4話目 帰りの時間
そんな穏やかで楽しい時間はいつか終わりを迎える。
いつだってそうで、その度に時村は憂鬱に囚われてしまう。
今この時間が終わることを空になったコーヒーカップが告げて、香りも鼻腔に僅かながら残った残滓のみ。
それがなんだか寂しく思えて、お代わりを頼もうかと迷いが生じる。
「そろそろお暇するか、また来よう」
しかし近衛に鶴の一声をかけられてしまい、おかわりの選択肢は消えた。
もう帰らなければならない。それが堪らなく寂しく思えても、まだ帰りたくないと駄々っ子をできるほど子供ではない。
「外出のたびに通いそうですわ」
「俺もそう思ってるさ。マスター、お勘定お願いします。トッキーの分も俺が出してやる」
「ご馳走様です」
マスターは静かに微笑む。
自衛隊ではこうして部下を連れ出した上官や先輩が奢ってくれる事がよくあり、それが下にも受け継がれていく。
「いつの時代も変わらないね」
「そんなもんでしょう」
そうして近衛が支払いをしている間、時村はバイトの娘に目を向けていた。
優しく微笑んでくれる彼女に時村も微笑み返す。
「また来てくださいね」
もう少し話していたかったな、などという内心を読まれたのだろうか。
驚いたように目を見開いた時村だが、すぐに白い歯を見せた。
また来ることなんて決まっているのだから。
「次の外出でまた来るよ」
彼女の胸に白くて小さなネームプレートが見える。
秋月、それがチラリと目に映り、彼女も時村の目線に気付いたのだろう。一度ネームプレートに目をやり、再び時村に目を向けた。
「秋月美優です。ええと、お兄さんは……」
「時村啓一。桜庭駐屯地に囚われの身だけどよろしく」
そんな言い方、と美優は笑う。
自衛官は柵に囲まれた駐屯地へ居住していることもあり、懲役と自虐するのはいつの時代も変わらない。
なんだったら長期休暇は仮釈放とまで言われている。
「ほら行くぞトッキー。閉店まで話しているつもりか?」
「んな厄介客みたいな真似しませんって。それじゃあ、また来ます」
美優が手を振って見送ってくれるのが嬉しくて、思わず時村も手を振る。
扉を潜るのがこれでもかと名残惜しく、あの穏やかで優しい空間にもう少し浸っていたいと思うけれども、それを堪えて扉を抜けた。
――
日用品の買い物を済ませた時村は営内と呼ばれる駐屯地の寮へと帰りつき、居室のベッドに腰掛けて一息ついた。
自衛隊において、基本的に休みはカレンダー通りに与えられるが外出はそうではない。
営内残留という待機要員が必ず指定されており、これにあたると外出ができない。何かあった時の予備要員として使われるからだ。
明日日曜日だけ残留要員に組み込まれている時村は土曜のみ外出を許され、これから当直に外出証を返納しなければならない。
休みであることに変わりはないが、残留要員は清掃やら当直の雑用に使われがちであるので、特にこき使われやすい若手陸士からは敬遠されるものである。
そういえば、そろそろ残留が廃止になるとか上が言っていた気がするが、期待はしないでおこう。
「あれ、トッキー帰ってきたん?」
居室のドアを開けるとともにそんな声をかけて来たのは、時村の同期でありルームメイトの皆坂翔吾。
この303号室は時村と皆坂の他に、先輩陸士3人の5人部屋となっている。
「明日残留だからな」
「ドンマーイ。代わりに俺は明日外出よ」
「久しぶりのシャバを楽しめ」
やはり普段から柵の中で先輩後輩関係なしの共同生活をしている反動だろうか、やはり外出はこの上なく楽しみとする者が殆どだ。
それはそうとしても、代わりに残留となる時村は憂鬱で仕方ない。
「それにしても、なんかいいことあったか?」
「なんだよ急に」
何を言っているんだと皆坂に目を向ければ、彼は不思議そうな表情を浮かべて時村を見ていた。
「なんかニヤケてるぞ。逆ナンパでもされたかってくらい」
「んなラッキーあるかよ。いいカフェ見つけただけだ」
「カフェ巡り好きだよなあ。俺らの先輩方なんて、パチ屋巡りか飲み屋巡りばっかりなのに」
独身自衛官はパチンコや飲みに給料を使う者が多い。
又は女遊びに使っている事もあるのだが、そういう遊びをせずオタク活動をしていたり、スイーツを楽しみに喫茶店巡りを楽しむなど時村くらいのものだろう。
「酒飲めないし、タバコは嫌い、あとギャンブルは沼って身を滅ぼしたくない」
「俺もタバコは吸わないけど、山行ったときに虫よけになるのは強いよな」
煙草の煙には防虫効果があり、野外訓練の時は喫煙者にその煙を掛けてもらうことで虫よけに出来る。
おかげで蚊にモテる時村が無傷で野外訓練から帰還できたことも多い。
しかし金食い虫であるのは確かだ。
いい歳して貯金がないという隊員がいるのもまた事実であり、自分はそうならないようにと身を戒めている。
「まあ、趣味があるのは良いことというだろ?皆坂は外出して何してるんよ」
「俺?そりゃ食い倒れの旅と服屋かなぁ」
「外出もろくすっぽできない下っ端なのに、服だけ揃えてどーすんよ」
「言うなよ」
私物はRVボックスというコンテナを私物庫にひとつ、あとはベッド下に4〜5個分程度格納出来るがやはり量は限られており、服を買うのが趣味な者は仕舞い場所問題に直面することになる。
そもそも普段から迷彩服を着用している営内暮らしの自衛官にとって、私服は外出用に2着程度あれば事足りてしまうのだ。
それ故、皆坂は断捨離に苦労しているのだろう。
せっかく買った服もろくに着る機会がなく、ボックスの肥やしとなっているのが哀愁を感じさせる。
こんな生活をしているから、たまに外出した時に感じてしまうのだろう。
柵の中と外の乖離、まるで世界から切り離されたような寂寥感を。
例えそんな理不尽を抱えながらでも、国防という大義名分のもとに我慢を強いられる。
入隊の日に叫んだ服務の宣誓、あの瞬間から自由を自ら手放したのだから。