城下に着くと、待ち構えていたのが伯父の屋形、純忠の奥方妙圓と従姉筋になる伊奈だった。早速に紀員の世話と教育係を頼まれた、傍付きとなる年配の侍が紹介された。話しぶりからすると学問と武芸を教える寺子屋の教師役のようだった。立ち居振る舞いが堂に入っていて、背筋がピンと伸び、言葉遣いが噛んで含めるように丁寧だった。
名を辰巳正史郎と言ったが、パードレからはパウロと呼ばれていた。伯母の家は城内にあったが、すぐに寺子屋近くのパウロの住まいに案内された。紀員より6か月ちょっと年上の子がすでに寄宿していて、通る声できちんと挨拶をしてきた。
「手前中浦ジュリアン、よろしゅう」
と、ぺコンと頭を垂れた。何せ同じぐらいの年の子に面と向かうのは初めてで、しかもお辞儀までされては戸惑いが先立ち、一つの言葉も返せなかった。今の今まで同年代の子と話したことがなかったからだ。明日の朝には乳母が千々石に戻ると言うし、心許ない気持ちと寂しさに包まれていて、彼女と辰巳殿の話をほとんど虚ろに聞いていた。
後になって聞いたことだが、父の直員が横造城の戦いで切腹敗死した前年に、中浦の実父である小佐々純吉(甚五郎)も龍造寺隆信との戦いで討ち死にさせられたという。大村純忠配下の重臣の中でも取り分け勇猛な武将だった。中浦城を守る国人領主で、小佐々水軍の末裔でもあり、西彼杵の外海を隈なく守備支配していた。東彼杵北部の宮村を巡る戦闘中に外海の久津峠の合戦で敗れて撤退の殿を任されたが、弓矢の嵐を浴びて逝った兄の小佐々弾正の首を抱えたまま、龍造寺の末兵に追いつかれて呆気なく斬り殺された。戦国の世の常ではあるが、男親を亡くした子弟が数知れなかった。その遺児の悲劇は誰の目にも明らかであり、どの時代の人間でも想像に難くないことである。
二人とも城持ち大名の跡継ぎで、父が龍造寺隆信の手にかかって戦死し、一人遺された身の上は同じである。違うのは、ジュリアンは父母共に亡くしたが、紀員の母が健在なことぐらいである。ジュリアンは生まれて直ぐに受洗していた。純忠が日本初のキリシタン大名となった時、25人の家臣も共に改宗し、その中に辰巳も小佐々(中浦)もいた。父親が生前に妻と幼児ともども洗礼を受けさせていた。ジュリアンは本名を小佐々甚吾と言ったが、6か月ちょっとだけ年上だが、ことの良し悪しは別として、領主の純忠が紀員の伯父であるためにジュリアンと同年齢か、年上のように扱われる羽目になった。翌日からは彼の後を追い掛けての寺子屋通いの身となった。
寺子屋には多くの若者が集っていた。元服間近の12、3歳の若者を筆頭に、4、5歳の紀員と同年代の幼児たちの姿があった。今でいえば幼稚園から小、中学生の一貫教育の場だった。誰もがある程度の教養を持っており、利発で目がキラキラ輝いていて、良家の出であることは勿論、その中でも長子であるか、継嗣の資格者の集団だった。特別に宣教師によるキリスト教の授業があり、天文学や教理学も教えたりして高度だったが、紀員ら稚児班はパードレやイルマンたちが遊び相手をする他愛もないものだった。龍造寺に焼かれた「御やどりの教会」近くに住む彼らは1週間交代で教師を務めた。
「これからの世は合理的な考えと倫理的規範で固めんばならん。文武両道、質実剛健、何事にでん卓越した武士こそ必要とさるる」
と、早朝からは学問、陽射しが高くなると武道と、朝7時から午後5時までみっちり励んだ。そこには忍とミゲル共々の千々石城主復帰への並々ならぬ心積もりがあった。
2 大村での寺子屋の日々
辰巳は儒学に傾倒していた。分けても義、仁に傾倒していて、孝、忠を語る人だった。どちらかと言えば帝王学に熱心で想思は頑固だった。武術も相当の腕前だったが、単純な正規戦を良しとせず、卑怯にも陰に陽に神出鬼没に戦うのを善とした。城攻めは兵糧を絶つ長期戦、無勢なら即退却を本意とした。いつの頃からだろうか独り者で、側女に家事を任せていたので、常に二人の預かり子たちに付き添って暮らした。
「わしはもう直ぐあの世ば行く身や。闘ってん戦ってん、世ば辞する機会は来んかった」
と言いつつ、
「後世畏るべし」
「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」
と、論語の一節を引いて後進教育に力を注いでいた。
まだ45を越えたばかりの齢なのに、出家しようかどうか迷っているうちに、キリシタンの時代が到来して、よく内容が分からないままに屋形とともに改宗してしまった。パードレの命懸けの航海に心打たれたし、王権神授、一夫一妻制、勧善懲悪の律義などが儒学に通じていると思ったという。城下の真ん中の2階建ての寺子屋だった館が、キリスト教の互会所に充てられていた。
平戸から移された横瀬浦港では当初宣教師たちが続々日本上陸を果たした。リスボン出身のルイス・フロイス神父もこの港から念願の来日を果たし、キリスト教流布全盛期の日本事情を綴った『日本史』の大編を著すことになる。布教のために永住滞在し、やがて10年後に入京しオルガンティーノやロレンソ了斎らを引き連れて織田信長に謁見、天下人の心を大いに掴むことに成功する。
しかし開港2年後に純忠の義弟、後藤貴明に焼き討ちされ、沖合からの暴風に弱くしかも襲撃の不安の残る福田港へ移ったが、1571年になって入江が奥まっていて、帆船の寄港地に最適な長崎へ引っ越していた。ポルトガルの大きなキャラックの船底は、荷物を大量に載せるために丸くずんぐりとしていて、水深も相当ある長崎は打って付けの港だった。その上後藤隆明や龍造寺から最遠であり、外洋へ出るにも便利で南蛮貿易拠点として絶好の港だった。その長崎に築かれた教会堂は、どちらかというとポルトガル商人や船乗りの心を慰めるためで、寺を改装した城下町の住院は専ら布教と医療施術の施設となっていた。
