プロローグ/初夏の出来事
笠井蓮、彼の瞳は始業式の集合写真で初めて見た。
ベッドの上、緊張も高揚も何処かへと追いやった時にだ。疲弊を学ランと共に投げ捨てて、寝具に身を預けた束の間の事。
まだバッテリー有り余っていたスマホを取り出して、暇潰しにSNSの確認を済ませた。とは言っても現実に構うことが多く、既にネット上の生存報告は半年になっている。
適当に、今日撮影した犬でも掲載した後に、あの写真がグループチャットに配信された。
だが今は五月、始業式から一ヶ月も過ぎている。遅すぎるが、やっと誰かがそれに気付いて適当に流しただけだろう。
後にリアルタイムで複数人は突っ込まれるが、それだけに留まって誰も咎めず掘り下げず飛散する。高校生らしい無常観だった。
クラス人数34人、梅の木数本に中央に担任。わらわらと集まる中で、彼は静かに隅で立っていた。
高解像度に現実を切り取る携帯機器が増えたか、彼の目もまた全体の極僅かながらも確かに色素を宿る。
最後部で立たされるが左右との身長差が激しい小柄な体型。だがハネの強い黒髪に紫の瞳、高貴で威圧的といった帝王的色彩を否定するように、彼の顔は暗い。
集合写真を撮影した当時は雨の予兆もなかった。快晴の空の下で行われ、皆が皆カメラに向かって目を光らせていた。まさしく青春の一部に立ち会わせているというのに、彼だけは違って見えた。
画面の中を通常倍率に戻し、また彼の方へズームする。彼は、皆と同じように笑っている。
皆と同じように始業式で指定された堅苦しい学ランを開け広げ、白いシャツを見せて微笑んでいた。それでも何処か重々しく、陽の気をまとわない。
一度携帯機器を閉じて、寝台の上で寝返る。
高校生の肉感を支える発条の軋が、ノイズとして思考を遮らせる。
瞼を閉じて、写真を彼を一度暗闇に浮かばせた。暗色の中でも濃く、深く、血管の残像よりも先に踊っては消える。
奴は暗いと、四月早々にクラスメイトから言われていた気がする。
自己紹介で彼が何を喋っていたかも覚え辛い程に、いやに消極的か無個性気質か。話したことはまだ一度もないが、クラスメイト一人だけ気さくに話しかけられていた。及川、今では珍しい介入型お節介焼きで相性は悪いと思われたが、まあまあ今も続いている。
今すぐにでも思い出せる姿は、英語の授業でたまに見る発音の良さぐらいか。一度南方島国教師に褒められ問われると、勉強したからと素直に答えていた。
嫌味と言うよりは天然か、会話されると思っていなかったか、席に座れば彼は少し俯いていた。
そこで、妙に心持ちがおかしいと気付いた。
一高校生の挙動を一々覚えるくらい、自分も暇になってしまっただろうか。
闇の中で強まる血管のシルエットが、またボヤけて今度は彼の顔が浮かんでしまう。この島国にはどこでもいる、強いて言うなら17歳としては幼い顔立ちだ。それに何を期待しているのだろうか。
然しと、目を開いてスマートフォンで紫の瞳を検索する。検索画像欄にはややグロテスクだが、その通りの物が映し出された。
最も希少な色、ヴァイオレットと称され、同じ色が人造と自然を混ぜて列挙する。
否、と、すぐに電源を切って目を閉じ、また彼の姿を闇にて創る。漆黒の髪とすみれ色、それが造形されて初めて納得した。
綺麗な目だと言ったら、彼から気持ちがられるだろうか。
それよりもまず、彼は自分のような人間を鬱陶しく思わないだろうか。
そう思いあぐねて一ヶ月経過して六月。彼は体育で足を挫いた。
ドッヂボールにて体育会系の豪速球を避けた拍子に、左足首を曲げてそのまま転倒した。異常に、折れ曲がりそうな倒れ方でそのままグラウンドで転げる。
偶然近くにいた自分が駆け寄り、彼を外野に連れ出した。保険委員が名乗り出たが、自分より背丈が低いことを理由に追っ払う。また及川も、そして歩けると言った笠井本人も無視して連行した。
肩代わりしたせいか、保健室に向かう階段の一つ一つが重い。何故自分がこんなと、疑問を自分へ向ける前に、肩に回された笠井の腕が異様に細いと気付く。離すとすぐにズレ落ちそうだと分かった。
最早稚児か児童かも判然としない男だった。
ただ保健室についた矢先、ごめんとだけ呟かれると別れが惜しくなる。あの妙なあどけなさが忘れられず、養護教諭から機械的に追い出されてもグラウンドに帰る気にはならなかった。
むしろ、少し話をしようかと、隠れて近くのトイレに待機した。後日体育教師から詰問されるのは明白だったが、心配だったと一部の真を言ってしまえば良い。
笠井に何故来たかと言われても、心配だったからと、善人を装えば何ら問題はない。どの道笠井は体育に戻ることはないのだろう。
