黄金の週間と、黄金の精神
日本国では、皐月の頭にある祝日の連続した期間を指して、黄金週間という呼称の大型連休を実現する、という習慣がある。週間だけに。……いや、そんなことはよくて。
実際には四月の末あたりも休みを連結して、更に強化することが可能だったし、今年に関しては、四月末が土日だったこともあって、十一日の連休を実現する人もいたとか、いないとか。取れる休みは取れば良いのである。傭兵はそうも言ってられんだろうが。
……ところで、四月って別名なんでしたっけ。時期的には弥生とか睦月が近そうな感じはしますが、如何せん普段は意識していないので、ちゃんと覚えていません。折角なので、十二ヶ月分をうろ覚えで書き出してみましょうか。
・睦月
・如月…… きさらぎと言えばネットの都市伝説ありますよね、駅のやつ。鬼だっけ?
・弥生
・睦月…… 一月のそれとどっちかを混同してる。
・皐月…… は、某ジブリ映画の関係で忘れないですね。メイちゃあん。
・睦月…… むっつ、つってるからワンチャン(ない)
・夏(諦め)
・夏(そもそも暑いだけの季節に情緒なんぞあるか(暴言))
・文月
・文月…… 文芸つったら秋のどっちかやろという発想。どっちかというと十月のイメージ。
・長月
・師走
……言うて常識やぞ? なんでこんな壊滅的なんだよ。それでも字書きか?
ええ、わかっております。私は、あんま興味のないことを完全に憶えていられない。私にとってのこういった系統の情報は、特に現代においては「何となく覚えておき、必要に応じて調べ直すもの」なのでございます。
普段からそんな感じで生きているので、記憶力は実のところ然程ではありません。ただ、なんとなく把握していることが多いのです。それを頼りに、適宜必要なことに辿り着ける状況では、困ることはありません。
……即ち、まさに今、こういう場面では恥をかく可能性が高いと言える。もちろん、ネット小説などというものは――というよりも執筆活動の大半は――即時性な知識量が必ずしも必要なものではなく、むしろ知っていようと、最終的にはちゃんと資料を調べながらやるのが妥当なのである。私は随筆のときは原則その辺を遡り訂正しない、という縛りでやっておるだけで。
学生の時分などは、試験で点を取れるかどうかにも直結する事ではあるが、アレは逆に要点押さえて短期記憶に差し込むだけで比較的なんとでもなるので、ガチで興味ないこと(主に社会科系)以外は、特に苦労はせんかったな。まぁ、そんなこともどうでもよくて。
そういう意味では、「予め知っている」という微妙に無根拠な自信よりも、「これ本当に理解と把握合ってたっけ?」という不安の方が、本質的な正しさには近い精神性と言える。だが、人間というのは非常に不合理な生物であるので、そんなことは重々承知の上で、あるいはそんなことには思いも至らず、あらゆる事を無根拠に断言できるような、反省の足らん人間の方が「信用できる」のだ、という評価をしがちである。自信満々に間違ったことを言っているようなものでも。
アレ、マジでどうなんすかね。まぁいいか、どうでも。
精神性というワードが出てきたことで、これが今回の主題だと思いましたか。黄金の精神とは…… どういうのでしたっけ。荒木飛呂彦先生によると、黄金の精神というのは「吐き気を催す邪悪」の対義にあたる概念である(※)ので、所謂高潔な人間性とかそういうものなような気はします。こういうのはてきとうをほざいてはいけない(※)ので、ちゃんと調べましょうか。
――「正義」の輝きの中にあるという『黄金の精神』
(ジョジョの奇妙な冒険第四部の最終話、ジョセフ・ジョースターの台詞らしい)
とのことなので、まぁ正義の中でも特筆に値する概念であるようです。たぶん。
自分なりにこれを再解釈するなら、つまるところここでいう『黄金の精神』というものは、口語的に言うところの「ほんとうの正義」というもので、より具体的に言うならば、例えば
・困っている人には手を差し伸べましょう
・理不尽な暴虐をふるうものを打ち倒しましょう
・誇り高く生き、使命に殉じましょう