釜蓋城は雲仙岳を周回する街道を挟んだ小高い丘に建っていたが、後ろには上峰川、城前を千々石川が流れていた。そして見晴るかす千々石湾の海岸線まではちょっと距離があった。これに対して大村の三城城は多良岳の麓から少し離れていた。海を間近に見る小さな台地に建っているので、どう見ても周囲を石垣が囲む平城の風情である。対岸の琴海や多良見や西彼杵の丘陵もはっきりと見渡せる。小さな無人島が点在し、寄せる波も荒々しさなど皆無でさざ波である。山地や盆地に住む者が大きな湖を見て海と見間違い、大海に面して生活する者が大湖に臨んでも波音だけで海ではないと察知できる。だから他所からの来訪者なら大村湾と告げられても、誰もが「湾」に首を傾げるだろう。紀員もそうだった。関東の者なら江戸湾と比べて戸惑い、関西人なら有明海でさえ琵琶湖と見違うほどで、それより狭いから「大村湖」ではと疑うだろう。
流入する河川は数も少ない。左程高くない山からの水量は決して多くはない。それぞれの河口までは汽水だが、湾に注ぐや塩水となった。外海とは細くて最狭10メートルで昔の川の名残りの早岐と最狭箇所が180メートル近くの針尾の二つの瀬戸で狭瀬保の海と繋がっている。どうしても瀬戸が狭過ぎて、海水の流入に難しく若干塩分濃度は低くなり、潮の給水、排水に限りがあり満ち引きも緩慢である。
共同生活も幾年も過ぎると、ジュリアンと紀員は友というよりも家族のように親しい間柄になった。我がままをし合っておやつの取り合いや悪口を叩いて喧嘩もしたが、直ぐに仲直りして一つしかない甘柿や李やミカンを分け合ったりした。全く家族のないジュリアンと父を亡くし、母と離ればなれの紀員が、年子の義兄弟の契りを結んだように、「竹馬の友」ならぬ竹馬の兄弟になった。勉強するのは何時も机を並べてであり、剣術の鍛錬もこの二人が早速に木刀を交えた。紀員の勉学は少し遅れたが、剣術は背が高いこともあり無念流の上段からのメンを得意とした。手も長いのでツキやコテは容易く、メンを主に修行させられたからではある。専ら読み書きが得意なジュリアンは文治派の武士となることを志していた。
そんなある日曜日のことである。夏の陽射しが強くなり、木々の陰で学友が涼を取り、論語の暗誦を繰り返したり、木の枝で斬り合いの真似事をしたりしていた。
「千々石のぅ、お祈り終ったけん、遊びに行こうや」
と、ジュリアンに誘われた。
向かったのは大村湾の海岸だった。ジュリアンの遊びの準備は万全だった。
「潮ば引くと、蝦蛄や浅利が採るるばってん、魚籠ば持って来たばい」
ジュリアンは、この時間は潮が引いていることを事前に聞いて来たらしく、湖浜の十数メートルが陸地に化していた。波打ち際は砂地ではなくて、火山灰によって埋められた湾らしく泥土に近かった。辺り一面に小さな穴が開いており、小さい穴は貝が吐き出す潮で出来たもので、少し大きくて真っすぐ下へ続くのがシャコが開けたものである。大きな穴は細い真っすぐな棒を立てて、シャコが持ち上げた瞬間に、隣の穴から一気に太い棒で下へ行かないように崩して塞いで捕まえる。貝は穴の周りを穿れば立ちどころにとれた。夢中で掘り続けたら面白いように採れたので、あっと言う間に時が過ぎた。魚籠が一杯になったところで帰ることにした。
「もっと大きか籠ばあったら、よっぽど沢山採れたんに」
「これしか無かったばってん、仕方がなか」
ジュリアンが帰り道でパードレに頼まれた話をこっそりと聞かせてくれた。
「最近『紀員によっく言い聞かせて洗礼ば受けさせてくれんか』と、口癖んごと言わるるばい。もう嫌になるとよ」
と、内緒の話だと口止めの念を押して話したのである。
「何時もジュリアンには言いよるやなかか。僕の母上からは、大村ではキリスト教が当たり前かも知れんが、有馬ではまだまだ仏教信徒が多かけん、簡単に改宗などできん。早まったことはするな、と念ば押されとるばい」
「悪か悪か、うちに何んの悪気もなかけん、許してつかわせ」
と、ジュリアンはとても気まずい思いをしてしまった。自らは幼い頃からキリスト教が身についていて、異宗である仏教を建前としている千々石家の様子を、おいそれと認めたままにしておけなかった。
有馬の屋形義貞も弟純忠に倣って1562年に口之津を開港し、アルメイダ師を宣教師として迎え入れてはいたが、10年以上経っても自らは改宗することがなかった。あっさりと改宗した弟に比べて、気配りが過ぎる長男らしさからか慎重だった。家臣団の中に長年仕える仏僧の集団があり、力関係を慮ると対立を避けるにはそれ相応の対処を図らねばならなかった。加えて、大内氏の政、教が絡む内紛による下剋上、弟の一人が養子に入った平戸松浦氏の仏僧らのポルトガル人殺傷の宮の前事件、豊後大友氏の夫妻間の神道とキリスト教の確執など、これら全てはキリスト教にまつわる難題から始まっていた。戦国時代だから領国を統治するのに、ある程度の紛糾を抱えるのは已むを得ないが、火種になりそうなものには関わりたくなかった。南蛮交易とキリスト教布教の二本柱は魅力的で開港、布教までは許可したが、それによって発生する内憂だけは招きたくなかった。家来たちにある程度の理解が広まるまでは、パンドラの箱を開けたくなかった。
それでも母の忍は今や政教不可分の時代と見定めていて、キリスト教に対する拒否感は左程でもなかった。大友宗麟や大村純忠が熱心な信奉者だから、有馬義貞も改宗すれば肥前南部の統治が安定する。何時の日か訪れるであろう龍造寺隆信との全面対決に勝利するためには平戸、大村、有馬、天草志岐が大同団結し、強大な豊後を含めた龍造寺包囲網を築き上げることが肝要と考えていた。千々石忍には他者に知られない卓越した政治見識があった。彼女にしてみれば、直員が生前に口癖のように繰り返していた教示を忠実に思い出していただけかも知れない。乳母に紀員を預けて大村へ向かわせたのは、釜蓋城に澄濤と紀員の義子、実子両方を置くことの危険があり、それを分散し千々石の家督の安定継承を考えて、キリスト教への理解の深い大村の方が将来性があると考えた末のことだった。憎っくき夫の仇、鬼の子龍造寺隆信を一敗地に塗れさせるには、先ずもって家系の存続しかないと考えた。
