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3話目 アルバイト

 誰かランニングでもしているのだろうか。

 そう思いながら入口の方へ目線を向けると、扉が勢いよく開き、あれほど心地よい音色だったベルが喧しく、不規則な音色を響かせる。


 そこに飛び込んできたのは1人の女性。

 20歳に届くだろうか、どこか素朴な可愛らしさを感じさせる彼女は、肩で息をしながらマスターを目で探すと、ごめんなさいと勢いよく頭を下げた。


「遅くなりました!」


「いいよ、この辺りのバスは遅れるでしょ?急いでないから、安全第一とメッセージ送ったじゃないか」


「でも、遅刻したらマスターに悪いですし……あ、いらっしゃいませ!」


 どうやらカウンターの時村に気付いたらしく、慌てるように挨拶をする彼女を見ていると、時村は自然と笑ってしまう。

 あまりにも真面目なのにどこか抜けている、そんな彼女の健気さがそうさせるのだ。


「どうも。お冷はいかが?」


「いただきま……って、どっちが店員かわからないじゃないですか!」


 時村の軽い冗談への反応も早く、近衛は噴き出した。

 もちろん時村も声を出して笑う。

 話していて楽しい、初対面のこのやり取りだけでもそういう印象が交換となって時村の胸に刻まれる。


「ツッコミも上手と来た、こりゃ通い決定かな」


「トッキー連れてくるのやめるわ。俺の腹筋が持たねえ」


「もう、揶揄わないでください!マスター、着替えてきます!」


「じゃあ、一緒にケーキ2人前も持って来て」


 遅刻していたことを思い出したのか、バイトの娘は足早にカウンター裏へと駆けこんでいく。

 この近くには大学もあるし、そこの学生が休日にアルバイトでもしているのだろうか。


「やれやれ、お騒がせしました」


「いえいえ。中隊にいたら、きっといじられ陸士を申し送ってましたよ」


「おいトッキー、お前をいじられ陸士から下番なんてさせねえぞ?」


 げえ、などという声が漏れる。

 中隊で先輩同期問わずイジられがちな時村はあわよくばその役目を誰かに交代しようとしているが、その試みは今のところうまくいっていない。

 時村のリアクションを上回る人間がいない、それが最大の理由である。


「いじられ役はいつの時代もいるものだね。随分可愛がられてるようで」


「みんな好き放題転がすものですから、そろそろ過労死してしまいますよ」


 しかしながら、中隊の方々に可愛がってもらっているのも事実故に嫌な気はしない。

 用法容量を守って正しくいじる分には、楽しくリアクションを返すのだから。


「それじゃあ、まずはオリジナルブレンドで一服どうぞ」


 マスターがカウンター越しにコーヒーを差し出す。

 湯気の立つコーヒーカップからは鼻腔をくすぐるコーヒーの良い香りがふわりと広がり、慣れてきたはずの鼻に香りを思い出させる。

 一呼吸、胸いっぱいに香りを吸い込むだけでも、既に満たされて気分になれる。

 そんな魔法の一杯によって、既に心を洗われていた。


「おお、こりゃ匂いからもう最高じゃねえか」


「ですね。それじゃあまずはブラックで」


 一口、火傷に気をつけながら啜った途端、苦味が襲って来た。

 しかし一瞬の苦味を超えれば、その先にある旨味が舌を支配する。

 香りと共にやってくる苦味と旨味の輪廻に、時村はすっかりと心を奪われていた。


「……美味い」


「本当だ。こりゃ通い決定だぞ」


「ケーキはまだなのに、お早いですね」


 確かにケーキはまだだが、この一杯のために通いたくなる。

 週末の楽しみが増えた、時村はそう感じながらもう一口コーヒーを啜って穏やかな気分に浸っていると、軽い足音が響いて聞こえた。


 両手に皿を持ってやって来た、バイトの娘は白のワイシャツに茶色のエプロンを纏っていた。

 セミロングの黒髪と、どこか幼さを残すかわいらしい風貌と落ち着いた服装はよく似合っていて、時村の目を奪う。 


