推理小説にハマった男
毎日変わらない日々を送っている。それはまるで、何の感動も驚きもない単調な人生であるかのように思われるかもしれないが、そうではない。
確かに私は、何の変哲もなく繰り返される毎日に満足してはいない。しかしだからといって、何か新しいことを始める勇気はないのだ。今のままで十分ではないか。これ以上を望むのは欲張りというものだろう。こんな考えをいつも抱いている。そしてその日もまた、そんな一日で終わるはずだった。ところが、その夜に限って、私は普段と違う行動をした。
夕食の後片付けを終え、自室に戻った時のことである。机の上に置きっ放しになっていた一冊の本に目が止まった。何気なく手に取り、ぱらぱらとページを繰ってみたのだが、すぐに飽きて元に戻した。だが、その瞬間、再び私の中の別の部分が刺激された。今度は好奇心であった。
いったいこの本は何なのか? 私は再びそれを手に取った。最初の数ページを読んだだけで分かった。これは推理小説だ。しかも、いわゆる本格物に違いない。少なくとも私には、そうとしか思えなかった。推理小説とはどういうものか――。それを説明しようとすれば、まず、このジャンルの成立から語らなければならない。
探偵小説の歴史は意外に古い。エドガー・アラン・ポーが一八二九年に発表した短編が初めてとされている。このポーの作品は、当時主流だった自然主義小説とは全く異質の作品であり、当時の文壇に強い衝撃を与えた。ポーの小説を評して、当時の文学者たちは一様にこう言ったものだ。
――怪奇! 悪魔のような恐怖感がある。
――これでは文学ではない。
その言葉は、今なお文学界で大きな影響力を持っているようだ。つまりポーの作品に見られたような作風を本格物と呼ぶようになったのである。ちなみに、江戸川乱歩もこのジャンルの作家として知られている。
それから約百年、推理小説の人気は依然として衰えることなく続いている。しかし、人気といっても様々あるわけで、推理小説は一口に言っても、その形態は実に様々である。推理小説の醍醐味の一つにトリックがあるわけだが、トリックという観点から見れば、いわゆる本格物には必ずその仕掛けが用意されている。
しかし、本格物はトリックを中心に展開されるわけではない。ストーリーそのものの面白さが中心になることが多いのだ。本格物の推理小説を読むということは、一つの物語を読み終えるということだとも言える。
本格物の代表的な作品として、日本では黒岩涙香のホームズものが有名である。他にも、金田一耕助が登場するシリーズや、山村美紗などの作品が挙げられよう。海外に目を向ければ、アガサ・クリスティが有名だし、最近では、横溝正史の作品も評価が高い。本格物は日本でも人気が高いのだが、その中でも特に有名なのがコナン・ドイルによるシャーロック・ホームズ物である。
このように様々なスタイルで展開されている推理小説であるが、私が手にしているこの本は、どう見ても推理小説だとしか考えられない代物なのだ。これを単なる偶然と思うほど、私はお人好しではなかった。
――読んでみようか……。
私は迷った末にそう決心すると、早速読み始めた。
この物語は、主人公の少年が殺人現場に出くわしたことから始まっている。殺された被害者は、少年の母親の親友だったという。主人公は何とか事件の真相を突き止めようとする。その結果、意外な事実が次々と判明する。少年の父親にも愛人がおり、殺人事件はその女の仕業だということが分かる。やがて事件は解決するが、主人公はまだ納得がいかず、犯人捜しを続けることになる。
話の展開は極めて明快であり、登場人物も多くはない。読み始めて間もなく、私はすっかりこの作品に引き込まれてしまった。
私は夢中になってページを捲り続けた。時計を見ると、まだ十時前である。普段なら寝ている時間だ。しかし、今日に限って眠くならない。私は机に向かって座ると、更に続きを読み進めた。
最後のページまで来て、私は少し拍子抜けした。何ともあっさりとした結末だと思ったからだ。もう少し引っ張ってくれるかと思っていたのだが……。仕方がない。これがこの小説の限界なのだろう。私は半ば失望しながら、本を閉じた。その時だった。
――あれ? 何か違和感を覚えた。もう一度初めから読もうと思い、本を開いた瞬間のことだった。先程とは違う感覚に襲われたのだ。これはいったいどういうことなのか……? その答えはすぐに分かった。文章が変わっているのである。たった今まで普通に読めていたはずのものが、全く違ったものに見えてきた。まるで別の言語を読んでいるかのような錯覚に陥った。だが、それは決して不快なものではなかった。
むしろ心地良いくらいである。文字の流れの中に身を委ねるような感じと言えばいいだろうか。そんな不思議な気分に浸っているうちに、いつの間にか時間が過ぎていったらしい。気がつくと朝になっていた。結局ほとんど眠ることなく夜を明かしたわけだが、不思議と疲れてはいない。それどころか妙に頭が冴え渡っていた。
――これはいったいどういうことなのか? 疑問を抱きながらも、私には心当たりがあった。
――そういえば、この本には、作者のあとがきのようなものがなかったっけ。
そこで、巻末にある作者紹介欄を見てみた。そこには確かに、この本の著者として、著者名だけが書かれていた。
――やっぱりそうだ。
この作家の名は、高遠遥一といった。
――タカトオハルイチ……。聞いたことのない名前だが、ひょっとしたら新人かもしれない。
