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13 37歳元ラノベ作家、救命講習を受けに行く 前編

 俺は今、プレハブ小屋に並べられたパイプ椅子の一つに座っている。

 ひりつくほどじゃないが漂う緊張感。

 前後左右に並べられた椅子には知らない人たち。

 引きこもりではないものの、財布に七十円ぐらいしかない状態で外へ出ることの空しさが常に俺を自分の部屋に押し込めるので、こんなところにいるのは新鮮な気分だ。


「じゃあ、班を二つ作って別々に行動しますので、名前を呼ばれた方は呼んだ人間の近くに集まってください」


 紺色のツナギのような服を着た男が右手を軽く挙げながら言った。角刈りにずんぐりとした体格、年齢は俺と同じぐらいだろうか。

 彼から少し離れた真横には、角刈りと同じ服を着た二十代半ばぐらいで長身の男性が立っていて、角刈りと同じように手を挙げている。


 ここはどこなのか。

 実は俺もよくわからない。

 ただ、地元の消防署が所有している訓練施設なのは間違いない。平日の真っ昼間、普通救命講習というものを受けるため地図を見ながらチェーンが錆びたママチャリに乗ってきて、たどり着いたのがここだった。

 なぜ救命講習を受講することになったのかというと、二カ月ほど前だったか、テレビで秋葉原通り魔殺傷事件のドキュメンタリーを見て、現場に居合わせた人が救命処置を行ったことで人命が救われたというエピソードを知り、「社会のお荷物になって久しいが、せめて社会貢献できる可能性を作れたらいいかも」という軽い理由で参加を決めたのだ。


 平日のこんな時間じゃ参加者なんていねえだろうなあ、俺だけだったらどうしようと心配していたものの、小屋に入ってみたら二十人ぐらいいた。年齢的には一番下は保育士を目指してますって感じのパンツルック女子大生、一番上は退職して二十年目という感じの白髪老紳士、平均は三十歳前後という感じだろうか。


 俺は角刈りに名前を呼ばれ、角刈り班の一員になった。女子の中じゃ一番かわいい保育士志望の女子大生も同じ班だ。いや、女子ってこと以外、俺の想像だが。ほかには保阪尚希、三十代細身ポニテ主婦、二十代フリーター男、五十代自営業おっさんあたりがいる。くどいようだが、三十代主婦、二十代フリーター、五十代自営業というのはそう見えるってだけで、本当にそうなのかはわからない。

 角刈りがおもむろに自己紹介を始める。

 早い話、彼は救急隊員で、救命講習の指導役は隊員が持ち回りで行っているとのことだった。


「では最初に、胸骨圧迫と人工呼吸をやってみましょう」


 角刈りはそう言って、床の上で仰向けになっている上半身裸の人形に視線を落とす。

 そしてすぐ、胸骨圧迫ってなんだ……という俺ら一般人が醸し出す不穏な空気を察し、待ってましたとばかりに言葉をつなげた。

「胸骨圧迫というのは、昔、心臓マッサージと呼ばれていた処置です。今は胸骨圧迫と言うようになっているんですね」

 へえ、と声を出さずに感心していたら、俺の後ろにいた保阪が口を開いた。

「それじゃ、今、心臓マッサージというものは存在しないんですか?」

 なんだこいつ、顔だけじゃなくて声も喋り方も保阪尚希そっくりじゃねーか。具体的に言うなら、殺人事件の容疑者として刑事に詰問されている状況なのにもかかわらず、顔色一つ変えず、刑事に質問を返して挑発するときの保阪尚希みたいな空気感を醸し出してやがる。

「いえ、心臓マッサージはあります。ただ、昔みたいに胸の上から押すことを指すんじゃなくて、心臓を直接手でつかむような、そういうのを心臓マッサージと呼ぶようになっているんですよ」

 へえという声があちこちから聞こえてきた。

「それでは、まず私が胸骨圧迫を実際にやってみます」

 角刈りが人形の真横にしゃがみ込み、いきなり肩を何度も叩いて、耳元に顔を近づけて人形に呼びかけ始めた。

「もしもーし、大丈夫ですかあ! もしもーし! 大丈夫ですかあ!」


 間を置いて、俺たちに向かって説明する。

「まずはこうやって意識があるかどうかを確認してください。注意してほしいのは、呼吸があるかどうかです。胸が上下していれば呼吸しているとすぐわかりますが、していなかった場合は倒れている人の口元に顔を近づけてみましょう。もし、呼吸していなかったら胸骨圧迫を開始します」

 角刈りは右手を人形の胸に置いたあと、その甲に左手を乗せ、勢いよく上下させた。

「三十回行います。思いっきり深く押してください。そうしないと心臓が圧迫されず、血が回りません。よく、押しすぎて胸骨を折ったらどうしようと心配する人がいるんですが、こういう状況になったらそんなこと気にしなくていいですよ」

 説明しながら三十回、人形の胸を押すと、今度は人形の鼻を指でつまんだ。

「胸骨圧迫と人工呼吸は交互にセットで行います。本当はビニールの小さなシートを唇にあてて、その上からやってもらうんですが、今日はシートが人数分用意できなかったのでやるふりで構いません」

 角刈りは、自分の唇を人形の口元に近づけながら、視線を胸元に送って続ける。

「人工呼吸をしているときは、胸元が膨らんでいるか確認してください。この人形はそうならないですけど、本物の人間であれば、肺に空気が入ると膨らみますから」


 こんな感じで胸骨圧迫と人工呼吸を二回繰り返すと、「では、今度は皆さんがやってみてください」ということで、まずは左端にいた保育士志望の女子大生が挑むことになった。緊張を隠せない引きつり気味の笑みを浮かべ、人形を前にしてぐいとしゃがみ込む。そのとき、アクシデントは起きた。


 彼女の背中が、上から、


 上着の裾

 ↓

 素肌の背中

 ↓

 柄物の下着

 ↓

 パンツ


 って並びになって、ようするに『上着の丈が短いパンツルックの女性が前屈みにしゃがんだとき、後ろから見ると下着の上部がハミパンになる問題』が発生したのだ。

 俺、保阪、フリーター、自営業が、男性アイドルグループのグラビアショットかという感じで、四者それぞれ別の方向に視線を外す。紳士なんだよ、俺らは。いや、よくわかんねーけど。


 十分後、胸骨圧迫と人工呼吸を終え、ほっとした表情でこちらの列に戻ってきた彼女に、「多分、後ろからだと柄物の下着ずっと見えてたよ」と注意の名を借りた羞恥プレイを迫る変態紳士は俺たちの中には当然おらず、次はフリーターが行って、そのあと、俺の番になった。

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