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5話目 柵越しの景色

 そして迎えた日曜日、読書にも退屈してきた時村はジャージに着替えて、駐屯地内でランニングしていた。

 陸上自衛官はことあるごとに駆け足と言ってランニングに行く。

 陸自は走ってなんぼゆえに、腕立てや腹筋といった基本的な筋トレに加え、とにかく走るのだ。


 外柵沿いに走っていれば、その先には車が行き交う国道と色とりどりの服を着た民間人が歩道を歩く姿が目に映る。

 自分もあっち側に行きたいと思うけれど、それを阻むように柵の上には有刺鉄線と監視カメラが備え付けられており、侵入者対策のそれは脱走も防止していた。


 もう何周目だろうか忘れつつあるが、この外柵沿いの道を通るたびに街は違う景色を見せる。

 柵の向こうには何もないように、平和な1日を過ごす姿がそこにあって、安心感と寂しさを覚えるのは何度目だろう。


 そんなことを考えながら走れるほど、体力に余裕が出来たのだろう。

 ならばもう一周走ろうかと考えていたら、柵の向こうに覚えのある顔が見えた。


「あれ、秋月さん?」


「時村くん?」


 思わず足を止めてしまう。

 エコバッグを小脇に抱えた美優がちょうど駐屯地前を歩いているとは、一体どう言う風の吹き回しだろう。


「買い物帰り?」


「そう、お店のね。今日は来ないの?」


「行きたいんだけど、待機要員だから出られないのさ。仕方ないからハムスターみたいに駐屯地をぐーるぐる」


 などと冗談を言ってみると、美優はあっさり笑い出してしまう。

 どうにも笑いのツボが浅いのだろうか、中隊でなら"何をアホなことを"と言われるところだから、この反応はなかなか新鮮に感じる。


「もう、なんでそんな言い回しなの?」


「そりゃ、地獄な日常を笑えるようにした方が楽しいだろ?」


「地獄なんだ」


「この柵越えたら懲戒食らうのに、地獄じゃなくてなんだっての」


 肩を竦める時村にとっては冗談で済まない話だが、やはり民間人からすれば誇張した冗談に聞こえるだろう。

 ちなみに柵から一歩下がっているが、踏み出そうものなら不可視の赤外線に引っかかって哨所の警報が鳴る。

 すぐさま警衛隊の車両がすっ飛んできて、余計なことをするなとお叱りを喰らうのは間違いない。


 もちろん、そんなアホをやる気はなかった。


 握手の一つ許されない、不可視の柵が彼女と時村を隔てる。


「隊長さんから怒られて終わり、じゃないんだ」


「それならみんな脱走して遊び歩いてるさ。こんな健康に良いマラソンなんかせずに、ね」


 美優は口元を抑えて笑い出す。

 その顔があまりにも可愛らしく思えて、今度はどうやって笑わせてやろうかと考えてしまっている自分がいた。


「じゃあ、来週末は脱走してきてね」


「表門から堂々と脱走してくるさ」


 立ち去っていく美優の背中が見えなくなるまで、時村は手を振り続けた。

 送っていくよと言って、もっと話しながら歩く未来もあったのかもしれない。


 時村が普通の大学生や社会人であったなら、そういう今があったのかもしれないけれど、そうはならなかった。

 身長より少し高いだけの柵がそれを阻み、見送る事しか許されない。


 自衛官となる決意をしたその日から、それさえも受け入れなければならない身となったのだから。


 他の誰かの幸せを守るために。


 自らの幸せと命を犠牲にしてでも。


「……走ろうか」


 足を進め、慣れた駐屯地のランニングコースを走るだけなのに、どうして脚が進まないのだろうか。

 気分が乗らず、普通ならあと2周は出来るはずだったのに早々と隊舎へ戻ってしまう。


 シャワーを浴びて昼寝と決め込もうか。

 そうすれば気も紛れるだろうから。


 そう思うけれど、どんよりと重い身体を抱えながら階段を上がるのはなかなか厳しいものがある。

 自衛隊の基準か何かで、6階建てに満たない建物にエレベーターは付けないことになっているから、楽する道はない。

 どうせあったところで下っ端は使用禁止とか、使ったら先輩に体力ないのかと詰められたり、碌でもないローカルルールでまともに使わせてもらえないだろうから、あってもなくても同じことだ。


 人手不足だから知り合いに声をかけて自衛隊に勧誘しろ、と上は言うけれどこういうくだらないところをいつまで経っても直そうとしない。

 変えようとしたらしたで「これが伝統だ」とか、「俺が若い頃はそうしていた」とか言ってひっくり返そうとする者がいて、それで嫌気がさして退職する隊員が後を絶たない。


 時村自身も、こんなところやめてやると思う事は多いけれど、次に行く先が思いつかないので自衛隊に腰を落ち着けている。


 ワックスでテカテカに光る床だって、昨日皆坂率いる残留の陸士が午前中3〜4時間を使って掃除してくれたからこそだ。

 週末清掃という、残留隊員や若手陸士が営内の公共場所を毎週末徹底的に大掃除する決まりがある。

 別に規則とかがあるわけではないが、どこでもやっている伝統のようなもので、そういうところで当たり前に犠牲を強いられている。


 おかげで腐った奴は「下が掃除するから」とトイレやシャワーを汚したままにしておく始末だ。

 まともな人はしっかり汚したところは片付けて立ち去るというのに。


 一度週末清掃している時、大便器のタンク裏に大人の玩具(使用済み)が放置されていたのは流石に笑うしかなかった。


 そんな地獄のような環境が当たり前に思うようになってしまっているあたり、やはり自衛隊に染まりきってしまっているのだろう。


「そういや、シャワーの詰まりは直ったんかな」


 シャワー室には4つ個室があるのだが、ひとつだけ排水口が詰まっていた。

 スッポンで必死に処置しても直らず、営内者からカンパを募ってパイプの詰まり取りを買っていたが、それが功を奏しているといいな。


 そう思いながらシャワー室に入ると、問題の個室から使用禁止の張り紙が消えていた。

 皆坂はその重役を果たしたのだろう。後でコーヒーを奢ってやらねば。


「やるじゃんあの変態」


 教育隊にいた時、皆坂は隠し持っていたエロ本が教官に見つかってしまい、廊下でそれを音読させられたことがある。

 しかも中々マニアックなやつだったので、時村は皆坂の顔を見るたびに思い出してしまうから困ったものだ。


 そんな事を思い出して笑いを堪えながら服を棚に放り込み、詰まっていた個室に足を踏み入れる。

 壁や床を必死に磨き、排水口の毛やヌメリさえ徹底的に掃除した皆坂たちの苦労がそこかしこに見えるそこでシャワーから湯を出せば、排水口は詰まることなくそれを吸い込み、下水へと流す。


「おー、問題ないじゃん」


 どこかのアホが変なものを流さない限り、シャワー室はこれで完全復活だ。

 今までは水を流すと詰まるため、掃除を免除されていた個室がまた掃除の対象になるのを憂鬱に思いながら、できるだけ汚さないように気をつけて汗を流す。


 外出の制限に週末清掃、他にも下っ端だからとやらされる雑用は山ほどある。

 ストレスが溜まりがちなこの仕事だからこそ、カフェ巡りのような趣味がないとやっていられないし、他の同期も酒やタバコ、ギャンブルで気を紛らわせようとするわけだ。


 もう少し環境が変わるだけでも続けようという気になるのだが。

 時村はそんな溜息を漏らしながら、来週の外出を心待ちにしていた。

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