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水蛭子の恋患い

水蛭子(ひるこ)の恋患い 【筋ジストロフィー】

作者: 紅羊

01

 都内の博物館で催された展覧会は、公開する前より大きな注目を浴びていた。夏休みと云う事で賑わっている様子だ。とは言え展示物の内容が見栄えこそ綺麗であるものの、偏った趣味や志向の持ち主に好まれる所為か、客層も個性がある。

 天使の世界、と銘打たれた宗教美術の展覧会は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は勿論、偉人から個人までが描いた様々な天使の姿を飾っている。少しだけ立体の他、漫画やアニメのデフォルメされたキャラクターもあり、背中に翼を生やしていると云う共通点を除けば、天使と括っていいものかは疑問が残るような代物の多かった。

 入り口にはギリシャ神話のニケと、メソポタミア文明の女神であるシャウシュカの彫像が並び、訪問者を迎えていた。入って直ぐのエントランスの足元には、普通なら見上げるしかないランフランコの描いたナポリ大聖堂の天井画が錯覚を利用して立体的に描かれている。まるで大きな窪みが空いたエントランスに思わず二の足を踏みそうになる演出はインパクトがあった。

 コンセプトを違えた展示物が各部屋には置かれている。天使の宗教、天使の偶像、天使の美術、天使の正体と四つの部屋に分けられており、特に天使の正体と書かれた展示には大きく興味を引かれたものの、パンフレットに書いてある通りのルートに従い通路を進んだ。

 「これって浮気になるんだろうか」

 「疾しい事はしてないから浮気じゃないよ」

 パンフレットと看板の矢印に従い、右手から順に天使の宗教の部屋へと入る直前、立花健吾のパンフレットを覗いた篠塚愛美が言った。

 「偶然、たまたま、一緒になっただけだよ」

 悪怯れた様子もなく健吾の心配を一蹴した愛美とは半年ほどの付き合いになる。本来、カノジョでもある牧野結花と遊びに行くのが正しい事は充分に承知していた健吾だったが、どうやら結花とは趣味が合わない所があった。

 結花は健吾が苦手とするジャンルに興味を持っており、性格も明るい。一緒に居ると新しい発見と体験を得られるものの、趣味や嗜好と言った点では半年前に好きだと告白されてしまった愛美との方が合っていた。

 勿論、最初に誘ったのは結花である。だが、彼女は宗教的なもの嫌悪感を持っているようだった。天使など空想のものに興味がないと、何よりも美術館や博物館のような場所は苦手だそうだ。結果、友達としてメールしている愛美が同展覧会の事を話題に挙げたとき、思わず、行きたいんだよと口を滑らせてしまうのも仕方なかった。

 特に予定を決めていなかったも健吾は、偶然、駅で同じ電車をまっていた愛美に出くわした。お互い一人で行くつもりだったものの、目的地が一緒ならばと思い、今に至るも、今更ながら結花の気持ちを裏切っているような罪悪感が込み上がってきた。

 「だったら天使でも見て懺悔すればいいじゃない」

 好きだと告白してからの彼女との付き合いは、親しい女子の友達に過ぎなかった。きちんと断り、結花にも報告してある。ただ、このような場を目撃されれば言い訳が出るものでもなかった。

 意識しているのは自分だけなのだろうか。普通に友達と同じように接してくる愛美の言葉を免罪符にした健吾は、取り敢えず結花への事後の報告だけで事無きを得ようと改めた。

 最初の部屋は天使の宗教である。主に宗教美術で描かれた天使を中心に構成されていた。流石にオリジナルは少ないものの、趣向を凝らした展示物には好感が持てた。

 ユダヤ教から多くの内容を流用しているらしいキリスト教の二つの宗教は、同様の天使を題材にしている絵画が目立った。特に漫画やゲームではお馴染みの四大天使である、ミカエル、ガヴリエル、ラファエル、ウリエルを主題とした絵が多く見付けられる。

 次に目を引いたのはルシファーだった。悪魔としてサタンと同一視された最高の天使、神に次ぐ存在として紹介されているルシファーは言わば堕天使の筆頭である。最大でも六枚程度の翼かしか持たない天使の中でも十二枚まで翼の数を増やしているその姿は何処かしら神々しかった。

