歴史改変小説における満洲の資源的問題に関する一考察
「日本がもし満洲の油田を発見していたら」。
このIFは、架空戦記小説や歴史改変小説において日本の国力を史実以上にするために使われるテーマの一つであろう。
戦後、確かに中国東北部では大慶油田、遼河油田、扶余油田群が発見され、山東省では勝利油田が見つかっている。
しかし一方で、そこに資源があることと、その資源を利用出来ることとの間には隔たりが存在するのもまた事実である。
「満蒙は日本の生命線」と言われた満洲は、本当に日本の国力を支えうるだけの資源を持っていたのだろうか?
私が満洲の資源の価値について疑問を覚えたのは、満鉄の史料を見ていた中で三井物産から満鉄に対して撫順産の石炭の質が悪いというクレームに関する文書を発見したからである。
これは、昭和初期の史料であった。
1930(昭和5)年における内地の石炭生産量は、約3137万トン(註1)。
これに対して、1929(昭和4)年度における撫順炭田の生産量は約729万トンである(註2)。
(註1)矢野恒太記念会編集『数字で見る日本の100年 改訂第6版』(矢野恒太記念会、2013年)142頁。
(註2)鉱山懇話会編『日本鉱業発達史』中巻(鉱山懇話会、1932年。原書房から1993年に復刻)575頁。
日本が満洲に権益を持っていた撫順、煙台、本渓湖の三鉱山を合計すると、この年の石炭生産量は約910万トンになる。
満洲の三鉱山だけで、内地の石炭生産量の三分の一弱に匹敵する生産量を誇っていたのである。
しかし一方で、戦前期日本の石炭生産量は1930(昭和5)年時点では世界の生産量のわずか2.7パーセントでしかなかった。アメリカは42.4パーセント、イギリスが21.5パーセントである(註3)。
日本の数値に植民地の石炭生産量が含まれているのかは不明であるが、少なくとも英米との石炭生産量の差は、その後も埋まることはなかった。
なお、国内の生産量と海外からの輸入量が逆転して、石炭の輸入量が国内生産量を上回るようになるのは、戦後の1969(昭和44)年である。
(註3)森本忠夫『貧国強兵』(光人社、2002年)27頁。
では、撫順産の石炭の質はどうだったのだろうか?
1909(明治42)年の史料になってしまうが、満鉄の発行した『撫順炭坑』には、「其色漆黒色ニシテ光沢強ク其質堅硬ニシテ揮発分ニ富ミ燃焼熾盛ニシテ七千五百カロリーノ火力ヲ有スル有煙炭ナリ(中略)燃焼力熾盛ナルカ為メニ汽罐ノ焚料トシテ日本産一等炭ニ比肩スヘク特ニ鉄道機関車又ハ船舶用ニ適ス」(註4)とある。
(註4)南満州鉄道株式会社撫順炭坑『撫順炭坑』(1909年。ゆまに書房から2003年に復刻)72~73頁。
硫黄の含有率も少なかったようで、当時内地最大の生産量を誇っていた筑豊炭田の質よりは良好だったようである。
ただ、『撫順炭坑』では撫順炭の発熱量を7500カロリーとしているが、『日本鉱業発達史』の撫順の各炭坑の数値を見ると、概ね6700から7100カロリーほどで、明治末期よりもその発熱量の数値は減少している(註5)。
(註5)前掲『日本鉱業発達史』中巻、583~584頁。
日本海海戦などで有名なウェールズのカーディフ炭は発熱量8000カロリーであり、製鉄のために必要なコークスとしても適していた。
そこから考えると、撫順炭は確かに海外産の石炭に劣っていた。
なお、撫順炭の主な輸出先はマレー、シンガポール、香港、上海であった(註6)。
(註6)南満州鉄道株式会社『南満洲鉄道株式会社二十年略史』(1927年)208頁。
石炭は単純な燃料として使用される他、製鉄用のコークスとして加工される。
そして、コークスに適した石炭とは粘結性が高く、揮発分が少ないものとされる(註7)。
(註7)独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構石炭開発部「石炭の分類について」(2020年)。