十分も立たないうちに、保健室の扉が開き足音が聞こえる。そのまま消えて、体内時計で五分数えて、トイレから出ていき教室へ戻れば案の定彼はいた。
――居た
其処に。此処に。彼処に。目の前に、人として、ビスクドールに。
綺麗だと、言いかけるくちを理性で抑えて、ようとだけ呟いた。彼は頷いて、初夏の陽に白い肌を指す。
電気もつけないまま、彼は体育座りで窓際に座り込む。施錠された窓が開け開いているのか、風の薫りにカーテンが靡き、その真下に彼がいた。
陶磁、アイボリー、卯の花、あらゆる喩えが陳腐になる純白の肌と、あの日見た紫の瞳がそこにある。インパクトの強い色彩を宿した肉体は、未だ細く弱々しい。転んだ拍子にこびりついた黄土の砂さえも際立たせるだけ際立だせて鬱陶しくもない。
気付かれまいと視線を反らして、自分の席の窓際に向かう。
視界に入らない間だけ、彼が男子高校生であることを理解して、膝肘に外傷がなかったことに今更安堵した。
「大丈夫なのか」
「大したことなかった……暑すぎて無理だった」
脱ぎかけた、汗腺の臭いよりも先に鮮明に届く声。高校生らしく大人びているが、身長相応かそれすらも不相応にまだ高い。
「わざと挫いたとか?」
「痛いけど簡単だった」
「……マゾ?」
「違う、って言うか授業終わった?」
まさかずっと見張っていたとは言えまい。
「まあそれなり」
「そう……ドッチボールどうなった?」
「偶数の方がギリ勝った」
「マジか」
自分の見えないところで笑い声の混じった美音が鼓膜を撫でる。耳ごとそれがさすらるたびに、鼓動が落ち着かない。風が汗を蒸発させて無理に冷やかしても、背に伝わる熱が収まりそうにない。
ああ、いや、おかしいと、ワイシャツのボタン掛けに集中する。話そうにも口下手そうな人間と意外に会話できたからかもしれない。
意外にも、自分を転ばせたことについては落ち込んではいなかったらしい。その後の会話は当事者に任せるが、それだけでも情報を独占した気になれた。
陽気な自分と物静かな笠井、この構図に納得して、振り向いた。ついぞの狂騒のほとぼりは冷えて彼を直視できる。
至ってどこにでもいる、童顔の高校生であり怪我人だ。彼に差し当たりない会話をすればいい。
「そういや、三者面談来るっぽいけどダルくね?」
三者面談の言葉でわずかに、彼の顔が強張った。
親への恐怖というよりは、もっと本質的なものに近く、硬い威嚇。家庭の事情、それは他方で義理の父親と暮らしていると聞いたことはある。
複雑な事情としてそうかと、失言だったかと話を転換する前に先に、蓮が口を開いた。
「……進路とかあるんでしょ、決めた?」
「全然、まだ一年の気分っつーか、話が急すぎ」
「確かに」
そうしてまた蓮は笑うが、さっきの硬直の違和感が拭えなかった。
たった瞬きに現れた、既視感の強い、隔絶した表情が離れない。それでも遅れを取るまいと立て直した。
「今やりたいことは浮かぶな、合コンとか」
それじゃあと呟いて、自分の目を合わせる。内向的な性格と思われたが、案外人と話すことは出来るらしい。
恰好良いと言うよりは愛らしさに寄るやや丸い瞳と、あの色だ。その色は蒼穹の炎天下を抽象に表していた。
「……俺は青春、とか」
せいしゅん、とくちびるが動くと、蓮の汗が流れ落ちる。くすぐったそうにして、本人が頬から拭うが、軌道は顔に離れない。
「アバウトすぎね」
「陰キャは憧れんだよ」
続けざまに飲み物を買うと云い立ち上がって、財布をロッカーから取り出す。
怪我については深刻なものではなのか、やや足元が引き摺るだけらしい。日陰に移動しても肌の白さは、自分がやられているのか蓮そのものかも皆目検討がつかない。
「笠井ってさ」
ん、と、言葉にもならない声を洩らして彼は振り返った。
「意外と話しやすいな」
奢らないからなと、彼は微笑んで教室から出た。
今残っているのは自分と、誰かの為に吹く風か。清涼どころか寒冷を与えてくるそれに飽いて窓を締めて、携帯を取り出す。
あの集合写真をアルバムから取り出し、彼のみをトリミングしてそれを保存した。
二度とない、紫の眼だ。
だが現物は最も透徹として、深遠。網膜の幾何学模様すらも見惚れてしまうが、あの虹彩の中で光をどう反射させるか。
青空でも、火炎でも、雪でも、中でハイライトに輝いて、そして消えるのだろうか。
青春がしたいと、彼は言っていた。
ならば、自分は彼の青春の中に入るのか。答えのない問を仕舞い込んで携帯をしまった。
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自分の秘めたる思いは正しいと、必ず信じていた。そう思っていた。
青春の一頁として、恋愛と勉強と友情と――魔法少年という有意義な活動を以て、色濃くなると。