 他を挙げれば、メタトロン、サンダルフォンなどだろうか。固有名詞を持ちながらも階級に分けられた天使も多く、セラフィム、ケルビム、スローンズ、ドミニオンズ、デュナメイス、エクスシアイ、アルヒャイ、アルヒアンゲロイ、アンゲロイとして飾られている。珍しいものではアイオーンのソフィア、ハールートとマールートだ。ダンテの新曲から抜いた複製画も見られ、バリエーションに富んでいた。

 「あぁ、これ知ってる」

 そう言った愛美からはゲームや漫画のタイトルが出てくる。健吾も見知ったタイトルだけに、プレイした事があるのか、などと会話が途切れない。時々、周囲から自分達がカップルに見られているのではないかと思うと、結花への罪悪感が思い出される。

 「でね、あのゲームのレアキャラにね」

 楽しそうな愛美がふと言葉を切ると、徐に、ごめんね、と謝罪した。

 「え、何が?」

 「楽しくなさそう」

 「いや、そう言う訳じゃ……」

 結花の存在がチラつく手前、正直に告白する事に多少の躊躇いこそあったものの、健吾はかなり楽しかった。

 「じゃぁ何?」

 不満げに健吾の顔を覗き込んだ愛美が、デートの最中に別の女の事を考えていると言いたげな表情を呉れる。

 「楽しいから結花に申し訳なくて」

 「いいのよっ!」

 人目も憚らずに愛美が言った。

 「デートでも何でもないんだから!」

 そう言いつつも愛美は当然のように健吾の腕を取ると、次の部屋へと引っ張っていった。



02

 二つ目の部屋のコンセプトは天使の偶像だった。ひとつ目の部屋が宗教的な趣が強かったのに対し、今度は翼を持つ神話的な存在について扱っている。部屋の入り口には博物館のエントランスにあったのと同じ、ニケとシャウシュカの彫像が置かれていた。

 神話と言っても宗教と不可分ではない、また口伝の歴史を元としている都合か、天使と呼べるような存在は少ないようだ。そもそも神の預言や啓示を伝える者、死者を天国へと導く者など、記号的な意味合いの強い存在である天使と、翼を持つだけの神では成り立ちから違うのか、先の部屋の品揃えよりも随分と少なかった。

 展示してある資料に拠れば、人物に翼を付けたケースの殆どが天使に分類され、それ以外は動物に翼を生やしたものだそうだ。確かに先の部屋に比べると、動物の姿をした彫像や絵画が多いので至る所から彼らの視線が突き刺さってくる。居心地の悪さこそないものの、纏わり付くような気配が感じられた。

 部屋の規模が小さい事に加え、彫像が多かった事もあり、全ての展示品を見るのに時間は掛からなかった。天使の美術と銘打たれた次の部屋へ行くと、今度は現代美術、漫画やアニメのキャラクターが飾られていた。さすが日本と言ったところだろうか、漫画やアニメの原画が特に目を引いた。

 三番目の部屋は土産物店と併設しており、専門的な書籍の他、オリジナルと思しきゆるキャラや既存のキャラクターとコラボしたもが並んでいる。複製原画やポストカードなど如何にもな土産物の中に、天使の翼をモチーフにしたアクセサリーもあった。

 「どうする?」

 結花へのプレゼントでも買って帰ろうかと、アクセサリーの棚に手を伸ばした健吾の考えを消し去るように愛美が訊いてきた。

 「お土産買っちゃう? それとも最後の部屋に行く?」

 建物の構造上の問題からか、最後の部屋は出口へと直結しない方にあった。パンフレットには天使などを信じたり、祀ったりしている敬虔な宗教関係者は不快感を覚えるかも知れないので、それを覚悟の上でご覧下さいと意味深な配慮が綴られている。

 「そうだな、先に行こうか」

 何れにせよお土産も即決出来そうにないと思った健吾は愛美の申し出を受け、最後の部屋……天使の正体と掲げられた部屋と向かった。

 部屋の照明は少し落とされており、空調を強めに利かせていた。見物客の話し声はあまり聞こえず、空調が生み出す風と、人々の気配と息遣いが一杯の部屋には数少ない展示物が置かれていた。