推理小説好きの友人にでも訊いてみれば分かるだろうが、そこまでする必要はあるまい。
――それにしても、この人の作品は面白い。
私は改めて思った。きっと推理小説の書き手としては、かなりの実力を持った人に違いない。
私の考えは、この時点で既に決まっていたと言ってもいい。この日以来、私は高遠遥一の作品を読み漁るようになった。
彼の書いた小説の数は、それこそ数こそ少なかったが、どれも素晴らしかった。中でも私が一番気に入っているのは、表題作の長編作品である。その完成度の高さは、まさに圧倒的というほかない。ストーリーそのものに文句があるわけではないのだが、やはり、この作品の魅力は、ストーリー展開に仕掛けられた巧みな構成と、巧妙に張り巡らされた伏線にあると言える。
そしてまた、彼の書くミステリーは、必ずしも本格物ばかりではなかった。短編の中にも優れた作品がいくつもある。それらは、推理小説にさほど興味のない読者をも引き込む力を持っているようだ。中には、思わず首を傾げたくなるようなものもあるが、それがかえって新鮮に感じられるのである。推理小説の裾野の広さを感じさせられる作品が多いのだ。
こうして、私が彼の作品を読むたびに新たな発見があり、それを自分の中で整理してまとめ上げていく過程で、いつしか推理小説というものの考え方や楽しみ方が分かってきたような気がする。それは、決して間違ってはいなかったと思う。
――さて、今度はどんなものを書いてくれるのか。
私は今から次回作が待ちどおしかった。しかし、なかなか新作が発表されることはなかった。そのせいで、ますます彼に対する期待が膨らんでいくのである。
それから、半年が過ぎた頃のことである。
彼は突然亡くなった。
――まさか! 信じられなかった。
私はしばらくの間、呆然としたまま動けずにいた。
しばらくして、ようやく我に帰ると、私は急いで書店へ走った。そして、彼が生前に出版した作品を、片端から買い集めた。その中に、私が愛読している作品のいくつかが含まれていたからである。
その後、私は仕事が手につかなくなった。どうしても、彼のことを思い出さずにはいられなかったからだ。
――この世に推理小説ほど素晴らしいものがあるだろうか? 推理小説を読みながら、そう思っていた時期があった。……今も少し思っているが。
推理小説とは、ある意味で人生と似ていると思う。物語の主人公は常に何らかの問題を抱えているものだし、事件や謎に遭遇する機会も多い。登場人物たちは、それぞれに自分の抱えた問題に対して悩み苦しみながらも、解決に向けて努力していく。その過程を通じて、人は成長するのである。推理小説に限らず、人生のあらゆる場面で、同じことが言えるのではないだろうか。
そして、もう一つ。
――推理小説の醍醐味は何といっても、謎解きの部分にある。
推理小説の最大の見せ場である。そこにこそ、この作品の面白さがあるのだと私は思う。
――しかし、それだけだろうか? 私は最近になって、こう考えるようになっていた。
もちろん、それも一つの大きな魅力であることに変わりはない。だが、それと同じくらい大切なものが他にもあるはずだ。
たとえば、登場人物の心理描写。犯人と探偵との頭脳戦。トリックの妙。それらは全て、小説の基本的な構成要素であり、推理小説の本質である。しかしながら、これらだけでは十分とは言えないのではないか。
――推理小説の最も魅力的な部分は、事件の真相を見抜いた時の達成感だ。
――それこそが、推理小説の真髄である。
だが、これは少し大袈裟かもしれないが、私はそう信じている。
もし、殺人事件が起こった時、その現場に出くわした主人公が犯人を見事見つけ出し、警察に通報し、事件を解決できたとしたら、果たして主人公は満足できるだろうか? おそらく、ほとんどの人が無理だと思うだろう。それでは何故なのか? 理由は簡単である。真犯人を見つけ出すまでの過程で、主人公自身が葛藤や苦労を経験してきたからなのだ。その経験を経て、ようやく真実を知ることができたのである。だからこそ、主人公は嬉しさと同時に達成感を味わうことができるのだ。
そして、私が最も大切にしたいと思っているのは、そういう部分なのである。
――推理小説は、人間を成長させる媒体でもある。
――そう信じるのである。
小説というものが単なる娯楽としてだけでなく、様々な効果を持っているということは、これまでに述べてきた通りだが、推理小説には、それに勝るとも劣らないほどの効果がある。
――それは、人を感動させ得るという点である。
――推理小説を読んで涙を流す人がいる。
――推理小説を読むことで、生きる希望を見出す人もいる。
――推理小説を読み終えた時に感じる爽快感は、とても言葉に表せるものではない。
――推理小説を読むことによって、世界が変わる。
――推理小説を読んだ人間は、必ず何かしらの影響を残すのである。
――そして、それらの物語は、他のどんな本よりも美しいのである。
私は今、こうして、高遠遥一という一人の作家を通して、改めて小説の持つ力を思い知らされていた。そして、それを実感することができたのは、やはり彼の存在があったればこそだと思う。
「本当にありがとう」
私は、そっと呟いた。
こうして私の手元に、彼の遺してくれたたくさんの作品がある限り、これからも読み続けようと思う。そしていつか、彼の作品を、自分でも書いてみたいという気持ちになっていた。