忍は正史郎に全幅の信頼を置いていた。節句毎につまり年5、6回ほど、我が子の着替えや俸禄米、魚の干物や漬物と味噌などを千々石から届けさせ、自分も盆暮れには大村を訪れた。紀員は千々石の山で採れる春は山菜、秋の茸を楽しみに待った。
「父上は本当に武術の達者な人やったばい。兄弟の中でも一番体が丈夫で、お爺さまもとても頼りにされ、戦の時には常に斬り込み部隊ば指揮した」
と、会う度に忍は父のことを延々と褒めちぎり続けた。
紀員は母の口癖のような御託宣に若干辟易としていたが、父の遺言であり無碍にするに忍びないと、同じ内容の時は聞ている振りをして空返事をしていた。ところが傍のジュリアンは全く違っていた。同じ事柄が繰り返される度に瞳がランランと煌めき始め、折り曲げた膝を小刻みに震わせ、身を乗り出すようにして聞き入った。父である小佐々甚五郎と千々石直員の身の上をぴったり重ねて聞いていた。
「千々石の、そがん冷とう言いなしゃんな」
と、それが母と紀員が話す時のジュリアンの口癖となった。
「そうばい、父上がどれほどあんたに期待してたか、言うてん言うてん言い足らん」
いつしか母は紀員に対して話す時は、ジュリアンに面と向かっていて、その顔色を見ながら話し、それが息子に間接に話す姿勢となった。
話が佳境に入ると、テンポが速くなり講談師が語る口調となってくる。終におとずれる父の自死のシーンになると、母もジュリアンも涙を浮かべ、不遇の母子の関係にまで高まるのである。紀員はそれを見守る第三者の立場になるのが当たり前となった。
「武術の鍛錬と兵法の勉学に励まんね」
と、言い残していつものように母は疾風のように去って行った。
次の日から暫しの間、文治派のジュリアンが武闘派に転じ、紀員相手に木刀を握る手に一段の力が入る。それは紀員にとってもこの上ないことだった。
お互いに正史郎直伝の無念流を極めようとしていた。上段に構えてから思いっ切り振り下ろし、流れるように踊るように下段から上段に戻す。最初の半時、この一連の動きをスムーズかつスピーディーに運ぶように鍛えることに努めた。これは重くて斬れ易い太刀に自分の運命と死を預ける戦国武士の姿に通じている。自身の命を刀に託して瞬時を争う素早さ、踊るように流れる身の熟しを重視して訓練した。振り被った瞬間に相手の体幹移動の察知に意識を集中する。上段の構えは当たれば相手へのダメージは大きいが、ガラ空きの部分が出て、瞬時に攻められるコテ、ドウ、ツキに弱い。自ずと体のどこにも隙を見せずに、あるいは相手の動きを素早く察知できればこちらが有利になる。紀員はそれ程丈夫な体ではなく、身長の割には体重が軽くて痩身の部類である。腕力や体力では同年代の中でもひ弱な方だった。だから特に鍛えたのは瞬発力と持久力だった。すばしこい走りと身のこなしも修得しなければならない。それには最適な多良岳への登攀にも月に2度は挑戦した。ジュリアンと共に千日行僧のようにである。
3 釜蓋城落城と母の隠棲
1577年の初夏のことである。千々石家にとって父の死に次ぐ、のっぴきならない事態が起こった。一族の元凶「肥前の熊」が千々石が籠る釜蓋城を大軍で攻めたのだ。
紀員はもう8歳になっていて、後ろに束ねた髻も肩にかかるまで伸びていた。朝餉の雑穀の雑炊と干魚の切れ端を蕨の塩漬けで掻っ込むとすぐに寺子屋に向かった。机を並べての論語の読み合わせを半時、その1節を写経のようにして書くこと半時、一しきり書き終えたところで正午になり、各々木刀を持ち出して叢林の中での打ち込み訓練に集中していた。昼餉の後は、1時からは年初から取り組んでいる乗馬に勤しまねばならない。
「えい、えい、えいっ」
と、いつものように紀員は、木刀を振り捌く所作を繰り返していた。そこへ母からの伝令を携えた早馬が駆け込んだのである。
「若さま、千々石ん若さま、大事にございまする」
と、時ならぬ慌てた様子で、母からの使いが息を切らして馬から降りた。鍛錬場に紀員を見届けると、
「若さま、大事にございます。龍造寺ん奇襲ばあって、大和守が切腹ばなさり、釜蓋城が奪われ申した。即刻身支度ばして日野江城へ戻られたしとの殿の仰せでございまする」
と、千々石からの早馬がもたらしたのは、釜蓋城が龍造寺の包囲により焼き討ちされたとの悲しい知らせだった。
夜も明けぬ4時頃に龍造寺の万を超す軍勢が、百数十前後の千々石の守備陣に大手門、搦手門から一気に攻め入られた。早暁の奇襲で呆気なく白旗を挙げ、義兄の千々石大和守直員は天守から攻め下り、数人の鉄砲隊、弓矢隊とともに戦っていたが、天守閣の炎上を見届るや「最早これまで」と覚悟を決めたらしい。7年前に鹿島郡の横造城で父の直員が自刃させられて以来、それまで一進一退していた龍造寺との争いは劣勢となり、佐賀の領地が次々に奪われた。次の年には杵島郡、1572年には藤津郡に侵入を許し、有明海沿いの進攻で、76年には占領範囲を高来、伊佐早と有馬領内深く攻め込んでいた。遂に有馬氏が支配する島原半島の聖域まで攻め入って来た。釜蓋城は紀員の生まれた城で、家族が現住していた自宅でもあり、千々石一統には存亡の一大危機である。
天守閣の炎上を見て大和守直員が自刃したと聞いた時、紀員は母の無事を瞬時に直感して安堵した。父が武家の慣わしに忠実だったから自分も母も生き延びられた。今度も義兄は私と母や縁者の命と引き換えに身を捧げたのだろう。案の定、負傷者は双方相当数あったろうが、戦死者は千々石大和守直員と老家臣で家老である木戸萬九郎など数人だけで、敵陣営でも暗闇の混乱の中で誤って同士討ちになった者や足を滑らして石垣から集団落下した者など十数人いただけである。城内の婦女子には一人の犠牲者も出なかった。紀員の脳裏に深く刻まれたのは、龍造寺隆信への根深い恨みと武家の切腹での決着に対する漠然とした嫌悪である。父や義兄自身の魂は果たして自刃で救われるのだろうか?
