“悪役”令嬢は御指名前に舞台を降りる
気付きたく無かった。
長い間、恋をしていた人の。
“私”ではなく“道具”を見るような
“私”ではなく“権力”を愛している
野心に燃えた、仄暗い瞳などに。
◇◆◇◆
フローチェは七歳の頃に、初恋をした。
灰色の髪に、穏やかな琥珀色の瞳。
頭をなでてくれる大きな手と、優しげな笑み。
名前を呼ぶ柔らかな声────。
急激に激しくなる鼓動とともに、頬が熱くなるのが分かった。
目の前にピンクローズが広がって、神々しい煌めきが世界を覆う。
これが“恋”なのだと、幼いながらフローチェは理解した。
『わたくし、ブレフトおじさまとけっこんする!!』
私にも言ってくれたことないのにと父が衝撃を受ける中、フローチェは初めての恋にキャッキャウフフと笑っていた。
周りの大人達は温かい目でそれを見ている。
所詮は七つの子供の戯言で、成長すればただの思い出になるだろうと。
────だが、フローチェは周囲が予想するより遥かに叔父にベタ惚れだったのだ。
◇◆◇◆
「まあっ!叔父様がいらっしゃいましたわ!」
「お嬢様、お待ちください!まだ支度が出来ていませんわ!」
「今、お屋敷のドアを開けられましたわ!」
「お嬢様、お止めください!鼻をクンクンさせないでください!」
頬を染めて部屋から突撃していこうとする令嬢と、それを必死で止める侍女の図。
繰り広げられているのは、ヘーレネン王国でも二大公爵と名高いハーンストラ家の屋敷である。
「というかお嬢様、何故お分かりになるのですか!ここから玄関までどれほど距離があるとお思いです!?」
「愛があれば遠距離なんて関係ないと言うでしょう!?」
「それはちょっと意味が違います!」
ぎぎぎぎぎ、と暫く揉み合ったものの侍女のミリアが辛勝し、なんとか鏡台の前に座らせることに成功した。
「四十秒で支度してちょうだい!」
「分かりましたからじっとしててくださいっ!」
二大公爵家の娘の侍女になるほどの腕前だ。
ミリアは先程の揉み合いで乱れたフローチェの髪や、他の不充分な箇所をものの数十秒で美しく整える。
叔父のブレヒトが訪れる度に行われる一連の争いも、着実に彼女を強くした。
「出来ましたわ、お嬢さ……」
「ありがとうミリア!!」
食い気味に言い、今度こそフローチェは部屋を飛び出した。
ドレスを着た女の足のは思えない速さで廊下を歩き、来賓室へと向かう。
その頬は緩みきり、キツめの紫の瞳はとろんと蕩けていた。
(ああ……ブレフト叔父様!このお会いできなかった一ヶ月間は、本当に寂しかったですわ……!)
初恋から早十年。
誰が予想しただろうか。七歳の幼女の『結婚するぅ』がその後十年続くなどと。
フローチェは今でもブレフトに対して絶賛初恋中なのだ。
軽い足取りで、屋敷を進む。その風圧で壁にかかっていた名画がガタガタと揺れ、花瓶は無残なことになった。
(ああっ、ああっ、お会いしたかったですわ────)
「ブレフト叔父様!!」
バーン!と、式場に花嫁を奪いに来た男よろしく勢いよく開け放たれたドアに、しかし誰も驚かない。
「フローチェ……毎回毎回十秒ずつ到着記録を更新するのは止めないか」
「それはミリアの腕の上達の記録ですわお父様。私は叔父様がお屋敷に到着された時点で気がついておりますもの」
呆れた視線を向けるに父に胸を張るフローチェ。
ますます肩を落とす父・ハーンストラ公爵に対し、その人はフローチェが黄色い声を上げるに十分な微笑みを浮かべた。
「やあ、久しぶりだね……フローチェ。元気だったかい?」
「叔父様ぁぁぁ。寂しかったですわぁぁぁ」
真っ赤に染まった頬に両手を当て、フローチェはブレフトの周りを飼い主を慕う犬のように回る。
ブレフトは慣れた様子で「いつものフローチェだね」と笑った。
「今日は、明後日に開かれる王子の誕生日パーティーの話で来たんだ」
「王子の……誕生日パーティー……」
途端、フローチェの顔が曇る。
ヘーレネン王国の王子殿下のアダムとは、幼い頃からことある事に顔を合わせていた。