とか、そういう感じのものであると思われる。ただ「正しいと思うことを為す」というだけでは足りず、それがただの自己満足にならないように、他者に対する慈しみなどを意識しながら、それでも強い覚悟や意志をもって、巨悪にも立ち向かう……。素晴らしいものですね。
だというのに、昨今では…… というよりも恐らくは、有史以来ずっとそんな感じなのだとは思うが、現に行われるのは
・自分とお友達にとって好ましくないものはぶん殴りましょう
・正義の為なら有象無象など知ったことではありません
・殴りやすいものから殴り、権威には媚びへつらいましょう
である。流石に「吐き気を催す邪悪」とまでは言わんにせよ、卑小にして卑怯、卑劣と言える。無論、それが「唯一できる抵抗」であるというのはそうなのだろうし、それを否定するつもりはないが、少なくとも創作における、主人公としての振る舞いには相応しくない。どちらかというと悪役的ですらある。
だからこそ、そういう英雄的な創作というものは、世において好まれるものである。日常のカスみてえな些事と悪意、怠惰と不条理の話など、現実だけで十分だ。せめて創作の中ではそういうのから解き放たれたい、あるいは似たような状況を華麗に打破してくれる誰かが居てほしい。あると思います。
それも、あまりにも遠く「こいつら一体何と戦ってるんだ?」みたいな明後日の話ではなく、共感可能な世界の、それでも現実とは違う展開というものが好まれる。そういう意味では、我々のような現実に存在するものと「より近い」のは、創作の主人公よりも、むしろ果たされるべき悪の方である。
主人公は、掲げる理念に対し、現実的には難しい選択を以て悪を討ち果たすことが良しとされるが、これは現実ではあまり行われることではない。一方で、果たされるべき悪というものは、それが我々にとって悪であると認識可能である(価値観の外ではない)という点で、どちらかというと現実に属する概念である。
それが現実に起きることか、というのは創作の性質にもよるが(会社や学校での嫌がらせはともかく、世界を滅ぼすぜよ、みたいなのは通常起きない)、なんにせよ現実に起きうる「起きてほしくない要らんこと」の理念を被せ、これに反抗するのである。超えられる困難は、大きいほど良い。簡単に超えられるなら、尚更。そもそも頑張るのは居もしない他人だ、どれだけ傷付こうとも我々には関係ないよ。
……といった感じに、課題を解決してくれる誰かを待望し、それを応援ではなく傍観する、というのが我々の性向と言える。他力本願、というやつ。
それが現実で、しかしながら、それでは何も解決しないので、もし本当に解決を要する課題があるのなら、基本的には自分自身で取り組まないと、変わるものも変わらんのである。別に、だからといって何かをしなければいけない、というわけでもない。望みを諦めるのだって、立派な選択かもしれないし。
少なくとも、「これなら結果を出せそうだ」という短絡的な発想で、利益のないことをするのに比べれば、何もしないのは、原則として相対的にはマシだと言える。
それでも、何かが誰かのためになるのだと思って、真に他者のために何かを為そうとできるのなら。私はそれが上手くいくように祈りましょう。祈るだけでは何の価値にもならないのだとしても、私がそれを金輪際、邪魔をしたいとは思わないで済むように。
意志によって為される全ての善行が、果たして結果となりますように。
意志によって為される全ての悪行が、果たして徒花となりますように。
【試験結果発表】旧暦「和風月名」について
○睦月
○如月
○弥生
✕卯月(睦月)
○皐月
✕水無月(睦月)
✕文月(夏)
✕葉月(夏)
✕長月(文月)
✕神無月(文月)
✕霜月(長月)
○師走
結果:12問中5問正解
総評:クソ間抜け せめて半分取れ ちゃんと覚え直せゴミカス
(すみませんでした)
※「吐き気を催す邪悪」の対義:本人がそう公言していたかは知らん
※「こういうのは」てきとうをほざいてはいけない:別に普段の話はてきとうをほざいてもいいということではない