日野江城に着くと、晴信がたった一人で脇息に両の肘を掛け、深く沈んだ表情で母子を出迎えた。隠棲していた伯父義貞は正月に、皮膚癌と思われる病気が因で亡くなったばかりだった。生前譲位して長男義純に家督を継がせたものの早世し、5年ほど前に紀員より2歳年上の幼い次男晴信がその後を継いでいた。義貞は第一線を退いたが若い屋形を何とか支えていた。その後ろ盾が亡くなり、これを絶好機と捉えた龍造寺が伊佐早の西郷純尭を平らげた後、有馬の領地千々石へ攻め入ったのだ。窮地を打開するために1万の家来たちとともにキリスト教に改宗したばかりだったことも事態を複雑にした。補佐する重臣や家来たちが仏僧の悪口に動揺し余計な口を挟んだからである。
「実に済まんことばした。日の明けん内に斥侯から連絡が入り、即刻城下に兵の招集ば掛けたが、1千を超える兵ば集めるとに手間取った。無勢で応援ば出してん、敗れるるんは目に見えとるで、子ん刻に出立して1時半かかったけん、援軍が着いた時は、既に天守閣が炎上しとるて、城内には龍造寺兵が密集し、望楼から鉄砲の弾ん雨嵐ばい。それが止むと弓矢が射かけられ、如何ともし難かった。お忍どのには本当に申し訳が立たん」
と、長々と弁解の言葉を並べ、詫びる姿は苦渋に満ちていた。
忍にしてみれば、7年前の夫の死のとき、義貞から聞かされた敗戦の弁と全く同じだった。甥の若殿から同じ言い訳を聞かされて、容易く理解し納得する訳にはいかなかった。釜蓋城が落城する前年には、藤津の竹崎城を守る深町家が併合され、途中の障碍が無くなり西郷純尭の高来城も風前の灯だった。先々代の仙巌が築いた有馬の領地も、龍造寺にことごとく侵略され、今や島原半島南部のみのじり貧状態となっていたにもかかわらず、起死回生の妙手どころか最低限の手立ても打たなかったからである。
釜蓋城には少なくとも千を超える常備兵を置いて守備すべきだったし、救援のための有馬の兵も数千を、即刻出動に備えて待機させるべきだったのではないか。日野江城も併呑されることも覚悟すべき状況なのに、後手後手を踏んだ頼りない若い屋形が目の前にいる。伊佐早の次は釜蓋城であることは目に見えていた。
先代の頃はいつも三男の立場にある千々石家だけが犠牲となった。今回も捨て駒として使われたのは誰の目にも明らかである。本家の立場を乱用して分家への無理難題は、夫の死の時にすでに明白で又もやと言うべきだった。
「後から聞いたことだが、千々石大和守直員は実に勇敢に戦うたげな」
と、自分の不行き届きを打ち消すために家臣からの聞き伝えを語り始めた。
高を括っていた龍造寺隆信は、正門から攻め入る部隊の正面に陣取っていて、平然とした態度だったそうである。それを見つけた家老の木戸が、大和守の下に駆け寄った。
「憎っくき龍造寺が真ん前に見えるる。大きな十二日足紋の幟ん下、畳床几に腰掛けてこちらば見とります。今こそ先代の恨みば晴らさで置かんばい」
と、聞くや否や大和守は、大部隊の敵陣にただ一人斬り込んで行ったという。
龍造寺勢はその覚悟に「敵ながら天晴れ」と心打たれ、生け捕りにして老臣の木戸萬九郎とともに、武士の情けとしての切腹を申し付けたという。もちろん重立った家臣、雑兵の全てが城から立ち去るのを見届けてはいた。
さらに偶々他用で城内にいなかった家老の町田兵七郎が、城下から釜蓋城に駆け付ける途中の間道において多勢の敵に囲まれたが、ただ1騎で斬りこみ、馬が弓で射抜かれて転倒して仕方なく敵の手に落ちた。偶然田んぼの真ん中にあった平たい大石の上で自刃したという。涙なしでは語れない話が幾つか続いた。
「お忍殿、今後の身ん振り方ばどうさるる。釜蓋城は龍造寺ん手に落ち、暫くは占領さるるやろう。うちも不本意ながらそん麾下に入らざるば得まい。有馬ん城下で暮らすなら扶持米ば用意してやるるぞ。紀員君が元服するまでは日野江城内に住まいしてん良かろう」
と、晴信は口先だけは情け深そうだが、その本心は見え透いている。何とか忍の実家である大村の城下へ預け置きたいとの真意があからさまである。
「紀員が奉公できる身になるまでは大村の実家で暮らしとうございます」
と、忍はきっぱりと言い切った。余りにも堂に入っていたので、傍で聞いていた紀員も思わず屋形の顔色を窺ったほどである。
「紀員よ、気ば落とすでなかぞ」
と、声を掛けられ、やっと心の内が落ち着き、安心できて胸を撫で下ろした。
次の日には大村の城下に戻り、翌日からは前のような寺子屋の日々が戻っていた。父の死は幼児の時、義兄の死は血縁の薄い人のこと故、紀員個人の感覚としてはそれ程身を斬られるように深刻なものではなかった。だがジュリアンは紀員の機嫌を損なわないよう、当分の間は言葉遣いなどを慎重にすることにした。
忍の態度は千々石や有馬にいる時と全く違っていた。余ほど女は嫁ぎ先より実家の方が清々とし、伸び伸びできるらしい。「勝手知ったる我が家」という方が相応しいのか。特に純忠の正室である妙圓が住む三城城に参内し、話し相手をする時は水を得た魚のように喜々とした様子で、マリアの娘の伊奈マリーナが加わると、姦しいぐらいに賑やかになった。
(有馬での不遇の身の上にある自分が情けない)
(与えられた運命は致し方ないが、義父の晴純様は子息を身内から遠避け過ぎた)
(義兄の義貞様は兄弟を捨て石としか見てなかった)
(若い晴信様を屋形にするなら、家臣団を武功のある実力者で固めるべきだった)
などの愚痴を聞いてくれるのはこの二人だけだった。伊奈は嫡子喜前の姉に当たり、姉弟も多くいたが全員が洗礼を受けている。中でも松浦へ嫁いだメンシアと伊奈は熱心な奉教者だった。母とどんな関係にあるか分からなかったが、辰巳パウロに聞いたところ、西郷純久の娘で義姉妹に当たるらしかった。純久は有馬の先々代の屋形である尚鑑の子で、西郷家に養子として入っていたから、元を辿れば有馬一族の末裔である。