そして、その理由も知っている。
「ほら、そんな顔をするなフローチェ。お前は王子殿下の妃候補筆頭なんだ」
「だ・か・ら・嫌なのですわ!」
肉食獣のように瞳をぎらつかせ、フローチェはそっぽを向く。
「私は叔父様と結婚するのです……」
「フローチェ……」
ハーンストラ公爵は情けない声を出す。なんだかんだ言っても娘には甘く、例えそれが娘が王子と結婚するという、父親としてこの上ないような名誉なことでも、強く言えないでいた。
「…………」
一方、ブレフトは煮えきらない様子でフローチェの頭を撫でる。この男に妻子でもいればフローチェも諦めがつくのだろうが、ブレフトは現在三十七歳独身。
上流貴族では近新婚も珍しくはないので、結婚出来なくはない、というのが微妙なところだ。
「……この話はあとだ。ともかく今は、王子の誕生パーティーの準備をしなさい、フローチェ」
「……はい」
フローチェとて、我儘を言っていることはわかっている。
これ以上駄々をこねるのはやめにして、父親の言葉に大人しく頷いた。
「……ああ、そうだ、フローチェ」
言いにくそうに、ブレフトは口を開く。
フローチェの頭を撫でていた手は、決まり悪く頬を掻いていた。
「何ですの?叔父様」
「パーティー会場までのエスコートなんだが……」
それはブレフトがしてくれることになっている。
全く気分が乗らない誕生日パーティーの、唯一のオアシスのようなものだ。
「実は、私は用事ができて、他の人に頼むことになったんだ」
「えぇぇええ!!」
悲痛な叫びがフローチェの口から漏れる。
(そんな……。どうっっでもいい誕生日パーティーのただ一つの楽しみが……。もう本当に救いのないパーティーじゃありませんの……)
仮にも自国の王子の誕生日パーティーなのだが、フローチェは大変失礼なことを考えながら項垂れる。
ちなみにヘーレネン王国の王子殿下は、『ヘタレ』だ。いつもおどおどしていて自信も余裕も威厳もない。
容姿は整ってはいるが地味。どうしようもなく影が薄い。
プラチナブロンドの髪に紫の瞳の、冷たい美しさをもつフローチェと並ぶと、その華のなさは顕著だった。
「……それで?エスコートは、誰が……」
「ああ、それはフィーレンス公爵の御子息にお願いしてある」
「あ、ヴィレムですか……そうですか」
ハーンストラ家と肩を並べるもう一つの二大公爵家、フィーレンス公爵家には、フローチェより二つ年上の息子がいる。
名前はヴィレム・フィーレンス。
漆黒の髪に青の瞳、いつも澄まし顔の美男子である。フローチェとは幼馴染みで、冷静な突っ込みをくれるいい友人と言えよう。
去年までは同じ貴族の学校に通っており、仲は良好。別段嫌な相手ではないが、ブレストと一緒に行きたい気持ちは変わらない。
(でも……叔父様も多忙ですもの。仕方ないですわ……)
フローチェはなんとか笑顔を作り、努めて明るく言った。
「分かりましたわ!いつもお疲れさまです叔父様。今回のご用事も、頑張ってくださいませ!」
────思えば、これが。『大好きな叔父様』との、最後の会話だった。
◇◆◇◆
会場へ向かう馬車の中。
フローチェはむくれた顔で流れていく窓の外の景色を見ていた。
「……フローチェ。会場に着く前にその顔はどうにかしろよ」
「分かっていますわ。ハーンストラ公爵家の名を落とす気は無くってよ」
「……今日もブレフト殿が来られたとき奇行に出たと聞いたが。それは公爵令嬢としてどうなんだ?」
「なっ!奇行だなんて……!」
ただ、部屋で侍女と取っ組み合いをして、全力疾走のような速さで廊下を歩いて、大声を上げながらブレフトの周りをくるくると回っただけではないか。
フローチェが文句を言うと、ヴィレムは盛大にため息をつく。
「それのどこが『奇行』ではないのか、俺には理解出来ないんだが」
「あら、見解の相違ですわね」
つん、とフローチェは顔を逸らす。
ヴィレムが言っていることはいつも正しいが、今は小言など聞きたくはなかった。
「全く……お前はいつまで夢を見ているんだ」
「夢、ってなんですの?」