 ひとつは空想科学ながら天使の動物的な生態と構造について言及しているものだった。天使は死者を天国へと持ち上げ、飛ばなければならない為、その翼は大型の鳥の殆どを占める猛禽類――肉食の鳥を採用しており、仮に自力での飛行を可能とするならば肩甲骨の辺りの筋肉は大きく発達しなければならない事や、体長の数倍以上の翼を要する事などが解説されている。

 隣には、仮に既存の美術に見られるような天使がいた場合、その骨格や内臓がどのような仕組みになっているのかを描いたものが貼られていた。背中に翼を持ち、且つ人型を維持するには、鳥類や哺乳類を元にするよりも昆虫などの骨格が優位ではないのかとの注釈も付け加えられてる。

 他にはキリスト教に天使が登場した初期は翼のない存在だったと書かれていた。東欧の精霊とイメージが融合し、翼を持つ姿で描かれるようになったそうだ。特に近世以降から現代までのイメージはルネサンス期のクピドの姿を借りたものだと言われている。

 確かに天使と云う想像上の存在を動物として貶めているような展示物の数々は、敬虔な信者には受け入れ難いであろう事が想像出来る。今まで神聖なものとして見てきた天使が急に獣臭くなり、気持ちの悪いものとして感じられる演出は、ネットでの評判通りだとも言えた。

 そして最大の問題作が部屋の奥に鎮座していた。荘厳な十字架の前にはケースに納められた二つのミイラが横たわっている。都市伝説などを扱ったテレビ番組で見た事もある河童のミイラに似ていた。膝を折り、頭と肘も地面に付ける五体投地の格好である。

 「これが天使のミイラ……」

 ミイラと云う俗物的なモノを見た愛美は呟いた。勿論、本当に天使のミイラなどと信じている訳ではなかったものの、折り曲げた背中から突き出した器官は息を呑むほどの異様さである。

 二つのミイラは成り立ちから違っていた。ひとつはオランダで発見され、もうひとつはイギリスで発見されたもののようだ。何れもアジアへの出展は日本が初めてであり、展覧会が決定したときよりミイラの存在は大きな注目を集めている。

 驚いている様子の愛美とは対照的に、ただ汚れた石膏の塊にしか見えなかった健吾は特に感嘆の息を吐く事もなく、ミイラに添えられた解説に目を通していた。

 オランダのミイラはミハイルと呼ばれていた。当然、偽物であるミイラの正体は、早くに死亡した赤ん坊の死体に猛禽類の翼を取り付けたものだと解説されている。赤ん坊の肩甲骨を外し、鳥の筋肉も加えた上で翼を縫合し、乾燥させたもののようだ。

 一方、イギリスで発見されたミイラはアイオーンと呼ばれていた。同様に天使ではないミイラは、筋ジストロフィーと云う病気で肩甲骨が隆起したように身体を変形させた少女だと解説されている。

 「人間のミイラ――」

 河童のミイラのように猿の死体を加工したものなら、気味が悪いで済んだかも知れないが、人間の死体を加工し、ミイラに誂えたものだと考えると、目の前のミイラは気持ちが悪く、とても恐ろしいものに見えてくる。

 エジプトなどに代表される生まれ変わる事を願い、丁寧に埋葬したミイラとは異なり、動機が不純であったであろう事も見て取れる天使の遺骸を、健吾は暫く睨み付けていた。

 「行こっか」

 飽きたのか、それとも耐え兼ねたのか、健吾の腕を引っ張った愛美が部屋の出口へと誘った。振り返れば何時の間にか数人ほどではあったが、人集りができていた。中には車椅子に座ってまで見物している人もいた。

 天使の正体の部屋から出て、三番目の部屋に併設する土産物のコーナーの正面へと戻った。急に明るさを増した部屋のお陰か人心地付いた健吾と愛美は、気付けば指先を絡み付かせるような形で手を繋いでいた。

 「あ、ごめん」

 初々しいほどに照れながら慌てて手を離した二人は、気まずさから視線を合わせる事が出来なかった。



03 スピンオフ

 目障りな雑踏で見付けた後姿は、松葉杖もまともに支えと出来ない歪んだ身体の女だった。その栄養失調かと思うほどに痩せ、棒切れかと皮肉も自然と零れる華奢な身体。にも関わらず女と判別出来たのは、スカートと長い髪と云う組み合わせに見た、女だろうと言う謂わば先入観に他ならなかった。