「お待たせしました。本日のケーキです」


 出されたケーキはチョコレートケーキ。

 スポンジはアプリコットジャムとチョコレートガナッシュの層でコーティングされ、表面にはココアパウダーが雪のように振りかけられている。


 チョコレートケーキの中でも、ザッハトルテと呼ばれるそれはお菓子好きの時村を魅了する。


「マジか、ザッハトルテじゃん」


「お好きなんですか?」


「チョコケーキは大好物、ザッハトルテはさらに好きだよ」


 すると、バイトの娘はクスリと笑ってみせる。

 どこか柔らかく、純粋ささえ感じさせる笑みは、時村の目をケーキから奪い取るには魅力的すぎたかもしれない。


「お兄さん、見た目はちょっと厳ついのに甘党なんですね」


「意外?」


「どっちかというと、表通りのラーメン屋の方が似合いそうな……」


「勘弁してくれ、人生辛口なんだから甘いものが食べたいんだ」


「ちょ、歳そんなに変わらないでしょ?達観したみたいに……」


 鉄板の返しなのだが、どうやら効いたらしい。

 自分でもおっさん臭いとは思うけれど、だからこそギャップが笑いを誘うのだと信じている。


「20歳なりたて、されど目には既に隈でございます」


「やっぱり同い年じゃないですか、それなのになんで」


 本格的に笑い出してしまった。

 このまま畳み掛けるか、程々にしておくべきか迷ったけれど、近衛は目でゴーサインを出している。

 なるほど、好感触だからもっとウケを取れと。


「そりゃあ、野山で3日ほど不味いレーションを喰らい、泥水みたいなコーヒーを啜って穴掘りしてればそうなるよ」


 それに比べたら、ここのコーヒーは神の飲み物だと言おうものなら、マスターがほのかに笑みを浮かべた。

 バイトの娘はもう撃沈しているけれど。


「やっぱり自衛隊さんかぁ、芸人さんかと思った」


「確かにトッキーは芸人というかエンターテイナーではあるな。宴会で引っ張りだこの」


「近衛さん、それはどっちかというとサンドバッグでしょ。ヘッドロックされてデコをドラムにされてるのはエンターテイメントじゃねえっす」


 もはや笑いは最高潮。

 民間人からすれば、やはり自衛隊は異世界同然だから話も新鮮であろう。


「ウケたようで何より」


「もう、初対面でこんなに笑わされるとは思わなかった……」


「面白い方がいいでしょ?」


「それはそうだけど……」


「ここまで笑ってもらえると、俺も自虐ネタかました甲斐があるよ」


「そんな事してないで、早くケーキを食べて。先輩に食べられるよ?」


 そりゃ怖いとフォークに手を伸ばしつつ、チラリと近衛に目を向ける。

 近衛は近衛でマスターと談笑していたらしいが、チラリと目を背けるあたり本当にケーキを狙っていたのかもしれない。


「マジで狙われてたみたいだわ。それじゃいただきます」


 ガナッシュを割り、スポンジを切る。

 待ち望んだケーキを口へ運べば、仄かな苦味を帯びたスポンジと甘みを放つアプリコットジャムが舌を魅力する。

 苦味があるからこそ感じる甘味を堪能し、口に残った甘味はコーヒーと合う。


 砂糖なんか入れずとも、ケーキの後味がその代わりを務めてくれる。

 嗚呼、これが幸せの味か。

 人間らしい暮らしとは、こうして感じられるものか。


「こりゃ通うわ、最高」


「トッキーもそう思うか?俺も同意見だね」


「それならこれからもご贔屓に。自衛隊割はないけれど」


 微笑むマスターに割引なしを宣告されても、このカフェに通うことはもう決まった。

 コーヒーとケーキは美味しく、話も楽しい。

 同期先輩のようにパチンコを打ちに行くよりも、ここに足繁く通う方が楽しく思うことだろう。


 今、この時間が終わってしまうことも名残惜しく思っている。

 取り止めもない雑談や、笑いの絶えない話、久しぶりに民間人と話すのが、楽しくて仕方なかった。

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