『撫順炭坑』に記されている揮発性の高い有煙炭という文言からも、撫順炭がコークスの原料としては不適切であることが窺える。
なお、撫順炭の揮発分は概ね30パーセント代後半であった。
実際、日本はコークスの原料として適した石炭を海外からの輸入に頼っていた。日本では無煙炭、粘結炭が手に入らなかったからである。(註8)。
そして、コークス用石炭の主な入手先は華北であった(註9)。
(註8)J・B・コーヘン(大内兵衛訳)『戦時戦後の日本経済』上巻(岩波書店、1950年)238頁。
(註9)アメリカ合衆国戦略爆撃調査団(正木千冬訳)『日本戦争経済の崩壊』(日本評論社、1950年)59頁。
さらに問題であったのは、撫順炭田に隣接する鞍山鉄山である。
鞍山製鉄所、後の昭和製鋼所は1919(大正8)年に操業を開始した。ただ、操業当初の鞍山製鉄所は「満鉄の癌」、「満鉄のお荷物」とまで言われるほど採算の取れない事業であった。
ようやく黒字に転換したのが、第10代満鉄社長(時代によって「総裁」か「社長」かに呼称が変化)となった山本条太郎時代の1928(昭和3)年である。
この原因の一つに、鞍山鉄山がいわゆる貧鉱であったことが挙げられる。
鞍山鉄山の鉱床は埋蔵量が豊富である反面、鉄含有率が40パーセント以下と低かったのである(註10)。
(註10)鞍山製鉄所『鞍山製鉄所事業概要』(1930年。ゆまに書房から2002年に復刻)3頁。
このため、生産コストが嵩んでしまったのだ。
この問題を解決したのが、後に鞍山製鉄所の技師長となる梅根常三郎の開発した「還元焙焼法」と呼ばれる独自の貧鉱処理方法であった。
これにより、1928年の銑鉄生産量は22万トンとなった(註11)。
(註11)解学詩(松野周治訳)「鞍山製鉄所の変遷(2)」(『立命館経済学』第38巻第1号、1989年)。
そして、1937(昭和12)年の数値だが、鉄鉱石の海外依存度は52.3パーセント、銑鉄の海外依存度は9.8パーセントである(註12)。
やはり、資源を海外からの輸入に頼る割合は大きい。
(註12)前掲『貧国強兵』39頁。
八幡製鉄所などに鉄鉱石を供給していた中国湖北省の大冶鉄鉱の鉄含有率については調査が及んでいないが、大井篤『海上護衛戦』に興味深い記述がある。
「鉄鉱石は揚子江流域と海南島から一番多く持ってきていた」(註13)というのである。
(註13)大井篤『海上護衛戦』(学習研究社、2002年)243頁。
大井氏は同書においてさらに、敵機や敵潜水艦の妨害のために質の悪い朝鮮産に置き換えざるを得なくなったと続けている。
朝鮮産にだけ言及して満洲産に言及していない理由はよく判らないが、いずれにせよ満洲・朝鮮産の鉄鉱石の質が悪いという認識が当局者の間にあったことは確かであろう。
そして、一番肝心の石油である。
満洲には、大慶油田、遼河油田、扶余油田群の三つの油田地帯が存在する。これに山東省の勝利油田を加えた四つが、少なくとも1930年代から太平洋戦争終結の1945(昭和20)年までの日本の中国支配領域に存在していた油田である。
満洲の油田を日本があと一歩のところで発見出来なかったという歴史に対する悔恨は、筆者の中にも確かにある。実際、そういう論調で書かれたインターネット上の記事なども散見する。
しかし、油田を発見出来ることと、その油田を利用出来ることとの間には大きな隔たりがあることもまた事実であろう。
日本による満洲周辺での油田調査については、岩瀬晃『日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか』(文藝春秋、2016)にまとめられているので、ここでは詳しく述べない。
問題となるのは、満洲の石油の質と日本の技術力である。
公益財団法人石油学会のサイトによれば、世界の原油は硫黄の含有率によって三つのグループに分けられるという(註14)。
一つ目は、硫黄分の多いAグループ。
このグループに属するのは、中近東、エジプト、カスピ海沿岸、メキシコの原油である。