「ブレフト殿との結婚だ。王子殿下の妃候補なんだろう、お前は」
「……それがなんですの」
聞きたくない、とフローチェは思った。
聞きたくない。だって。
「貴族の結婚に愛はいらない。利益があるかだ。お前も分かっているだろう」
ヴィレムの言葉は、いつだって正しいから。
目を逸らしたいものも、分かっていても分かりたくないものも、真っ向から突きつけるから。
「っ、貴方には、分からないでしょうね……!!」
思わず、涙目でヴィレムを睨みつけた。
分かっているのだ。そんなことは。
分かっても、どうしようもなく愛しいのだ。
「貴方みたいに、どんなに綺麗なご令嬢に言い寄られてもなんとも思わないような、恋を知らない男には!」
ヴィレムの深い青の瞳が見開かれた。
言ってしまった後で、フローチェは我に返る。
「……ごめんなさい。ひどい、八つ当たりだわ」
罪悪感から顔があげられず、ヴィレムがどんな表情をしているか分からない。
いや、見なくとも分かる。きっと、いつもの冷めた目でこちらを見ているのだ。
「ごめんなさい、ヴィレム。今言ったことは、忘れて」
馬車が止まる。どうやら会場に着いたようだ。
二人は無言で馬車を降り、無言のまま、別れた。
(最低だわ、私。何をやっているの……)
自己嫌悪に陥りそうになり慌てて、ぱん!と両の頬を叩いた。
「っ、これじゃいけませんわ。反省会はあと!もうパーティーは始まっているのですわ!」
じんじんと頬は痛んだが、気合は入った。
落ち込むのは屋敷に戻ってから。これ以上自分の感情に左右されてはならない。
フローチェはハーンストラ公爵令嬢。
社交の場で完璧以外など、求められていないのだ。
いっそ凄みのある笑を貼り付け、フローチェは前を向いた。
数時間後。パーティーもピークを過ぎたところで、フローチェはそっと会場を抜け出した。
(ちょっと踊りすぎで目が回ったわ……。外の空気が吸いたい)
王子殿下の妃候補筆頭だということは既に知れ渡っている。そのため異性に言い寄られはしないが、その代わり今のうちに親しくなっておこうという輩が集まる集まる。
「……ヴィレムも、今回もむかつくくらいの人気ぶりだったわね……」
眉目秀麗、文武両道。そんな言葉を体現するヴィレムは、毎度のごとく令嬢たちから囲まれている。
愛想笑いをするわけでもなく、ただ無表情で最低限の返事をするだけの彼だが、令嬢たちは幸せそうだった。
「まあ、恋をしているなら、近くにいるだけで幸せよね。私も、叔父様が……」
思わず呟き、慌ててあたりを見回す。
誰にも聞かれていなかっただろうか。
フローチェは王子の妃候補筆頭。まだ婚約が決まった訳では無いとはいえ、ほかの男性への恋心など知られない方がいいに決まっている。
注意深く見渡していると、遠くの茂みの向こうに、なにやら人影が二つあった。
(あ、あら?もしかして逢瀬……とか。邪魔になる前に退散しようかしら……)
そう思ったが、どうやらどちらも男のようだ。
(あんなところで何を?落し物かしら……)
そっと近づいて様子を見てみると、その片方が、ある人物に酷似していることに気がつく。
あれは……。
(叔父様……!?用事があったのでは……。いいえ、会場までのエスコートができないと仰っただけで、パーティーに参加出来ないとは言われてませんわね)
だが、それなら人声かけてくれてもいいのだが。
フローチェはパーティーでもかなり目立っていたほうだろう。見つけるのは容易なはずだ。
訝しんで、気配を殺しさらに近づく。
「────……。────……」
かすかに声が聞こえる。いけないと思いつつも、フローチェはつい、聞き耳をたててしまった。
ぼそぼそと喋っているのは、ブレフトだ。もう一人の男は難しそうな顔をしている。
「……そして、私があの女を陛下の前で断罪する。国を悪女から救った英雄として、私の地位は確かなものになるだろう」
「だが、そんなに上手くいくのか?」
「大丈夫さ。あの馬鹿な女……フローチェは、私に完全に惚れている。まあ、そう仕向けたんだが」
(────え?)