戦国の世は領主筋の家系はいとこ添いや身内での養子縁組なども当たり前で、娘たちもあちらこちらと嫁がせて、姻族となり雁字搦めだった。血筋維持と所領安堵のためだが、端無くもその経営手法が、身内での相続争いを招いて、戦国の争乱を続けさせてもいた。
母の忍は、月に何度か修練所や教会堂にも顔を出したが、紀員の学問や武道の進み具合などには、一切口を挟まなかった。夫や養子が愉快な人生を全く体験せずに自刃して果てたから、紀員だけは少なくとも元服するまでは自由奔放に過ごさせてやりたかった。やがて有馬傍系の千々石家の運命を背負わせることになるからである。忍は、妙圓の娘、伊奈の厚い尊敬と全幅の信頼を得ていた。大村家庶子の義兄貴明を11歳の時に後藤家へ養子に出して、純忠が屋形の座についたのが原因で、庶家(姻族筋)の小領主が支配基盤である領国にとって内憂が満ちみちていた。そんな父を婿に迎えた母の深刻で複雑な悩みを話せる相手は忍の他にはなかった。だから若い頃から伊奈は、いろいろな人生相談に乗ってくれる、年上の忍と仲が良かった。
忍は妙圓の口利きで長女、伊奈の住んでいる西彼杵の内海に庵を結んだ。伊奈が幼くして嫁いだのが家老の朝長純盛であり、大村家にとっての最重臣である。蔵入り地(直轄地)で占められるこの地を監理するように宛てがわれていた。彼には家内で時々話題に上る武勇伝、先刻承知の「三城城七騎籠」がある。その七騎をまとめたのが家老の彼であり、最初から綿密に計画した芝居だったとする者までいる。余りにも絶妙な籠城戦だったので、あたかも純盛の仕組んだ壮大な芝居だと言うのだ。万全に準備した上で後藤貴明を挑発し、規定通り撃退して、分裂している家臣団をまとめた。彼が色々と作戦を吟味、腐心した上で作った奇策だったとする。そんな如何様博打のようなお誂え向きな話があるだろうか。
内海、多良見の地は対岸に台地の三城城が望めるし、パードレやイルマンたちの住院のある長崎の「港の教会」にも近かった。長崎には交易の商人も荷下ろしの沖仲仕たちも住み、街は宿屋や食堂や娯楽を提供する店が並んでいた。年に1度のポルトガルからのナウ船や時折来る明のジャンク船の寄港地で南蛮人たちも多くが行き交い、活気を帯びて賑やかだった。彼らの心身を癒す教会や病院も揃っている。忍や紀員に縁のある伊佐早、千々石へもそれほどに遠くはない。何よりも指南役の正史郎の家のある三城城下に一日あれば往復できる。一人息子の生活状態が一番気掛かりだったからである。武術や帝王学は忍には教えられないし、女親べったりの武士など戦場常在の時代に求められる筈もない。母が時折行くのは食事や衣類などに過不足がないか調べるだけだった。それが武家の母の役目で、大事への干渉は慎まねばならない。釜蓋城が奪還された暁には、紀員を城主に据え、5千を超える千々石城下の領民に信頼されねばならない。紀員が立派に千々石城主になる望みに忍は残りの人生をかけていた。出来ることならば龍造寺隆信に対する夫、義理の子の恨みも晴らせることが出来れば本望だった。
忍がぶらりと長崎に買物に訪れた時だった。普段着の仕立て糸や反物、料理用の塩や味噌など種々の調度品を見繕おうとしたのだが、大村よりも長崎が近いということで、初めて訪れて驚いた。何もかもが目新しい物ばかりだったからである。千々石にいた時は、専ら給人の妻らと有馬の日野江城下へ買い物に行っていた。先々代の大村純前屋形が上京した折に、南蛮人が行き交い、高級な絹の織物や金細工や紫檀の調度品、陶、漆器などの小間物など所狭しと並んでいた街の話を聞かされた。それが堺という商人の町だったが、今やこんな国の端に賑やかな異国情緒のある店々が出来ていた。
鍋と布の反物を買い揃えて満足して帰路に着いた時だった。青果物を扱う店先に珍しい食用に供するらしい品が並んでいた。
「店主よ、こりゃ何でござると」
「遥々マカオから南蛮の船に揺られてきた舶来の黍にございます」
「いかにして食するんか」
「塩茹でにして食するらしかが、何でも米に混ぜて炊いてん美味からしい」
「粉にして団子にしてん良さそうやなあ」
ポルトガル人が持ち込んだ玉蜀黍は、岩塩と米などと共に船内の貯蔵庫に常備されていて、大量にあったので市で米と交換された。20年後に明から平戸にジャガタラ芋、その数年後の徳川の世には唐芋(サツマイモ)が伝わり、米、麦、玉蜀黍、馬鈴薯、薩摩芋の5主要主食が最終地の日本に揃うことになる。インカ、アステカに原種を認める主食が東回りで、極東の最果てに到達するのだ。忍たちが有馬に戻ってから米の凶作に備えてジャガイモを栽培したが、後に島原半島の水不足地帯の主要作物になり、やがて島原では米と馬鈴薯が二期作作物として定着する。いずれにしても大航海時代は、望むと望まざるを問わず、善悪はさておいても世界中を掻き回し、文化、生活様式を均一化した。複合的発展の法則を貫くのである。
「福田から長崎へ南蛮船の寄港地が移ったけん、教会や倉なども並び建ち、300人近かナウ船搭乗者たち相手の酒場や旅籠が所狭しと商いしとる」
と、忍の興奮した話し振りに、伊奈も顔を紅潮させ、
「今度うちも一緒に連れて行きんしゃい」
と、言葉を返して、互いの約束事は数日も経たずに実行された。
南蛮人たちは、鉄砲、火薬、ジャワから香料、中国から生糸、革製品を持ち込み、代価を金貨で払わせ、銀、鉄、硫黄、食料品を購入した。金と銀の交換比率が大きい欧州と金の価値が低い日本の間で差益だけでも儲けていた。それでも日本の輸出品は豊富で大型帆船でもすぐに満杯になった。中国と南アジアと日本の間を行き来する三角貿易で1回の取引で手持ち金は2、3倍にはなったという。
4 人間万事塞翁が馬
