1話目 平和の裏側
20歳とは人生で1つの節目といえよう。
盛大に祝われた若者たちの多くは大学で学業に勤しむか、何かしら手に職を付けて忙しくも充実した毎日を送っていると思う。
間違っても迷彩服を着て、腕ほどに長い小銃を構えながら突っ走ったりしていないはずだ。
少なくとも、数年前に夢見ていた20歳とは絶対に違う。
「前方200に敵散兵!」
草っ原の向こう、200メートル先のちょっとした丘に人がいる。
迷彩服を着ているからよく目を凝らさないとわからないが、ヘルメットを包む赤い覆いはその人物が敵であることを示しており、時村啓一は迷うことなく小銃を向けた。
「よく見つけたトッキー!砲迫要請するから撃ちまくれ!」
ちょっとはしゃぎ気味に指示を出すのは、時村の上官である近衛徹。
彼は銃の代わりに無線機で砲撃支援要請を始めるのだが、その要請はまるで暗号か、魔法の詠唱のように難解で早口である。
「りょーかーい!ばばばばーん!」
引き金を引いた時村の銃から弾が出ることはなく、虚しく落ちた撃鉄がかちん、と金属音を立てるにとどまる。
代わりに時村の口が銃声を発し、側から見ればサバゲーか、子供の戦争ごっこだろう。
しかしこれは歴とした訓練であり、陸上自衛官である時村は目下戦闘訓練の真っ最中である。
丘の敵役は同じ自衛官だから実弾を撃ち込むわけがないし、かといって空砲を使おうとすれば、近隣への掲示や弾薬交付手続きに薬莢の返納等々手続きが大変すぎる。
そういう時はこうして口鉄砲で撃っているぞ、と示す他ない。
「はい、敵撃破」
後ろからついてきている教官が敵の死亡を告げる。
本当ならば近衛が要請した砲撃があの丘に降り注いで、敵はミンチよりも酷いことになっているはずだ。
しかし桜庭駐屯地の訓練場に砲弾の轟音が響くことはなく、小鳥の美しい鳴き声が響き渡る。
「目標撃破!」
「よーし!小隊長こちらデメキン、前方の敵散兵撃破、前進再開する」
デメキン、は近衛のコードネームだ。
いつかの演習中、彼のさらに上官が何やら怒っていたのだがその時「お前もうコードネームデメキンにしろ!」と怒鳴られたところにノータイムで「はい、デメキンにします」と返した結果、このコードネームになった。
確かに目が大きいがそんなのありかと思った次の瞬間、そう返すのかと顎が外れそうになったのはいい思い出である。
「状況終了!」
教官から訓練終了を表す状況終了の号令がかかり、やっと気を抜けた時村は天を仰いでため息をつく。
前衛として進行する味方より先行、状況の把握や敵がいた場合に梅雨払いをする前衛分隊訓練は気を抜くことができない。
いつの訓練も気は抜けないが、前衛は数百メートル先に隠れた敵を見つけ出したり、その規模を把握してこのまま戦うか後続を待つか、あるいは退くか判断しなければならないので観察眼と判断力が求められる。
ポジションを持ち回りで訓練して、どこのポジションを任されても務められるようにしている訳だが、やはり最先頭の難易度は桁違いだ。
「トッキー、よくアレ気付いたな」
「自分ならあそこで待ち伏せるよなー、って思ってましたからね」
200メートル先、さらに頭だけ赤いとはいえ迷彩服を着た人間を見つけ出すのはかなり難しい。
特に、動かないやつなんて本当にわからない。
「おー、優秀隊員!」
「あざっす、賞詞代わりにコーヒー頂けると」
「わりーな、嫁さんの誕生日に向けて貯金中だ」
近衛は部隊1の愛妻家であり、彼にお土産を渡す時は彼自身の好みより奥さんの好みに合いそうなものを渡した方が喜ぶほどだ。
だから、この断りも社交辞令ではなく本気だろう。
「この前も結婚記念日に向けて貯金してましたね」
「嫁さんもおやつ我慢してプレゼント買ってくれてな」
「賢者の贈り物ってやつじゃないですか、このおしどり夫婦め」
こういう誠実な人間が分隊長でよかった、と時村は心から思う。