心臓が、音を立てて凍り付いた。
叔父の口が動く度に、その言葉は聞こえてくる。
なのに、それは酷くちぐはぐで、別の人物の言葉に唇の動きを合わせているかのようだった。
今、喋っているのは誰だろう。
あの灰色の髪の男は、一体誰だ。
「ともかく、私のいうことなら何でも聞く。このままあの阿保王子とくっつけて、誑かさせることなんて簡単さ。あいつは馬鹿だが見目だけはいいからな。完全に私のものにするために、何回か抱いておく必要があるが、それも楽しめそうだ」
男は、下卑た顔で舌なめずりした。
(────嘘、嘘、嘘。あれは、一体、誰?)
ブレフトの姿をした、別のモノなのではないか。
そう思えるほどに、ブレフトの瞳は不気味で、優しさなど微塵もなく。
ただ己のことのみを考える、醜い男の目だった。
霧が晴れたように、ブレフトの姿が顕になっていく。
記憶を漁るほど、今まで気付かなかった叔父の目に宿る暗い炎に気がついてしまう。
フローチェは悟る。
今までの優しさも、微笑みも、全部。
偽物、だったのだ。
二人が去った後も、フローチェはそこに立ち続けていた。
涙は流れない。
ただ、己の中の美化されたブレフトが、本来の姿に塗り変わっていくのを感じていた。
「……フローチェ……」
突然、名前を呼ばれる。
顔を上げると、見目麗しい男の顔。
「ヴィレム……?」
ヴィレムはゆっくりと近づいてくる。その表情を見て、フローチェはヴィレムも全てを聞いていたことを知る。
暖かな手が、躊躇うように肩に触れた。
「フローチェ……その、なんだ……」
いつもはっきり物を言う理知的な声が、珍しく言葉を探している。
「大丈夫……か……?」
やがて選び出された言葉に、フローチェはふるふると首を振る。ヴィレムはどうしていいか分からず、目を泳がせた。
「大丈夫なわけ……ありませんわ……」
「っ、そうだよなすまない、なんというか……」
だがしかし。言い淀むヴィレムの言葉に、
「……っるしませんわ、ぁの男……」
ドスの効いたうめき声が被さる。
「う、うん?」
戸惑うヴィレムを他所に、フローチェはがばりと顔を上げ、拳を握りしめた。
「ぁあんの男、乙女心をなんだと思っていますの!?絶対に許しませんわぁ……っ!!」
地獄の底から響くような声に、ヴィレムは頬をひきつらせた。
「あ、ああ……そうだな……」
「ぁぁあああぁもう腹が立つ腹が立つ腹が立つぅ!!何が馬鹿な女よ何が私の言うことなら何でも聞くよ!!そんなに世の中上手くいくと思わないことね!!」
フローチェは夜空を、月を視線で射殺そうというかのように見上げ、高らかに宣言する。
「誰が、貴方の用意した断罪の舞台になど立つものですか!!貴方が私を御指名される前に、さっさと降りさせて貰いますわっ!!」
呆気に取られるヴィレムをキッと音を出して振り返り、フローチェはびしりと指を指した。
「ヴィレム、貴方も聞いていらしたわね?」
「ああ……そうだが」
「なら、手伝ってくれますわよね?」
「な、何をだ?」
「あの叔父を社会的に抹殺して地に這いつくばさせることに決まっているでしょう!?」
会場まで響きそうなフローチェの声に驚き、庭で料理のおこぼれを期待していた猫が避難を始める。
「わ、分かった。協力するから、落ち着けフローチェ」
「言いましたわね!?やるからには徹底的にやりますわよっ。今日からさっそく作戦会議ですわ!壁の花になってじっくり考えてくださいませ!」
ヴィレムを置き去りにしたまま、ドレスの裾を翻し、フローチェは雄々しく大股で会場に戻っていった(会場に入った途端、しずしずと歩き出したが)。
「……なんだか大変なことになったな……」
ぽつりと呟いたヴィレムの言葉には、いつの間にやら帰っていていた猫があくびを返すのみだ。
◇◆◇◆
それからというもの。
ヴィレムは毎日のようにハーンストラ邸に通い、もとい、強制呼び出しをくらっていた。
ヴィレムを呼び出しているのは勿論フローチェである。
「まだ、計画に気がついたことは悟られたくありませんわ。自分が完全に優位だと思わせておいて叩き落とす方が愉快だもの……」
「叩き落とすって」