龍造寺隆信の侵略的脅威だけが、大村純忠が抱える一番大きな頭痛の種だった。じわじわと領地を切り盗られて、領内施策の有効な次の手が見えなくなり委縮し始めたことは確かだった。領内経済の立て直しのために、平戸松浦氏から南蛮貿易を奪い取り、漸く息がつけると思ったが艱難辛苦が続いた。地付きの小領主が多く、譜代の領地も無視できず、直轄の蔵入り地が狭く、給人の常備兵を増員するのは不可能だった。
横瀬浦、福田港の次に1571年からの長崎への南蛮船来港は、ナウ船が大量の物資や財貨を持ち込んだが、キリスト教に基づく精神文化も否応なく併せ入った。ザビエルの布教以来20年以上が経って、信者が九州と京周辺で広汎に増えたが、分けても大村領では上意下達の手法で大々的に進められた。紀員が千々石の釜蓋城を脱出し、辰巳の許に身を寄せた頃には、純忠自らがキリスト教を領内唯一の宗教とする専制的権力を発動し、一部に反発はあるものの迷妄雷同する者が続出した。
確かに領内の者で改宗を拒否する者は少なからずいた。仏僧や神主らがその業態や思想の性格上、教義などを知ろうとはせず頑な態度で純忠の命に従わなかった。「触れ書き」を門前に立てられると即座に破却するなどして抵抗した。それは領主が出した法を犯す罪だから真っ先に領外追放と社寺の打ち壊しが執行された。じっと見守るだけで目立った反抗を示さないが、決して改宗には従おうとしない寺社は、妄信する奉教者が徒党を組んで焼き討ちの私刑に処した。特に給人や新興の小地主への改宗圧力は仏僧、神官らにとって足を掬われることになるので体を張って抗議を始めたが、半死半生は勿論、死をも覚悟せねばならなかった。宗教の怖いところは合理性や譲歩の余地がないことである。極端な保守性、偏執的な思惟が背景にあるからである。精神文化の既成的な固定化があり、根本の思想を否定すると、自らの立脚基盤も失われるからとても認める訳にはいかない。攻撃する側も守る側も頑ななのだ。
キリスト教やイスラム教は一神論であるから仏教や神道を排斥するとか、神道は八百万の神を基とするから他宗を容認するとか、仏教の移入を何の抵抗も無しに受け入れたから日本社会は仏教と相性が良いのだなどと色々と弁駁する者がいるが、何の理由付けにもならない。元々廃仏の物部氏と崇仏の蘇我氏との殺し合いの果てに大乗仏教が入った。また廃仏運動は歴史の節目に必ず顕わになり、人の死は神道では穢れとされるから抑々水と油でしかない。宗門の違いは容易く乗り越えられるものではない。一神教だから神社、仏閣の打ち毀しを平然とやるのだという批判は決して説得力をもたない。キリスト者は平戸でも山口でも京でも真っ先に迫害された。宮の前事件で日本での最初の殉教者が出たことが実証している。1577年に千々石の釜蓋城が龍造寺の手に渡ったが、それから暫く経ったある日、ジュリアンの先導で馬乗りに興じていた時だった。
「ジュリアン、練習馬場から抜け出さんか」
「辰巳殿から叱れんかな」
「遠出でさえなければ、直ぐに戻ればよかやなかか」
「それもそうばい」
こんな遣り取りの後、ギャロップで駆け出し、向かったのは浜辺だった。先に緑濃い多良岳の麓へ駆けて行ったが熱中の余り、獣道で迷って帰るまでに半時ばかり掛かって仕舞い、教官を心配させてこっ酷く叱られたことがあった。
「これ位の冒険なんぞ侍の気概ば見せる所やけん、そがん怒ることやなか」
と、逆に馬方の教官が責められ、項垂れた格好に二人は申し訳が立たなかった。
乗馬に関しては紀員よりジュリアンの身体の熟しが上手かった。何事長じるが優るで、馬乗りと聖書理解は早くから習っている方が上だった。だが刀捌きだけは負けてはいなかったし、何事に対しても積極的に取り組む姿勢は紀員の方が優位だった。馬の世話もジュリアンの得意とするところで、鬣具合で機嫌の良し悪しを見分け、首筋や横っ腹の汗の湿りっ気で疲れの程度を推し量るのは朝飯前だった。
廃舟の舳先に手綱を縛り付けると、二人は寄せる波に一しきり戯れた。それは童心に戻る瞬間だった。対岸に見える母のいる西彼杵内海の島並みを望んで座ると、世間で現在の話題となっていることを紀員は持ち出した。
「阿金和尚が本尊の仏像ば背負って佐賀の嬉野の大定寺へ逃げたげな」
「キリストの教えが広まり始めた頃は、仏僧の方も改宗に熱心やった。今は宗論や問答で遣り込められ、窮地にはまった和尚が僧徒と図って無闇に反抗ば企てとる」
「恭順の意ば示して寺ば守る術ば取らん僧侶が、一概になって罵るけん、キリスト奉教者の恨みば買うばい」
「お屋形様の信心が固かじょん、依怙地になっても一溜まりもなかやろう」
「ジュリアン、今の教勢ば見ると身共も受洗する外のうなるやろう。もっとも仏典に接する機会もなかばってん、聖書の読み聞きば常としとるとやけん、当たり前やろう」
空模様が悪くなり、もと来た道へ引き揚げようと慌てて鐙に足を掛けて馬の背に乗り、駆け出したまでは良かったが、紀員の馬が流木に後ろ脚を引っ掛けてしまった。それ程に大きな障害物ではなく、馬も図体の大きい戦場馬ではなかったが、諸に前屈みに引っ繰り返ってしまった。
あっと言う間の瞬間劇を見ているようだった。騎手は子どもで身軽な紀員だったし、成馬でもなかったから、宙返りの芸をしたかの如くだった。しかし思いっ切り左足を踏ん張って起き上がろうとしたが、膝を挫いていたらしく、直ぐには立ち上がることが出来なかった。骨折か靭帯断裂の疑いをもったが、事後のことだけが気になっていた。家へ帰ってどう弁解したら揉めないのか、それが気掛かりだった。
「紀員君、大丈夫か。どこか痛うなかか」
と、駆け寄ったジュリアンの顔が引き攣って蒼白となっていた。
「なあに気にすることなかっさ。平気ばい」