二つ目は、中間のBグループ。
これに属するのは、ベネズエラ、リビアの原油。
三つ目は、硫黄分の非常に少ないCグループである。
こちらは、その他アフリカ、東アジア、ロシア、アメリカ、ヨーロッパの油田が該当する。
(註14)「公益財団法人石油学会」(https://www.sekiyu-gakkai.or.jp/jp/index.html)
また、ENEOS石油便覧というサイトでは、大慶油田はパラフィン基原油であり潤滑油、パラフィンワックスの生産に適した油田であるという記述がある(註15)。
(註15)「ENEOS石油便覧」(https://www.eneos.co.jp/binran/index.html)
一方、同サイトによれば高オクタン価ガソリンに適しているのはベネズエラ、ボルネオ、台湾の油田、良質灯油、重油として適しているのが中東の油田であるという。
そして、日本商品先物振興協会のサイトによれば、硫黄分が少なく生産コストの安い油田として、アメリカ、インドネシアの油田が挙げられている(註16)。
(註16)「日本商品先物振興協会」(https://www.jcfia.gr.jp/)
もちろん、太平洋戦争当時に現在の資料を当てはめて考えるわけにはいかないし、アメリカの油田に関する情報が不十分ではあるのだが、少なくとも満洲の油田がアメリカから輸入していた石油の代替となり得たかは甚だ疑問である。
続いて、技術力の問題でいうと、これは石油の質よりも深刻な問題であろう。
これは前掲の『日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか』、あるいは中嶋猪久生『石油と日本』(新潮社、2015年)などでも、戦前期日本の調査、開発の技術力の不足を指摘している。
仮に何らかの要因で運良く満洲の油田を発見出来たとしても、それを日本独自の技術で製油所を操業させるに至るまでには、相当な困難が予想されるだろう。
この辺りの問題に関しては、実際に石油関連会社の社史などを見てその技術発展を追っていく必要があるだろうが、当時、世界の石油産業を席巻していたアメリカ、イギリス(あるいはオランダ)に対抗出来るだけの石油産業を満鉄、あるいは満洲国に打ち立てることは、ほとんど夢物語であるような気さえしてくるのだ。
当時、防共協定や同盟を結んでいたドイツからの技術移転という可能性も考えられなくはないが、史実を見ればその効果は限定的と考えざるを得ないだろう。
私の作品でもそうだが、歴史改変小説、架空戦記小説では「資源のある場所を確保する」方面にばかり描写が偏ってしまい、そこの資源の質がどうであるのか、あるいは利用出来るだけの技術力があるのかという点について十分に考察・描写出来ていないように思える。
あえてそうした複雑性を捨象して、物語としての面白さ、痛快さを追及するというのも一つの手法ではあろう。
物語としてそのあたりのバランスをどう取りながら仕上げていくのか、この問題は小説を書く者としてなかなか解決が難しいものだとつくづく感じてしまう。
今回、満洲の資源の質について疑問を抱いたので、手元にある資料、あるいは国立国会図書館デジタルコレクションなど、簡単に閲覧出来る資料を元にちょっとした考察をさせて頂きました。
本当は『海軍燃料史』や『燃料局石油行政に関する座談会』などの資料にも当たりたかったのですが、そこまでは手が回りませんでした。
満鉄のオイルシェール事業に関しても、一切言及出来なかった点が悔やまれます。
とはいえ、やはり調べれば調べるほど、満洲の資源的価値については疑問符が浮かびます。
歴史改変小説の中には、日露戦争後の満洲経営にアメリカを参加させていれば太平洋戦争は起こらなかったという趣旨のものもありますが、アメリカもこのような満洲の資源状況で採算の取れる事業を起こせるのか、甚だ疑問に感じてしまいます。