 「大丈夫か?」

 見るからに面倒そうな障害者への嫌悪感からあまり親切に接する事もないジョエル・スレッテゴードでさえも、遂には手を出してしまうほど脆そうな女は意外なほど綺麗な顔立ちで振り返ると、ありがとうございます、と呟いた。

 「親切にどうもありがとうございます」

 女は体勢を立て直すのも一苦労の様子である。身体のどこかに在って然るべき重心を探すように、指先に至るまで全ての調子を確かめてから女は言った。

 女を支えるジョエルの腕には殆ど重さのようなものは感じられなかった。それほど女が軽いのだろうか。近くで見ると一層と細い女の身体。テレビの報道で見る拒食症の患者や、内戦や飢餓で死んでいくような栄養失調の子供みたいに女の身体は細く、脆そうである。

 「どっかに行くつもりなのか?」

 一度でも声を掛けてしまった手前、このまま女を放置する事に僅かばかりの躊躇も生まれたジョエル。不躾ながら補助が必要なのかと尋ねると、女は直ぐそこの病院に行くだけだと答えた。

 「定期健診でそこの病院に行くんです」

 「そこの?」

 「はい」

 「ちょうど僕も行く所だよ。一緒に行こうか?」

 内心では溜息を吐いていた。確かに目的地は一緒だったが、本当に直ぐ近くなのだ。謙虚に相手が断ってくるかと期待したものの、女はジョエルの提案を嬉しそうに受け入れた。

 「本当ですか? ありがとうございますッ」



 エレナ・エルフリーデは偶然にも叔父であるミカエルの患者だった。難病にも挙げられる進行性筋ジストロフィーを患っているそうだ。

 「お前とは対照的に何かもが脆い子だよ」

 叔父にまで皮肉られると、流石にジョエルも些か気分が悪くなった。確かに自分は異常だ。生まれてから一度も怪我をした事がない。少なくとも記憶にもないし、覚えているような経験もない。だからだろうか、ジョエルは他人の痛みを上手く理解出来なかった。

 勿論、知識としては想像出来る。だが、自分に還元して、痛みを共有する事が難しかった。精神的に欠陥があるのか、或いは脳に障害があり、記憶や体験を改ざんしているのか。それとも痛みを単に感じないだけの無痛症なのか。何れにせよ、傷付いた相手に対する接し方が分からない事は多かった。

 「身体に問題はないからな。何か精神的なものだろうさ」

 完全な無痛と云う訳ではなかった。ある一定以上の怪我や痛み、苦しみなどのネガティブなそれを他者と上手く共有出来ないだけである。小さい頃、両親が強盗に殺害された時より生じている事は確かな為、やはり叔父の言うとおりトラウマを理由としているだろうと、素人ながらもジョエルは原因について納得していた。



 ――綺麗だね」

 呟いたジョエルは路面電車から望む大西洋の風景に向けたのか、儚くも精一杯に、直向に生きようとする……エレナの生き方に対して評したのか、ただ自然と口を衝いた感動の言葉は、実に素直な気持ちそのものだった。

 「そうだね」

 若しかしたら自分に向けられているとは思いもせず、流れる風景にジョエルと同様の感想を口にしたエレナは、恋人と一緒にどこかへ出掛ける事が叶うなんてまるで夢みたいだと笑った。

 エレナと付き合うようになったのは最近だ。元々は単に興味を持っただけである。自分とは対照的に、痛みだらけで脆い人生。彼女を見ていれば何かを得るものがあるのではない。そんな打算的で勝手な思いを抱き、最初は友人として近付いたが、気付けば生きる事に直向な彼女の佇まいに見惚れていた。

 とは言え、実際は普通の恋人同士で出来る事も儘ならない。だからだろうか、身体障害者の介助人として付き添っている趣が強いのも否めなかった。何処かへ行き、何かをする。ただそればかりで、ひとつひとつ思い出を積み重ねていく小さな旅の繰り返しだ。