と、紀員は虚勢を張ったが、痛みは並大抵のものではなかった。今までに経験したことのない重いものだった。それでも以前に見た骨折者のように、あぶら汗を掻き呻き声をあげて蹲るほど酷くはなかった。幸いなことに素質ある若き駿馬は、シャキッとして起ち上がっていた。だが落馬者は痛みが走って力強くは立てない。ジュリアンに支えてもらって何とか馬の背に上がると、再び走り出し帰途には着いた。
疑心暗鬼で恐る恐る後に続くジュリアンの馬は、搭乗者の心を察してか弱弱しくとぼとぼと紀員の後を追った。馬場に着いても何もなかったように装い、ジュリアンの手を借りて馬を下りた。少し左足を引きずる仕草だったが、馬小屋に轡の綱を縛り付け飼葉の桶をあてがった。事の次第を打ち明けることはなく、部屋に入って畳の上に座布団を二つ折りにして左膝下に当てて暫しの間横になり休んだ。
この時何らかの処置をしていれば良かったのだろうが、放置してじっと我慢したのが災いを呼んだ。これが原因で行く行くの悩みの種の一つになった。左膝の疼痛が持病となるのだ。特に梅雨時や季節の変わり目、冬の朝晩の気温の急変化で必ず痛みを伴ったり、足の偏痛が走って左足を引き摺るようになった。普段は何の支障にもないのだが、一度痛みに襲われるとリウマチのような、痛風のような症状を呈し苦痛に顔を引き攣らせた。この事件以来、紀員が顔を歪めるとジュリアンが駆けよって、合点承知の介で膝を摩ったり肩を貸してくれたりするようになった。母忍も又同じ対応をした。紀員には内緒で、ジュリアンからことの次第を事細かに聞いていたからである。忍は『人間万事塞翁が馬』の諺を肝に銘じて楽天的に考えることにした。
「わいは紀員が父や義兄のような武勇で名を馳せる城主にならんで良かと考えたかと思うとる。みっちり学問ば積んで仁徳で城下ば治める屋形にならんね」
との言葉が、やがて忍の口癖となった。落馬事件があってから後のことである。
熾烈な戦場へはなるべく向かわず、後詰で戦況を見渡し軍略を練ったり兵を配置したり兵站の備えに気を遣う、軍師に仕立てたいと願うようになった。折に触れて日野江城や三城城の屋形に会う度にこのことを持ち出した。息子の身体の障害については決して話すことはなく、要望だけは躊躇うことなく細かに述べた。戦国の侍にとって傷痍軍人として扱われることは、敵の集中砲火を浴びる元となるばかりでなく、足手纏いとなり味方からも頼り甲斐のない人間と思われて何のプラスにもならない。それによる弊害が出ると言う者もいるだろうし、つまらぬ見栄だと言われるかも知れないがそれも織り込み済みである。
神社仏閣の打ち毀しは給人兵や小地主、小領主の多く住む東彼杵の地方、向地など三城城の城下近辺が対象だった。歯向かってくる僧侶がいたなら、公としては追放するだけで十分で無理に改宗させることはしなかった。寺社が所有する領地を召し上げ、直轄地にすればいいだけだからである。単に小庵を結んで仏法を説いているだけならば、少々悪口を言っても棒にも箸にも掛かることはない。
布教に利することなど皆無の暴力を神父らが教唆する筈はなく、妄信者が跳ね上がって通り掛かりに陰口を叩く寺社を襲撃するのは、頑なに仏法の優位を語りキリストを無価値なりと詰ったりするからである。殊に大村領内で僧侶に殉教者が出たのは向きになって理性を失い、売り言葉に買い言葉で悪口雑言の限りを尽くし、時には私兵を雇ったりして凝り固まった対極の奉教者同士がぶつかり合うからである。こうなるとどっちの側も説得に応ずることはない。思考が停止した愚か者には付ける薬もない。彼我どちらの宗教にも言えることであり、過ぎたるは及ばざるの如しである。
この戦国時代の厭世思想の根っこは仏教の末法思想から発露していた。仏法が守られ悟る行者がいる「正法」から始まり、外見だけの行者が横行する「像法」そして一切正法が行われず悪行の限りが罷り通る「末法」が終末である。浄土教に始まり、浄土真宗、念仏宗、法華宗など大乗仏教の涅槃浄土を司る阿弥陀如来を奉じる新興仏教が乱立する時代となり、日本国内ではキリスト教もその流れに準じている。
1578年に大友宗麟は、家督を息の義統に譲ると、奈多八幡宮の息女だった奈多夫人から解放され、以前からの望みだった洗礼を受けた。実にザビエル神父と巡り合い、意気投合してから27年も経っていた。ドン・フランシスコと名乗り、兵を揃え陣を整えると、薩摩の島津氏に奪われていた日向国を奪還すべく立ち上がった。十字印の旗の下、医療、福祉、教育に裏打ちされたキリスト教国を築かんとの野望に燃えていた。だが、島津の正面部隊が逃げると見せかけて野伏の部隊で取り囲み、一斉攻撃を仕掛ける囮作戦で宗麟の軍を大敗北にいたらせた。この「耳川の戦い」の失態が大友氏の大衰退を招いた。それで九州は南の島津義久が、日向、肥後南部までも占領支配することになり、大友宗麟の領地は残る豊後から豊前の一定地域に狭められて仕舞った。
釜蓋城の落城の頃から始まった龍造寺隆信の攻勢は、耳川の戦いに敗れた大友氏の衰退もあり、平戸や五島列島は勿論、島原半島から伊佐早周辺の高来郡も東彼杵、西彼杵の大村の領地を始め肥前の全体を麾下に収めた。忍や妙圓や伊奈の思惑とは反対に、意気地のない屋形の男どもが憎き敵に平伏した。更に龍蔵寺の勢いはとどまらず筑前、筑後、肥後から天草までも支配範囲に組み入れた。
ただ幸いなことに龍造寺氏配下の地域が野放図に広大を極めたことで、彼の集権的で専制的な治政は緩めざるを得なくなった。殊にキリスト教との関係の深い大村や有馬の囲い込みは、ポルトガルとの南蛮貿易を考えると下手に禁教を強要すると、その利益を掠め取る事が侭ならなくなるというジレンマに陥った。平戸の宮の前事件での対処が悪手の極みだったと考え、仏教だけを是とする隆信だが、仏教徒への圧迫も断罪せず長崎の外町の治外法権も認めて、キリスト教を黙認する態度を採るしかなかった。年貢米の一部と南蛮交易品の貢物や利銀の貢納さえ頂ければ良しとした。今までになかった明白な政教分離策であり、思想信条の固執よりも経済利益を優先した形である。