「とにかく!何かありませんの?あの男を有頂天にさせてから地獄に落とす方法」
無垢な少女のように首を傾げ、フローチェはにっこりと笑う。
白百合の咲いたような笑顔のはずなのだが、ヴィレムには黒い霧が吹き出しているように見えて仕方がなかった。
「まあ……それで言うと、ブレフト殿の傀儡になったふりをしつつ悪事の証拠を集め、いざ断罪されるときにそれを暴露する、とかか?」
「……やはりそれがいいですわよね」
「だが、失敗すればそのまま罪人扱いだぞ?危険すぎる」
非難の色を見せたヴィレムに、フローチェはいいえと強い口調で言った。
紫の瞳に苛烈な光が宿る。
「私が失敗?有り得ませんわ。私を誰だと思っているの?二大公爵家ハーンストラ家令嬢、フローチェですわよ。三流出世欲男になど、全てにおいて劣るはずがありませんわ」
その三流出世欲男につい最近まで夢中だったのはどこの誰だ、という言葉をヴィレムはすんでのところで飲み込む。
「それに」
じっと見つめられ、ヴィレムは目を瞬かせる。
「どうした?」
「それに、貴方もいるじゃありませんの。なら、大丈夫ですわ」
けろりとした顔でフローチェは言い切った。
面食らうヴィレムの前で腕を組み、さも当然のように言う。
「ヴィレムがいればいつだって大丈夫でしたわ。昔、私が森で迷子になった時も、避暑地で水遊びをしていて溺れかけたときも、大切なハーンストラ家の品をなくしてしまった時も」
釣り上がっていた瞳の目尻がやや下がる。
紅を引いていないのに綺麗な桃色をした唇が、緩やかに弧を描いた。
花が綻ぶようなそれは、『ハーンストラ公爵令嬢』は決して見せない、『フローチェ』だけのもの。
「頼りにしていますわ、ヴィレム」
ヴィレムは、一瞬の沈黙の後、
「────ああ」
と、いつもの如く抑揚のあまりない声と、澄ました顔で答えるのだった。
◇◆◇◆
数日後、あまり間隔を空けずに、フローチェはブレフトと再開することになった。
「……王子が、ですか?」
思わず驚きを隠せず問い返してしまったのは、叔父の話があまりに唐突だったからだ。
なんでまた。
王子と二人で会え、などと。
「王子はもともとフローチェのことが気に入っていたんだよ」
以前ならば身悶えするような叔父の笑みも、今ではやや不快だ。叔父は王宮勤めの高級官僚。どうせ貴方がなにかしたのでしょうと、言ってしまいたくなる。
それをぐっとこらえ、フローチェは困ったような顔を作った。
「で、ですがそれでは……」
節目の挨拶ならばともかく、何も無いのに二人で会うというのはなんだか。
「……ああ。まだ確実なことは決まっていないが……フローチェ。君は王子と婚約することになりそうだよ」
「っ!」
弾かれたように叔父を見るが、そうだと我に返る。
何も急な話ではない。前々から言われてきたこと。特にショックを受けるようなことではない。それに。
(……私はもう、こんな男どうでもいいはずでしょう?直接叔父から告げられたからって、そんな)
傷つく、なんてことは、あるはずがないのだ。
そうですか。と無機質な声で返事をする。そっと顔を伏せた。
にこにこと笑う叔父の顔など見たくなかった。優しげな瞳の奥に宿る、暗い炎を見たくなかった。
────婚約おめでとうと、それだけはまだ叔父の声では聞きたくなくて。
フローチェは昨晩から気分が優れないのと、静かに退室の許可を求めた。
部屋に戻る。
すぐに侍女のミリアが心配そうにこちらを見た。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「ええ、平気よ……。ミリア、お茶を貰える?」
力なく笑う主に、侍女は完璧な礼を返し、足音を立てずに部屋を後にした。
フローチェが、広い部屋に一人残る。
なにか大きなものが、失われてしまった。
あの日、叔父の本性を知った時のような、怒りと悲しみがぐちゃぐちゃになったような、激しい感情はない。
ただ静かに、心に空いた穴が見える。
叔父に褒めてもらいたくて必死に淑女の振る舞いを身につけて、叔父に綺麗だと言って欲しくて必死に自分を磨き上げた。
(────ああ、私は)
何をするにも、叔父のことを考えていた。