 「そうだ。今度、お姉ちゃんと一緒に食事とかどう?」

 「お姉さんと?」

 妹であるエレナの面倒を優先した結果なのか、姉であるヴィオラの勤め先は行き付けの病院だった。ジョエルの叔父と同じ職場だ。患者であるエレナと云う共通点がある以上、二人の接点はある筈だったが、叔父のミカエルにエレナと付き合う旨を伝えたときも何の言葉もなかった。

 後で知った事だが、ヴィオラは腕や知識こそ確かであるものの、協調性がないようだ。愛想もなく、患者からのクレームも少ないようである。妹と付き合う事になったジョエルも、所詮は同情や哀れみから付き合っているだけだろうと、口煩く言われた事もあった。



 サラ・クラシノコフは見違えるほど美人に成長していた。扉を開けた瞬間に抱き付かれ、顔をまともに見る事が出来なかったとは言え、昔の幼さなど一欠けらも残してはいなかった。

 「ただいま、ジョエル」

 漸く正面から見たサラの顔の半分ほどが前髪で隠されていた。懐いてくる子犬をあやすように、幼心にも身体へと焼きついた触れ方で、そっとサラの額を撫でると、昔と同じ火傷の痕が残っていた。

 「えへへへ」

 昔とは違い、エレナを通して苦痛と云うものをよく理解出来るようになったジョエルにとって、少女の身体を醜くさせるものがどれほどの重荷となっているのか、それは想像出来る範囲をも大きく超えるものだった。

 「火傷……昔のままなんだ」

 「うん。だって私はジョエルのお嫁さんになるんだもん、別の誰かが好きにならないようにこのままが良いの」

 ザラリと手触りの悪い頬を撫でると、猫が喉を鳴らすようにサラの身体が小さく揺れた。

 「今なら綺麗に消せるだろうに――――……で、十年振りくらいか?」

 「違うよ、八年振り。わぁ、昔と同じだね、ジョエルの家」

 ジョエルの向こうを見たサラが嬉しそうに言った。

 「そうりゃそうだ。同じ所に住んでるしな。で? 今日はどうした? 何の連絡もなしに帰ってくるなんて」

 サラを迎え入れたジョエルは訊いた。

 「うん。昨日が特別な日になったから」

 「昨日?」

 何かあっただろうか。と頭を捻ったジョエルにサラは言った。

 「パパが獄中自殺した……」



 エレナが投身自殺した。いや、正確には未遂だろうか。病状が悪化し、院外にも外出しなくなってから間もなかったときの出来事だ。自分で車椅子を操る事も間々ならな彼女がどうやって屋上へ行ったのか。そして転落防止用のフェンスを越えたのか分からない。姉であるヴィオラは殺人未遂だと声を上げていた。

 幸いだったのは彼女が軽かった事、また並木の枝や植木がクッションになった事だ。だが、身体の脆い彼女は一命こそを取り止めたものの、瀕死の重傷である。執刀医は例えれば全身を複雑骨折させ、一部の内臓を破裂させても生きているような状態だと説明した。つまり生き延びる見込みがないと言っていたのだ。

 手術を終え、ベッドの上で横たわる……人とは思えないほど無数の機器で生かされ、固定されている状態のエレナをジョエルは直視出来なかった。それでもと、無理を言ったヴィオラと共に面会したとき、意識も朦朧とするエレナは遺言でも残すように、最後の気力を振り絞って告げた言葉は、ありがとうの一言だった。

 翌日、エレナが死に、叔父のミカエルが彼女に対する殺人未遂を遺言に残し、自殺した。何が起きたのか分からないまま、ジョエルはミカエルの私室にいた。どうしてエレナを殺そうとしたのか、その手掛かりが少しでも残っているのではないだろうかと期待した、虚しさばかりが去来する心持ちで、遺品整理も兼ねた家捜しを始めたのは昨晩の事だった。



 両親と血の繋がりはない。祖父母とも、況してや先祖の誰かと血縁関係にもないサラ・クラシノコフ。資産家だった祖父母の息子は、金に物言わせた典型的な社会不適合者だった。

 彼は一目惚れした当時の若手女優と結婚した。勿論、金を使った、誠意のないものだったそうだ。だが、お互いに金さえあれば成り立つ奔放な生活は、しかしながら一向に子供が出来ない事でおかしくなり始めた。