さらに敵城を攻め落とし殲滅するやり方はせず、恭順を示した領主に早速兵を組織させて、その指揮の下に次の領地の攻撃に参加させた。平戸や藤津領から船戦隊を出させ、有明海を渡海して肥後や天草まで攻め入ることに協力させた。相変わらず釜蓋城は龍造寺の掌中にあって忍の気を揉ませていたが、紀員が元服するまではそのままの方が好都合だとも考えていた。それ程忍の頭は柔軟で、合理的な思考を巡らせることに長けていた。城中に入るのは安定支配が可能になり、しかも紀員の統治能力が備わってからで良い。2歳しか年上でない有馬晴信が、早くに日野江城主を継いで苦労しているのを見ているから、あと5年から10年先の方が好機であると踏んでいた。確かにその考えは当たっていた。
大村の屋形純忠が龍造寺に下ってから、三城城内へは忍も紀員も滅多なことでなければ行けなくなった。龍造寺派の門兵が10人ほど見張っていたし、城内で諸般のことや城下事情について軽口を叩けなくなったからである。それでも落馬事件以来、何かにつけて忍は辰巳の許を訪れた。有馬の屋形から頂戴した扶持米を届けるのは表向きで、紀員の左足の具合を偵察するのが主たる理由だった。
「紀員や、相変わらずやろうね。身の回りに何事かあればすぐに言わんね」
「キリシタンになるごと勧められとるばってん、如何したもんかと迷うとる」
「そりゃ早まる事はつまらんばい。有馬のお屋形の意向で決めた方が良か。出過ぎた真似ばすると、前後不随意となるけんね。晴信様が受洗せんのは何か考えがあってんことやろうけんね」
「うん、晴信様ん真意は薄々分かっとるばい」
と、ここで紀員はその次の言葉をグッと呑みこみ、再び口を開くことはなかった。
イエズス会東方アジア巡察師としてヴァリニャーノ神父が来日する1579年7月25日までは、有馬の領地は龍造寺の専横の下にあった。有馬晴純の築いた版図、即ち凖支配地を含めるとほぼ肥前の半分が手中にあったのが、今や風前の灯だった。何せ晴純の嫡男義貞の代に龍造寺氏の圧迫が始まり、一挙に島原半島南部の高来郡のみに落とし込められ、後継に長男の義純をたてたが程なく病死し、已む無く次男である当時5歳の晴純を領主に据えた。父子二頭政治で何とか取り繕ってはいたが、1577年に義貞も56歳で他界し、10歳の晴信が龍造寺隆信に歯向かうのは全く無茶なこととなっていた。万事休したのである。
不本意にも龍造寺氏に下るしかなかった有馬晴信は、水面下でポルトガルの植民統治者や神父や修道士たちの力を借りて、島原の領地奪還と安堵の方策を練っているところだろうと察せられた。晴信が改宗を躊躇しているのは、キリスト教を嫌っているからではなく、京の足利幕府の相伴衆も継いでいたこともあり、旧臣の中にキリスト教に改宗したから今の体たらくになったと悪口を叩く者がいたからである。医師でもあるアルメイダ修道士に、領民の治療術や南蛮貿易の利益の手解きを受けていたこともあり、何時かは改宗せざるを得ない時期が来るとは考えていた。しかしそれは全てが起死回生の、大逆転の絶好機につなげられる時でなければならないとも深慮遠謀していたからに他ならない。
戦国末期の1569年に城持ち大名の一粒胤として生を享けた千々石ミゲルが、13歳で長崎を発ちローマ教皇に謁見し、8年半の航海の末日本に生還し司祭を目指して尽力したが、10年後にイエズス会を脱会し棄教したのは何故だろうか。裏切者としてキリスト教関係者から鬼の子ミゲルと罵られ、一方では狂暴化し滅殺処分策をとる政治権力者側は売国賊とレッテルを貼って屡々日本刀を振り下ろしてきた。沈黙して隠遁生活を送っていれば双方からの襲撃を受けるいわれはなくなる筈だ。
私の見立ては唯一つである。陰ではキリスト者としての顔を持ち、陽においては昼行燈の武士として四苦八苦していたのだろう。陰陽の使い分けが適わなくなった時、果たして悲惨な最期となったに違いない。その死から4年と10か月後、天草・島原の乱が勃発した。
「天草四郎は千々石ミゲルの子息である」
という情報が、実しやかに事件後に忽ちヨーロッパに拡散する。
「日本という遠い国から4人のカトリックの少年武士がやって来る」
という情報と同じルートを辿って広まったのだろう。
どちらもイエズス会の関係者が発信元と思われる。後者の知らせは、ローマ教皇をはじめカトリックの陣営が新教に対する対抗改革の成功への『夢』が産み出し、前者の噂はその願望が潰えそうに見えた時に『幻』だったのかとの落胆として広範に流布したのかも知れない。これを一概に誤報であると決めつけるのは早計である。その裏にある真実を見逃すことになるからだ。元来生涯独身を通すのがカトリックの修道者であり、イエズス会の頑なな掟である。使節の中で還俗したのはミゲルだけである。彼唯一人が妻帯して男子を4人もうけたが、早世した次男の代わりに益田好次の息子を一時養子としたとか、長崎で通事をしている時の私塾に四郎が弟子入りしたとか色々考えられるからだ。
とにかく一巻末の「夢にまで見たリスボン」に続く巻は、ミゲルら少年遣欧使節のポルトガル、スペイン、イタリア歴訪の1年と8か月の滞在へと続く。これらカトリックを信奉する国々では、遥々地球の裏側の極東からやって来た、キリスト教徒の少年たちを熱狂的に大歓迎したことは歴史上でも特記されている。
彼らが訪欧したのがグーテンベルクの印刷機が急速に普及した時期と重なり、数百種類の出版物が刊行されたが、教会関係者の偏った冊子を省いても確かな史実を語っている。それに付けても帰国後の日本での記述が少なくしかも断片的であることが残念である。ミゲルについては政、宗どちらからも無視されるのはまだ増しで、悪意に満ちていて敵意すら感じさせる。
私の描くミゲルはあくまでも善意に寄り、彼に味方するものである。