それがなくなってしまった今、何の為に、何をすればいいのか分からない。
(逃げていたのね。気づかないうちに)
叔父のためにとばかり考えて生きてきた人生は、なるほど楽だった。視野を狭めて一点だけ見て、浮かれて。
王子との婚約?漕ぎ着けるまでに、父は何をしてくれたのだろう。自分は何をしていただろう。
(ハーンストラ公爵令嬢失格ね……)
愚かで、どこまでも無様だ。
嘲笑を漏らしたフローチェの部屋のドアが、控えめにノックされる。
「お待たせしました、お嬢様」
ミリアだ。流石、仕事が早い。
ありがとうと言いかけたフローチェは、しまったと顔を歪めた。
風邪の時には決まって出される、ハーンストラ家特製のハーブティーを思い出したからだ。よく聞くが、信じられないほど不味い。
(具合が悪いなんて言ったから、確実にそれよね……。ああ、しくじったわ)
だが、今の自分には気付けにちょうどいいかもしれない。
あんな男に夢中になって、長年公爵令嬢あるまじき行動をとってきたのだから。
再び自虐したフローチェの鼻腔に届いたのは、特製ハーブティーの不味さを主張するかのような強烈なそれではなく、普段とは違うが、落ち着くいい香りだった。
「ハーブティーですよ。ですが、カモミールティーです。気分が落ち着くかと思いまして」
「……ミリア?」
紫の目を侍女に向ければ、ミリアは苦笑した。
「私が何年お嬢様にお仕えしているとお思いですか?そもそも私は貴女の侍女となるべくこのお屋敷に来たのです。三歳のフローチェ様が私の主だと、五つの時に言われて以来、私は貴女を見てきました」
二つしか変わらない少女の微笑みが、ひどく大人びて見える。
「体調が優れないなんて嘘です。それしきのことでお嬢様がブレフト様から離れるわけがありません。何か……あったんですね?」
フローチェは違うともそうだとも言えず、ただ、泣きそうに顔をクシャクシャにした。
「ミリアぁ……」
「私が言えるのは、私はなにがあろうとお嬢様の味方ですという、今更な言葉だけです。当然のことしか言えなくて申し訳ありません」
「そんな……。だって、私はっ、ずっと……。いい、公爵令嬢じゃ、無かったわ……。立派な主じゃ、なかったもの……」
すんと鼻をすすり、フローチェは消え入りそうな声で言う。
ブレフト中心に世界が回っていたフローチェは、最低限はこなしてきたが、もっと出来た部分、やった方が良かった部分は山ほどある。
貴族の令嬢としては及第点でも、“二大公爵家ハーンストラ公爵令嬢”で言えば、きっと足りない。
しかし、ミリアは強い口調でフローチェの言葉を否定した。
「いいえ。私はお嬢様に仕えている事を心から誇りに思います。お嬢様以上の方なんておりませんわ。お嬢様は素晴らしい方です」
ミリアは強めた目の光をふっと緩め、
「長年支えてきた私からの見解を言うのするならば……私と同じ気持ちの方は、親族の方や使用人を除いても、いらっしゃいます。お嬢様を認め、大切に思ってくださる方が」
慈しむような瞳で、こっそりと囁いた。
◇◆◇◆
アダム王子との婚約の件は、その日ハーンストラ公爵の口からも伝えられた。
「……まだ、決まったことではありませんのね?」
「ああ。だが……」
決まっていないが、決まったも同然なのだろう。
フローチェはゆっくりと頷いた。
「……分かっていますわお父様。覚悟はできて」
「フローチェ」
どこか苦しげに遮られ、フローチェは首をかしげる。
「お父様?」
「……私は、できる限りお前の意思を尊重したいと思っている」
「え……」
思いがけない言葉に、フローチェは瞬きを繰り返した。
最近は、驚かされてばかりだ。
「どうしても嫌だというのなら、断れる。無理はするんじゃない」
「お父様……」
じん、と胸のうちが熱くなる。
(ああ、本当に、もう)
どうして自分はここまで、人に恵まれているのだろう。
「実は、もう一つお前と縁談が上がっていたところがあってな……。王子の婚約者候補だという噂のせいでほとんどの家からは来ていなかったんだが、二大公爵家どうしなら……」
(素晴らしい父に素晴らしい侍女……私は幸せ者ですわ)
他にも。素晴らしいと言えば。
(……彼にも、随分迷惑をかけてきましたわね……)