 原因は男にあった。無精子症ではないものの、極めて精子の数の少ない体質。不妊治療や人工授精を介さなければ子供が出来る筈がなかった。だが、男は子供が出来ないのは女の所為だと言った。

 世間の醜聞を気にした彼の両親は養子を買い与えた。それがサラである。男は両親から与えられた物は往々にして玩具だと云う認識を子供のときから持ち続けていた。

 だから、サラも彼にとっては玩具だったのだ。生きている玩具、成長する玩具、少しでも大きくなれば性的にも楽しめる玩具。サラはまともな教育も受けられず六歳まで育ち、ジョエルと偶然に出会ったのだ。



 隠すように仕舞われていた日記は叔父のもだった。中身は見るに耐えない内容やジョエルの知らなかった多くの事実を綴っていた。

 「これ……本当かよ?」

 家捜しは何時の間にか強盗が部屋に押し入ったかのような散らかりっぷりになっていた。当然、知らずと派手な音を立てていたのだろうか。気付けば部屋の入り口の側にサラが佇んでいた。

 「本当かよッ!?」

 本棚に詰め込まれた医学書を叩き落したジョエルがサラに詰め寄ると、彼女は小さく、ごめんなさい、と頭を下げた。

 「だってッ! どうして良いか、分からなかったんだもん。私、パパに……優、しく――された、ら」

 身体を差し出さなければいけなかった、とサラは涙ながらに告白した。加えて当時の自分は知恵が足らない所為もあったが、ニンフォマニアに似た症状を患っており、性欲を呑み込めなかった。ジョエルにはそれを知られたくなかった、だから、出会った最初の頃は、優しくして貰った見返りに、ミカエルに奉仕していたのだと言ったサラはジョエルを見る事が出来なかった。

 「分かんない……昔は分かんなかったけど、今は分かるの。私はジョエルに知られたくなかった、こんな自分を。嫌われたくなかったの、だって、ジョエルは初めて私に優しくしてくれた人だから、好きだったから……知られたくもなかった。でも、我慢出来なかった」

 最低だよね。と当時を振り返ったらしいサラが笑顔のまま涙を零した。



 ミカエルが幼い頃だった。田舎町に天使教会を名乗る新興宗教団体がやって来た。教主か、教組か、或いは象徴か。集団を引き連れていたのは、車椅子に座っていた女だった。

 背中を剥き出しにした女のキャミソールから覗く肩甲骨の上には、羽のない翼が迫り出していた。もう一本、別の小さな腕が伸びているような奇妙な突起物。手術したのか、怪我の跡なのか、突起物には縫い跡が見えていた。

 「我らが女神はその翼より神々の霊薬を生み出す者なりッ! さぁ! 天使を臨みたい方達は講堂に集まられよッ!」

 ビラが辺りにばら撒かれていた。天使が祈るように手の平を重ね、深々と頭を垂れる絵が印刷されている。拳の上には空から零れ落ちる赤い液体が滴っており、地面の上に置かれた小瓶へと流れ込んでいる様子は、先ほどの喧伝する内容を表しているようだった。

 裏返すと聖書か何かから引用したらしい格言も印刷されている。崇めている女性の事についても言及していた。天使の生まれ変わり、聖母マリアの再来、世紀末の預言者の降誕と、胡散臭いばかりの口上が並んでいる。

 だが、ミカエルはひとつの記事に目が奪われた。女神の翼より生まれる神々の霊薬。不治の病を癒し、永遠の若さと不老を与える奇跡の薬――そうだ、これならお姉ちゃんの病気が治るかも知れないと思ったミカエルは、白装束に身を包んだ天使教会の後を追い駆けた――



04

 「え? 読み切るの?」

 ふと投げ掛けられた立花健吾の声に篠塚愛美はハッと我に返った。

 「買えば?」

 斜めに読み進めていた文庫本は何時の間にか最終章の手前まで来ていた。

 「あ、うん」

 『強い人、弱い人』と書かれたタイトルの文庫本をレジへ持って行った愛美は、会計を済ますと健吾の元に戻って来た。

 「面白かったの? 試し読みにしてはガッツリ読んでたけど?」

 「パラパラと読んだだけだから……」

 文庫本に挟まれていた広告の並ぶ冊子には、『強い人、弱い人』の裏表紙に書かれた粗筋よりは詳しい紹介文が掲載されていた。愛美から広告を受け取った健吾は、先々月くらいの準新作と共に紹介されている『強い人、弱い人』の内容について目を通した。

