14 37歳元ラノベ作家、救命講習を受けに行く 後編
「じゃあ、あの、やりますね」
誰に言うでもなくそんな言葉を口にして床の上の人形に目を向けたあと、ハミパンしないよう、ベルトをつかんでヨレヨレのジーンズを引っ張り上げた。
同時にこみ上げてくるこっぱずかしい感覚。やっぱ言わなきゃだめか、あれを。
俺を一呼吸置いたあと、意を決してしゃがみ込み、すぐに人形の肩を叩いて耳元で声を上げた。
「もしもーし! 大丈夫ですかー! もしもーし!」
プレハブ小屋に響く俺の声。
俺自身、こんなでかい自分の声、久々に聞いたわ。
37歳にもなると無意味な行動を取るのがつれー。
無意味な行為がものすごく恥ずかしくなる。
人形相手に大丈夫ですかーってなんだよ。
ロールプレイってことはわかるけど、そう呼びかけるという体であえて声を出さずに話を進めるってことでいいんじゃねーか?
「あ、ちょっと」
呼びかけフェーズから胸骨圧迫フェーズへの早期移行を目指していた俺に、保阪尚希が例の低音ボイスで声をかけてきた。
「もう少し、耳元に近いところで言った方がいいですよ」
――保阪よ。
おまえ、どういう立場から物言ってんの?
こんなローカルな場で自己顕示を試みるなよ。
だいたい、おまえまだこれやってねーじゃん。
つーか、てめえがそんなこと言ったら、最初からやり直してみようかって流れになるじゃん。
「もしもーし! 大丈夫ですかー! もしもーし!」
な?
やらないと変な空気になるから、俺自身やらざるを得ない気持ちになるんだわ。
その後、胸骨圧迫、人工呼吸をなんとか終えた俺に、角刈りが皆に聞こえるように話しかけてきた。
「どうですか?」
「えーと、そうですね」
俺は少し上目遣いにして口を開いた。
「リアルでこういう状況になったら、こんな風にうまくできないと思いますね(キリッ」
じゃあ駄目じゃん
というツッコミ総受けの話ではあるのだが、本音だから仕方がない。
極端な話、倒れているのが女子高生だったらどうする。
本当に心臓が動いていなかったらいいけど、って、まあ、よくはねーけど、もし気を失っているだけで胸骨圧迫やら人工呼吸やらをやったら痴漢で逮捕されんじゃね?
そしたら警察にパソコン押収されんじゃん?
ブラウザの履歴からDMMのサンプル動画を何百回も見てることばれるじゃん?
証拠として提出されて、検察官が「駄目だこいつ、朝からエロ動画見てる」ってなって起訴されんじゃん?
テレビのニュースで「元作家の男が女子高生にわいせつな行為を」って流れんじゃん?
2ちゃんのラノベ板で俺って特定されんじゃん?
スレの15、16辺りから「だれ?」ってずっと書かれんじゃん?
俺が死にたくなるわ。
実際、倒れている人を前に「呼吸をしていない」「心臓が動いていない」という判断を素人が簡単に下せるんだろうか。医者とか看護師みたいな人が現場にいて、「そこの人に胸骨圧迫をしてください」と指示されたらできそうだが、そういう人がいなかったら119番に電話をかけるぐらいがやっとだろう。
角刈りは俺の言葉に苦笑しつつ、こう皆に呼びかけた。
「確かに、実際に倒れている人を目の前にしたらうまく行動できないっていうこと、ありますよね。ただ、皆さんは今日の講習を受けて、人よりも救命処置の仕方をわかっている立場です。怖がらないで、一回でも二回でもいいから胸骨圧迫を施してください。たったそれだけでも命を救えることがあるんですから」
さすがにいいこと言うなあ、プロフェッショナルは。
わかった、倒れているのがJKであっても血の気が引いてて心臓止まってそうだったら、逮捕を恐れずに頑張って胸骨圧迫やってみるわ。
その後、角刈り班は全員、胸骨圧迫と人工呼吸をつつがなく終え、角刈りは簡単に総括すると、オレンジ色で一辺に取っ手がついている三十センチ四方ぐらいのケースを持ってきた。
「それでは、次はAEDの操作を行ってもらいます」
そう言ってケースを片手で持ち上げた後、床に下ろして蓋を開けた。覗き込んだ我々の中で、へえ、これがAEDかという空気がわかりやすく流れる。俺自身、AEDの機械を見るのは初めてだ。なんだか子供用のおもちゃみたいな簡素な作りで、本体にはボタンとスピーカー、そしてケーブルが一本ついている。
「ただ、操作の前にやるべきことがあります」
角刈りがAEDの蓋をわざわざ閉じて、俺らを見渡す。
「人が倒れている現場にAEDがあるとは限りません。なかったら誰かが取りに行かないといけないですよね。だから、そこからやっていただきます。では、まず我々がやってみますね」
角刈りは長身の男と、いつの間にかプレハブ小屋にいた、やはり救急隊員だと思われる中肉中背の男を呼んだ。
「もしもーし! 大丈夫ですかー! もしもーし!」
え? またそこから?
私の戸惑いを当然のごとく無視し、先ほどと同じように胸骨圧迫、人工呼吸と話は流れていく。
そして人工呼吸のあと、角刈りは長身の男と中肉中背の男にそれぞれ指を向けて大きな声を出した。
「あなた、救急車を呼んでください、あなた、AEDを探して持ってきてください」
「はい!」
二人の救急隊員がそう返事をし、中肉中背の方がAEDを持って角刈りに駆け寄っていった。
「指示をする場合、今のように必ず特定の人に対して指を向けてください。というのはですね、単に集まっている人に対して救急車を呼んでください、AEDを持ってきてくださいと言っても動いてくれないんですよ。だから、あなたがやってくださいとこちらで決めて指示を出す必要があるんです」
あー、そういわれてみりゃそうだよなあという空気が流れる。
その後、実際にAEDを動かしたわけだが、書くのが面倒なので詳細は端折る。簡単にいうと、本体から伸びたケーブルの先にある二つのパッドを上半身につけると、AEDによる診断が始まり、AEDやんなきゃ駄目だわとなったらスピーカーからそういう指示が流れるから、ボタンをぽちっと押す、で、胸骨圧迫やって、またパッドつけてAEDに診断してもらうのを繰り返すということだった。
やがて講習が終わり、皆で折りたたみのパイプ椅子を元の場所に戻すと、参加者の名前が一人ずつ読み上げられた。
角刈りのところへ行くと、自分の名前が入った『普通救命講習修了証』というプラスティックカードをもらった。
「名前、大丈夫ですか?」
「あ、はい、合ってます」
自分が何者なのかを証明してくれるものをもらうっていつ以来だろう。
参加費無料なのにちゃんとしたカードで、こんなのもらえると思ってなかったから結構嬉しい。
プレハブ小屋を皆がバラバラに出ていく。赤の他人同士だから当然だろうけど、呼び止めて「なんで救命講習を受けに?」と聞いてみたくあるよな。
自転車のハンドルを押して歩いていると、チャイルドシート付きの電動自転車に乗った女性が「お疲れ様でしたあ」と言ってあっという間に先へ行った。おお、あんたは三十代主婦と思いながら、俺はとりあえず頭をちょこんと下げた。