陸上自衛隊の普通科、つまり歩兵の編成において分隊は10人程度の部隊であり、それが3〜4個で小隊、さらに小隊を4〜5個で中隊、中隊を4〜5個で連隊となる。
近衛は時村が所属する第54普通科連隊第3中隊第2小隊の2分隊長を務めており、時村にとって直属の上官というポジションにあたる。
勤続歴は10年を超え、階級も諸外国で言うと軍曹に当たる2等陸曹。
勤続2年目で陸士長、下から3番目で上等兵に当たるくらいの階級である時村とは階級どころか経験にも大きく差がある。
それでも気さくに接して気を配り、どんなに過酷な状況でも笑顔と剽軽さを失わない体力と気力を持ち合わせ、叱る時も声を荒げず諭す理想の上官である。
昇任試験の面接で「尊敬する上官は誰か」と聞かれたら真っ先に名前が上がる彼の技術と人間性に、時村は陰ながら憧れていた。
「トッキーもさっさと彼女作れよ。やっぱりいると違うぞ」
「この柵に囚われてるのに、どうやってです?」
ああ、と近衛は苦笑いをして見せる。
自衛官の義務のひとつに「指定場所に居住する義務」というものがあり、幹部や配偶者を持つ者以外は駐屯地に居住することとなる。
もちろん、他に駐屯地外で暮らす資格を得る条件はあるのだが、基本的にこの2パターン以外は寮暮らしとなり、外出にも制限が加わるので異性との出会いはそう簡単に訪れない。
「大怪我して入院すればナースと……ってのはお勧めしないな」
「それ、最悪自衛官でいられなくなるやつじゃないですかー」
「外出した時にナンパでもしたらどうだ?」
「1中隊の同期がナンパ100人切りチャレンジして、危うくポリスメンにお持ち帰りされかけてますぜ」
「アホなやつもいたもんだ」
同室の先輩はしょっちゅう風俗店で女遊びをしているし、街中で美人を見つければ全員が目線を向ける。
それ程までに飢えた野獣が多い自衛隊ではあるが、悲しいかな出会いは少ない。
時村もその弊害をもろに受けている1人と言えよう。
「合コンは?」
「保険のおばちゃんに人数合わせで斡旋されたんすけど、俺含め同期3人が20歳に対し、相手の平均35歳オーバーっすよ?冷やかし以外の何でもなかったっす」
「流石にそりゃ釣り合わんわな」
手詰まりじゃねえか、と近衛は肩を竦める。
そんな雑談をしているうちに集合場所が見えてきて、時村の後続部隊として動いていた小隊員が勢ぞろいしている。
「俺ら、遅かったですかね?」
「どうせタバコ吸いたくて早く戻って来ただけだろ、気にすんな」
「婚期が遅いのは気にするかも」
「遅いならマシだろ、逃したら絶望だからな」
「痛いところを」
どうせ俺は末代ですよ、などと冗談を言いながら小隊と合流した時村ではあるが、内心では彼女が欲しいとどれほど思ったことだろうか。
大学に行った同級生のSNSを見れば、みんな彼女を作ったとかキャンパスライフを楽しんでいるといった投稿をしている。
その頃自分はどうだろうか。守秘義務や職務に専念する義務で縛られているせいで、迷彩服を着て格好をつけた写真を投稿するどころか撮る事さえできない。
2年目を迎えて若干緩くはなったけれど、週末外出許可を取ることにさえ苦労している始末で、異性との出会いは若干諦めつつある。
誰かの幸せを守るため、自分の幸せを犠牲にするのが務めだと自分に言い聞かせて納得しようとはしているけれど、それだけの自己犠牲を誰も褒めてはくれないんだ。
反対集会を開くような連中しか、熱心に声を掛けに来る奴はいないから。
そういう存在である方がみんな幸せで平和に暮らしている証なんだと、無理矢理にその理不尽を飲み込んで生きている。
神様、この哀れな自衛官に少しくらいご褒美をください。
流石にこれは切ないにもほどがあります。
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