 どうやら筋ジストロフィーの女性と、トラウマにより痛みを上手く理解出来ない男性と、ネグレクトや性的虐待の被害にあった女性の話のようのである。愛美にどんな話だったのかと、ネタバレも気にせずに尋ねると、意外にもミステリィっぽいとの答えが返ってきた。

 「SF(少しファンタジーで少しフシギな、サイエンスフィクション)なのかな?」

 「へぇ~……夢中になるくらいには面白い訳か」

 読み終わったら貸してくれと願い出た健吾に愛美は言った。

 「いや、けっこう立ち読みで済ませるタイプだから、私。何て言うの? ながら読み? 速読? みたいな感じでパパッと見るもんだからつい集中しちゃうだけで、ちゃんと読んでるとは言い難いよ」

 文庫本とは別に土産物も購入し、互いに買い物を終えた健吾と愛美は案内図に従い、出口へと向った。

 「あれ?」

 出口付近に短いながら行列が出来ていた。何があるのだろうかと、パンフレットを確認しても展示物の紹介は見当たらなかった。

 「天使の宣旨?」

 小さなゲルのような小屋の説明文によれば、グリッドコンピューティングとクラウドコンピューティングを用いた高性能の人工知能が設置されているようだ。テイアイエルと名付けられた人工知能は天使をキャラクターとしており、正しいかどうかは別にして、どんな質問にも答えてくれるかも?!と書かれている。

 近くにスタッフが居たので詳細を訊いてみると、三番目の部屋でもある天使の美術は、期間中に何点か入れ替えたり、増やしたりしているとの事だった。三日ほど前に新たに加えられた天使の宣旨は、一種の体験型の現代アートとして楽しんで欲しいとスタッフは説明した。

 「そっか、じゃぁ見ていこうか?」

 折角だからと、最後の展示物も見る事に決めた二人は十分ほど待たされる事にはなったものの、天使の宣旨と銘打たれた小屋の中に入る事が出来た。

 小屋の中にはモノリスか、石版に見立てた飾りに覆われたタブレットが一枚だけ置かれていた。画面には音声検索エンジンのボックスと、デフォルメされた天使テイアイエルの姿がある。

 『私は未来の天使テイアイエル。知りたい事があるなら訊いて。何でも教えてあげる!』

 吹き出しで浮かび上がった台詞に思わず失笑が零れる。

 「何が知りたい? 何か訊いてみたら?」

 特に知りたい事もなかった健吾が愛美を優先させた。

 「じゃぁ、二人の相性」

 「は?」

 戸惑う健吾を他所に、質問を受け付けたらしいテイアイエルが訊いてきた。

 『じゃぁ、相性を知りたい二人の名前、生年月日、性別、血液型、国籍を教えて!』

 テイアイエルの吹き出しが大きくなり、名前などを入力するボックスが表示されれた。愛美はプライベートを知られるのが恥ずかしいのか、タブレットを健吾には裏返す形で持ち替えると、諸々のデータを入力し始める。

 「ほら、健吾くんも」

 「マジで?」

 「マジで!」

 とは言いつつも、所詮は占いなのだから、機械的に分析した統計学の答えを聞くだけだろうと、半ば言い訳にも似た思いを胸中で呟いた健吾は、愛美に責っ付かれるまま名前などのデータを打ち込んだ。