仮に桂・ハリマン協定が小村寿太郎の反対に遭わずに実現出来たとして、南満洲鉄道は結局、長春までしか行けないわけです。
そこから先の中東鉄道南部支線の軌間は広軌(満鉄もロシアから獲得した当初は広軌でしたが)で、鉄道の接続は物理的に不可能です。
この中東鉄道への乗り入れというのが、満鉄獲得後の日本の目標となります。
アメリカが満鉄の経営に参画したとしても、結局は同じことを目指そうとするはずです。そうでなければ、満鉄は使い勝手の悪い路線ですから。
経営的な観点で見ますと、満洲の貨物輸送がウラジオストックに行くか、大連に行くかで満鉄と中東鉄道は競合関係にあったといえます。
しかし史実では、日露協約によって満洲の南北で勢力圏が決められたため、日本とロシア帝国が安定している内は、満鉄と中東鉄道の競合は政治的に阻止されていたといえるでしょう。
ここで、もし仮に日米共同経営満鉄という存在が出現すれば、それは日米対ロシア帝国の満洲での勢力圏争いという新たな火種を産んだ可能性もあります。
特に当時の日本は日英同盟を結び、日露協約を結んでいましたから、もし満鉄の日米共同経営ということになれば英米露の狭間で日本外交は難しい舵取りを迫られることになるでしょう。
結局、史実と変らない満洲を巡る複雑な国際環境に放り込まれる結果となりかねません。
また、アメリカは当時すでに中国の門戸開放を謳っていましたから、ロシア帝国と南北で勢力圏を分割することにどの程度、日米露の三ヶ国の間に妥協が成立したかは検討の余地が残ります。
そうした問題が仮にすべて克服出来たとしても、やはり満洲の資源の問題に行き着きます。
結局、上手く満洲経営にアメリカ資本を引き入れることが出来たとしても、採算が取れずに最終的には撤退という可能性も考えられます。
歴史改変小説的には、アメリカとの満洲共同経営よりも、ロシア革命の阻止とロシア帝国の存続の方がまだ満洲経営は安定化しそうな気がします。
そうして、日英露三国同盟とドイツ第三帝国、白人至上主義アメリカ合衆国との第二次世界大戦などという世界観での歴史改変小説も面白そうだと思う次第です。
結局、日本が満洲に拘ったのは、そこが自分たちが血を流して手に入れた土地だという認識が強くあったからで、そもそもポーツマス条約で満鉄を確保する段階で、採算の取れない事業となる可能性がすでに当時の人間たちによって指摘されています。
満洲の資源的価値については、もう少し深く考察する余地があるように感じました。
主要参考文献
書籍・論文など
麻田雅文『中東鉄道経営史』(名古屋大学出版会、2012年)
荒川健一『戦時経済体制の構想と展開』(岩波書店、2011年)
岩瀬晃『日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか』(文藝春秋、2016)
岩間敏『アジア・太平洋戦争と石油』(吉川弘文館、2018年)
大井篤『海上護衛戦』(学習研究社、2002年)
解学詩(松野周治訳)「鞍山製鉄所の変遷(2)」(『立命館経済学』第38巻第1号、1989年)
種稲秀司『近代日本外交と「死活的利益」』(芙蓉書房、2014年)
中嶋猪久生『石油と日本』(新潮社、2015年)
三輪宗弘『太平洋戦争と石油』(日本経済評論社、2004年)
森本忠夫『貧国強兵』(光人社、2002年)
矢野恒太記念会編集『数字で見る日本の100年 改訂第6版』(矢野恒太記念会、2013年)
J・B・コーヘン(大内兵衛訳)『戦時戦後の日本経済』上巻(岩波書店、1950年)
アメリカ合衆国戦略爆撃調査団(正木千冬訳)『日本戦争経済の崩壊』(日本評論社、1950年)
社史など
鞍山製鉄所『鞍山製鉄所事業概要』(1930年。ゆまに書房から2002年に復刻)
鉱山懇話会編『日本鉱業発達史』中巻(鉱山懇話会、1932年。原書房から1993年に復刻)
南満州鉄道株式会社『南満洲鉄道株式会社二十年略史』(1927年)
南満州鉄道株式会社撫順炭坑『撫順炭坑』(1909年。ゆまに書房から2003年に復刻)