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09


 夕暮れが近づき、部屋の中が徐々に薄暗くなる。

 しかし、マナは動かなかった。

 控えめなノックの音にも、扉を開けて入ってきた老人にも、気づいてはいたが動けなかった。

「マナ。今度は一体どうしたんだね?」

 自室の床に座り込んだまま、声をかけられてようやく振り返ったマナは、泣きはらして真っ赤になった目で老人を見上げた。


「おじいちゃ…」


 声を出すと同時に、涙があふれる。

 マナは老人にしがみついて声をあげて泣いた。

「ユウに聞いても何も答えんし。おまえさんはおまえさんで部屋を出てこんし。最近は喧嘩することもないから安心していたのに、よくもまあ、おまえさんたちは」

「だって、ユウが、ユウが…」

「ユウが何か、おまえさんに言ったのかい?」

 マナの頭を優しく撫で、老人は問う。

「ユウが、博士に殺されそうになったって言ったの。でも、博士は優しい女なのよ。あたしを育ててくれたの。本当に、素敵な女なのよ。おじいちゃん、本当なの? 博士が、ユウを殺そうとしたの?」

 老人は一気にまくし立てたマナの言葉を理解すると、一瞬眉根をよせ、それから、首を振った。

「そのことなら、私には、わからんのだよ。実際にそれを見たわけではないからな」

 老人はマナをベッドに座るよう促し、自分も彼女の隣に腰を下ろした。

「ユウを見つけたのは、私と死んだ妻だったんだよ。私達は、ここに住む前は、もっともっと南の方に住んでいたんだ。そう、もっとドームに近かった。

 その日は仲間も含めて山菜を採っておこうと遠出をしたんだ。歩き疲れて川の近くで休もうと、私達は水音に従って川へと出た。しばらく休んでいると、妻が突然川へと入っていってな。驚いてあとを追っていったら、岩の影に引っ掛かってぐったりしていたユウを見つけたんだよ。

 私達はすぐにユウを住処へ運び込んだ。幸い、弾は貫通していたが、医療設備などなきに等しい。応急処置と輸血だけで、あとはユウ自身の生命力にかけるしかなかった。幾日も高熱が続き、傷は塞がらずに膿を持ち、私達は何度も、あの子が死ぬのではないかと思った。ようやく熱がひいても、一月以上、ユウは言葉を話すことさえできなかった」

 布ごしに触れた腕から、老人のやるせない痛みが伝わってくる。

 強い感情や相手との接触は、マナに自分のものではない感覚を伝えてくる。ドームで暮らしていたときよりも、それは、今、確実に強くなっていた。


(でも、相手の気持ちがわかるのはいいことだわ。つらい時は、誰でも理解してほしいものだって、おじいちゃんが言ってたんだもの)


 マナは老人の皺だらけの手をとり、優しく握った。

 老人は目を細めてマナを見返した。

「ユウは我々よりもはるかに高い知能を持っている。そのせいかどうかはわからんが、あの子は三歳であったが、誰が、なぜ、自分を殺そうとしたのかすでに脳裏に焼き付けていたのだ。一月を過ぎて、あの子が初めて口にした言葉を、私は今でも覚えている。


『このままにはしない――』


 私は、そこにいるのが本当に三歳の子供なのかと思ったよ」

「じゃあ、やっぱりユウ以外、犯人が誰かはわからないのね」

「問題は、誰がユウを殺そうとしたかではない。どうでもいい相手なら、ユウはきっとああまで思い詰めはしなかっただろう。

 信じていた者の裏切り。それが、ユウの心に憎しみを植えつけたのだ。だからこそ、私は、あの子が憐れでならんのだよ」

 老人は首を横に振り、忌まわしい回想を追い払うかのような仕草をした。

「ユウは心に傷を負ったまま成長した。今まで一緒に暮らしてきた私達の誰も、その傷を忘れさせることはできても、癒してやることはできなかった。

 だが、マナ、私はおまえさんなら、ユウの受けた傷を癒してやれるだろうと思っとるんだよ」

「あたしが?」

「私は、ユウがおまえさんをさらってくることに反対はしたが、本気では止めなかった。

 私はユウが可愛い。ずっとその成長を見守ってきた。

 だが、私は確実にユウより先に死ぬ。だから、おまえさんに傍にいてやってほしいんだよ。おまえさんはユウと歳も近い。何よりユウが、一番にそれを望んでいる。

 ユウは一人で生きられる能力を持っていながら、独りでは生きられない。ユウの受けた傷は、それほど深くユウの根本を抉ったのだ」

 真摯な眼差しを、マナは戸惑いつつも受けとめた。

 老人は本気だ。

 本当に、マナがここにとどまることを望んでいる。

 だが、それはできないことだ。

 マナには使命がある。

 それはマナの存在意義に等しい。

「――あたし、ユウのこと好きよ。おじいちゃんもよ」

 後ろめたい気持ちを隠せないまま、マナは言葉を繋ぐ。

「でもね、あたしはフジオミの子を産まなきゃいけないのよ。だから、ずっとここにはいられない、と、思う…」

「それがおまえさんの意志なのかい、マナ?」

「え?」

 顔を上げて老人を見つめるマナの瞳は、戸惑いの色を露にしていた。

「おまえさんは、他の誰に言われたのでもなく、自分の意志で、そのフジオミとかいう人の子供を産みたいのかい?」

 真っすぐに見据える瞳に、ごまかしはきかない。

「――わからない。そんなの、考えたこともないわ。だって、そういわれて育ってきたんだもの。それが当たり前だって、思ってたんだもの。それじゃ、いけないの?」

「では、考えなさい。幸いここには考える時間だけはある。マナ、自分がどうしたいか考えるんだよ。他の誰に強要されることなく、自分の心で、見極めなさい」

 老人の言葉は、それまでマナの考えもしなかったことを彼女自身に選択させようとしていた。

 義務として、使命としてではなく、自分の意思で考える。

 それは、マナにとってはとても難しいことだった。

 少しずつ新しい世界――別の視点からの見識――を理解しているとはいえ、マナはいまだ十四歳の子供に過ぎなかった。


(ここにいなさいって、言ってくれればいいのに)


 ドームにいたときは、全てシイナがマナのすべきことを教えてくれていた。

 マナはただ、彼女の言うとおりにすればよかった。

 疑問さえ、抱いたことはなかった。それが正しいのだと、ずっと思っていたからだ。


「おじいちゃん、あたし、間違ってたの?」


 不安げに、マナは老人を仰いだ。

 皺だらけの乾いた手がマナの瑞々しい若い手を取る。


「こんな世界だ。間違っていることが、悪いことだとは言えんよ。我々人間は、確かに選択を誤った。だが、今更それを否定できはしない。そのまま進むしかない。だからこそ、決断は自身でするのだ。自分が決断したことなら、その後悔ですら自分だけのものだ。誰かの所為にして生きても、それは本当に自分の生を生きたとは言えんのだよ」



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