 『じゃぁ、相性を見るよ!』

 他人事のように軽口で言ったテイアイエルは直ぐに答えを返してきた。

 『占ったよ! 今の二人の相性は最悪! だからってケンカばっかりしちゃダメだからね?!』

 無邪気に言ったテイアイエルは次の質問を要求してきた。

 「最悪って……」

 意外なほど低かった結果に呆れた健吾は、一方で期待したを大きく裏切られたであろう愛美の気持ちを察してか、適当な皮肉を口にした。

 「嘘でも高い数値を出せば良いのになぁ?」

 「え、高い方が良かったの? 彼女がいるのに?」

 「ぇえ~?」

 相性が高い事を望んでいたかと思えば、どうやら違ったらしい愛美の考えが理解出来なかった健吾は困惑した顔で首を傾げる。

 「いや、まぁ――気にしないってなら良いんだけどね」

 「で、健吾くんは何か質問しないの?」

 「じゃぁ、定番の質問でも」

 そう言った健吾はテイアイエルに訊いた。

 「針の上で何人の天使が踊れますか?」

 『いいえ、天使は針の上で踊りませんよ。だって天使は踊りを知らないから』

 テイアイエルの答えは、天使の様態について議論する件の問答としてはあまり聞かない答えを返してきた。

 「踊りを知らないって……面白い答えだな」

 続けて、理由を訊こうとしたが、テイアイエルは素っ気無く次の人が待ってるから交替してあげて欲しいと願い出た。

 「行こ」

 自分と同じような嗜好を持つ筈の愛美は、しかしながらテイアイエルの答えにはまるで興味を示す事無く立ち上がった。

 「本当に良いのかよ? 相性最悪だって言われて」

 小屋に入った当初よりも長い列が出来ていた。

 「いいのよ! あんな占い。信じる理由もないし……言ってたでしょ?」

 「何を?」

 「未来の天使だって。将来、相性が悪いだけなら、今は悪くないかも知れないじゃん」

 やはり気にしているのだろうか。心なしか納得出来ないと言いたげに、屁理屈で返した愛美の表情は、何とも例え難い強張った笑顔に見えた。



05 エピローグ

 時間が時間だけに夕食も一緒出来たらと思ったが、結局、真っ直ぐ自宅へと帰る事にした篠塚愛美は、さっそく占い関係のサイトを開くと、天使の宣旨の部屋で覗き見た立花健吾のプロファイルを入力し、自分との相性を確かめていた。

 「相性は―――悪くない、か」

 占いなんて気分の調子を少しだけ方向付ける指針でしかなかった。そもそも複数ある占いの方法は一様の結果を見せてくれるものではない、ただ最高なら嬉しく、最悪なら不機嫌になると云っただけの事である。だが、試したサイトの全てで似通った結果が返ってくると、若しかしてと淡い期待を抱いてしまうのはやはり未練があるからだろうか。

 意地汚いか、と思いながらも展覧会で貰ったパンフレットや、購入した土産物で散らかした机の上を見た愛美は、置かれた卓上のカレンダーを一枚だけ捲り、九月のとある日付に指を宛がった。

 「健吾くんの誕生日は来月か……」

 ふふ、と嬉しそうに微笑む愛美にとって、好きな相手の誕生日を知れた事は相当な収穫だった。加えてこっそりとタブレットに入力した牧野結衣のデータから導かれた健吾との相性が最悪だった事は思わず笑いそうになってしまった。

 先に調べたサイトでも……勿論、ただのデータに過ぎないとは知っていも、半分ほどの割合で結花の方の相性が低かった事は、愛美にとっては小さな自尊心を満足させる結果だった。

 「どうして私じゃダメなんだろ?」

 健吾とは趣味も合う。相性だって良い筈だ。お似合いだと思う。確かに結花の場合、健吾とは対称的なタイプと云う意味では相性も良いだろうか。外見に関しては化粧の仕方に差こそあるものの、ベースに大きな開きはないように思える。

 ふと、帰りの道すがら寄った直売店の立ち並ぶ施設で買った、天然素材のコスメの類も試しにと購入していた事を思い出した愛美は、放り投げたままだったブランドの銘が派手な袋から一本の口紅を取り出した。

 肌の質の違いか、化粧品は年代で多少の隔たりがある。当然、値段にも大きな違いが生じている。ほぼ初めてと言っても過言ではない本格的な化粧品を一通り揃えるだけで結構な金額が掛かってしまった。とは言え、今まで手にした事のない色合いと艶かしさの漂う口紅は、どうしても買いたい衝動に駆られてしまった。

 「これが衝動買いか」

 今更ながら軽くなった財布の事を思い返すと、些か過ぎた買い物だったかも知れない。誰かに見せる訳でもない、誰かの唇を染められる訳でもないのだ。少なくとも卑怯な方法で悦に入っている自分には無用の長物だろうか、と思いつつも、愛美は不慣れな手付きで唇を紅に染めた。

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