幼馴染みだからといえばそうだが、それにしても、一緒にいることが多かった。くだらないことを相談して、ブレフトが如何にかっこいいかを語って。
不機嫌そうにどうでもいいと言って、それでも、いつも話を聞いてくれて。
(ヴィレムは……まだ結婚はしませんのね)
物思いにふけるフローチェは、父親の話を聞き逃した。
◇◆◇◆
翌日。
ヴィレムをいつもの如く屋敷に呼びつけたフローチェはまず深々と頭を下げた。
「いままでありがとうございました、ヴィレム」
いきなりの行動に、ヴィレムは怪訝そうな顔をする。
「どうした。おかしいのはいつもだが、今回は方向性が違う」
「なッ、人がせっかく謝ってるのに、空気の読めない人ですわね!」
「何に対しての謝罪かも分からないのに、相応の対応が取れるわけがない」
「ぐぅ」
言い返せないフローチェは、ちょっと畏まって話し始めた。
「……今までの自分を反省しましたの。私はブレフト叔父様ばっかりで、至らない、駄目な令嬢でしたわ。貴方にも、たくさん迷惑をかけました。だからこれからわっ!?」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でられ、フローチェは悲鳴を上げた。
「と、突然なんですの!?」
「……別に、俺は迷惑なんて思ってないし、お前が駄目だなんて思わない」
頭を撫でていた手が、フローチェの肩頬を包む。
「……俺は、真っ直ぐな、そのままのお前がいい。いつものお前が好きなんだ」
「好っ!?」
告白紛いの言葉に、フローチェの頬が赤く染まる。
(……な、なんなんですのこれ。心臓が位置についてよーいドンしてますわ。おかしいですわ)
全力疾走中の鼓動が痛い。
ヴィレムの手はこんなにも大きかっただろうか。
目を泳がせると、幼い頃の面影を残すも、大人の男として凛々しく成長したヴィレムの顔が視界に入る。
「……すっ、好きだなんて、婚約者でもない女に軽々しく口にするものじゃありませんわ……。ご、誤解を呼んだらどうしますの」
「……なら、婚約者“候補”なら、どうなんだ?」
「こ、婚約者候補?それは……その気がないなら期待させるようなことはやめるべきだと思いますけれど……」
「その気があるなら、問題ないんだな?」
「さっ、さっきから何の話ですの!」
顔を真っ赤にしたまま叫ぶと、ヴィレムは眉をしかめた。
「ハーンストラ公爵から聞いていないのか?」
「えっ?」
「それともお前は、王子と結婚したいのか」
「なんでそうなりますの!嫌ですわあんななよなよした優柔不断男!」
思わず本音がでた。
慌てて口を両手で塞いであたりを見回すフローチェに、ヴィレムが吹き出す。
「なら、俺は?」
「はっ?な、なんでそこで貴方が出てきますの」
「いいから答えろ。俺なら?」
「!?ええええっとそれ、は……!」
ヴィレムの手は未だフローチェの頬にある。長い指が擦るようにフローチェの目尻を撫で、落ち着かない。
落ち着かないといえば、心臓がいつまでもばくばくとうるさい。
(本当になんなんですのこれ!?くるしいからやめて欲しいですわ……!)
叔父に抱いたものは、確かに頬が赤くなったし鼓動も速くなったが、こんなに苦しくなかった。
もっと穏やかで、こんなに、叫び出したいような、逃げ出したいようなものじゃなかった。
「……王子との婚約を避ける手立てが、二大公爵家フィーレンス家の跡取りである俺との婚約だと言ったら、どうする。フローチェ」
「!?!?!?」
わけがわからない。
けれど、もう確実に何かが動き出していて、もう止められなくて。
フローチェは、熟した果実の顔で、唸り声のようなものを上げながら、遂に逃げ出したのだった。
────ハーンストラ公爵家令嬢が上がる舞台は、安っぽい悪役令嬢が悪事を働き断罪されバッドエンドなどという、つまらない舞台ではない。
彼女が上がる舞台は、二大公爵家同士の男女が紆余曲折を経ながらも恋に落ちて、幸せな婚姻を結ぶ、そんなハッピーエンドの舞台なのだ。
えっ終わり?となったお方。
続編がございます!
シリーズ化しておりますので、タイトル上の“悪役”令嬢のところからご覧ください!